愛と殺意の境界線
帝都の北端、工業排水が流れ込む運河にかかる巨大な鉄橋。
通称『断罪の橋』。
かつて処刑場へと続く道だったこの場所は、今夜、二人のスパイにとっての死に場所となる。
激しい雨が、鉄骨を叩いていた。
霧と蒸気が混ざり合い、視界を白く濁らせている。
カツン、カツン。
橋の両端から、二つの足音が響く。
アリスティアは黒い外套を纏い、雨に濡れた髪をかき上げていた。その表情は、彫像のように冷たい。
対するエレナは、戦闘用の漆黒のドレスに身を包んでいる。可憐な令嬢の面影はない。その瞳には、昏い決意の炎が宿っている。
橋の中央。
互いの間合いギリギリで、二人は足を止めた。
「……時間だ、エレナ」
「ええ、アリスティア様。……いいえ、帝国の人形師」
敬称が外れる。
もはや、婚約者ごっこは終わりだ。
「四十八時間。それが僕に与えられた猶予だった」
「奇遇ね。私への通告は二十四時間。……どちらにせよ、今夜が山場よ」
二人は懐から武器を取り出さない。
すでに、構えているからだ。
アリスティアの十指には鋼糸が張り巡らされ、エレナの全身からは微細な毒の粒子が立ち昇っている。
(愛している)
(憎んでいる)
(殺したくない)
(殺さなきゃいけない)
矛盾する感情が、心臓を引き裂きそうになる。
だが、プロフェッショナルとしての本能が、それを「殺意」という一つの出力へと変換する。
「──踊ろうか」
アリスティアが指を弾いた。
それが開演の合図だった。
ヒュンッ!!
雨粒が切断される音がした。
アリスティアの鋼糸が、不可視の斬撃となってエレナを襲う。
だが、エレナは動かない。
彼女が吐き出した息が、目の前で紫色の霧となる。
ジュワァァッ!
鋼糸が霧に触れた瞬間、酸化し、ボロボロに朽ちて千切れた。
エレナの異能【体液変質】による、超強力な酸の霧。
「……相変わらず、えげつない息だ」
「あなたの糸こそ、しつこくて虫唾が走りますわ」
エレナが踏み込む。
ドレスの裾を翻し、隠し持っていた短剣を逆手に構える。
切っ先には、神経を焼き切る猛毒。
アリスティアは上体を逸らしてそれを回避し、同時に切れた糸を捨て、新たなリールを展開する。
キィン、ガギッ、ジュッ!
火花と酸の煙が舞う。
近接戦闘。
互いに相手の手の内を知り尽くしている。
アリスティアが首を狙えば、エレナは事前に読んで毒霧を置く。
エレナが心臓を突きに来れば、アリスティアは糸でその軌道を数ミリずらす。
決定打が入らない。
あまりにも噛み合いすぎている。
「なぜ避ける! 大人しく死んでくれれば、苦しませずに済むのに!」
アリスティアが叫ぶ。
いつもの冷静な彼にはありえない、感情の露呈。
「あなたこそ! その首を差し出しなさいよ! そうすれば……あの子が助かるの!」
エレナも叫び返す。
雨音にかき消されそうな悲痛な叫び。
「あの子……?」
アリスティアの指が止まる。
その一瞬の隙。
エレナの短剣が、アリスティアの左肩を深々と貫いた。
「ぐっ……!」
「はぁ、はぁ……ッ!」
アリスティアは呻き、反射的に鋼糸でエレナの手首を絡め取る。
引き寄せる。
二人の体が密着する。
血と毒と雨の匂いが混ざり合う。
「……妹がいるの」
エレナは、アリスティアの胸に額を押し付けながら、絞り出すように言った。
「病気の妹が……共和国の人質になっているの。あなたの首を持って帰らなきゃ、あの子の薬が止められる……!」
アリスティアは目を見開く。
彼女の執念の正体。
それは、かつての自分と同じだった。
組織に弱みを握られ、汚い仕事を押し付けられ、使い捨てにされる道具。
「……そうか。君も、鎖に繋がれた犬だったか」
「そうよ! だから死んで! 私には……あの子しかいないの!」
エレナが短剣をねじ込む。
激痛。
だが、アリスティアは彼女を突き飛ばさなかった。
代わりに、空いた右手で、彼女の濡れた髪を優しく撫でた。
「……馬鹿だな、君は」
アリスティアの鋼糸が、エレナの首筋に巻き付いている。
指を少し動かせば、彼女の頸動脈は切断される。
だが、彼は動かさない。
「僕を殺しても、君の妹は助からない。……共和国は、用済みの道具を生かしておくほど甘くないさ」
「うるさい! 分かってる……そんなこと、分かってるわよ! でも、やるしかないじゃない!」
エレナは泣いていた。
雨に混じって、熱い涙がアリスティアの胸を濡らす。
その涙もまた、酸となって彼の軍服を焦がしていく。
「……なら、僕が君を殺せばいいのか?」
アリスティアは自嘲する。
帝国からの命令。期限は切れた。
ここで彼女を殺して首を持ち帰れば、自分は英雄として称えられるだろうか?
いや、待っているのは次の殺しの命令だけだ。
永遠に続く、血塗れの螺旋。
「……疲れたな」
アリスティアの言葉に、エレナの力が抜ける。
二人は泥だらけの橋の上で、抱き合うようにして膝をついた。
肩には短剣が刺さったまま。
首には鋼糸が巻かれたまま。
完全なチェックメイト(相打ち)。
「……ええ。本当に、最悪のワルツね」
エレナが力なく笑う。
殺せない。
殺したくない。
その想いが、二人の刃を鈍らせていた。
その時だ。
パァァァンッ!!
乾いた銃声が響き、二人の足元の鉄板が弾け飛んだ。
「……!?」
二人は弾かれたように離れ、背中合わせに構える。
橋の両端。
霧の中から現れたのは、無数の人影だった。
一方は、帝国の憲兵隊と特務室の「掃除屋」。
もう一方は、共和国の暗殺部隊。
『対象を確認。……交渉決裂とみなす』
帝国の掃除屋が無機質に告げる。
『毒婦は裏切った。アリスティアと共に始末しろ』
共和国の部隊長が叫ぶ。
「……はは。なるほど」
アリスティアは肩の短剣を抜き捨て、止血のために糸で傷口を縛った。
「どうやら、僕たちは最初から生きて帰る予定には入っていなかったみたいだ」
「……証拠隠滅、ですね。スキャンダルごと川に流すつもりかしら」
エレナが毒の霧を周囲に展開する。
包囲網は完璧だ。
前門の虎、後門の狼。
逃げ場はない。
銃口が一斉に二人へ向けられる。
数百の殺意。
だが不思議と、二人の心は凪いでいた。
互いの殺意をぶつけ合った後だからこそ、このちっぽけな「組織の論理」が滑稽に見える。
「……ねえ、アリスティア」
「なんだい」
「ダンスのパートナーを変えるのは、好き?」
エレナが皮肉っぽく尋ねる。
アリスティアは、血に濡れた手で彼女の手を取った。
「まさか。……僕は一途なんだ。特に、自分を殺そうとする女にはね」
「奇遇ですわね。……私も、浮気は嫌いですの」
二人は笑い合う。
絶望的な状況。
だが、今この瞬間、二人は初めて「組織の駒」ではなく、自分の意志で選んだ「共犯者」になった。
『撃てッ!!』
号令がかかる。
マズルフラッシュが夜闇を染める。
弾丸の嵐が二人を襲う。
その刹那。
アリスティアはエレナを抱き寄せ、橋の欄干を蹴った。
「──地獄まで、付き合ってもらうよ!」
「ええ、どこまでも!」
二人の体は宙を舞う。
重力に従い、暗い運河の水面へと落下していく。
頭上を弾丸が通過し、火花を散らす。
ドッパァァァン!!
巨大な水柱が上がり、二人の姿を飲み込んだ。
冷たい水の中。
アリスティアは意識が遠のく中で、エレナの手を強く握りしめていた。
彼女もまた、爪が食い込むほどに握り返してくる。
(生きて。……私を殺すのは、あなただけよ)
(ああ。……君を殺すのは、僕の特権だ)
泡沫と共に、二人は闇の底へと沈んでいく。
組織を捨て、任務を捨て、ただ二人の愛と殺意だけを抱いて。




