第7話:ハイテク農場と、僕らの手のひら
第7話:ハイテク農場と、僕らの手のひら
平成四年(1992年)。
旭川の雪解けは、例年より少しだけ早かった。
進級した拓海たちは、二年生になった。後輩ができ、実習着の着こなしも板についてきた頃。校内には「これからは農業も情報化社会だ」という、バブル経済の余韻を引きずったようなスローガンが掲げられ始めていた。
そんなある日のLHR。担任のクロテツが、一人の転校生を連れて教室に現れた。
「東京の進学校から家庭の事情で転校してきた、**一条蓮**だ。仲良くしてやれ」
現れた少年は、農高の泥臭い空気にはおよそ不釣り合いな、線の細い、そして知的な冷徹さを湛えた瞳をしていた。
「……一条です。僕の実家は、最先端の農業プラントを経営しています。ここでの『伝統的な(古い)』やり方にどれだけ意味があるのか、確かめに来ました」
その一言で、教室の空気は氷点下まで下がった。
「なんだよ、あいつ。鼻持ちならねえな」
源が机の下で拳を握る。拓海は、一条の姿にかつての自分を重ねつつも、その徹底した「合理主義」の構えに、漠然とした不安を感じていた
二年生の専門実習が始まった。
課題は、新設された自動温度管理システムを備えたハイテク温室での「高級メロン」の栽培管理だ。
一条は、最新型のノートパソコン(当時はまだ重くて分厚い代物だ)を実習室に持ち込み、複雑な計算式を打ち込んでいた。
「佐藤くん。君はまだ、土の湿り気を指先で確認しているのかい? 非効率だね。この土壌センサーを使えば、水分量は0.1%単位で管理できる」
一条は、冷ややかな笑みを浮かべて続けた。
「農業はギャンブルじゃない。データによる制御だ。君たちが大切にしている『経験』や『勘』なんてものは、数値化できない不確定要素に過ぎない。そんなものに頼っているから、日本の農業は遅れるんだ」
拓海は、サチコとの日々を思い出しながら言い返した。
「データは大事だと思うよ。でも、生き物には計算通りにいかない瞬間がある。その変化に気づくのは、センサーじゃなくて、毎日触れている人間の手なんじゃないかな」
「ナンセンスだ」
一条は切り捨てた。
こうして、拓海たちの「手探り栽培チーム」と、一条の「完全データ管理チーム」による、メロン栽培対決が幕を開けた。
一ヶ月が経過した。
一条のチームのメロンは、完璧だった。
コンピュータ制御により、最適な肥料、最適な温度、最適な二酸化炭素濃度が保たれた温室で、メロンは絵に描いたような美しい網目を形成していた。
一方で、拓海たちのメロンは、成長にバラつきがあった。
「ほら、見てごらん。これが結果だ」
一条は画面上のグラフを指差した。
「僕のメロンはすべて均一だ。君たちのやり方は、ただの自己満足に過ぎない」
クラスメイトたちも、一条の鮮やかな手際に圧倒され始めていた。
「……やっぱり、勉強できるやつは違うな」「俺たちのやってきたことって、無駄だったのか?」
どんよりとした空気が教室を包む。
そんな中、ちひろだけは一条のメロンの葉をじっと見つめていた。
「……ねえ、一条くん。このメロン、なんだか『息苦しそう』だよ」
「息苦しい? 科学的根拠のない感想はやめてくれないか。数値は完璧だ」
その夜、旭川を激しい雷雨が襲った。
初夏特有の不安定な気圧配置。落雷の影響で、学校一帯が大規模な停電に見舞われた。
「大変だ! 停電でハイテク温室の管理システムが落ちたぞ!」
宿直のクロテツの声で、寮にいた拓海たちは飛び起きた。
ハイテク温室は、密閉性が高いゆえに、換気システムが止まれば一気に温度が上昇し、逆に夜間の冷え込みで結露が発生する。さらに、自動給水が止まれば、計算し尽くされたメロンの根は、パニックを起こす。
拓海たちが温室に駆けつけると、そこには真っ青な顔で立ち尽くす一条がいた。
「……バックアップが起動しない。計算では、こんなこと……」
「一条、計算はいいから動け! 窓を手動で開けるんだ!」
拓海は叫んだ。
ハイテクチームがパニックになる中、拓海、源、ちひろの三人は、体が勝手に動いていた。
センサーが死んでも、肌で「熱気」を感じれば窓を開け、土が「乾いている」と指が知ればバケツで水を運ぶ。
泥にまみれ、雨に打たれながら、彼らは「手のひら」の感覚だけを頼りに、数百株のメロンを守るために走り回った。
「一条! ぼーっとするな! 葉っぱの色を見ろ、萎れかけてるだろ!」
源に叱咤され、一条は初めてパソコンを捨てた。
彼は震える手で、初めてメロンの葉に触れた。
「……熱い。こんなに、熱くなってたのか……」
教科書や画面の中にはなかった「生命の熱」が、一条の指先を伝わって脳を揺さぶった。
彼は泥だらけになりながら、拓海たちの後を追って、必死に水を運び始めた。
翌朝。電気は復旧し、温室には静寂が戻った。
一条のデータ管理チームのメロンは、一部が急激な温度変化で割れてしまった。しかし、拓海たちが必死に手当てをした株は、なんとか全滅を免れた。
実習室のベンチで、泥だらけの四人は並んで座っていた。
「……僕の負けだ」
一条が、真っ黒に汚れた自分の手を見つめて呟いた。
「システムが止まった瞬間、僕は何もできなかった。メロンが苦しんでいることに、画面を見るまで気づけなかったんだ」
拓海は、自販機で買った冷たい缶コーヒーを一条に手渡した。
「負けとか勝ちとかじゃないよ。一条のデータがあったから、僕たちも『どのくらい冷やせばいいか』の目安がついた。データと手のひら、両方必要なんだよ、きっと」
一条は缶コーヒーを受け取り、不思議そうに自分の手を見た。
爪の間に入り込んだ土。それは、彼が今まで「不潔で非効率」だと切り捨ててきたものだった。
「……この汚れ、なかなか落ちないんだね」
「ああ。それが農業高校の『制服』みたいなもんだからな」
源が笑いながら、一条の背中をバシッと叩いた。
数日後。生き残ったメロンを試食する日が来た。
一条の作った、計算し尽くされたメロン。
拓海たちが、嵐の夜に必死で守り抜いたメロン。
口に運ぶと、どちらも甘かった。
けれど、一条は自分の手で守ったメロンを一口食べると、ふっと静かに微笑んだ。
「……数値には出ないけど、こっちの方が『力強い』味がする気がするよ」
平成四年の初夏。
「ハイテク」という新しい波を飲み込みながら、拓海たちはまた一歩、大人への階段を登っていた。
エリートの転校生は、いつの間にかクラスで一番「泥だらけ」になって作業に没頭するようになっていた。
その手のひらには、もう迷いはなかった。




