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『氷点下のモラトリアム ―平成3年、旭北農高・土いじり日記―』  作者: 水前寺鯉太郎
番外編:麦の歌 ── 琥珀色の夢、その源流へ

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戦火の煙、と琥珀の沈黙


その朝、余市の空は鉛色に低く垂れ込め、石狩湾からの地吹雪が蒸溜所の木樽を白く閉ざしていた。正武はいつものように、リンゴの貯蔵庫で温度計を確認していた。

ラジオから流れてきたのは、耳を疑うような緊迫した放送だった。

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり……」

ついに、その日が来た。

『ニイタカヤマノボレ一二〇八』。その暗号が雲の上の空母から発せられ、『トラトラトラ』の電文が南の海を駆け抜けた瞬間、日本の、そして佐藤正武とレベッカの運命は根底から覆った。

「正武……始まったのね」

奥の部屋から出てきたレベッカの顔は、かつてないほど蒼白だった。彼女の母国、イギリスは敵国となった。広島の酒蔵を飛び出し、スコットランドで愛を誓い、北海道の荒野で共にリンゴを絞ってきた二人の「琥珀色の夢」の上に、真っ黒な戦争の影が落ちたのである。


戦争が始まると、平和だった余市の町も一変した。

「敵性外国人」となったレベッカへの風当たりは、日に日に厳しさを増していく。憲兵が毎日のように蒸溜所へ現れ、正武のノートを検閲し、レベッカの行動を監視した。

「佐藤さん、あの奥さんをどこかへ隠したほうがいい。町のもんが『スパイがいる』って騒ぎ立ててるんだ」

かつてリンゴを分けてくれた農家の主人さえ、目を逸らして囁く。

正武は、節くれだった拳を握りしめ、静かに答えた。

「レベッカは僕の妻です。この土地で、僕と一緒に日本の酒を造っている。彼女のどこに、スパイの影があるというんですか」

だが、現実は残酷だった。

食料の配給は滞り、レベッカが道を歩けば子供たちに石を投げられた。彼女は次第に、大好きなリンゴ畑へ出ることも、窓を開けることさえも控えるようになった。

正武にできることは、夜、仕事が終わった後に、冷え切った部屋で彼女の手を握り、密かに隠し持っていた初期のウイスキーを、一滴だけグラスに注ぐことだけだった。

「……レベッカ。済まない。こんな思いをさせるために、君を日本へ呼んだわけじゃないのに」

「いいの、正武。この香りが、私に故郷の風を届けてくれるから。……私たちは、この炎を消してはいけないわ」


一方、皮肉なことにウイスキーの需要は爆発的に高まった。

日本海軍が、将校たちの士気を高めるための「軍需品」として、正武の造るウイスキーを大量に買い上げ始めたのだ。

「佐藤、喜べ。お前の酒が海軍の指定品になったぞ。これで燃料の石炭も、原料の麦も優先的に回してもらえる」

軍関係の役人が威張って書類を叩きつける。

だが、それは正武が求めていた「成功」ではなかった。

「……僕の酒は、人を殺すための道具じゃない。人生を語り合い、平和を祝うためのものだ」

正武は、軍から回された粗悪なアルコールを混ぜて増産しろという命令を、断固として拒否した。

「薄めた偽物を出して、海軍を欺くつもりか!」

怒鳴る将校を前に、正武は冷徹に言い放った。

「本物こそが、最前線で戦う男たちの魂を癒やすんです。偽物を造るくらいなら、私はこの釜を今すぐ壊します」

それは、命がけの抵抗だった。

結果として、正武のウイスキーは「特級品」として認められ、戦時下においても余市の煙突から煙が消えることはなかった。彼は、軍の目を盗んでは、最高の原酒を「将来のため」に秘密の倉庫の奥深くへと隠し、熟成を続けさせた。


戦争末期、1945年。日本は空襲に焼かれ、余市にも飢えが忍び寄った。

正武は、リンゴジュースの圧搾機を改造して、わずかな大根やカボチャから食料を自給し、レベッカを守り抜いた。

「正武……見て。また一つ、樽が空になったわ」

レベッカが、倉庫の隅で囁いた。

熟成中のウイスキーが、樽の隙間から少しずつ蒸発していく「天使の分け前」。

「……天使が飲んでくれているうちは、まだ世界に希望がある証拠だよ、レベッカ。……もう少しだ。この戦争が終わるまで、僕たちの酒を、僕たちの愛を、一滴も枯らしてはいけない」

正武の鼻は、戦火の焦げ臭い匂いの中でも、常に「熟成の深み」を嗅ぎ分けていた。

彼は、空襲警報が鳴り響く中、ポットスチルの下に潜り込み、妻を抱きしめながら、命の音を確認するように釜の鼓動を聴いた。


そして、夏。

ラジオから流れた玉音放送。戦争は終わった。

余市の町は、静まり返っていた。

正武は、レベッカと共に蒸溜所の丘に登った。

石狩湾から吹いてくる風は、四年間の呪縛を解くように、驚くほど澄んでいた。

「……終わったのね、正武」

レベッカの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

彼女は、戦時中に一度も故郷の母や父と連絡を取ることができなかった。生きているのか、それともグラスゴーの空の下で亡くなったのかさえも分からない。

正武は、大切に隠し持っていた、最も古い、レベッカが来日した年に仕込んだ樽の栓を抜いた。

琥珀色の液体が、日の光を浴びてキラキラと輝く。

「……飲もう。これは、僕たちが守り抜いた『平和の歌』だ」

二人がグラスを合わせた瞬間。

その香りは、戦火を越え、国境を越え、かつてハイランドで誓ったあの夜の記憶へと繋がった。

正武の造ったウイスキーは、戦争という過酷な樽の中で、さらに深く、強く、そして慈悲深い味へと育っていた。

「……正武。私、生きていてよかった」

「ああ。これからだ、レベッカ。僕たちの本当のウイスキーが、日本中に届くのは」


昭和20年の秋。

戦後の混乱の中、余市の駅には進駐軍の兵士たちが溢れた。

正武のウイスキーは、今度は彼らによって「世界レベルの酒」として認められ、一躍、復興の象徴となっていった。

佐藤正武。広島の蔵人。

レベッカ・マクベス。スコットランドの令嬢。

二人が土にまみれ、リンゴを絞り、戦火に耐えて造り上げた一滴。

それは、のちに彼らの息子へと受け継がれ、さらにその息子、拓海が「命の重さ」を学ぶための、佐藤家の血脈となっていった。

大雪山が燃える日も。

真夏の放牧地で牛を追う日も。

拓海の胸の中には、いつも祖父が語ったあの言葉が流れている。

「……拓海。良い酒を造るには、まず、良い人生を生きろ」

余市の丘の上、赤いレンガの煙突は、今も琥珀色の夢を乗せて、北国の空へ煙を吐き続けている。


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