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『氷点下のモラトリアム ―平成3年、旭北農高・土いじり日記―』  作者: 水前寺鯉太郎
1年生編

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第3話:ジンギスカン・ブルース

第3話:ジンギスカン・ブルース


五月も半ばを過ぎると、旭川の街は一気に緑を増し、風の中にツツジの香りが混じり始める。農業高校の教室では、窓から入り込む陽光が埃をキラキラと反射させ、放課後の気だるい空気を熱していた。

「おい、静かにしろ! 文化祭の出し物、今日中に決めねえと生徒会にシバかれるぞ!」

学級委員を務める源が、教壇を拳で叩いた。その声は、バブル崩壊のニュースを報じるテレビの音よりも大きく響く。

黒板には、大きく**『収穫祭(文化祭)出し物会議』**と書かれていた。

「源、そんなの決まってるべさ。去年も一昨年も、うちのクラスは『ジンギスカン』だろ」

後ろの席で雑誌を捲っていた男子生徒が、面倒くさそうに手を挙げた。

「バカ言え! 去年と同じじゃ芸がねえ。今年は……『ハイパー・ジンギスカン』だ!」

「何がハイパーなんだよ」

クラス中から失笑が漏れる。拓海は、そのやり取りをどこか遠い世界の出来事のように眺めていた。

進学校に通っていれば、今頃は「クラス演劇」だの「模擬国連」だの、もっとスマートで知的な議論をしていたはずだ。それがここでは、「肉の厚さ」や「タレの隠し味」が国家存亡の危機であるかのように議論されている。

「佐藤はどう思う?」

突然、源に話を振られ、拓海は肩を跳ねさせた。

「え……? 僕? ……そうだな、ジンギスカンは定番だけど、野菜も自分たちで作ったものを使えば、安く済むんじゃないかな」

「それだ!」

源が再び教壇を叩いた。

「佐藤、お前いいこと言うな! 浮いた金で、もっといい肉を仕入れる。これぞ農業高校の醍醐味だべ!」

クラスの空気が一気に「ジンギスカン一択」へと傾いていく。平成三年の高校生たちは、お祭り騒ぎと肉には目がなかった。


議論はさらに白熱していく。北海道民にとって、ジンギスカンのタレの選択は、宗派の争いにも似た厳粛な儀式だ。

「タレは『ベル』に決まってるべ! あの酸味が肉に合うんだ!」

「甘えこと言うな、時代は『ソラチ』だ! 濃厚なコクこそが正義だろ!」

ちひろが呆れたように溜息をつき、拓海の耳元で囁いた。

「……男って、どうしてあんなにタレに命かけてるのかね」

「……まあ、平和でいいんじゃないかな。不合格通知の文面を議論するよりは」

拓海が自虐的に笑うと、ちひろは少しだけ真剣な顔をして彼を見た。

「あんた、まだそんなこと言ってるの? サチコの掃除してる時、あんなに一生懸命だったくせに」

「それは……あれは当番だから」

「ふーん。まあいいけど。……あ、そうだ。買い出し、あんたも行ってくれる? 市内の精肉店、源の実家と付き合いがあるところがあるの。自転車で一走りすれば着くから」

拓海は、少しだけ躊躇した。

市街地へ行くということは、中学時代の同級生に会う可能性があるということだ。学ランではなく、この「旭農」という校章が入ったジャージ姿で。

「……分かったよ。行くよ」

拓海は、逃げるように返事をした。


放課後。拓海と源、そしてちひろの三人は、自転車を漕いで旭川の市街地へと向かった。

三六街さんろくがいの入り口付近には、スーツ姿の大人たちが溢れ、カラオケボックスからは最新のJ-POPが漏れ聞こえてくる。

「よおし、あそこの肉屋だ。佐藤、ちひろ、ちょっと待ってろよ!」

源が店の中へ飛び込んでいく。拓海とちひろは、歩道の脇で自転車を止めた。

その時だった。

「……あれ? 佐藤じゃん」

背後から聞き覚えのある声がした。

振り返ると、そこには、あの中学校で成績を競い合っていた同級生、松本と数人のグループが立っていた。彼らは市内でも有数の進学校の制服を着て、手には受験参考書が入った袋を下げていた。

「やっぱり佐藤だ。久しぶり。……お前、今どこに行ってるんだっけ?」

松本の視線が、拓海の胸元にある「旭農」の文字に止まった。

「……農業高校だよ」

「あ、ああ、そうだったな。担任が言ってたわ。……大変そうだな、なんか、その……作業着? みたいな格好で」

松本の横にいた女子生徒が、クスクスと笑いながら鼻を押さえた。

「……ちょっと、なんか匂わない?」

「バカ、言うなよ。……佐藤、頑張れよ。俺たちはこれから塾なんだ。じゃあな」

彼らは、拓海を哀れむような、あるいは「自分たちはあちら側でなくて良かった」と安堵するような視線を残して、去っていった。

拓海は立ち尽くした。

自分の手に染み付いた泥の匂いや、サチコを守ったあの日の熱量が、一瞬で「価値のないもの」に塗り替えられたような気がした。


「……何あいつら。感じ悪い」

ちひろが、松本たちが去った方を睨みつけながら言った。

「いいんだ。事実だし。僕は……受験に失敗して、ここにいる。彼らが正解で、僕は間違いなんだよ」

拓海が地面を見つめて吐き捨てると、突然、店から戻ってきた源が、拓海の首をがしっと掴んだ。

「お前、今なんて言った?」

「……源」

「正解とか間違いとか、そんなの土の上じゃ関係ねえよ。ジャガイモは、いい土に植えればデカくなる。悪い土に植えれば小さくなる。ただそれだけだべさ。……お前は今、最高のジンギスカンを作るための土台を作ってるんだ。胸張れよ!」

源は、大きな肉の塊が入ったビニール袋を拓海に突き出した。

「ほら、これ持て! 命の重さだぞ!」

ずしりと、腕に重みが伝わる。

冷たくて、生々しくて、けれど確かな存在感。

松本たちの持っていた参考書よりも、ずっと重たかった。

「佐藤」

ちひろが、拓海の顔を覗き込んだ。

「あいつら、ジンギスカンの焼き方一つ知らないでしょ。私たちは、どうすれば一番美味しく食べられるか知ってる。……それって、すごく格好いいことだと思わない?」

拓海は、深く息を吸った。

鼻を突くのは、都会の排気ガスと、源が持ってきた肉の匂い。

そして、自分の指先に残っている、サチコの温もり。

「……そうだな。……帰ろう。学校に」


学校へ戻る道中、夕焼けが十勝岳を真っ赤に染めていた。

教室に戻ると、黒板の「ハイパー・ジンギスカン」の下に、誰かが描いた下手くそな豚と羊の絵が踊っていた。

「よーし、試作だ! 佐藤、お前がタレの配分を決めろ。お前のその『理系っぽい頭』でよ!」

源が笑いながらコンロを用意する。

「理系っぽいって……ただの計量だろ」

拓海は苦笑しながら、ビーカーを取り出した。

醤油、おろしニンニク、リンゴの搾りかす、そして隠し味の蜂蜜。

一滴ずつ、慎重に混ぜ合わせる。

「……あ、これ……美味しいかも」

ちひろが、小指につけて味見をした。

「だろ? 僕なりに、あいつらを見返す方法を考えたんだ。日本一のジンギスカンを作ってやる」

拓海の言葉に、クラス中が「おおーっ!」と沸いた。

失敗したからここにいるのではない。ここでしかできないことを、今、自分たちはやっている。

平成三年の夜が、ジンギスカンの香ばしい煙とともに更けていく。

不合格通知に泣いたあの日から、二ヶ月。

拓海は初めて、自分の居場所がこの「泥だらけの教室」にあることを、心のどこかで認め始めていた。

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