雨の日の不協和音
クロフォード邸に戻った頃には、日付が変わっていた。
帝都を叩く雨は激しさを増し、窓ガラスを鞭のように打ち据えている。
「……酷い顔だ」
「アリスティア様こそ」
アリスティアの私室。
使用人たちを下がらせ、二人きりになった空間には、湿った衣類の臭いと、微かな硝煙の残り香が充満していた。
姿見に映る二人は、まるで泥人形だ。
高級なシルクのドレスは裂け、軍服は煤と脂で汚れている。
だが、その瞳だけが、異様な輝きを放っていた。
「じっとして。傷の手当てをする」
アリスティアは救急箱を開き、ガーゼを手に取る。
エレナを椅子に座らせ、露わになった肩口に触れる。
そこには、瓦礫の破片による切り傷が赤く滲んでいた。
「……っ」
消毒液が染みたのか、エレナの体が小さく跳ねる。
アリスティアの手が止まる。
指先が、彼女の白い肌を滑る。
戦場での高揚感が、まだ血管の中に残っている。
さっきまで、この柔らかな体は、殺人兵器として機能していた。
そのギャップが、どうしようもなく神経を逆撫でする。
「痛むかい?」
「いいえ……。心地よいくらいですわ」
エレナは上目遣いに彼を見る。
その瞳は潤んでいるが、恐怖ではない。
獲物を見定める捕食者の、粘つくような視線。
アリスティアは無言で彼女の頬についた煤を拭った。
白磁のような肌に、黒い汚れが伸びる。
汚したい。
壊したい。
あるいは、このまま硝子ケースに閉じ込めてしまいたい。
相反する衝動が、胸の奥で渦を巻く。
「……今日、君が無事でよかった」
嘘ではない。
だが、それは愛ではない。
アリスティアは包帯を巻き終えると、ふっと視線を外した。
「着替えて休むといい。長い夜だった」
「ええ……ありがとうございます、アリスティア様」
エレナが立ち上がる。
二人の影が重なり、そして離れる。
扉が閉まる瞬間まで、互いの視線は一度も外れなかった。
深夜三時。
雨音だけが支配する時刻。
アリスティアは濡れた軍服を脱ぎ捨て、黒い外套を羽織って屋敷を抜け出した。
向かった先は、地下水道の奥にある帝国情報局・特務室のセーフハウス。
配管から蒸気が漏れ出す薄暗い部屋で、一人の男が待っていた。
特務室長。感情を持たない、鉄のような男。
「王立歌劇場の件。……派手にやったな、人形師」
室長は振り返りもせず、一枚の書類をデスクに投げ出した。
歌劇場の監視カメラが捉えた映像の解析データだ。
不鮮明だが、崩落の中で舞う「毒の霧」と、それを拡散させる「風」の痕跡が記されている。
「報告通り、共和国の『毒婦』が関与している。そして……」
室長がもう一枚、写真を放る。
それは、舞踏会でアリスティアの隣で微笑む、エレナ・ヴィスコンティの盗撮写真だった。
「彼女の身体データと、現場に残された毒物の残留反応が一致した」
知っていたことだ。
だが、こうしてデータとして突きつけられると、それは冷厳な「事実」となる。
逃げ道はない。
「本部からの指令だ」
赤い封蝋がされた封筒が差し出される。
アリスティアは無造作にそれを受け取り、封を切った。
中身は一枚の羊皮紙。
簡潔な一文と、処刑許可のサイン。
『対象:エレナ・ヴィスコンティ。容疑:国家反逆およびスパイ活動。即時抹殺せよ』
「……期限は?」
「四十八時間以内だ。失敗すれば、お前も同罪とみなす」
室長の声は事務的だ。
アリスティアは薄く笑い、指令書を懐に入れた。
「了解した。……掃除の時間だ」
踵を返す。
背中で室長が何か言った気がしたが、蒸気の音にかき消された。
地下道を出て、再び雨の中へ。
懐の指令書が、心臓の上で冷たく重い鉛のように感じられた。
(四十八時間……か)
短いな、と彼は思う。
彼女を味わい尽くし、絶望させ、その命を刈り取るには、あまりにも短い。
同時刻。
クロフォード邸、客間。
エレナは窓辺に立ち、暗い庭を見下ろしていた。
アリスティアが屋敷を抜け出したことは、足音で分かっていた。
カツン、カツン。
窓ガラスを何かが叩く音。
エレナが窓を開けると、一羽の機械仕掛けの鳥が飛び込んできた。
錆びついた金属の翼。共和国の伝令機だ。
鳥はテーブルの上で嘴を開き、ゼンマイ仕掛けの声を再生した。
『作戦失敗。大佐死亡。……失望したぞ、毒婦』
ノイズ交じりの音声。
共和国情報部のハンドラー(指揮官)の声だ。
『だが、挽回の機会を与えよう。妹の命が惜しければな』
エレナの指が、カーテンを握りしめる。
妹。
病弱で、施設という名の人質収容所にいる、たった一人の家族。
『ターゲットはアリスティア・E・クロフォード。彼が「人形師」であることは確定した。二十四時間以内にその首を届けろ。……さもなくば、妹の薬を止める』
プツン、と音声が途切れる。
機械鳥は役目を終え、ただの屑鉄に戻った。
「……卑怯者」
エレナは吐き捨てる。
だが、拒否権はない。
彼女は左手の薬指に嵌められた、サファイアの婚約指輪を見つめた。
アリスティアから贈られた、偽りの愛の証。
外そうとして、指先が震える。
(情が移った? 私が?)
馬鹿な。
あの男は仇だ。
恩師を殺し、私を騙し、嘲笑う敵だ。
「……殺す。殺さなきゃ」
自分に言い聞かせるように呟く。
瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。
それは頬を伝う間に変質し、透明な強酸となって床に落ちた。
ジュッ……。
石の床から白煙が上がり、焦げた匂いが漂う。
彼女の悲しみさえも、この呪われた異能は毒に変えてしまう。
エレナはその焦げ跡を見つめ、昏い瞳で決意を固めた。
翌朝。
雨は上がっていたが、帝都は分厚い朝霧に包まれていた。
食堂には、いつも通りの豪奢な朝食が並んでいる。
だが、その空気は針のむしろのように冷たい。
「おはよう、エレナ。昨夜はよく眠れたかな?」
「ええ、おかげさまで。アリスティア様は?」
向かい合って座る二人。
アリスティアは新聞を広げている。一面記事は『歌劇場、謎の爆発。原因はガス漏れか?』という政府の隠蔽工作記事だ。
エレナは紅茶に角砂糖を落とす。
カチャン、と銀のスプーンがカップに当たる音が、銃声のように響く。
「……少し、用事ができた」
アリスティアが新聞を畳む。
その懐には、昨夜の『抹殺指令書』が入っている。
彼はナイフを手に取り、焼けたベーコンを切り分ける。
「今夜、二人で出かけないか? 少し静かな場所へ」
それは、処刑場への誘い。
人目のない場所で、確実に任務を遂行するための。
「まあ……素敵なお誘いですわ」
エレナは微笑む。
彼女の袖口には、昨日精製したばかりの、致死性の毒アンプルが隠されている。
人目のない場所。
それは彼女にとっても、好都合な処刑場だ。
「ええ、喜んで。……今日は、一日中おそばにおりますわ」
エレナの言葉に、アリスティアは手を伸ばした。
テーブルの上で、彼女の手を握る。
柔らかく、温かい手。
だが、その掌の下に隠された硬い胼胝の感触を、アリスティアは確かめる。
「嬉しいよ。……僕もだ」
アリスティアは目を細め、心からの笑顔を作った。
今夜、この手を切り落とすことになるとしても。
(今夜、君を殺す。誰よりも優しく、残酷に)
(今夜、あなたを殺す。愛の言葉と共に、地獄へ送ってあげる)
朝霧の中、二人の怪物は愛を囁き合う。
その裏で研ぎ澄まされた刃が、鞘走る音を聞きながら。




