1908年、広島。酒蔵の煙突と少年の鼻
1981年(昭和56年)、余市。
潮騒が響く北海道、余市。晩秋の冷たい海風が、赤い石炭乾燥塔の屋根を撫でて通り抜ける。
落成したばかりの新蒸溜所。その壇上に、白髪の混じった一人の老人が立っていた。
佐藤正武。
のちに旭川で泥にまみれる少年、拓海の祖父である。
彼の傍らには、古びた銀のフレームに収まった、一人の異国の女性の写真があった。抜けるような青い瞳と、柔らかな金髪。彼女の名はレベッカ。
正武は、グラスに注がれた黄金色の液体を、愛おしそうに太陽にかざした。
「……レベッカ。ようやく、あの時の香りが形になったよ」
物語は、戦後、そして戦前を遡り、さらに遠い明治の終わりへと巻き戻される。
これは、一滴の琥珀色に人生を捧げた男と、彼を支えた青い瞳の乙女が織りなす、愛と執念の叙事詩。
明治41年(1908年)。
広島県、東広島市西条。この地は、古くから「酒都」と呼ばれ、いくつもの巨大なレンガ煙突が空を突いていた。
佐藤正武は、この西条で三代続く日本酒の蔵元『佐藤酒造』の嫡男として生まれた。
「正武、いいか。酒造りは神事だ。米の一粒、水の一滴に神が宿る。その声を聴くのが、俺たち蔵人の役目だ」
父・正蔵の言葉を子守唄代わりに、正武は麹の甘い香りと、蒸し米の熱気が立ち込める蔵の中で育った。
幼い正武には、特殊な才能があった。
**「鼻」**である。
彼は、蔵に入った瞬間に、その日の発酵の進み具合を匂いだけで言い当てた。
「父さん、三番樽の機嫌が悪いよ。少し酸っぱい匂いがする」
その指摘は、熟練の杜氏をも驚かせるほど正確だった。
「この子は、西条一の杜氏になるぞ」
周囲の期待を一身に背負い、正武の人生は「日本酒」という真っ白なキャンバスに描かれるはずだった。
転機は、正武が18歳になった大正末期のことだった。
神戸の港を訪れた際、父の知人である貿易商から、一瓶の「薬」として手渡された不思議な液体。
「正武君、これはイギリスの……スコットランドという国で作られた『命の水』だ」
正武は、その琥珀色の液体を一口含んだ。
その瞬間、彼の脳内に衝撃が走った。
日本酒の柔らかな甘みとは全く違う、焦げたような煙の匂い(ピーティー)、潮風の香り、そして喉を焼くような力強いアルコール。それは、西条の酒蔵しか知らない少年には、あまりにも野性的で、あまりにも「自由」な味だった。
「……なんだ、これは」
正武の鼻が、これまで感じたことのない複雑な香りの層を解体し始めた。
熟成された木樽の匂い、果実が枯れたような深み。
「父さん。僕は……僕は、これを作りたい」
「馬鹿者が! 日本酒の伝統を捨てて、異国の『麦の酒』だと!?」
正蔵の怒号が蔵に響いた。当時の日本において、本格的なウイスキーを造るなど、夢物語か狂気の沙汰とされていた。
しかし、一度「香り」に魅入られた正武の魂は、もう西条の穏やかな気候には収まらなかった。
「日本には、この酒が必要なんです。魂を揺さぶるような、強い酒が!」
正武は、わずかな着替えと一冊のノート、そして鼻の鋭さだけを武器に、実家を飛び出した。
父からの勘当。母の涙。
背後に聞こえる蔵の作業音を振り切り、彼は下関から鉄道に乗り、一路、北へと向かった。
目的地は、日本で初めて本格的なウイスキー造りが始まろうとしていた場所。
あるいは、本場スコットランドへ渡るための「港」だった。
「見ていろ、父さん。僕は、日本を琥珀色に染めてみせる」
1920年代。モダン・ボーイたちが銀座を歩き、時代の足音が変わり始めた頃。
佐藤正武という一人の若者の、孤独で熱い旅が始まった。
のちに、彼をスコットランドの荒野で待つ運命の女性、レベッカとの出会いなど、まだ知る由もなかった。




