共犯者たちの夜明け
帝都の地下深くに張り巡らされた、旧時代の排水路。
ヘドロと廃液の臭気が充満する暗闇で、二つの影が動いた。
「……ゲホッ、ガハッ!」
アリスティアは泥水の上に這いずり出し、肺に入った汚水を吐き出した。
全身が鉛のように重い。
左肩の刺し傷が熱を持っている。
だが、彼は震える手で、隣に倒れているエレナを引き上げた。
「……息をしてくれ、エレナ。まだダンスは終わっていない」
エレナの顔は蒼白だ。
濡れたドレスはボロボロに裂け、白い肌には無数の擦り傷が刻まれている。
彼女は薄く目を開け、虚ろな瞳でアリスティアを見た。
「……なぜ、助けたの……?」
かすれた声。
「このまま死ねば……楽になれたのに。あの子も……もう……」
「諦めるな」
アリスティアは強い口調で遮った。
彼は懐から、水浸しになった抹殺指令書を取り出し、破り捨てる。
「僕たちは組織に捨てられた。なら、僕たちも組織を捨てればいい」
「……どうやって? 相手は帝国と共和国よ……?」
「単純な話だ。……『心臓』を止めてしまえばいい」
アリスティアの瞳には、まだ狂気じみた理性の光が残っていた。
帝都大聖堂。
その地下には、両国が極秘裏に共同開発を進める最終兵器『エーテル・ハート』の研究施設がある。
そこは今、帝国の特務室と、共和国の潜入部隊が合流している場所でもある。
そして何より──エレナの妹が「生体パーツ」として搬入された場所だ。
「僕たちの手元には、まだ武器がある」
アリスティアは指を動かす。
残った鋼糸は、あと三本。
エレナは自分の腕を見る。
体内で生成できる毒は、あと一回分。
「……足りるかしら」
「足りないね。だからこそ、最高にスリリングだ」
アリスティアが手を差し出す。
エレナは泥だらけの手で、それを握り返した。
熱が伝わる。
生きようとする意志の熱が。
「行きましょう。……私の、人形師様」
「ああ。エスコートするよ、毒婦殿」
二人は闇の中を歩き出す。
泥にまみれたその姿は、どんな夜会服よりも気高く見えた。
帝都大聖堂。
ステンドグラス越しの月光が降り注ぐ神聖な空間の地下には、地獄が広がっていた。
「侵入者あり! 数は二名! ……速いッ!」
警報が鳴り響く地下回廊。
重武装の警備兵たちが次々と吹き飛んでいく。
アリスティアは走る。
軍服の上着を囮に投げ、敵の視線を誘導する。
その隙に、極限まで研ぎ澄まされた鋼糸が、照明の電源コードを切断する。
バチバチッ!
闇が回廊を包む。
「今だ、エレナ!」
「ええ!」
エレナが闇の中へ飛び込む。
彼女は自分の舌を噛み切り、口に含んだ血液を霧状に噴霧した。
『腐食の吐息』。
闇の中で、兵士たちの悲鳴が上がる。
「ぎゃあああ! 鎧が、溶ける!?」
「どこだ!? 何も見えん!」
混乱の坩堝。
アリスティアはその音だけを頼りに、糸を振るう。
的確に急所を貫き、あるいは同士討ちを誘発させる。
もはや言葉はいらない。
アリスティアが作った闇を、エレナが毒で満たし、その中で二人は魚のように自由に泳ぐ。
殺戮のワルツ。
そのステップは、地下最深部──巨大な扉の前まで止まらなかった。
最深部、『心臓の間』。
そこには、巨大な機械仕掛けの心臓が脈打っていた。
無数のパイプと歯車。その中心にあるガラス槽の中に、痩せ細った少女が浮かんでいる。
「……リサ!」
エレナが叫ぶ。
その前に、二人の男が立ちはだかった。
帝国の特務室長と、共和国の暗殺部隊長。
かつての上官たちが、冷ややかな目で見下ろしている。
「よく来たな、廃棄処分品ども」
「最高傑作の失敗作が。……その娘はもう、エーテル・ハートの一部だ」
室長が指を鳴らす。
部屋の四隅から、自動迎撃タレットが起動し、銃口を二人に向ける。
部隊長が巨大な鎌を構え、嗤う。
「終わりだ。ここで死ね」
一斉射撃。
弾丸の壁が迫る。
だが。
「……終わりにするのは、僕たちだ!」
アリスティアは一歩も引かない。
彼は残った全ての鋼糸を束ね、一本の太い「鞭」として振るった。
弾丸を弾くのではない。
彼は天井の蒸気パイプを狙ったのだ。
ガギンッ!
プシュゥゥゥゥゥ!!
高圧蒸気が噴き出し、視界を白く染める。
タレットのセンサーが狂う。
「小賢しい!」
部隊長が蒸気を切り裂いて突っ込んでくる。
その大鎌がアリスティアの首を刈ろうとした瞬間。
アリスティアの背後から、エレナが飛び出した。
彼女は、自分自身の腹部にナイフを突き立てていた。
「なっ……!?」
部隊長が驚愕に目を見開く。
エレナは叫ぶことなく、傷口から噴き出す鮮血を、部隊長の顔面へと浴びせかけた。
「……私の血は、鉄さえも溶かす愛の証よ!」
ジュワァァァァッ!!
「ぐあぁぁぁぁぁッ!!」
部隊長の顔面が焼け爛れ、大鎌を取り落とす。
エレナはその場に崩れ落ちるが、アリスティアがその体を空中で受け止めた。
「エレナ!」
「行って……! あの子を!」
アリスティアは頷き、部隊長が落とした大鎌を鋼糸で絡め取る。
遠心力を乗せ、室長へと投げつける。
「馬鹿な……!」
室長が後退る。
だが、大鎌は彼を通り過ぎ──背後のガラス槽、『エーテル・ハート』の制御装置へと突き刺さった。
ガシャァァァン!!
ガラスが砕け、培養液が溢れ出す。
警報音が絶叫のように響き渡る。
少女の拘束具が外れ、アリスティアは滑り込むようにして彼女を受け止めた。
「……任務完了だ」
室長が瓦礫に埋もれ、施設全体が崩壊を始める。
アリスティアは少女を抱え、血まみれのエレナの手を取った。
「帰ろう。……僕たちの家に」
数ヶ月後。
大陸の遥か南、太陽とオリーブの国。
海を見下ろす小さな丘の上に、一軒の家があった。
「お姉ちゃん、アリスティアさん! ご飯だよ!」
健康的な肌色を取り戻した少女、リサが庭から声をかける。
テラスでは、一組の男女がテーブルを囲んでいた。
アリスティアは新聞を読みながら、コーヒーを啜る。
その指には、もう鋼糸のタコはない。
エレナは焼きたてのパンを切り分け、微笑む。
その袖口には、もう毒針は隠されていない。
「平和すぎて……退屈してしまいそうですわ」
「そうかい? 僕は、君の淹れる毒のないコーヒーも悪くないと思っているよ」
二人は笑い合う。
穏やかな朝。
嘘のない会話。
アリスティアはポケットから、小さな箱を取り出した。
中には、何の仕掛けもない、ただの金の指輪が入っている。
「……エレナ」
「はい」
「これは盗聴器じゃない。発信機でもない」
彼はエレナの左手を取り、かつて偽りのサファイアがあった薬指に、その指輪を嵌めた。
「ただの、約束の指輪だ。……死ぬまで、君を離さないという」
エレナは指輪を見つめ、涙を一粒こぼした。
その涙は、もう毒には変わらない。
ただの、温かい雫として、アリスティアの手の甲に落ちた。
「……ええ。愛していますわ。……私の、人形師様」
海風が吹き抜ける。
かつて帝都を騒がせた二人の怪物の行方を知る者は、もうどこにもいない。
ただ、二つの影が寄り添い、終わらないワルツを踊り続けるように、静かに時を刻んでいくだけだった。




