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紫煙と鉄錆のワルツ  作者: 伝福 翠人


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2/8

愛と殺意の境界線

帝都の北端、工業排水が流れ込む運河にかかる巨大な鉄橋。


通称『断罪のアイアン・ブリッジ』。


かつて処刑場へと続く道だったこの場所は、今夜、二人のスパイにとっての死に場所となる。


激しい雨が、鉄骨を叩いていた。


霧と蒸気が混ざり合い、視界を白く濁らせている。


カツン、カツン。


橋の両端から、二つの足音が響く。


アリスティアは黒い外套を纏い、雨に濡れた髪をかき上げていた。その表情は、彫像のように冷たい。


対するエレナは、戦闘用の漆黒のドレスに身を包んでいる。可憐な令嬢の面影はない。その瞳には、昏い決意の炎が宿っている。


橋の中央。


互いの間合いギリギリで、二人は足を止めた。


「……時間だ、エレナ」


「ええ、アリスティア様。……いいえ、帝国の人形師」


敬称が外れる。


もはや、婚約者ごっこは終わりだ。


「四十八時間。それが僕に与えられた猶予だった」


「奇遇ね。私への通告は二十四時間。……どちらにせよ、今夜が山場よ」


二人は懐から武器を取り出さない。


すでに、構えているからだ。


アリスティアの十指には鋼糸が張り巡らされ、エレナの全身からは微細な毒の粒子が立ち昇っている。


(愛している)


(憎んでいる)


(殺したくない)


(殺さなきゃいけない)


矛盾する感情が、心臓を引き裂きそうになる。


だが、プロフェッショナルとしての本能が、それを「殺意」という一つの出力へと変換する。


「──踊ろうか」


アリスティアが指を弾いた。


それが開演の合図だった。


ヒュンッ!!


雨粒が切断される音がした。


アリスティアの鋼糸が、不可視の斬撃となってエレナを襲う。


だが、エレナは動かない。


彼女が吐き出した息が、目の前で紫色の霧となる。


ジュワァァッ!


鋼糸が霧に触れた瞬間、酸化し、ボロボロに朽ちて千切れた。


エレナの異能【体液変質】による、超強力な酸の霧。


「……相変わらず、えげつない息だ」


「あなたの糸こそ、しつこくて虫唾が走りますわ」


エレナが踏み込む。


ドレスの裾を翻し、隠し持っていた短剣を逆手に構える。


切っ先には、神経を焼き切る猛毒。


アリスティアは上体を逸らしてそれを回避し、同時に切れた糸を捨て、新たなリールを展開する。


キィン、ガギッ、ジュッ!


火花と酸の煙が舞う。


近接戦闘。


互いに相手の手の内を知り尽くしている。


アリスティアが首を狙えば、エレナは事前に読んで毒霧を置く。


エレナが心臓を突きに来れば、アリスティアは糸でその軌道を数ミリずらす。


決定打が入らない。


あまりにも噛み合いすぎている。


「なぜ避ける! 大人しく死んでくれれば、苦しませずに済むのに!」


アリスティアが叫ぶ。


いつもの冷静な彼にはありえない、感情の露呈。


「あなたこそ! その首を差し出しなさいよ! そうすれば……あの子が助かるの!」


エレナも叫び返す。


雨音にかき消されそうな悲痛な叫び。


「あの子……?」


アリスティアの指が止まる。


その一瞬の隙。


エレナの短剣が、アリスティアの左肩を深々と貫いた。


「ぐっ……!」


「はぁ、はぁ……ッ!」


アリスティアは呻き、反射的に鋼糸でエレナの手首を絡め取る。


引き寄せる。


二人の体が密着する。


血と毒と雨の匂いが混ざり合う。


「……妹がいるの」


エレナは、アリスティアの胸に額を押し付けながら、絞り出すように言った。


「病気の妹が……共和国の人質になっているの。あなたの首を持って帰らなきゃ、あの子の薬が止められる……!」


アリスティアは目を見開く。


彼女の執念の正体。


それは、かつての自分と同じだった。


組織に弱みを握られ、汚い仕事を押し付けられ、使い捨てにされる道具。


「……そうか。君も、鎖に繋がれた犬だったか」


「そうよ! だから死んで! 私には……あの子しかいないの!」


エレナが短剣をねじ込む。


激痛。


だが、アリスティアは彼女を突き飛ばさなかった。


代わりに、空いた右手で、彼女の濡れた髪を優しく撫でた。


「……馬鹿だな、君は」


アリスティアの鋼糸が、エレナの首筋に巻き付いている。


指を少し動かせば、彼女の頸動脈は切断される。


だが、彼は動かさない。


「僕を殺しても、君の妹は助からない。……共和国は、用済みの道具を生かしておくほど甘くないさ」


「うるさい! 分かってる……そんなこと、分かってるわよ! でも、やるしかないじゃない!」


エレナは泣いていた。


雨に混じって、熱い涙がアリスティアの胸を濡らす。


その涙もまた、酸となって彼の軍服を焦がしていく。


「……なら、僕が君を殺せばいいのか?」


アリスティアは自嘲する。


帝国からの命令。期限は切れた。


ここで彼女を殺して首を持ち帰れば、自分は英雄として称えられるだろうか?


いや、待っているのは次の殺しの命令だけだ。


永遠に続く、血塗れの螺旋。


「……疲れたな」


アリスティアの言葉に、エレナの力が抜ける。


二人は泥だらけの橋の上で、抱き合うようにして膝をついた。


肩には短剣が刺さったまま。


首には鋼糸が巻かれたまま。


完全なチェックメイト(相打ち)。


「……ええ。本当に、最悪のワルツね」


エレナが力なく笑う。


殺せない。


殺したくない。


その想いが、二人の刃を鈍らせていた。


その時だ。


パァァァンッ!!


乾いた銃声が響き、二人の足元の鉄板が弾け飛んだ。


「……!?」


二人は弾かれたように離れ、背中合わせに構える。


橋の両端。


霧の中から現れたのは、無数の人影だった。


一方は、帝国の憲兵隊と特務室の「掃除屋クリーナー」。


もう一方は、共和国の暗殺部隊。


『対象を確認。……交渉決裂とみなす』


帝国の掃除屋が無機質に告げる。


『毒婦は裏切った。アリスティアと共に始末しろ』


共和国の部隊長が叫ぶ。


「……はは。なるほど」


アリスティアは肩の短剣を抜き捨て、止血のために糸で傷口を縛った。


「どうやら、僕たちは最初から生きて帰る予定には入っていなかったみたいだ」


「……証拠隠滅、ですね。スキャンダルごと川に流すつもりかしら」


エレナが毒の霧を周囲に展開する。


包囲網は完璧だ。


前門の虎、後門の狼。


逃げ場はない。


銃口が一斉に二人へ向けられる。


数百の殺意。


だが不思議と、二人の心は凪いでいた。


互いの殺意をぶつけ合った後だからこそ、このちっぽけな「組織の論理」が滑稽に見える。


「……ねえ、アリスティア」


「なんだい」


「ダンスのパートナーを変えるのは、好き?」


エレナが皮肉っぽく尋ねる。


アリスティアは、血に濡れた手で彼女の手を取った。


「まさか。……僕は一途なんだ。特に、自分を殺そうとする女にはね」


「奇遇ですわね。……私も、浮気は嫌いですの」


二人は笑い合う。


絶望的な状況。


だが、今この瞬間、二人は初めて「組織の駒」ではなく、自分の意志で選んだ「共犯者」になった。


『撃てッ!!』


号令がかかる。


マズルフラッシュが夜闇を染める。


弾丸の嵐が二人を襲う。


その刹那。


アリスティアはエレナを抱き寄せ、橋の欄干を蹴った。


「──地獄まで、付き合ってもらうよ!」


「ええ、どこまでも!」


二人の体は宙を舞う。


重力に従い、暗い運河の水面へと落下していく。


頭上を弾丸が通過し、火花を散らす。


ドッパァァァン!!


巨大な水柱が上がり、二人の姿を飲み込んだ。


冷たい水の中。


アリスティアは意識が遠のく中で、エレナの手を強く握りしめていた。


彼女もまた、爪が食い込むほどに握り返してくる。


(生きて。……私を殺すのは、あなただけよ)


(ああ。……君を殺すのは、僕の特権だ)


泡沫うたかたと共に、二人は闇の底へと沈んでいく。


組織を捨て、任務を捨て、ただ二人の愛と殺意だけを抱いて。

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