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『氷点下のモラトリアム ―平成3年、旭北農高・土いじり日記―』  作者: 水前寺鯉太郎
1年生編

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第5話:さよなら、サチコ

第5話:さよなら、サチコ


十一月の旭川は、もはや秋ではない。

朝、拓海が目を覚ますと、窓の隙間から入り込んだ冷気が鼻先を凍らせる。登校路の街路樹は葉を落としきり、灰色の空からは今にも雪が落ちてきそうな気配が漂っていた。

農業高校の空気も、冬の装いに変わる。

「収穫祭」の熱狂が嘘のように、校内は静まり返っていた。実習の内容は、畑仕事から温室管理や、そして「家畜の出荷」へと移り変わる。

「佐藤、今日も早いな」

豚舎の重い扉を開けると、そこには既にちひろがいた。彼女の吐き出す息は真っ白で、その視線の先には、いつもより少しだけ大人しいサチコがいた。

サチコは、入学したての頃の「薄汚れたピンクの塊」ではない。拓海が毎日ブラシをかけ、栄養計算に基づいた飼料を与え続けた結果、毛並みには艶が戻り、体つきもしっかりとした。拓海の姿を見つけると、重たくなった体を揺らしながら「フゴッ、フゴッ」と短く鳴いて、柵に鼻を押し付けてくる。

「……明日なんだって」

ちひろがポツリと言った。

「……ああ。聞いてる」

拓海は短く答え、サチコの頭に手を置いた。

農業高校における「出荷」は、卒業式よりも厳粛な、避けては通れない儀式だ。

自分が育てた命が、肉となり、誰かの血肉になる。それが農業の、そして生命の循環だと授業では習った。けれど、実際にその日を前にすると、教科書の文字はあまりにも無機質で、冷たかった。


その日の放課後、拓海はクロテツに頼み込んで、消灯時間ギリギリまで豚舎に残る許可をもらった。

「佐藤、情をかけすぎるなと言ったはずだぞ」

クロテツはいつもの厳しい口調だったが、拓海の泥だらけの作業着と、赤く腫れた手のひらを見て、ふっと息を吐いた。

「……一時間だけだ。風邪ひくなよ」

静まり返った豚舎。他の豚たちが眠りに落ちる中、サチコだけは拓海の気配を感じて起きていた。

拓海は柵の中に腰を下ろし、サチコの背中をゆっくりと撫でた。

「……サチコ、お前は本当に手がかかったよな」

拓海は独り言のように語りかけた。

「最初は全然懐かないし、僕の顔に堆肥をぶちまけるし。……でもさ、お前がいたから、僕はここでの生活をやってこれたんだ」

進学校に落ちたあの日、自分の人生は終わったのだと思っていた。

でも、サチコを温め、泥にまみれ、その温もりを感じるたびに、拓海の凍りついていた心は少しずつ解けていった。

「ありがとうな。……何もしてやれなくて、ごめんな」

サチコは、拓海の膝に大きな頭を預けてきた。まるで、彼の言葉をすべて理解しているかのように。

拓海はポケットから、内緒で持ってきた一切れのリンゴを取り出した。旭川の寒さで冷え切ったリンゴ。

サチコはそれを美味しそうに、シャリシャリと音を立てて食べた。

「……さよならだ、サチコ」

拓海の目から、熱いものが溢れた。

それは、挫折の涙ではなかった。一つの命と向き合い、それを手放さなければならない人間の、痛切な祈りだった。


翌朝。旭川には、この冬初めての本格的な雪が降っていた。

グラウンドは白く塗りつぶされ、世界から音が消えたような静寂の中、一台の大型トラックが豚舎の前に止まった。

一年生全員が、防寒着に身を包んで整列していた。

いつもは騒がしい源も、今日ばかりは口を真一文字に結び、真っ直ぐにトラックを見つめている。

「……これより、一学年実習個体の出荷を開始する」

クロテツの声が、冷たい空気の中に響く。

一頭ずつ、名前を呼ばれた生徒が自分の担当豚をトラックへと導く。

「〇五二番、佐藤拓海」

拓海は一歩前に出た。

サチコは、トラックの積み出し口のスロープを前にして、足を止めた。

彼女は、これから何が起こるのかを察しているようだった。悲しげな声で鳴き、拓海の足元に鼻を寄せ、動こうとしない。

「佐藤、早くしろ。時間が押している」

業者の男が急かす。

拓海は、サチコの首筋を優しく叩いた。

「……行け。サチコ。大丈夫だ、僕が見てるから」

拓海の声は震えていた。

彼は、サチコの後ろ側に回り、その大きな体を自分の体全体で押し始めた。

「行け……行け、サチコ!」

泥だらけの長靴が雪に滑る。

サチコは一度だけ、拓海の方を振り返った。その瞳には、恨みも怒りもなく、ただ、あの日のビスケットを食べた時のような、穏やかな光が宿っていた。

最後の一押し。

サチコがトラックの荷台へと足を踏み入れた。

鉄の扉が、重々しい音を立てて閉まる。

「……ありがとうございました!!」

拓海は、走り去るトラックの後ろ姿に向かって、喉がちぎれんばかりの声で叫んだ。

それはクラス全員の叫びとなり、冬の旭川の空へと吸い込まれていった。


数日後。実習室のテーブルの上には、丁寧にパック詰めされた「肉」が並んでいた。

自分たちが育てた豚。それが、精肉となって戻ってきたのだ。

今日の調理実習のメニューは、豚汁。

教室には、出汁の香りと、野菜の甘い匂いが立ち込めていた。けれど、誰も箸をつけようとはしなかった。

「……食え」

クロテツが、静かに言った。

「お前たちが流した涙を、無駄にするな。この肉には、お前たちの半年間が詰まっている。食って、自分の命に変えることが、あいつらへの唯一の報いだ」

拓海は、震える手で箸を持った。

お椀の中に浮かぶ、一切れの肉。

それを口に運び、ゆっくりと噛み締める。

「……っ」

甘かった。

脂がとろけるように広がり、その後に、力強い大地の味がした。

それは、拓海がこれまで食べてきたどんな高級な肉よりも、重くて、温かくて、残酷なほどに美味しかった。

「……美味しい……美味しいよ、サチコ」

隣で、ちひろが声を殺して泣いていた。

源は、どんぶりを抱えたまま、ボロボロと涙を溢れさせて肉を頬張っていた。

拓海もまた、涙で味が分からなくなるほどに、その一杯を飲み干した。

不合格通知を破り捨てたあの日、自分は「死んだも同然だ」と思っていた。

けれど今、サチコの命をもらって、自分の心臓がドクドクと力強く打っているのを感じる。

生きていくということは、他の命を背負っていくということだ。その重みを、拓海は初めて知った。


実習が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。

拓海は一人、誰もいなくなった豚舎の前に立った。

空からは、ぼたん雪が静かに降り積もっている。

サチコがいた柵は、今は綺麗に洗浄され、主を失ってひっそりとしていた。

けれど、そこにはまだ、サチコの体温が残っているような気がした。

「……僕は、忘れないよ」

拓海は、真っ白な雪の上に、サチコの番号「〇五二」と指で書いた。

雪はすぐにそれを覆い隠していったけれど、拓海の胸の奥に刻まれた記憶は、もう消えることはない。

進学校の制服を着て、街を歩く松本たち。

泥だらけのジャージを着て、命を食らう自分。

どちらが正しいかなんて、もうどうでもよかった。

拓海は、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、前を向いた。

「……明日も、実習だな」

平成三年の、厳しいけれど輝かしい冬が、旭川を白く、深く染め上げていた。

佐藤拓海、十六歳。

彼は今、確かに、自分の足で土の上に立っていた。

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