第4話:逆襲のジンギスカン
第4話:逆襲のジンギスカン
平成三年、十月。
旭川の秋は駆け足でやってくる。大雪山の頂がうっすらと白く染まり、朝の空気には肺の奥を刺すような冷たさが混じり始めていた。
旭川農業高校の学祭――通称「収穫祭」の朝。
校門には手作りの看板が掲げられ、近所のお年寄りから、他校の生徒、そして農高への進学を考える中学生まで、多くの人々が詰めかけていた。
「いいか、野郎ども! 今日の目標は完売、そして収穫祭グランプリの獲得だ!」
源が、クラスの揃いの法被を羽織り、拳を突き上げた。
拓海たちのクラスが用意したのは、特設のジンギスカン・スペース。グラウンドの片隅に設営されたテントからは、すでに炭が爆ぜる音と、拓海が試行錯誤の末に完成させた「黄金比のタレ」の香ばしい匂いが漂っていた。
「佐藤、タレの追加分はどうだ?」
「あと五リットル。もうすぐ調合終わるよ」
拓海はテントの裏で、計量カップとボウルを手に、化学実験さながらの精密さでタレを作っていた。
「醤油45%、リンゴの搾り汁20%、おろし玉ねぎ15%……。隠し味のハチミツが、ラムの独特なクセを旨味に変えるはずだ」
不合格通知を眺めていた半年前の自分が見れば、今の姿をどう思うだろうか。
白衣ではなく、油の飛んだ作業着。参考書ではなく、巨大な泡立て器。
けれど、今の拓海の胸にあるのは、計算通りの味を作り上げたという、静かな自信だった。
午前十一時。収穫祭が本格的に動き出すと、拓海たちの「ハイパー・ジンギスカン」は瞬く間に噂を呼び、テントの前には長蛇の列ができた。
「おい、これマジで美味いぞ! タレが全然違う!」
「野菜も甘い! これ、自分たちで作ったの?」
客たちの歓声が、拓海の耳に心地よく響く。
そんな喧騒の中、一団のグループがテントの前に現れた。
制服の上から小洒落たコートを羽織った、松本たちだった。先日、街で拓海を憐れんでいた進学校の連中だ。
「よお、佐藤。本当にジンギスカンやってんのか」
松本が、少し鼻につくような笑みを浮かべて近づいてきた。
「……ああ、並んでくれよ。今、最高に美味いのが焼けるところだ」
「いや、いいよ。服に匂いがつきそうだし……。あ、でも、せっかくだから一皿だけもらおうかな。どんなもんか試してやるよ」
松本が財布から千円札をひらつかせたその時、列の後ろから年配の男性が声をあげた。
「おい、坊主! ここのジンギスカンは最高だ。文句言うなら俺に譲れ!」
地元の農家の男性だった。彼は松本を一瞥し、拓海に向かって親指を立てた。
「佐藤君と言ったか。このタレ、あんたが考えたんだってな。俺たちの育てた野菜の味が、しっかり引き立ってる。ありがとうよ」
拓海は、松本の顔を見ずに、その男性に頭を下げた。
「ありがとうございます。野菜の鮮度が良すぎるので、僕が負けそうなくらいです」
松本は、自分が軽視されたことに不満そうな顔をしたが、周囲の熱気と圧倒的な「旨そうな匂い」に押され、黙って最後尾に並び直した。
ピークタイムの午後一時。事件は起きた。
「……おい、佐藤! 大変だ! ガスが……ガスが出ねえ!」
厨房を仕切っていた源が、悲鳴に近い声を上げた。
見ると、大型のプロパンガスボンベが空になっていた。予備のボンベも、あまりの盛況ぶりに使い切ってしまったのだ。
「何だって? あと三本はあったはずだろ!」
「計算ミスだ! 予想以上に客が来たから、火を強めすぎたんだ!」
テント内がパニックに陥る。
行列の客たちからは「まだか?」「どうしたんだ?」と不穏な声が漏れ始めた。松本が列の中から冷ややかな声を上げる。
「なんだよ、結局これか。段取りの悪さが農業高校クオリティってことか?」
その言葉が、拓海の耳に鋭く刺さった。
(ここで終わらせてたまるか。僕の、僕たちの半年間を笑わせてたまるか!)
拓海は瞬時に周囲を見渡した。ガスがない。予備を待っていては三十分はかかる。
その時、拓海の目に留まったのは、実習棟の横に積み上げられた、ある「山」だった。
それは、昨日の実習で出た「間伐材」と、去年の先輩たちが残していった大量の「木炭」。そして、授業で使っていた「U字溝(コンクリートの溝蓋)」だ。
「源! U字溝を三つ持ってこい! あと、炭と焚き付けだ!」
「佐藤……? まさか、外で火を熾すのか!?」
「ガスがダメなら、原点に帰るんだ。農高だぞ、僕たちは。火を熾すくらい、一年の実習で嫌ほどやっただろ!」
拓海の指示は的確だった。
源がU字溝を並べ、その中に炭を敷き詰める。ちひろが実習用のブロワー(送風機)を持ってきて、一気に風を送り込んだ。
「よし、火がついた! 鉄板を移せ!」
拓海は熱い鉄板を厚手の革手袋で掴み、U字溝の上に設置した。
炭火の強烈な赤外線が、鉄板を一瞬で熱していく。
「お待たせしました! ここからは『炭火焼き・ハイパー・ジンギスカン』です! ガスより美味いですよ!」
拓海の叫びに、客席から歓声が上がった。
炭の香りがタレの香ばしさをさらに引き立て、モクモクと立ち昇る煙が、収穫祭の雰囲気を最高潮に盛り上げる。
鉄板の上に、秘伝のタレに漬け込んだ肉を投入する。
「ジューッ!!」
という爆発的な音が、グラウンドに響き渡った。
「すげえ……」
松本が、呆然と立ち尽くしていた。
自分たちがスマートに勉強している間に、拓海は、トラブルを自力で、それも泥臭い方法で突破する力を身につけていた。
汗だくになり、顔を煤で汚しながら、けれど迷いのない手つきでトングを操る拓海の姿は、松本たちが知る「受験に失敗して暗い顔をしていた佐藤」ではなかった。
「はい、お待たせ。一皿五百円だ」
拓海は、松本の前にジンギスカンを差し出した。
松本は無言で金を手渡し、一口肉を頬張った。
「……っ!」
噛み締めた瞬間、肉の旨味と、炭火の野性的な香りが口いっぱいに広がる。
「……美味しいか?」
拓海が尋ねると、松本は悔しそうに顔を歪めながら、一言だけ呟いた。
「……ああ。完敗だよ」
夕暮れ。
用意した五百食分の肉と野菜は、すべて完売した。
「お疲れさまー!!」
クラスメイト全員で、残った食材で作った自分たちのためのジンギスカンを囲む。
「佐藤、お前今日マジでヒーローだったぜ」
源が、コーラの瓶を拓海のグラスにぶつけた。
「ヒーローなんて。ただ、せっかく作ったタレを無駄にしたくなかっただけだよ」
「あはは、相変わらず理屈っぽいなあ。でも、その理屈が今日はみんなを救ったんだよ」
ちひろが、拓海の肩をぽんと叩いた。
拓海は、自分の手を見た。
炭で真っ黒になり、煤がこびりついている。けれど、その手はしっかりと、自分が作った「価値」を握りしめていた。
進学校に行かなかったことを、後悔していないと言えば嘘になる。
けれど、もしあの日、あそこで合格していたら、自分は今日、こんなに美味しいジンギスカンを食べ、仲間と笑い、トラブルを力技で解決する喜びを知ることはなかっただろう。
「……美味いなあ」
拓海が呟くと、夕焼けに染まった十勝岳が、まるで彼を祝福するように、一段と赤く輝いた。
平成三年の秋。
拓海の物語は、まだ始まったばかり。
けれど、彼の中に蒔かれた「農業高校」という種は、厳しい冬を前に、確かに力強い根を張り始めていた。




