表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『氷点下のモラトリアム ―平成3年、旭北農高・土いじり日記―』  作者: 水前寺鯉太郎
3年生、社会人編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/23

第12話:厨房の泥棒役者

第12話:厨房の泥棒役者

1. 旭川を離れ、再びコンクリートの底へ

平成六年(1994年)一月。

旭川は、すべてを拒絶するかのような猛烈な寒波に見舞われていた。独立を宣言したものの、農業法人の若手給料だけでは、理想の養豚場を作るための資金には遠く及ばない。

「佐藤、東京へ行ってこい。期間は三ヶ月、冬の間だけだ」

大雪ファームの社長が差し出したのは、都内にある超一流フレンチレストラン『レ・エトワール』への紹介状だった。

「あそこのシェフは、うちの野菜を高く評価してくれている。だが、奴らは『食材の育ち方』を知らん。お前はあそこで、俺たちの食材がどうやって『都会の贅沢品』に化けるのか、その化けの皮を剥いでこい。ついでに、軍資金もしっかり稼いでこい」

拓海は、二年前の修学旅行で感じたあの息苦しさを思い出し、一瞬たじろいだ。しかし、夢のためには背に腹は代えられない。彼は再び、重たい防寒着を脱ぎ捨て、清潔なコックコートを鞄に詰めて、羽田行きの飛行機に乗った。

2. 厨房という名の戦場

東京・西麻布。

『レ・エトワール』の厨房は、農業高校の豚舎よりも遥かに過酷な戦場だった。

「遅い! 佐藤、その玉ねぎの切り方はなんだ! 土をいじってた指で、繊細なソースを汚すな!」

総料理長のジャンが怒号を飛ばす。

拓海の仕事は「コミ(見習い)」。皿洗い、床掃除、そして山のような野菜の下処理だ。

旭川では、雪を掻き分け、土を掘り起こして手に入れたジャガイモが、ここでは定規で測ったかのように完璧なサイコロ状に切り刻まれ、端材は容赦なく捨てられていく。

「……もったいない」

思わず呟いた拓海の手を、隣の席で一心不乱にオードブルを盛り付けていた男が止めた。

「佐藤。ここでは『完璧』だけが価値なんだ。もったいないなんて感情は、ゴミ箱に捨てておけ」

その声に、拓海は凍りついた。

見覚えのある横顔。少し痩せ、目の下に深い隈を作っているが、その鋭い眼光は間違いない。

「……松本?」

中学時代のライバルであり、二年前、東京の交差点で絶望的な目をしていた、あの松本だった。

3. エリートの没落、泥臭い再会

松本は、進学校から現役で都内の超名門大学に合格したはずだった。しかし、今彼が握っているのは万年筆ではなく、盛り付け用のピンセットだ。

「……驚いたか。大学は、半年で辞めたよ」

休憩時間、非常階段の冷たいコンクリートに腰を下ろし、松本は力なく笑った。

「ずっと一番じゃなきゃいけない、っていうプレッシャーに負けたんだ。レールから外れた瞬間、自分が空っぽだって気づいてさ。逃げるようにこの厨房に飛び込んだけど……ここでも僕は、ただの『出来損ない』だ」

松本は、拓海のゴツゴツとした手を見つめた。

「佐藤、お前はいいよな。二年前、あんなに堂々と『泥の道』を選んで。……今の僕は、お前にとって笑いものだろう?」

拓海は、自販機で買った温かい缶コーヒーを松本に押し付けた。

「笑うわけないだろ。……僕も、最初はそうだった。受験に失敗して、農高に行った時は、人生終わったと思ってた」

「……でも、お前はそこで『何か』を掴んだ」

「掴んだんじゃない。泥の中に突っ込んで、もがいてたら、指に何かが引っかかっただけだよ。……なあ、松本。お前のその繊細な指、僕の計画に貸してくれないか?」

4. 厨房の泥棒役者

拓海は、厨房で「泥棒」になった。

もちろん、物を盗むのではない。一流シェフたちが食材をどう扱い、客が何を求めているのか、その「技」と「感覚」を盗み始めたのだ。

彼は下処理の最中、捨てられるはずの野菜のヘタや皮を使い、こっそりと出汁フォンを取った。

「佐藤、何をしている?」

一条のような冷徹さで、松本が尋ねる。

「実験だよ。旭川の土で育った野菜は、皮の近くが一番美味いんだ。これを捨てちゃうのは、宝の山を捨ててるのと同じだ」

拓海は、その「宝の出汁」を隠し味に、賄い料理を作った。

その日、厨房のスタッフたちが口にしたカレーやスープは、いつものものとは明らかに違っていた。

「……なんだ、この甘みは?」「野菜の力が、そのまま溶け込んでるみたいだ」

総料理長のジャンが、拓海の前に立った。

「佐藤。お前、農高で何を教わってきた?」

「……『命のバトン』の繋ぎ方です、シェフ」

拓海は、サチコの、ハナの、そして雪の下で耐え抜いた野菜たちの物語を、一皿の料理に込める大切さを説いた。

ジャンは、拓海が作った「ゴミから取った出汁」を一口舐め、鼻を鳴らした。

「……技術は最低だ。だが、素材への敬意は、ここにいる誰よりも高い。……佐藤、松本。お前たち二人で、来週の新作メニューの試作をしろ。食材は大雪ファームから取り寄せろ」

5. 黄金の「サチコ・ポーク」

試作の日。

旭川から、源が手塩にかけて育てた「北風ジャガイモ」と、一条がデータ管理した「極甘玉ねぎ」、そして大雪ファームが誇る豚肉が届いた。

「佐藤! 届いたぞ! 俺の最高傑作だ!」

段ボールに添えられた源の殴り書きのメモを見て、拓海は震えた。

松本が、かつてないほど真剣な表情でナイフを研ぐ。

「佐藤。僕は、お前の素材を一番輝かせる『額縁』を作るよ。……それが、僕の戦い方だ」

拓海が肉を焼き、松本がソースを作り、盛り付ける。

完成したのは、コンクリートジャングルの真ん中で、旭川の凍土のエネルギーを爆発させたような一皿だった。

その名も**『サチコの贈り物 ―大雪の風に吹かれて―』**。

試食したジャンは、しばらく沈黙した後、皿を空にした。

「……合格だ。三月から、これをメインディッシュにする」

その瞬間、拓海と松本は、厨房で固く握手を交わした。

中学時代、紙の上の点数で争っていた二人が、今は泥と油にまみれ、最高の一皿を作る「戦友」になっていた。

6. 春への帰還

三ヶ月の出稼ぎが終わり、拓海が旭川へ帰る日が来た。

懐には、独立資金の足しにするための給料と、それ以上に重たい「都会で勝った」という自信が詰まっていた。

「佐藤、待てよ」

空港へ向かおうとする拓海を、松本が呼び止めた。

「……僕も、旭川へ行くよ。大学には戻らない。お前の養豚レストランで、僕に包丁を振るわせてくれ。……泥だらけのシェフっていうのも、悪くないだろ?」

拓海は、羽田空港の窓から見える青空を見上げた。

二年前、絶望と共に降り立ったこの場所で、今は最高の仲間を手に入れた。

「……ああ。待ってるよ。旭川の冬は、東京より百倍厳しいけどな」

「望むところだ」

飛行機が離陸し、下に見える東京のビル群が小さくなっていく。

拓海の物語は、今、真の完成に向けて加速し始めた。

挫折、別れ、再会。

すべては、これから芽吹く黄金の稲穂のための、豊かな土壌だったのだ。

平成六年、三月。

拓海は、真っ白な大雪山が待つ、愛する大地へと帰還する。

そこには、源、ちひろ、一条……そして、新しい仲間が待っている。

「……さあ、始めようぜ。僕たちの、本当の収穫祭を」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ