仮面舞踏会の夜
貴族院の大ホールは、数百の燭台とシャンデリアの光で満たされていた。
だが、その輝きは出席者たちの顔を照らさない。
今夜は仮面舞踏会。
すべての参加者は精巧なヴェネチアン・マスクで顔の上半分を隠し、素性を偽って踊ることが義務付けられている。
「……趣味の悪い遊びだ」
アリスティアは、漆黒の鳥──黒鳥を模したマスク越しに会場を見渡した。
燕尾服の裏地には、極細の鋼糸が何百本も縫い込まれている。
入り口のボディチェックは、金属探知の魔導具すら素通りした。彼の糸は、探知機が反応しない特殊合金製だ。
(タイムリミットまで、あと四時間)
懐の抹殺指令書が、心臓の上で熱を持っている気がした。
今夜、ここで終わらせる。
五年前の因縁も、このふざけた婚約ごっこも。
「お待たせいたしました、アリスティア様」
背後から、衣擦れの音がした。
振り返ったアリスティアの息が、一瞬止まる。
そこにいたのは、純白のドレスを纏った女。
顔には、白い蛇を象ったマスク。
鱗の一枚一枚が真珠で装飾され、その双眸だけが妖しく輝いている。
「……美しいよ、エレナ。まるで雪の女王だ」
「ふふ。アリスティア様こそ、冥府の王のようですわ」
二人は腕を組む。
エレナの指先には、透明なマニキュアが塗られている。
特殊な樹脂でコーティングされたそれは、強く押し付けることで殻が破れ、致死性の接触毒が滲み出す仕掛けだ。
「行きましょうか。最後の……いえ、記念すべき夜に」
「ああ。踊ろう、夜が明けるまで」
二人は微笑み合い、光の洪水の中へと足を踏み入れた。
その足取りは、処刑台へ向かう罪人のように軽く、優雅だった。
ワルツが始まった。
急速なテンポ。旋回するたびに、ドレスの裾が花のように開く。
アリスティアとエレナは、フロアの中央で完璧なステップを刻んでいた。
「……いい香りだ。また新しい香水かい?」
「ええ。『ベラドンナの接吻』という銘柄ですの」
「物騒な名前だね。……まるで、毒婦のようだ」
アリスティアが耳元で囁く。
エレナの肩が、ピクリと跳ねる。
「……奇遇ですわね。私も、あなたの移り香に懐かしさを感じていましたの」
「ほう?」
「ドック地区の、腐った泥と鉄錆の匂い。……『人形師』様なら、よくご存知でしょう?」
仮面の下で、視線が交差する。
もはや隠す気もない。
確信犯的な挑発。
回転の遠心力を利用して、アリスティアの手がエレナの腰を強く引き寄せる。
「やはり、君だったか」
「気づくのが遅くてよ。……いえ、気づかないふりをしていただけかしら?」
エレナの指先が、アリスティアの首筋を這う。
爪を立てれば、動脈に毒が入る。
だが、アリスティアの鋼糸もまた、すでにエレナのドレスの背中側、心臓の真裏に触れていた。
「愛しているよ、エレナ」
「ええ……私もですわ」
言葉は甘く、殺意は冷たく。
二人は互いの命を掌の上で転がしながら、熱狂的なダンスを続けた。
その時だ。
フロアのざわめきが変わった。
無機質な鉄の仮面を被った奇妙な集団が、回廊を取り囲み始めていたのだ。
だが、二人の目には、お互いの姿しか映っていない。
「場所を変えよう。……二人きりになりたい」
「望むところですわ」
曲の切れ目。
二人は示し合わせたように、ホールの奥、人目のない「鏡の間」へと滑り込んだ。
「鏡の間」は、その名の通り、壁も天井もすべてが鏡張りだった。
無数のアリスティアと、無数のエレナが映り込む。
どこを見ても、仮面をつけた虚像(嘘)ばかり。
扉を閉めた瞬間、静寂が落ちた。
アリスティアは、ゆっくりとエレナに向き直る。
「さて。……仮面舞踏会は終わりだ」
「ええ。そろそろ素顔を見せていただきましょうか」
エレナが一歩踏み出す。
その手には、いつの間にか隠し持っていた短剣が握られていた。
アリスティアもまた、両手を広げ、十指から鋼糸を展開する。
「残念だ。君とは、もっと別の形で出会いたかった」
「感傷ね。……ガランド元帥を殺したその手で、よく言えるわ」
エレナの声から、甘い響きが消え失せる。
あるのは、氷点下の憎悪だけ。
「死になさい、アリスティア。私の全てを奪った男」
「断る。……僕を殺せるのは、僕だけだ」
二人の距離が縮まる。
鏡の中の無数の影も、一斉に動く。
殺気だけで、空間が歪むようだ。
エレナが駆ける。
毒を塗り込んだ短剣が、アリスティアの心臓を狙う。
アリスティアは動かない。
鋼糸が唸りを上げて迎撃体制に入る。
(獲った)
(絡め取る)
互いの必殺の間合い。
その切っ先が皮膚に触れ、糸が首に巻きつこうとした、その刹那。
ドォォォォォォォンッ!!
世界が揺れた。
比喩ではない。
貴族院の建物全体を揺るがす、凄まじい衝撃と爆音。
「ッ!?」
パリーンッ!!
鏡の間にある全ての鏡が、同時に砕け散った。
降り注ぐガラスの雨。
爆風が二人を吹き飛ばす。
「うぁっ!?」
「きゃあッ!」
アリスティアとエレナは、破片の海に転がった。
壁の一面が崩れ落ち、そこから黒煙と炎が噴き出してくる。
「……なんだ!? 何が起きた!」
アリスティアは顔を上げ、血を拭う。
衝撃で仮面が割れ、素顔の右半分が露わになっている。
エレナもまた、床に這いつくばりながら咳き込んだ。
彼女の白蛇の仮面も真っ二つに割れ、その瞳が露わになっていた。
崩れた壁の向こう。
炎の中から現れたのは、鉄仮面を被り、蒸気機関で強化された鎧を纏う兵士たちだった。
『──目標確認。「エーテル・ハート」の適合者たちを排除せよ』
機械的な音声。
第三勢力。
過激派技術結社『エーテルの使徒』だ。
彼らは無差別に銃火器を乱射し始めた。
「チッ……! 邪魔が入ったか!」
「……よりによって、今!?」
アリスティアとエレナは、互いに睨み合った。
殺し合うはずだった。
今、この瞬間、どちらかが死ぬはずだった。
だが、無粋な暴力が、二人の神聖な儀式(決闘)を土足で踏み荒らした。
銃弾が床を削り、二人の間に火花を散らす。
アリスティアは舌打ちし、エレナを見た。
エレナもまた、割れた仮面の下で、怒りに瞳を燃やして彼を見ていた。
(僕たちのダンスを、汚す奴は誰だい?)
(……許さない。私の獲物に、指一本触れさせるものですか)
言葉はなかった。
だが、二人の殺意は、一瞬にして「互い」から「侵入者」へと向きを変えた。
「……エレナ、立てるか」
「愚問ですわ。……足手まといにならないでくださいね」
アリスティアが鋼糸を構える。
エレナが毒の小瓶を握りしめる。
砕け散った鏡の破片の中で、仮面を失った二人の怪物が、新たな敵に向かって牙を剥いた。




