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『氷点下のモラトリアム ―平成3年、旭北農高・土いじり日記―』  作者: 水前寺鯉太郎
2年生編

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第9話:東京・コンクリート・ジャングル

第9話:東京・コンクリート・ジャングル


平成四年、十一月。

旭川空港を飛び立った翼は、わずか一時間半で別世界へと舞い降りた。

羽田空港に降り立った拓海を真っ先に迎えたのは、晩秋の旭川の凛とした空気ではなく、生温い湿気と、都会特有の重たい排気ガスの匂いだった。

「なんだこれ……。空気が薄くねえか?」

源が、窮屈そうなブレザーの襟を引っ張りながら眉を潜める。

「人が多すぎるんだよ。二酸化炭素濃度が農高の牛舎より高いかもしれないね」

一条が、里帰りしたような落ち着きを見せながらも、どこか皮肉っぽく言った。

旭川農業高校の修学旅行。それは名目こそ「研修」だが、実態は東京の先進的な物流拠点や、当時最先端だった「植物工場」を巡る視察ツアーである。拓海は、都会の喧騒に圧倒されながらも、かつて自分が目指そうとしていた「綺麗な世界」の真ん中に立っていることに、奇妙な高揚感と違和感を覚えていた。


視察の合間の自由行動。拓海、源、ちひろ、一条の四人は、当時オープンしたばかりの恵比寿の洒落たレストランに入った。

一条の案内で座ったその店は、天井が高く、磨き上げられたカトラリーが電球色の光を反射して輝いている。

運ばれてきたのは、小さな皿の真ん中にチョコンと鎮座した、彩り鮮やかな野菜のテリーヌ。

「……これ、いくらするんだ?」

源がメニューを二度見する。

「源、静かに。……いただきます」

拓海が一口食べる。確かに美味い。けれど、何かが足りない。

「……これ、うちの学校で獲れた野菜の方が、味が濃い気がする」

ちひろが小さく呟いた。

「それはそうだよ。ここでは『見た目』と『ブランド』が優先される。どんな泥の中で、誰が、どんな想いで育てたかなんて、この皿の上には載ってこないんだ」

一条の言葉は、かつてないほど冷ややかだった。

拓海は窓の外を見下ろした。

ネオンが踊るコンクリートのジャングル。そこを歩く人々は、みんな忙しそうで、自分たちが食べているものがどこから来たのかなんて、これっぽっちも考えていないように見えた。


レストランを出た後、拓海は一条にある場所へ連れて行かれた。そこは、東京でも指折りの進学塾が立ち並ぶエリアだった。

「あ……」

信号待ちの交差点。横断歩道の向こう側に、見覚えのある顔があった。

松本だ。中学時代、成績を競い合ったライバル。

松本も拓海に気づいた。彼は以前、旭川の収穫祭で見せたような「完敗だ」という潔い顔ではなく、どこか疲れ切り、何かに追われるような目をしていた。

「佐藤……。修学旅行か?」

「ああ。松本、元気そうだな」

「元気なわけないだろ。今は冬の模試に向けて、一日十二時間勉強だ。……お前はいいよな。そんなにのんびり旅行して、将来の悩みもなさそうで」

松本の言葉には、以前のような優越感ではなく、深い焦燥と、どこか拓海を羨むような響きがあった。

「……悩みがないわけじゃないよ」

拓海が言い返そうとした時、信号が青に変わった。

「じゃあな。俺、次の講義があるから。……佐藤、お前はそのまま『そっちの世界』で頑張れよ」

松本は、波打つ人の群れの中に、吸い込まれるように消えていった。

拓海は、その背中を追うことができなかった。

彼と自分の間には、もう言葉では埋められない、巨大な「コンクリートの壁」がそびえ立っていることを痛感した。


翌日の視察先は、大手企業が運営する最新鋭の「植物工場」だった。

完全防塵のクリーンルーム。太陽光の代わりにピンク色のLEDライトが光り、野菜は土ではなく栄養液の中で整然と並んでいる。

「これこそが次世代の農業です。天候に左右されず、誰でも、どこでも、清潔に生産できる。泥も、匂いも、挫折もありません」

スーツ姿の担当者が誇らしげに語る。

一条が、拓海の耳元で囁いた。

「……どう思う、佐藤。僕が昔、理想だと思っていた形がこれだ」

拓海は、無機質なライトに照らされたレタスを見つめた。

そこには、サチコの体温も、大雪山の燃えるような夕日も、ハナに頬を舐められた時のあの生臭さも、何一つなかった。

「……確かにすごいけど、僕は嫌だ」

拓海は、はっきりと言った。

「失敗したり、雪に降られたり、泥にまみれたり。そういう『無駄なこと』の中に、僕たちが学んできた本当の農業がある気がするんだ。……このレタスには、物語がないよ」

担当者が怪訝な顔をしたが、拓海は構わなかった。

隣で、ちひろがそっと拓海の袖を引いた。

「私もそう思う。……早く旭川に帰って、土の匂い、嗅ぎたいね」


羽田から飛び立ち、旭川空港に降り立った瞬間。

飛行機のドアが開いた途端に流れ込んできたのは、肌を刺すような、けれどどこまでも透明で潔い、北国の冬の風だった。

「……っはあー! 生き返るぜ!」

源が、空港のロータリーで大きく伸びをする。

「やっぱり、空気が違うね。……冷たいけど、ちゃんと生きてる味がする」

ちひろも、愛おしそうに空を見上げた。

拓海は、自分の鞄に入った、東京で買ったお土産を眺めた。

きらびやかなコンクリートジャングルでの数日間は、まるで夢のように遠く感じられた。

かつて憧れた「綺麗な世界」は、今の拓海にとっては、あまりにも息苦しく、空虚な場所に過ぎなかった。

「一条、東京はどうだった?」

拓海が尋ねると、一条は少しだけ困ったように笑った。

「……最悪だったよ。アスファルトの上を歩きすぎて、足の裏が鈍ってしまった。明日から、また牛舎の掃除で感覚を取り戻さないとね」

拓海は、家に向かうバスの窓から、真っ白に雪化粧を始めた十勝岳を眺めた。

松本はまだ、あの人混みの中で戦っているだろう。

自分もまた、この厳しくも豊かな大地で、彼とは違う戦いを続けていく。

「……ただいま、旭川」

拓海は、誰にも聞こえない声で呟いた。

二年生の冬。

迷いは、もうどこにもなかった。

コンクリートの迷宮を抜けた少年は、再び、自分の意志で「泥の道」へと足を踏み出す。

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