表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『氷点下のモラトリアム ―平成3年、旭北農高・土いじり日記―』  作者: 水前寺鯉太郎
3年生、社会人編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/23

第16話:泥と星のダイアリー

第16話:泥と星のダイアリー

1. 平成八年、新しい朝

平成八年(1996年)。

日本は少しずつ、前年の傷跡を抱えながらも、新しい娯楽や技術に目を向け始めていた。たまごっちが流行し、インターネットの接続音がピーヒョロロと家庭の電話線を占領し始めた頃。

旭川の丘の上に立つ『サチコの庭』は、朝露に濡れて輝いていた。

二十二歳になった拓海は、一頭の成体となった豚──あの『ドーン』の背中にブラシをかけていた。黄金の被毛は、大人の毛に生え変わってもなお、朝日に当たると不思議な光沢を放っている。

「ドーン、お前もすっかり貫禄が出たな。……来月、お前の子供たちが産まれる。いい父親になれよ」

ドーンは「フゴッ」と短く返事をする。その蹄は相変わらず硬く、大地の感触をしっかりと掴んでいた。

「佐藤! ぼーっとすんな! 札幌のデパートから『黄金のポークギフト』の注文が倍増してるぞ!」

事務所から源の怒鳴り声が響く。源は今や、近隣農家を束ねる若手ネットワークのリーダー的存在だ。

「分かってるよ。でも、無理な増産はしない。一条のデータでも、これ以上の飼育密度はストレスになるって出てるだろ?」

「フン、相変わらず堅苦しいね。だが、その慎重さがうちのブランドを守ってるのも事実だ」

白衣を着た一条が、最新のノートパソコン(少し薄くなった)を小脇に抱えて現れた。彼は大学での研究を続けながら、週の半分をこの農場での実証実験に費やしている。

2. 厨房の「音楽」

厨房からは、リズムの良い包丁の音が聞こえてくる。

松本が、地元の中学生を相手に「料理教室」を開いていた。

「いいか、玉ねぎの皮を剥く時は、その土の匂いを嗅げ。それが、この野菜が生きてきた証拠だ」

かつてのプライドの塊だったエリートは、今や子供たちに慕われる、旭川で最も熱いシェフになっていた。

「松本さん、この人参、甘いね!」

「それは、冬の間、雪の下でじっと耐えていたからだよ。人間と同じだ。苦労した分だけ、甘くなる」

松本が拓海と目が合い、小さく片目をつぶった。二人の間には、もはや言葉による確認は必要なかった。

そこへ、ちひろが大きな往診カバンを持って現れた。

「みんな、お疲れ様! 今日の集団検診、全員異常なしよ。ドーンの奥さんも、順調。……それと、これ」

彼女が差し出したのは、一枚の古びたハガキだった。

3. 鋼の教官からの「贈り物」

それは、亡き恩師・クロテツが、倒れる直前に書いていたものだった。机の引き出しの奥から、遺品整理で見つかったのだという。

宛先は『佐藤拓海』。

そこには、殴り書きのような力強い文字で、こう記されていた。

『佐藤。

お前の手のひらは、もう泥を拒んでいないか。

農業は、完成のない芸術だ。

失敗しろ。恥をかけ。そして、土を愛せ。

お前たちが作ったメシを、いつか天国で注文してやる。

勘定は、お前たちの「一生の仕事」で払え。

黒岩 鉄平』

拓海は、そのハガキを胸に抱きしめた。

鼻の奥がツンとする。けれど、もう涙は出なかった。

代わりに、心地よい責任感と、明日への活力が全身を駆け巡った。

4. 泥の匂いは、未来の味がする

夕暮れ時。

五人は、レストランのテラスに集まった。

遠くには、万年雪を抱いた大雪山が、紫色のベールを纏ってそびえている。

「なあ」

拓海が切り出した。

「僕たち、これからどこまで行けるかな」

「どこまでも行けるべさ」

源が、ビール(もちろん地元産)のグラスを掲げた。

「俺たちの畑は、この旭川だけじゃない。日本中、世界中に、この『泥の精神』を広めてやるんだ」

「僕は、宇宙で野菜を作るシステムを考えてるよ」

一条が真面目な顔で言うと、全員が笑った。

「一条なら本当にやりそうだな」

ちひろは、ドーンの子供たちが元気に跳ね回る豚舎を見つめていた。

「私は、この場所が、疲れた人が帰ってこれる場所であり続けてほしいな」

松本が、最後の一皿――黄金の豚の生ハムをテーブルに置いた。

「……僕は、一生、君たちの素材を最高の形にするよ。それが僕の『一揆』だ」

5. 永遠の収穫祭

平成三年、不合格通知を破り捨てたい衝動に駆られていた少年。

彼は今、最高に不自由で、最高に泥臭くて、そして最高に自由な仲間たちに囲まれている。

拓海は、自分の手のひらを見た。

皮が剥け、爪の間には土が入り、節は太い。

かつて恥ずかしいと思っていたこの手は、今、何よりも誇らしい「勲章」だ。

「……よし、食おうぜ。僕たちの、新しい時代の始まりに」

五人のグラスが重なり、カチンと良い音を立てた。

旭川の夜空には、都会のネオンに邪魔されない、圧倒的な数の星が輝いている。

その下で、黄金の蹄を持つ豚が、静かに土を掘り返していた。

土の匂いは、もう挫折の味ではない。

それは、昨日を乗り越え、明日を創り出す、希望という名の「実り」の匂いだった。

平成という激動の季節は、まだ続いていく。

けれど、拓海たちの足元には、決して揺らぐことのない、深く、温かい大地が広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ