第6話:大雪山の燃える日
第6話:大雪山の燃える日
十二月二十五日。世間がクリスマスソングに浮かれる中、旭川は観測史上稀に見る「観測不能なほどの白」に包まれていた。
冬休みに入り、久しぶりに市内の実家に帰った拓海を待っていたのは、暖房の効きすぎたリビングと、重苦しい両親の視線だった。
食卓に並ぶのは、デパートで買った綺麗なローストチキン。数週間前、サチコの命を噛み締めたあの豚汁とは、あまりにも対照的な「無機質な食べ物」に見えた。
「拓海、農高はどうだ。……慣れたか?」
銀行員の父が、ワイングラスを置いて切り出した。
「……ああ。大変だけど、面白いよ」
「そうか。だがな、拓海。お前の人生はまだ長い。一年の遅れくらい、どうとでもなる。冬休み明けから、駅前の予備校に通わないか。今からなら、国立の農学部……いや、もっと上の学部も狙えるはずだ」
母も、すかさず言葉を添える。
「そうよ。あんな泥だらけの生活、あなたには向いてないわ。あの子豚の話も聞いたけど、そんなに辛い思いをするくらいなら、もっと綺麗な世界へ戻りなさい」
綺麗な世界。
拓海は、自分の手のひらを見つめた。サチコを押し、堆肥を運び、冷たい水で洗った手。そこには、消えない「生活の跡」があった。
「……考えさせてよ」
拓海はそれだけ言うと、自室に逃げ込んだ。
その夜、旭川を猛烈な寒冷前線が襲った。
窓の外は、風の咆哮で何も聞こえない。降り積もる雪の重みで、古い家屋の軋む音が響く。
翌朝、拓海のポケベルが激しく鳴った。
表示されたのは、源からの緊急連絡を意味するコードと、見たこともない数字の羅列だった。
慌てて公衆電話からかけ直すと、受話器の向こうで源が叫んでいた。
「佐藤! 助けてくれ! 美瑛の実家のビニールハウスが、雪の重みで潰れそうなんだ! 親父は腰をやって動けねえ、俺一人じゃ雪下ろしが追いつかねえんだよ!」
「源!? 電車は止まってるんだろ?」
「ああ! だから、お前の家にある古いカブ(バイク)でも何でもいい、来てくれねえか! このままだと、春に出荷する苗が全滅する……家族が路頭に迷うんだ!」
外は、視界数メートルのホワイトアウト。
「拓海! どこへ行くの!」
玄関で長靴を履く拓海に、母が叫ぶ。
「友達が困ってるんだ。……農高の友達が!」
拓海は父の古いマウンテンバイクを引っ張り出し、膝まである雪の中へと飛び出した。
美瑛までの道は、地獄だった。
国道は除雪車が追いつかず、吹き溜まりが壁となって立ちはだかる。
「……っ、ふざけるな! こんな雪に負けてたまるか!」
拓海は自転車を捨て、徒歩で進んだ。一歩踏み出すたびに、体温が奪われていく。
ふと、前方から雪を蹴立てて進む影が見えた。
「佐藤!? お前、バカか!」
それは、実家の軽トラックを強引に操り、チェーンを巻いて進んできた、ちひろだった。
「ちひろ! なんで?」
「源から連絡があったの! 乗って、早く!」
二人は猛吹雪の中、源の農場へと急いだ。
辿り着いたそこには、雪の重みで今にもひしゃげそうな、広大なビニールハウスの群れがあった。その屋根の上で、源が狂ったようにスコップを振るっている。
けれど、下ろしても下ろしても、天からはそれを上回る雪が降り注いでいた。
「源! 交代だ!」
拓海はトラックから飛び降り、屋根に這い上がった。
「佐藤……お前、よく来たな……!」
源の顔は、寒さで紫に変色していた。
「下ろせ! 止まるな! 止まったら凍死するぞ!」
拓海、源、ちひろ。
三人は無心でスコップを動かした。
平成三年のこの冬、彼らにとっての「敵」は、模試の判定でも、学歴でもなかった。目の前の、白くて冷たい、無慈悲な自然そのものだった。
数時間が経過しただろうか。
不意に、風が止んだ。
厚い雲の切れ間から、夕日が顔を出した。
それは、真っ白に閉ざされた大雪山連峰を、燃えるような朱色に染め上げた。
「……見て。山が、燃えてるみたい」
ちひろが息を切らしながら呟いた。
夕日に照らされた雪原は、まるで炎のように揺らめき、彼らの目の前に広がっていた。
それは、都会の予備校の蛍光灯の下では、一生拝むことのできない、圧倒的な「命の光景」だった。
「……源。僕、決めたよ」
拓海は、スコップを杖にして立ち上がった。
「何をだ?」
「予備校、行かない。僕は、ここで……この景色の中で、泥だらけになって生きていくよ」
源は、拓海の肩をボロボロの手で叩いた。
「……そうか。じゃあ、明日は筋肉痛で死ぬなよ。まだ半分残ってるんだからな!」
三人は、真っ赤に燃える大雪山に向かって、腹の底から笑った。
翌日、雪は止んだ。
ハウスは無事に守られ、源の父は涙を流して三人に感謝した。
実家に戻った拓海は、玄関で待っていた父に、真っ直ぐに向き合った。
「お父さん。僕は、農業高校を卒業する。あそこでしか学べないことが、僕には必要なんだ」
父は、拓海の煤けた顔と、逞しくなった手を見て、長く、深い溜息をついた。
「……そうか。お前の顔、いい顔になったな」
それは、敗北を認めた者の顔ではなかった。
自らの意志で、土を選んだ者の顔だった。
平成四年が、もうすぐそこまで来ていた。
拓海の物語は、挫折から始まり、命を知り、そして今、自らの「道」を見つけた。
旭川の厳しい冬はまだ続く。けれど、彼らの胸の中には、あの大雪山の夕日のような、熱い火が灯っていた。




