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『氷点下のモラトリアム ―平成3年、旭北農高・土いじり日記―』  作者: 水前寺鯉太郎
番外編:麦の歌 ── 琥珀色の夢、その源流へ

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グラスゴーの雨、霧の中の乙女

1920年代後半。

スコットランドの工業都市グラスゴーは、煤煙ばいえんと霧に包まれていた。

広島の西条で嗅いだ温かな蒸し米の匂いは、ここにはない。あるのは、冷たい雨に濡れた石畳の匂いと、行き交う馬車の馬糞、そして近くを流れるクライド川の濁った水の臭気だった。

佐藤正武は、逃げるように日本を飛び出した。

実家の蔵を捨て、「異国の酒」に魂を売った裏切り者。父・正蔵から投げつけられた「二度と敷居を跨ぐな」という言葉が、異国の冷たい風に吹かれるたびに胸に突き刺さる。

「……寒いな。日本より、ずっと」

正武は、グラスゴー大学の化学科に通いながら、独り下宿先で蒸留の理論書を貪り読んでいた。しかし、理論だけではウイスキーは造れない。彼が求めているのは、あの「琥珀色の魂」を宿らせる現場の熱だった。

だが、当時のスコットランドにおいて、東洋から来た若者に蒸溜所の秘密を教えようという奇特な職人はどこにもいなかった。

「イエロー(黄色い奴)に、我々の『生命の水』の造り方が分かってたまるか」

門前払いの日々。正武の心は、グラスゴーの空と同じ灰色に染まりかけていた。

2. 「やわら」の縁

そんなある日のことだった。

正武は、大学の講義で知り合った地元の学生、アーサーに呼び止められた。

「サトウ! 君、日本の『武術ジュードー』ができるんだろう? 教授の知り合いで、ぜひ君に会いたいという紳士がいるんだ」

正武は驚いた。実家の酒蔵の跡取りとして厳しく育てられた彼は、護身と精神鍛錬のために、幼い頃から古流柔術を仕込まれていた。広島の荒くれ者の蔵人たちを相手に投げ飛ばしていたその技が、まさかスコットランドで役立つとは思ってもみなかった。

数日後。正武はアーサーに連れられ、グラスゴー郊外にある古風だが立派な石造りの屋敷を訪れた。

そこは、ある退役軍人の貴族、マクベス卿の邸宅だった。

「ミスター・サトウ。東洋の神秘的な武道に興味があってね。我が家の若い衆に、その『力を使わずして勝つ』という技を披露してくれないか」

広い庭園で、正武はマクベス卿が連れてきた体格の良い若者と対峙した。

相手は正武の倍近い体重がある大男だ。

若者が力任せに突進してきた瞬間、正武は一歩引き、相手の袖を掴んでその勢いを利用した。

「はぁっ!」

鋭い気合と共に、巨体が宙を舞い、芝生の上に叩きつけられた。

「……素晴らしい! 芸術だ!」

マクベス卿が拍手喝采を送る。

正武は呼吸を整え、丁寧に礼をした。その凛とした佇まいは、野蛮な格闘家ではなく、一人の「侍」としてマクベス卿の目に映った。

3. レベッカ、運命の微笑み

「素晴らしい技だった。……ところでサトウ、君はどうして遥々この地へ来たのだ? 武道を教えるためではあるまい」

マクベス卿の問いに、正武は熱を込めて答えた。

「僕は、ウイスキーを造りに来ました。スコットランドの魂を、僕の故郷である日本で再現したいんです。でも、どこの蒸溜所も僕を受け入れてくれません」

マクベス卿は顎を撫で、満足そうに頷いた。

「情熱があるな。……よろしい、私の親友がハイランドで小さな蒸溜所を経営している。紹介状を書いてやろう。だが、その前に……まずは我が家で冷えた体を温めていきたまえ」

屋敷の応接室に通された正武。

暖炉の火がパチパチとはぜる音を聞きながら待っていると、銀のトレイに紅茶を載せた一人の女性が入ってきた。

「……お待たせいたしました、お父様」

正武は、息を呑んだ。

彼女は、透き通るような白い肌に、夕焼けのような金髪をしていた。そして何より、その瞳だ。

スコットランドの深い森にある湖のような、澄んだ青。

彼女こそが、マクベス卿の娘、レベッカだった。

「……あ、ありがとうございます」

正武がたどたどしい英語で礼を言うと、レベッカは少しだけ頬を赤らめ、柔らかな笑みを浮かべた。

「日本の侍の方は、紅茶もお飲みになるのですね」

その言葉には、蔑みも偏見もなかった。ただ、遠い国から来た若者への純粋な好奇心と、武道で見せた彼の誠実さへの敬意が込められていた。

正武の鼻が、ふわりと香る彼女の匂いを感じ取った。

石鹸の清潔な香りと、雨上がりのヘザー(ツツジ科の植物)のような、爽やかで芯のある香り。

のちに、正武が造り上げるウイスキーの「華やかなトップノート」は、この瞬間のレベッカの香りを追い求めたものになるとは、まだ誰も知らない。


その夜。

正武はマクベス卿の紹介状を握りしめ、下宿先への帰路についた。

心は、グラスゴーの霧を晴らすような光に満ちていた。

「レベッカ……」

口の中でその名を唱えてみる。

ウイスキーという孤独な夢の中に、一輪の花が咲いた瞬間だった。

しかし、道は険しい。

異国の地での修行、言葉の壁、そして身分違いの恋。

正武は、霧の向こうにそびえるハイランドの山々を見つめ、静かに拳を握った。

「見ていろ、父さん。僕は、この地で最高の酒を造り……そして、あの人の隣にふさわしい男になってみせる」

1920年代。琥珀色の夢と、青い瞳の記憶。

佐藤正武の本格的な「蒸留」の旅が、ここから加速していく。

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