第8話:真夏の放牧地(パドック)
第8話:真夏の放牧地
平成四年、八月。
旭川の盆地特有の、逃げ場のない湿った熱気が街を包んでいた。
二年生の夏休み、拓海たちに課されたのは、十勝岳の山麓に広がる提携牧場での一週間の合宿実習だった。
「いいか、ここは学校の豚舎とはワケが違うぞ。自然そのものが相手だ」
引率のクロテツが、麦わら帽子を深く被り直しながら言った。
参加したのは、拓海、源、ちひろ、そしてすっかり作業着姿が馴染んだ一条の四人だ。
目の前に広がるのは、見渡す限りの緑の傾斜地。そこには、ホルスタイン種の牛たちが悠々と草を食んでいる。
「うわあ……北海道って感じだな!」
源が歓声を上げるが、その足元には容赦ない「牛の落とし物」が点在していた。
「感動してる暇はないよ、源。この広さの柵の点検と、水場の清掃が僕たちの仕事だ」
一条が手元のメモ帳をチェックしながら冷静に言う。彼は、ハイテク温室の一件以来、理論と実践を両立させる「農高の策士」へと進化していた。
実習二日目。牧場主の老人が、一頭の牛を指差した。
「あの『ハナ』には気をつけろ。気性が荒くて、ベテランでも手を焼く」
ハナと呼ばれるその牛は、他の牛たちから少し離れた場所で、鋭い眼光を放っていた。
午後、拓海とちひろが水場の清掃をしていた時、ハナがゆっくりと近づいてきた。
「……ちひろ、ちょっと下がってて」
拓海が警戒して一歩前に出る。ハナは鼻息を荒くし、前足で地面を激しく掻いた。
「どうしたの、ハナ。喉が渇いたの?」
ちひろが穏やかな声をかけるが、ハナは突進せんばかりの勢いで首を振る。
「佐藤、離れろ! 牛の突進は車に撥ねられるのと同じだ!」
遠くから源の声が飛ぶ。
その時、ハナが苦しげに首を捻り、地面に膝をついた。
「……え?」
よく見ると、ハナの口元から泡が漏れ、呼吸が異常に速い。
「熱中症だ……!」
一条が駆け寄り、瞬時に判断した。
「この暑さだ、いくら牛でも限界がある。日陰に移動させないと心不全を起こすぞ!」
「移動させるって……どうやって! 八〇〇キロもあるんだぞ!」
源が叫ぶ。ハナは意識を失いかけており、自力で立つ気配はない。
「水をかけるんだ。まずは体温を下げる。源、ホースを持ってきて! 佐藤、冷たいタオルを作れ!」
一条の指示が飛ぶ。拓海はバケツに氷水を汲み、ちひろと共にハナの太い首筋や足の付け根を冷やし始めた。
「ハナ、頑張れ。死なせないから……」
拓海は、サチコを失った冬の日の感覚を思い出していた。
あの時は、命が「肉」になるための別れだった。けれど今は、目の前にある命が「消えようとしている」のを止めるための戦いだ。
「佐藤、もっと水を! 蒸発熱で下げるんだ!」
一条も泥だらけになりながら、牛の巨大な腹を摩る。
源は重たい遮光ネットを運び出し、ハナの上に即席の日除けを作った。
真夏の太陽が、彼らの体力を容赦なく削っていく。汗が目に入り、全身が牛の匂いと泥にまみれる。
けれど、四人の間に会話はなかった。ただ、ハナの荒い呼吸を整えることだけに、すべての意識を集中させていた。
一時間が経過した頃。
ハナの大きな耳が、ピクリと動いた。
「……フゴッ」
短く鼻を鳴らし、ハナがゆっくりと首を持ち上げる。
「……起きた」
ちひろが安堵の声を漏らした。
ハナは、まだふらつきながらも、自力で立ち上がろうとした。四人がかりでその巨体を支え、ゆっくりと日陰の奥へと誘導する。
立ち上がったハナは、拓海の目の前で止まった。
そして、あの日サチコが見せたような、穏やかな瞳で拓海をじっと見つめた。
ザラリとした長い舌が、拓海の泥だらけの頬を一度だけ舐めた。
「……うわ、くっさ……」
拓海は笑った。頬についた牛の唾液は、とんでもなく生臭かったけれど、それは間違いなく「生きている証」だった。
「佐藤、お前……また舐められたな」
源がヘトヘトになりながら地面に座り込む。
「ああ。……サチコの時とは、違う味がするよ」
一条も、汚れた眼鏡を拭きながら小さく笑った。
「データ上では、致死温度に近かった。君たちの『根拠のない必死さ』が、数値を書き換えたんだね」
実習の最終日。
牧場の丘の上から、四人は沈みゆく夕日を眺めていた。
オレンジ色に染まる放牧地。そこには、すっかり元気になったハナが、仲間たちと共に穏やかに草を食んでいる。
「……ねえ、拓海くん」
ちひろが、遠くを見つめたまま言った。
「私たち、卒業したらどうなるんだろうね」
平成四年の夏。
バブルが崩壊し、世の中の「正解」が少しずつ崩れ始めていた。
進学校に行った同級生たちは、今頃、クーラーの効いた図書館で「未来」のために勉強しているだろう。
けれど、拓海たちは知っていた。
自分の手で命を冷やし、泥にまみれ、牛に頬を舐められる。そんな、どこにも答えの載っていない夏があることを。
「どうなるかなんて分からないけどさ」
拓海は、日焼けした自分の手を見つめた。
「でも、この夏を乗り越えた僕たちなら、どこへ行ってもやっていける気がするんだ」
源が立ち上がり、空に向かって大声を上げた。
「よし! 帰ったら旭川で一番デカいパフェ食うぞ! 糖分補給だ!」
「賛成。一条のおごりでね」
「えっ、僕かい?」
笑い声が、夏の終わりの風に乗ってパドックに響く。
十勝岳の裾野に、一番星が静かに光り始めた。
拓海たちの二年生の夏は、一生消えない日焼けの跡のように、彼らの心に深く刻まれていた。




