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『氷点下のモラトリアム ―平成3年、旭北農高・土いじり日記―』  作者: 水前寺鯉太郎
3年生、社会人編

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第15話:黄金の蹄、と平成の夜明け

第15話:黄金の蹄、と平成の夜明け

1. 揺らぐ日本、静寂の旭川

平成七年(1995年)。

日本の時計の針が、狂ったように速く、そして残酷に回り始めた年だった。

一月に起きた阪神・淡路大震災。テレビに映し出される、焼け野原となった神戸の街並みと倒壊した高速道路の映像に、旭川の茶の間も凍りついた。追い打ちをかけるように三月、地下鉄サリン事件が首都を震撼させる。

「……世界が終わるんじゃないか、松本」

『サチコの庭』の厨房で、拓海がぽつりと呟いた。

テレビのニュースを見つめる松本の横顔は、かつて東京で「レール」から外れた時のような険しさを取り戻していた。

「……ああ。でも、僕たちにできるのは、ここで野菜を切り、火を熾すことだけだ。佐藤、客が来ている。手を動かそう」

都会が、そして日本全体が実体のない恐怖と「安全神話」の崩壊に怯える中、旭川の山麓にあるこのレストランだけは、変わらぬ土の匂いと、家畜たちの生々しい息遣いに満ちていた。

皮肉なことに、都会の喧騒と恐怖に疲れた人々が、「命の手触り」を求めて、ますますこの店へと足を運ぶようになっていた。

2. 「黄金の蹄」の誕生

そんな不穏な春の夜、ちひろから一本の電話が入った。

「拓海くん、すぐ来て。……信じられないことが起きてる」

拓海が駆けつけたのは、レストランの裏手にある最新の「サチコ専用豚舎」だった。そこには、一条が開発した環境制御システムと、拓海が毎日手入れをする清潔な寝床がある。

三日前に産まれたばかりの、サチコの孫にあたる仔豚たち。その中に、一頭だけ、異彩を放つ個体がいた。

「……なんだ、こいつ」

源が、懐中電灯でその仔豚を照らした。

通常、ピンク色か、あるいは黒い斑点があるはずの豚だが、その仔豚の被毛は、月光を反射して淡い金色に輝いていた。それだけではない。そのひづめは、まるで磨き上げられた真鍮のように、鈍い黄金の光を放っている。

「……突然変異ミューテーションか?」

一条が、ピンセットとルーペを持って仔豚に近づく。

「染色体の異常かもしれない。だが、生命力は他の個体より遥かに強い。見てくれ、この立ち姿を」

黄金の仔豚は、産まれて三日目とは思えない力強さで立ち上がり、拓海の長靴をガシッと噛んだ。

「……フゴッ!」

その鳴き声は、かつて拓海の心を救ったあの初代サチコと、驚くほど似ていた。

「……『キンコ』だな。名前は」

源が安直に名付けようとするのを、拓海は手で制した。

「いや……こいつの名前は、**『夜明け(ドーン)』**だ。この暗い平成の夜を、こいつが切り裂いてくれる気がするんだ」

3. 神格化される「奇跡」

『ドーン』の噂は、瞬く間に広がった。

「旭川に、幸運を呼ぶ金の豚が産まれたらしい」

「あの震災や事件の後に、神様が遣わした使いだ」

オカルトやスピリチュアルが流行し始めていた時代背景もあり、レストランには料理だけでなく、『ドーン』を一目見ようとする人々が押し寄せた。

大手メディアも放っておかなかった。

「佐藤さん、この豚を東京のイベントに出しませんか? 日本中に元気を届けるシンボルになります!」

ワイドショーのディレクターが、札束をチラつかせながら拓海に迫る。

しかし、拓海はそれをすべて突っぱねた。

「こいつは、見世物じゃない。ここで土を掘り、堆肥を浴びて育つ、ただの『豚』です。……黄金の蹄だって、泥にまみれればただの黒い塊ですよ。それが、こいつの幸せなんです」

拓海は、都会の消費の渦に『ドーン』を投げ込むことを拒んだ。

彼は、一条と共に『ドーン』の健康管理を徹底し、松本と共に、こいつがいつか「命のバトン」を繋ぐその日まで、最高の環境で育てることを誓った。

4. 壊れゆく時代、繋がる命

平成七年の夏。

日本中が「心の闇」や「見えない敵」と戦っている中、拓海たちは、ひたすら『ドーン』と共に土を耕し続けた。

ある日、松本が厨房で包丁を置き、拓海に言った。

「……佐藤。僕、最近思うんだ。東京で僕が追い求めていた『完璧』っていうのは、結局、死んでいるものだったんじゃないかって」

「死んでいるもの?」

「そう。形が整っていて、汚れがなくて、予測可能なもの。……でも、この黄金の豚を見てると、命っていうのはもっと、不格好で、予測不能で、泥臭いものなんだって気づかされる」

松本は、窓の外で元気に泥遊びをする『ドーン』を見つめた。

「あいつの蹄が黄金に見えるのは、あいつが『生きている』からだ。……僕も、ようやく自分の足で立ってる気がするよ」

その時、一条が慌てた様子で豚舎から走ってきた。

「拓海! ドーンが……ドーンが逃げ出した!」

5. 黄金の蹄が拓く道

四人は、夕暮れの牧草地を必死に走った。

『ドーン』は、驚くべき速さで丘を駆け上がり、かつて拓海たちがクロテツと実習をしたあの「思い出の斜面」へと向かっていた。

丘の頂上で、黄金の仔豚は立ち止まった。

西日に照らされたその被毛は、文字通り炎のように燃え上がり、旭川の街を見下ろしていた。

「……あいつ、何を見てるんだ?」

源が、息を切らしながら隣に立った。

拓海は、その視線の先にあるものに気づいた。

そこには、前年の凶作を乗り越え、力強く青々と育った、二年生たちの実習田が広がっていた。

「……夜明けだ」

拓海が呟いた。

震災があっても、事件があっても、バブルが弾けて日本中が迷走していても。

この大地には、変わらぬ季節が巡り、変わらぬ命が芽吹いている。

『ドーン』の黄金の蹄は、絶望のコンクリートを砕き、再び人々に「土の感触」を思い出させるために現れたのかもしれない。

「……佐藤」

一条が、手元の端末を閉じて言った。

「ドーンの遺伝子を解析した結果、分かったことがある。こいつは、突然変異じゃない。……歴代のサチコたちが、この土地で食べ、飲み、蓄えてきた栄養と記憶が、数世代を経て奇跡的に結実した、いわば『土地の記憶』そのものなんだ」

6. 平成の夜明け、そして未来へ

拓海は、黄金の仔豚を抱き上げた。

ずっしりとした重み。温かい体温。

「……お前、すごいな」

その瞬間、遠く大雪山の連峰から、一筋の光が差し込んだ。

平成七年。日本が最も暗く、激動した年。

けれど、旭川のこの丘の上には、確かな「夜明け」の光が満ちていた。

「よし、帰ろう」

拓海は仲間に向かって言った。

「明日も、レストランは満席だ。源、最高の野菜を持ってきてくれ。松本、最高のスープを作ってくれ。一条、システムの微調整を頼む。……そしてちひろ、こいつの健康、頼んだぞ」

「……当たり前だべさ!」

「了解。最高のデータを取らせてもらうよ」

「メニューはもう決まってるわ」

「……ふふ、任せて」

五人の笑い声が、黄金色に染まる丘に響いた。

それは、どんな不況も、どんな事件も、決して消し去ることのできない、生命の凱歌だった。

平成三年、受験に失敗し、雪解けの泥に足を取られていた少年。

彼は今、仲間と共に、黄金の蹄を持つ命を抱き、新しい時代の最前線に立っていた。

物語は、ここでひとつの結び目を迎える。

けれど、拓海たちの「ゆるゆる農業生活」は、これからもこの広大な大地の上で、不器用で、熱く、どこまでも続いていく。

土の匂いは、もう挫折の味ではない。

それは、明日を切り拓く、最高の希望の匂いだった。


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