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『氷点下のモラトリアム ―平成3年、旭北農高・土いじり日記―』  作者: 水前寺鯉太郎
番外編:麦の歌 ── 琥珀色の夢、その源流へ

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琥珀色の継承、と父の産声


昭和30年。日本は「もはや戦後ではない」という経済白書の言葉通り、凄まじい勢いで復興の坂道を駆け上がっていた。

余市の蒸溜所もまた、進駐軍の注文に追われた混迷期を抜け、真に「日本のウイスキー」を確立するための黄金期へと足を踏み入れていた。

正武の鼻は、さらに研ぎ澄まされていた。

「レベッカ、今年のピートは最高だ。石狩湾の潮風が、例年になく強く麦を叩いてくれた」

正武は、白髪の混じり始めた髪をかき上げながら、発酵タンクの香りを吸い込んだ。

そんなある春の夜。残雪が月明かりに照らされる中、蒸溜所の奥にある住居に、元気な産声が響き渡った。

佐藤家の長男──のちに拓海の父親となる、**佐藤武雄たけお**の誕生である。


「……正武。見て、あなたにそっくりな鼻をしているわ」

ベッドの上で、少し疲れた、しかし慈愛に満ちた笑顔を浮かべるレベッカ。

彼女の腕に抱かれた赤ん坊は、正武譲りの意志の強そうな眉と、レベッカから受け継いだ、吸い込まれるような澄んだ青い瞳を持っていた。

正武は、煤けた大きな手で、壊れ物を扱うように息子を抱き上げた。

「武雄……。武士のように強く、雄大に育ってほしい。そして、いつかこの琥珀色の夢を、さらに遠くへ運んでくれ」

正武は、その夜、武雄の誕生を祝うために、特別に一本の原酒をボトリングした。

「この酒が、武雄が成人する二十年後、どんな味になっているか。楽しみだな、レベッカ」

二人は、赤ん坊の寝顔を見つめながら、小さなグラスで乾杯した。

それは、戦火を潜り抜け、異国から海を渡って辿り着いた二人が、ようやく手に入れた「家族」という名の平和の実りであった。


昭和30年代に入ると、日本のウイスキー市場は空前のブームを迎える。

これまでは「高級な輸入品」だったウイスキーが、サラリーマンの憧れとして、家庭の食卓やバーに並び始めたのだ。

正武は、より高品質なウイスキーを安定して造るため、蒸溜所の設備を拡張した。

「感性だけでは足りない。これからは、伝統に『科学』を融合させなければならない」

正武は、若き技術者たちを雇い、かつてグラスゴー大学で学んだ化学の理論を現場に叩き込んだ。

温度管理の徹底: 蒸留時のわずかな温度変化が、香りの成分をどう変えるか。

樽材の選定: 北海道産のミズナラ材が、長期間の熟成において日本独自の「白檀びゃくだん」のような香りを生むことの発見。

水の探求: 余市川の源流まで遡り、ミネラル分が発酵に与える影響を数値化。

正武は、昼は現場で職人たちと泥にまみれ、夜は研究室で顕微鏡を覗き込む日々を送った。

その傍らには、いつもレベッカがいた。彼女は、スコットランドから送られてくる最新の海外文献を翻訳し、正武の右腕として、蒸溜所の経営を支えていた。


武雄は、ウイスキーの香りと、ピートの煙に包まれて育った。

彼にとっての遊び場は、巨大なポットスチルの下や、薄暗い熟成庫ウェアハウスだった。

「武雄、この樽の中には何が入っていると思う?」

正武が五歳の武雄に尋ねる。

「……んー。妖精さんが、魔法をかけてる匂い!」

武雄が鼻をひくつかせて答える。

正武は笑った。

「そうだ。時間の妖精だ。……いいか、武雄。ウイスキーを造るということは、未来を信じるということだ。今、お前が嗅いでいるこの匂いは、お前が大人になった時、誰かを幸せにする魔法になるんだ」

武雄は、父の背中を見て育った。

だが、その瞳に映っていたのは、情熱のあまり家族を二の次にしがちな「職人としての父」への、小さな反発心でもあった。

「お父さんは、僕よりウイスキーの方が好きなんだ」

そんな武雄の寂しさを埋めるのは、いつもレベッカの焼くリンゴパイの甘い香りと、彼女が語る遠いスコットランドの物語だった。


昭和30年代後半。

市場には、アルコールを薄めた安価な「ウイスキー風飲料」が溢れ始めた。

「佐藤さん、もっと安く、大量に造ってくださいよ。今の時代、中身なんて誰も気にしませんから」

取引先の言葉に、正武は激昂した。

「偽物を造ってまで商売をするなら、僕は最初からリンゴだけを絞っていた! ウイスキーは、魂の酒だ。魂を薄めることはできない!」

正武は、あえて逆風の中、さらに高価な「シングルモルト」の製造にこだわった。

経営は再び苦しくなった。

武雄の教育費さえままならない時期もあったが、正武は一歩も引かなかった。

その頑固さが、のちに「佐藤ブランド」を世界一へと押し上げる礎となることを、当時の武雄はまだ理解していなかった。


昭和39年。東京オリンピックが開催され、日本が近代国家として世界に認められた年。

十歳になった武雄は、父・正武に連れられて、初めて広島の西条を訪れた。

かつて正武が飛び出した実家の蔵は、叔父が継いでいた。

「正武……よく戻ったな」

高齢になった父・正蔵は、もう怒鳴ることはなかった。

正蔵は、正武が持参した余市のウイスキーを一口飲み、静かに涙を流した。

「……良い酒だ。西条の米とは違うが、ここにはお前の『根っこ』がちゃんと詰まっている」

その光景を見ていた武雄は、初めて父の歩んできた道の険しさと、その根底にある「誇り」の正体を知った。

しかし、武雄自身は、泥臭い農業や酒造りではなく、もっとスマートな「数字の世界」──銀行員としての道を志し始める。

それは、あまりにも強すぎる職人の父に対する、彼なりの自立の表現であった。

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