第2話:ブーちゃんと僕の放課後
第2話:ブーちゃんと僕の放課後
四月も末になると、旭川の風はようやくトゲを失い、雪解け水で増水した忠別川のせせらぎが教室まで聞こえてくるようになった。
「いいか、一年生。今日から一人一頭、子豚を割り当てる。卒業まで……とは言わん。出荷までの三ヶ月間、責任を持って管理しろ」
実習教官のクロテツが、教壇を竹刀で叩きながら宣言した。拓海は、隣の席で「よっしゃ、肉だ!」と不穏なガッツポーズを作る源を横目に、内心では溜息をついていた。
「出荷」という言葉の響きが、まだ都会の未練を引きずる拓海の胸に、冷たい楔を打ち込む。
実習用豚舎。そこは、堆肥の匂いとはまた違う、濃厚な獣の体温と排泄物が混ざり合った「生命の飽和状態」だった。
「佐藤、お前はこれだ。番号は『〇五二』」
クロテツが指差した先には、他の子豚よりも一回り小さく、耳の端が少しだけ欠けた、ひときわ薄汚れたピンク色の塊がいた。拓海が柵に近づくと、その子豚は「フゴッ!」と短く鳴き、短い四肢をバタつかせて奥へと逃げてしまった。
「……懐く気がしないな」
「バカ言え、佐藤。豚は頭がいいんだぞ。愛情をかければ、ポケベルより正確に反応するようになる」
源は、すでに自分の担当豚(命名:ロース)の腹を撫で回し、悦に浸っている。
飼育管理の基本は、清掃と給餌だ。
放課後、他の生徒たちが部活やマクドナルドへと向かう中、農業高校生には「当番」という名の聖域がある。
拓海は、慣れない手つきでスコップを持ち、〇五二の部屋の糞を掻き出した。
「おい、どけ。掃除させてくれよ」
言葉が通じないのは分かっているが、話しかけずにはいられない。〇五二は、拓海のゴム長靴を「これ、食えるのか?」とでも言いたげに甘噛みし、せっかく集めた糞の山を鼻先で豪快にぶちまける。
「こら!……もう、最悪だ」
平成三年の流行歌を口ずさむ余裕さえない。拓海は、汚れた作業着の袖で額の汗を拭った。
ふと隣の柵を見ると、ちひろが静かに座り込んでいた。彼女の担当豚は、まるで催眠術にでもかかったように、彼女の膝に頭を乗せて寝息を立てている。
「……どうやったら、そんなに大人しくなるんだ?」
拓海が尋ねると、ちひろは視線を上げずに答えた。
「あんた、焦りすぎ。豚は、あんたの『早く終わらせて帰りたい』っていうイライラを見透かしてるんだよ」
「……そんなこと言ったって、掃除しなきゃ終わらないだろ」
「掃除じゃなくて、対話。名前、つけてあげたら?」
名前。どうせ出荷される運命の個体に名前をつけるなんて、残酷ではないか。拓海はそう思ったが、ちひろの真っ直ぐな瞳に押され、思わず口をついて出た名前があった。
「……サチコ。なんか、幸が薄そうだから」
「……センス悪いね。でも、いいんじゃない」
ちひろは少しだけ笑い、ポケットからクシャクシャになったビスケットの欠片を取り出して、拓海に手渡した。
「これ、内緒だよ。一粒だけあげてみて」
拓海は、掌にビスケットの欠片を乗せ、サチコの鼻先に差し出した。
サチコは、警戒するように鼻をピクピクと動かした後、意を決したように「パクッ」とそれを食べた。ザリザリという咀嚼音とともに、サチコの小さな尻尾が、メトロノームのように左右に振れる。
「……食べた」
その瞬間、拓海の指先に、サチコの温かくて湿った鼻先が触れた。
それは、ただの家畜という記号が、一匹の「生き物」として拓海の心に侵入してきた瞬間だった。
その日を境に、拓海の放課後は一変した。
朝、教室に入る前に豚舎へ寄り、サチコの体調をチェックする。放課後、ブラシを持って彼女の背中を擦ってやる。最初は逃げ回っていたサチコも、一週間が経つ頃には、拓海の足音を聞いただけで「フゴフゴ」と催促の声を上げるようになった。
「佐藤、お前……最近、いい顔してるな。泥臭いけど」
源が、自販機の「リボンナポリン」を投げ渡しながら言った。
「そうか? 普通だよ」
「いやいや、最初に入学した時の『僕は不幸な王子様です』って顔が消えたよ。サチコのおかげか?」
拓海は、甘酸っぱい炭酸を喉に流し込み、夕焼けに染まる豚舎を見つめた。
進学校に落ちた屈辱。親の期待を裏切った罪悪感。そんなものは、サチコをブラッシングしている間だけは、どこか遠くの出来事のように感じられた。
しかし、旭川の春は甘くない。
五月の連休を控えたある夜、季節外れの寒波が街を襲った。最低気温は氷点下まで下がり、冷たい雨が雪へと変わった。
翌朝。拓海が豚舎へ駆け込むと、サチコが隅っこで丸まり、小刻みに震えていた。
「サチコ!?」
いつもなら真っ先に駆け寄ってくるはずの彼女が、力なく目を閉じている。耳を触ると、驚くほど冷たかった。
「クロテツ先生! サチコが!」
拓海は、職員室へ猛ダッシュした。
やってきたクロテツは、サチコの体を素早く検分すると、苦り切った顔で言った。
「低体温症だな。昨夜の冷え込みで体力を削られたか。佐藤、すぐにお湯を沸かしてこい。それと、古い毛布をかき集めろ!」
そこからの数時間は、必死だった。
拓海は、自分の指定ジャージを脱いでサチコに被せ、温めたタオルで彼女の体を摩り続けた。
「頑張れ、サチコ。まだコロッケも食わせてないんだぞ」
支離滅裂な言葉をかけながら、拓海は必死に手を動かした。進学塾の模試で、制限時間ギリギリまで解答欄を埋めていた時よりも、ずっと必死だった。
源やちひろも駆けつけ、交代でサチコを温めた。
「佐藤、これ飲めよ。お前まで倒れるぞ」
源が差し出した缶コーヒーは、もう冷めていたが、拓海はそれを一口も飲まずにサチコの手足を擦り続けた。
午後になり、窓から差し込む陽光が強くなった頃。
サチコが、弱々しく「フ……フゴッ」と鳴いた。
そして、ゆっくりと目を開け、目の前にいる泥だらけで半袖姿の拓海の顔を、じっと見つめた。
「……ああ、良かった」
拓海は、その場に崩れ落ちた。
全身から力が抜け、鼻の奥がツンとした。たかが豚一頭。出荷されるまでの消耗品。そんな理屈は、どこかへ吹き飛んでいた。
数日後。サチコは驚異的な回復力で、元通りの「食いしん坊」に戻っていた。
拓海が柵の前に立つと、彼女は以前にも増して激しく尻尾を振り、彼の長靴をこれでもかと甘噛みする。
「よかったね、サチコ」
隣で、ちひろが微笑んでいた。
「……命を育てるのって、こんなに疲れるんだな」
拓海がぼやくと、ちひろは少し真剣な顔をして言った。
「そうだよ。だから、農家はみんな、ちょっとだけ頑固で、ちょっとだけ優しいの」
拓海は、自分の手のひらを見た。
皮が剥け、爪の間には消えない土の色。でも、そこにはサチコを温め続けた熱が、まだ残っているような気がした。
ふと、校内放送が鳴り響いた。
『一年生、実習終了。これより教室にてLHRを行う』
「行こうぜ、佐藤! 今日のホームルーム、文化祭の出し物決めるんだってよ!」
源が廊下から叫んでいる。
「……ああ、今行く!」
拓海は、最後にもう一度だけサチコの頭を撫でた。
「じゃあな、サチコ。また明日」
廊下を走る拓海の足取りは、一ヶ月前とは明らかに違っていた。
泥の匂いは、もう挫折の味ではない。それは、確かにここで生きているという、確かな手応えの匂いへと変わりつつあった。
平成三年の、短くて力強い春が、ようやく旭川に居座ろうとしていた。




