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『氷点下のモラトリアム ―平成3年、旭北農高・土いじり日記―』  作者: 水前寺鯉太郎
番外編:麦の歌 ── 琥珀色の夢、その源流へ

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20/23

禁じられた恋、と熟成の誓い

ウイスキーと日本酒、その決定的な「理」の違い

佐藤正武が広島の西条で学んだ日本酒と、スコットランドのハイランドで挑んでいるウイスキー。これらは共に穀物を原料とする酒であるが、その製法における思想は対極にある。

日本酒は「醸造酒」であり、並行複発酵という世界でも類を見ない複雑なプロセスを経て生まれる。麹が米の澱粉を糖に変え、同時に酵母がその糖をアルコールに変える。杜氏はその繊細なバランスを、まるで薄氷を踏むような指先で制御するのだ。完成した瞬間が最も美しく、鮮度が命とされる「生きた酒」である。

対してウイスキーは、麦汁を一度発酵させた後、さらに熱を加えて蒸留する「蒸留酒」である。蒸留された直後の液体は無色透明で、喉を焼くような荒々しさしかない。そこに命を吹き込むのは「時間」と「木樽」である。数年から数十年という歳月をかけ、冷涼な大気の中で樽と液体が呼吸を繰り返すことで、初めてあの琥珀色と複雑な香りが生まれる。

日本酒が「調和と引き算の芸術」であるならば、ウイスキーは「凝縮と歳月の錬金術」である。広島の蔵人として育った正武にとって、この「蒸留」という暴力的なまでの抽出と、「熟成」という気の遠くなるような待機時間は、己の人生観を根底から揺さぶる未知の哲学であった。


ハイランドの冬は、深い静寂の中にあった。

『グレン・マクノート蒸溜所』のテイスティングルームに、正武の鋭い感覚が研ぎ澄まされる。杜氏マクラーレンから原酒の格付けを任された正武は、今や職人たちの間で「イエロー・アルケミスト(黄色い錬金術師)」と呼ばれていた。

「サトウ、この三番倉庫のシェリー樽はどうだ」

マクラーレンが尋ねる。正武はグラスを回し、琥珀色の液体から立ち上る香りを吸い込んだ。

「……まだ、尖っています。スペインの太陽が強すぎた。この倉庫の湿気では、木のエキスが勝っている。あと二冬、北壁に近い涼しい場所で寝かせるべきです。そうすれば、ドライフルーツのような甘みが開く」

正武の指摘は、長年の勘に頼っていたマクラーレンをも唸らせる正確さであった。正武は、日本酒造りで培った「水の気配」を読む力と、グラスゴー大学で学んだ化学的知見を融合させていたのだ。彼は、揮発していくアルコールの背後に隠れた、目に見えない成分の舞い踊りを、脳内で可視化することができた。

だが、充実した修行の日々の裏側で、不穏な影が正武に忍び寄っていた。


ある日、蒸溜所に一人の男が現れた。エドワード・キャンベル。マクベス卿の遠縁にあたり、レベッカの婚約者候補として取り沙汰されている男であった。

エドワードは、泥と煤にまみれた正武を冷ややかな目で見下ろした。

「貴様が、レベッカをたぶらかしている東洋人か。マクベス卿は寛大だが、私は違う。高貴なスコットランドの血筋に、広島の酒臭い土野郎が近づくなど、あってはならないことだ」

正武は黙って頭を下げたが、エドワードの侮辱は止まらなかった。

「マクベス卿には、お前が蒸溜所の秘密を盗み、日本へ売り払おうとしている産業スパイだという報告を入れておいた。明日には、追放令が出るだろう。身の程を知れ、侍」

エドワードが去った後、正武は拳を血が滲むほど握りしめた。

武道の達人である正武にとって、エドワードのような男を投げ飛ばすのは造作もない。だが、ここで暴力を振るえば、それはレベッカの泥を塗り、日本人の誇りを捨てることになる。

その夜、正武は独り、熟成庫ウェアハウスの片隅に座り込んだ。

ひんやりとした土の匂いと、樽から漏れ出す「天使の分けシェア」の香りが混ざり合う。

(僕は、何のためにここへ来たのか。父に背き、故郷を捨ててまで追い求めたものは、何だったのか)


絶望に沈む正武の前に、幻のような人影が現れた。

マントを深く被り、雪の中を駆けつけてきたのは、レベッカであった。

「……ミスター・サトウ、正武!」

「レベッカ様!? なぜこのような場所に……」

彼女の顔は蒼白で、手は凍えていた。

「エドワードが父に何を言ったか聞きました。父は激怒しています。でも、私は知っています。あなたがどれほどの情熱を持って、この地の酒を愛しているか。……逃げてください、正武。エドワードは、あなたを警察に突き出すつもりです」

レベッカは、懐から小さな包みを取り出した。それは、彼女の母の形見である銀のペンダントだった。

「これを。……あなたがいつか、日本で最高のウイスキーを造り上げるまでの、お守りです」

正武は、その手を取った。

煤けて固くなった正武の手と、白く繊細なレベッカの手。

二人の間に流れるのは、言葉を超えた、魂の共鳴であった。

「レベッカ。僕は……僕は逃げません」

正武は、静かに、しかし断固とした声で言った。

「明日、マクベス卿がここへ来るのでしょう。ならば、僕は自分の『答え』を差し出します。産業スパイなどではない、一人の職人としての答えを」


翌朝、マクベス卿が警官を伴って蒸溜所に現れた。マクラーレンや職人たちが見守る中、エドワードが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「佐藤正武! 君にはスパイ容疑がかかっている。何か弁明はあるか」

マクベス卿の声は、かつての温厚さを失い、冷酷な審判者のそれであった。

正武は、一礼して言った。

「マクベス卿。弁明の前に、このグラスを一杯だけ、受けていただけませんか。僕がこの半年間、この蒸溜所の全一三〇〇樽の中から、最も美しいと信じて選び出した『ブレンド』です」

正武が差し出したのは、数種類の異なる年数、異なる樽の原酒を、彼独自の比率でヴァッティング(混合)した液体であった。

それは、当時のスコットランドでも珍しい、極めて精密な感覚によるブレンディングだった。

マクベス卿は、不審げにそのグラスを手に取った。

グラスを回した瞬間、部屋中に香りが爆発した。

それは、ハイランドの厳しい冬を越えたヘザーの蜜の香りであり、クライド川の霧の湿度であり、そして……。

「……なんだ、この香りは」

マクベス卿の目が、驚愕に大きく開かれた。

「この華やかさ。まるで、亡くなった妻が好んでいた初夏の庭のようだ。……サトウ、君はどうしてこの配合を知ったのだ」

正武は、レベッカの瞳を見つめながら答えた。

「僕は、この地の水を飲み、この地のピートを焚き、この地の人々の誇りを肌で感じました。この酒は、僕がスコットランドから受け取った愛、そのものです。盗む必要などありません。僕の鼻に、心に、すべて刻まれていますから」

マクラーレンが横から口を出した。

「卿。この若者は本物です。ワシの三〇年の経験でも、これほど完璧なバランスは見たことがない。……彼を追放するなら、ワシもこの蒸溜所を辞めます」

沈黙が流れた。エドワードが焦って叫ぶ。

「騙されるな! 彼は人心を惑わす術を使っているのだ!」

だが、マクベス卿はエドワードを一喝した。

「黙れ、エドワード! 酒は嘘をつかん。この香りを造れる男に、卑しい企みなどあるはずがない」

卿は正武に向き直り、その肩に力強く手を置いた。

「サトウ。……失礼した。君は、日本へ帰るべきだ。だが、それは追放ではない。我が国が認めた、最高のマスター・ブレンダーとしてだ」


数日後、正武は日本への帰国を決意した。

スコットランドで学べることは、すべて吸収した。あとは、この「記憶」を、日本の風土という名の樽の中で熟成させるだけだ。

グラスゴーの港。霧の中に立つレベッカ。

「……本当に行ってしまうのですね」

「レベッカ。僕は日本に、あなたを迎え入れるための蒸溜所を造ります。スコットランドと同じ、いや、それ以上に美しい水と風が吹く場所に」

正武は、レベッカの銀のペンダントを握りしめた。

「その場所で、僕の人生のすべてをかけたウイスキーを造ります。名前は、もう決めてあるんだ」

「なんて名前?」

「……『麦のソング・オブ・バーレイ』。僕たちの物語を、琥珀色に封じ込めた酒だ」

レベッカは、涙を浮かべながら、それでも最高の笑顔を見せた。

「信じて待っています、正武。あなたの鼻が、私を呼び寄せるその日まで」

汽笛が響く。

佐藤正武は、広島の蔵人から、世界のウイスキーの父へと変貌を遂げて、再び海を渡った。

懐には一冊の黒いノート。そこには、蒸留の技術だけでなく、一人の女性への消えることのない愛が、びっしりと書き込まれていた。


日本へ戻った正武を待っていたのは、想像を絶する困難であった。

不況に喘ぐ日本で、ウイスキー造りの資金を出す者などいない。

「日本酒を造れ」という父・正蔵の勧誘を断り、正武は北へ、さらなる北へと向かった。

彼が辿り着いたのは、北海道、余市。

冷たい海風、清らかな川、そして……。

「……ここだ。ここには、スコットランドの風が吹いている」

正武は、余市の荒野に立ち、懐のペンダントを取り出した。

「レベッカ。ここから、僕たちの本当の物語が始まるよ」

1930年。昭和5年。

佐藤正武、22歳。

琥珀色の夢は、日本の凍てつく大地に、最初の一粒の種を蒔こうとしていた。


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