血塗れのワルツ
「グォオオオオオッ!!」
獣の咆哮が、爆炎を切り裂いた。
大階段の中腹。逃げ遅れた貴族たちが悲鳴を上げて散っていく。
その中心にいたのは、全身の皮膚が炭化し、内側から赤熱した光を漏らす巨人──共和国の「強化汚染者」だった。
「……やれやれ。置き土産にしては、趣味が悪い」
アリスティアは、エレナを背に庇いながら舌打ちした。
大佐が死に際に解放したのだろう。リミッターを外され、ただ破壊を撒き散らすだけの生体爆弾だ。
巨人が太い腕を振り下ろす。
大理石の手すりが飴細工のように砕け、巨大な瓦礫となって二人の頭上へ降り注ぐ。
「きゃあッ!」
「伏せて!」
アリスティアは叫ぶが、その足は逃げない。
右手を虚空へ走らせる。
指先が高速で弾かれ、不可視の旋律を奏でる。
ヒュン、ヒュパッ、カッ!
空中で硬質な音が弾けた。
数トンある石塊が、まるで鋭利な刃物で切断されたかのように、空中で四分割される。
断面は鏡のように滑らかだ。
バラバラになった石の雨は、二人を避けるように左右へと落下した。
「……!」
エレナは息を呑む。
マグレ? 偶然? いいえ、ありえない。
これは明確な「迎撃」だ。
だが、彼女は震えるふりを崩さず、アリスティアの背中にしがみつく。
「す、すごい……! アリスティア様、神様が守ってくださったのですわ!」
「ああ、そうみたいだね。日頃の行いがいいからかな」
アリスティアもまた、平然と嘯く。
もはや、ごまかす気すらない。
この極限状況下で「一般人」を演じ続けることは死を意味する。
二人の間には、暗黙の了解が成立していた。
『生き残るためなら、多少の”奇跡”は不問とする』
「グァアアッ!」
巨人が突進してくる。全身から高熱の蒸気を噴き出しながら。
アリスティアはエレナを抱き寄せ、ダンスのステップを踏むように横へ滑った。
すれ違いざま、彼の指が巨人の足首を掠める。
「……重いな。ダンスパートナーには不向きだ」
糸が食い込む。
だが、切れない。強化された筋肉と高熱が、鋼糸を焼き切ろうとする。
(硬い。……なら、内側から崩すか)
アリスティアの視線が、一瞬だけエレナに向けられた。
言葉はない。
だが、その目は語っていた。
『やれるね?』
エレナは一瞬だけ、可憐な令嬢の仮面を外し、冷酷な工作員の目で頷いた。
「アリスティア様、これを!」
彼女はドレスの胸元から香水瓶を取り出し、巨人の足元へ投げつけた。
ガラスが砕ける。
中身は香水ではない。彼女の汗から精製した、揮発性の高い液体爆薬だ。
「……ありがとう、気が利くね」
アリスティアは糸を引き、瓶が割れて霧散した液体と、巨人の熱源を接触させるように誘導した。
ドォォォォォン!!
爆轟。
足元から吹き上がった爆炎が、巨人のバランスを崩す。
その隙を見逃すアリスティアではない。
体勢を崩した巨人の首筋──装甲の薄い一点へ、全神経を集中させた糸を走らせる。
「退場願おうか」
指を弾く。
巨人の首が、胴体と永遠に別れを告げた。
崩落する大階段を駆け下り、二人は劇場の搬入口へと辿り着いた。
ここからなら、裏路地へ抜けられる。
だが、その鉄扉の前には、黒い影が待ち構えていた。
「……待ちくたびれたぞ、毒婦」
銃を構えた五人の男たち。
共和国の暗殺部隊。大佐直属の精鋭だ。
リーダー格の男が、憎悪を込めてエレナを睨みつける。
「大佐を殺したな? 祖国を裏切り、帝国の犬に成り下がったか!」
銃口が一斉にエレナへ向けられる。
絶体絶命。
だが、エレナは首を傾げ、怯えたようにアリスティアの袖を掴んだ。
「な、何を仰っているの? 人違いではありませんこと?」
「白々しい! その顔、忘れるものか!」
男が引き金に指をかける。
その刹那。
エレナの手が、口元を覆うふりをして、微細な霧を吐き出した。
冷や汗を変質させた、神経麻痺性のガス。
だが、この距離では届かない。
(……風が足りない)
エレナが焦燥に駆られた瞬間。
横にいたアリスティアが、まるで彼女の思考を読んだかのように腕を振った。
展開された鋼糸が、巨大な扇風機のように空気を切り裂く。
発生した風圧が、エレナの毒霧を一点に収束させ、敵部隊の顔面へと送り込んだ。
「なっ……!?」
「ぐっ……目が……!」
男たちが怯む。
その一瞬の隙。アリスティアとエレナは同時に動いた。
アリスティアが踏み込み、鋼糸で前衛二人の銃を絡め取り、暴発させる。
「ぐあぁっ!」
銃声と共に、敵の陣形が崩れる。
その混乱の中へ、エレナが滑り込む。
手には、折れたヒールの踵。
彼女は舞うように回転し、麻痺して動きの鈍ったリーダーの喉元へ、鋭利な踵を突き立てた。
「が……っ」
「……ごきげんよう」
エレナは耳元で囁き、踵を捻る。
鮮血がドレスに飛ぶが、彼女は気にしない。
アリスティアもまた、残る二人を糸で吊るし上げ、ピストンの歯車へと放り込んでいた。
断末魔すら上がらない。
圧倒的な蹂躙。
静寂が戻った搬入口で、二人は荒い息を吐きながら向き合った。
足元には死体の山。
ドレスは血に汚れ、軍服は煤けている。
だが、互いの目には、隠しきれない高揚感が宿っていた。
「……なんてことだ。君は本当に運がいい」
「ええ……あなたも。流れ弾が、まるで避けていくようでしたわ」
二人は微笑み合う。
「素晴らしい連携だった」とは口が裂けても言えない。
だが、その手は無意識のうちに、互いの腰を引き寄せていた。
劇場の外。
帝都の夜空からは、冷たい雨が降り始めていた。
燃え盛る歌劇場の炎が、雨に打たれて黒煙を上げている。
人気のない裏路地。
二人は泥にまみれたまま、石壁に背を預けて座り込んでいた。
「……終わったね」
アリスティアが呟く。
遠くで憲兵隊のホイッスルが聞こえる。救助と鎮圧が始まったようだ。
彼は自分の血で汚れた指で、エレナの頬についた煤を拭った。
「酷い顔だ。せっかくの美人が台無しだよ」
「……アリスティア様こそ。野良犬のようですわ」
エレナは彼の手に自分の手を重ねる。
その指先は氷のように冷たいが、脈打つ鼓動だけは熱い。
(この男。……強い)
エレナは改めて認識する。
あの巨人や暗殺部隊を前にして、眉一つ動かさずに処理する手際。
五年前よりも、さらに腕を上げている。
正面から殺り合えば、勝てる保証はない。
(でも、だからこそ……殺しがいがある)
アリスティアもまた、エレナの瞳を見つめていた。
(毒霧の散布、急所の刺突。……完璧な殺人術だ。僕のパートナーに相応しいのは、君のような「毒婦」だけかもしれないね)
雨が、二人の熱を冷ましていく。
アリスティアは、震える(ふりをしている)エレナの肩を抱き寄せた。
「帰ろう、エレナ。……今度は、僕が君をエスコートするよ。地獄の果てまでね」
「ええ……。どこまでも、お供しますわ」
エレナは彼の胸に顔を埋める。
その唇が、誰にも聞こえない声で動いた。
(……あなたの首を獲るその日まで、誰にも殺させはしないわ)
二人は立ち上がる。
濡れた石畳に、二つの影が長く伸びる。
血と鉄錆の臭いを纏ったまま、ワルツの続きを踊るように、彼らは夜の闇へと消えていった。




