第10話:実りの時、旅立ちの空
第10話:実りの時、旅立ちの空
平成五年(1993年)。旭川の雪解けは、例年になく早かった。
三年生に進級した拓海たちの胸中には、北国の春特有の、どこか浮き足立つような開放感と、それ以上に重たい「出口」へのプレッシャーが居座っていた。
「おい、佐藤。進路希望調査、もう出したか?」
放課後の部室で、源がポータブルCDプレーヤーのヘッドホンを外しながら聞いてきた。スピーカーからは、その年の大ヒット曲であるZARDの『負けないで』が微かに漏れている。
「……まだ白紙だよ。源は?」
「俺は決まってるべ。実家を継いで、美瑛一番のジャガイモ王になる。迷う余地もねえよ」
源は豪快に笑うが、その横顔には、二年前の「ただ暴れているだけ」だった少年とは違う、一家を背負う男の覚悟が滲んでいた。
拓海は、窓の外を眺めた。
二年前、絶望と共に潜った正門。今はその景色が、かけがえのない自分の居場所に見える。
そんな拓海の元に、一本の電話が入る。銀行員の父からだった。
「拓海、今日の夜、大事な話がある。早く帰ってきなさい」
その夜の食卓は、静まり返っていた。
「……東京へ、戻ることになった」
父の言葉に、拓海の箸が止まる。
「本社への異動が決まったんだ。来月の頭には引っ越す。拓海、お前も一緒に来い。東京の予備校に通えば、今からでも……」
「父さん」
拓海は言葉を遮った。
「僕は、卒業までここに残るよ。寮に入ってでも、この学校を卒業したい。……その後も、東京へ帰るつもりはないんだ」
母が悲鳴に近い声を上げる。
「何を言ってるの! あなた、あんなに勉強が得意だったじゃない。農業なんて、ここで三年間遊んだ思い出だけで十分でしょう?」
「遊びじゃないんだ!」
拓海の声がリビングに響いた。
「僕はここで、命の重さを知った。サチコを自分の手でトラックに乗せて、それを食べて、自分の血肉にしたんだ。吹雪の中でハウスを守って、山が燃えるような夕日を見た。……東京の綺麗なビルの中に、僕の求めている答えはないんだよ」
父は、怒るでもなく、ただじっと拓海の手を見つめていた。
「……その手、随分と大きくなったな」
銀行員として数字を追い続けてきた父の細い指とは対照的な、ゴツゴツとした、節の太い拓海の手。
「……分かった。卒業までは好きにしなさい。だが、その後の道は、自分で切り拓け。仕送りは、卒業までだ」
翌日、拓海は源とちひろ、そして一条を呼び出し、父との一件を話した。
「……ってわけだ。僕、卒業したら、市内の農業法人に就職しようと思う。そこでお金を貯めて、いつか自分の理想の農場を作りたいんだ」
「佐藤らしいな」
一条が、眼鏡の奥の瞳を和らげた。
「実は僕も、東京の親に勘当を言い渡されたよ。実家のプラントを継がないなら勝手にしろってね。僕は、ここの大学の農学部へ進む。データと、君たちが教えてくれた『手のひら』の感覚を融合させる研究をするつもりだ」
「あはは! みんなバラバラだな!」
源が拓海の背中を叩く。
「でもさ、場所は違っても、俺たちの土台はここだべ。旭農の、この泥だらけの三年間だ」
ちひろは、静かに十勝岳を見つめていた。
「……私ね、サチコの後に飼った牛のハナが、もうすぐ仔を産むの。卒業式の頃かな。……みんなで、見届けようね」
卒業を目前に控えた二月の終わり。旭川を猛吹雪が襲った。
かつて一条と守り抜いた温室も、今は後輩たちが管理している。
拓海は寮の自習室で、農業法人の面接資料を作っていた。
不意に、校内放送が流れる。
「畜産科三年、ちひろさん、佐藤くん、源くん、一条くん。至急、牛舎へ来てください!」
四人が雪の中を駆けつけると、そこには産気づいた「ハナ」がいた。
しかし、状況は深刻だった。
「逆子だ。……このままだと、親も子も危ない」
クロテツが、額に汗を浮かべながら、必死に母牛を落ち着かせていた。
「佐藤、源、一条! 足を持て! ちひろ、お前はハナの頭を冷やせ!」
二年前、熱中症から救ったあのハナが、今、必死に新しい命を繋ごうとしている。
「頑張れ、ハナ! 頑張れ!」
拓海は、ぬるりとした羊水の感触を手に感じながら、必死に力を込めた。
サチコの時の「別れ」とは違う。これは「始まり」のための戦いだ。
「出ろ……出ろ……!」
四人の想いが一つになった瞬間。
ドゥルン、という重たい感触と共に、小さな、けれど確かな命が雪の夜の牛舎に滑り出した。
「……産まれた」
ちひろが涙を流しながら、仔牛の鼻先の膜を破る。
「オギャア」とは鳴かない。けれど、仔牛が「プッ」と鼻を鳴らし、力なく、けれど確実に首を持ち上げた時、牛舎にいた全員が、言葉にならない歓声を上げた。
サチコをトラックに乗せたあの日、拓海の中にあった「穴」が、今、新しい命の鼓動によって埋まっていくのを感じた。
三月一日。卒業式。
拓海は、ブカブカだったはずが今では肩幅がぴったりになった学ランを着て、壇上に立っていた。
総代として受け取る卒業証書。
「……佐藤拓海。君は、この三年間で何を学んだかね?」
証書を渡す際、校長が小さく囁いた。
「……泥の中にしか、咲かない花があることを学びました」
拓海は真っ直ぐに答えた。
式が終わり、校門を出る。
そこには、東京へ発つ準備を終えた父と母が待っていた。
「拓海」
父が歩み寄り、拓海の右手を握った。
「頑張れ。お前の選んだ道だ」
「……ありがとう、父さん」
拓海は、源、ちひろ、一条と合流した。
「じゃあな、みんな。……次は、それぞれの『戦場』で会おうぜ!」
源が軽トラに飛び乗り、美瑛へと向かう。
一条は、参考書を詰め込んだリュックを背負い、駅へと歩き出す。
ちひろは、生まれたばかりの仔牛の世話をするため、再び牛舎へと戻っていく。
拓海は一人、正門を振り返った。
平成三年、不合格通知を手に絶望していた少年は、もういない。
今、ここにいるのは、土の匂いを愛し、命の重さを背負い、自分の足で未来を耕そうとする一人の青年だ。
旭川の空は、どこまでも高く、青い。
雪解け水が流れる音が、新しい時代の足音のように聞こえた。
拓海は、泥のついた作業靴を履き替えず、そのまま自分の新しい職場へと歩き出した。
彼の三年間は、ここで終わるのではない。
この凍土に蒔かれた種が、本当の実りをつけるのは、これからなのだから。




