第1話:泥の匂いは、挫折の味がする
第1話:泥の匂いは、挫折の味がする
平成三年、三月二十五日。
旭川の街は、まだ冬の残り香に支配されていた。歩道に積み上げられた雪山は、排気ガスと煤にまみれてどす黒く変色し、春の訪れを拒むように居座っている。
佐藤拓海は、自室の机に突っ伏していた。視線の先には、真っ二つに破り捨てたい衝動を辛うじて抑えた、第一志望の進学校からの「不合格通知」がある。
塾に通い、模試では常にA判定。親からも「お前は将来、公務員か銀行員だな」と言われ続け、自分でもそのレールに乗るものだと思い込んでいた。
「拓海、先生が来てるわよ」
母親の沈んだ声に促され、玄関へ向かう。そこに立っていたのは、中学の担任、沼田だった。沼田は、バブルの残り香を感じさせるダブルのスーツを窮屈そうに着こなし、拓海の顔を見るなり、一枚のパンフレットを差し出した。
「佐藤。……お前の学力なら、二次募集はここしかねえ。北海道旭川農業高等学校だ」
「農業……高校?」
拓海がその言葉を口にした瞬間、頭の中に浮かんだのは、肥溜めと、泥だらけの長靴と、知性とは無縁の労働だった。
「冗談じゃない。僕が、牛の世話なんて」
「いいか。浪人は許さんというのが親御さんの意向だ。ここなら定員割れしてるし、面接だけでいける。それに……」
沼田は少しだけ声を落として言った。
「あそこは、広いぞ。お前の狭くなった視界を広げるには、ちょうどいいかもしれん」
四月。
旭川農業高校の正門をくぐる拓海の足取りは、鉛のように重かった。
周囲を見渡せば、すでに出来上がったコミュニティがある。実家が近隣の農家同士なのだろう、「おーい、源!」「おう、種まき終わったか?」なんて会話が飛び交っている。彼らの手は、中学生にしてはゴツゴツと大きく、日焼けしていた。
拓海は、新調したばかりのブカブカの学ランに身を包み、借りてきた猫のように列に並んだ。
体育館は、ストーブが焚かれているにもかかわらず、底冷えがした。校長先生の式辞も、半分も頭に入ってこない。ただ一つ、強烈に印象に残ったのは、体育館全体に漂う、微かな、しかし抗いようのない「家畜の匂い」だった。
式が終わり、教室へ向かう廊下で、拓海は一人の男と肩がぶつかった。
「あ、悪い」
謝ったのは拓海の方だったが、相手の男はニカッと笑って、拓海の肩をバンと叩いた。
「気にすんな! お前、見ねえ顔だな。どこの農家だ?」
男の名は、源。
刈り上げたばかりのような短髪に、太い眉。実家は美瑛で広大なジャガイモ畑を営んでいるという。
「……農家じゃない。市内の、サラリーマンの家庭だ」
拓海がそう答えると、源は驚いたように目を丸くした。
「へぇ! 珍しいな。わざわざ好き好んで泥いじりに来たのか。物好きだなあ!」
悪気のないその言葉が、拓海の胸にチクリと刺さった。「好き好んで来たんじゃない」という言葉を飲み込み、拓海は窓の外を見た。校庭の向こうには、まだ真っ白に雪を被った大雪山連峰が、無言でそびえ立っていた。
入学からわずか三日目。
農業高校の真の姿が、拓海の前に現れた。
「いいか、一年生。今日は『土づくり』の基本を教える。全員、実習着に着替えろ」
担任であり、農業実習担当の黒岩――通称・クロテツ――が、野太い声で命じた。
拓海が渡されたのは、緑色の作業服と、膝下まである重たいゴム長靴だった。鏡に映った自分の姿は、あまりにも滑稽で、情けなかった。
実習地へと向かう途中で、拓海は一人の女子生徒に目を留めた。
彼女は、源の幼馴染だというちひろだった。彼女は実習着を完璧に着こなし、腰には使い古した剪定ばさみを下げている。
「……あ、それ。反対だよ」
ちひろが、拓海の長靴の履き口を指さした。
「ズボンの裾は、ちゃんと長靴の中に入れないと。土が入って、後で気持ち悪くなるから」
「あ……ありがとう」
「いいよ。……あんた、手が綺麗だね。ピアノでも弾いてたの?」
「いや、勉強してただけだ」
ちひろは不思議そうに拓海の手を見つめると、「ふーん。すぐ汚れるよ、それ」とだけ言って、歩き去った。
その日の実習は、広大な畑に堆肥を撒く作業だった。
大きな山積みになった「堆肥」――つまり、牛や馬の糞を腐熟させたもの――を、一輪車に積み、等間隔に配置していく。
「うっ……」
風が吹くたびに、強烈な匂いが鼻を突く。拓海は思わず鼻をつまんだ。
「おい佐藤! 手を止めるな! 匂いなんて三分で慣れる。土の匂いだと思え!」
クロテツの怒号が飛ぶ。
拓海はスコップを握り、堆肥の山に突き刺した。重い。泥と糞の混ざったそれは、水分を含んで粘り気を持ち、持ち上げるたびに腰に鈍い痛みが走る。
一往復、二往復。
三往復目には、すでに手のひらに熱い違和感を覚えた。
ふと横を見ると、源は鼻歌まじりに、拓海の倍以上のスピードで堆肥を運んでいる。
「佐藤、大丈夫か? 顔色が真っ青だぞ」
源が心配そうに声をかけてくるが、拓海は「大丈夫だ」と強がることしかできなかった。
進学校へ行った同級生たちは、今頃、清潔な教室で英語の構文を読み解いているはずだ。自分は、なぜここで、ウンコを運んでいるのか。
その時だった。
拓海の足元が、湿った泥に滑った。
「わっ……!」
バランスを崩した拍子に、ネコに積んでいた堆肥が拓海の足元にぶちまけられた。それだけではない。拓海自身も前のめりに倒れ込み、両手、そして顔の半分が、温かい堆肥の山に突っ込んだ。
一瞬、静寂が訪れた。
周囲の実習生たちが、一斉に拓海を見る。
「あははは! お前、堆肥とキスしたのかよ!」
誰かが笑った。
拓海の中で、何かがぷつりと切れた。
悔しさと、情けなさと、鼻を突く強烈な匂い。視界が涙で歪む。
「……笑うなよ」
小さな声で言ったが、それは誰にも届かなかった。
実習が終わり、拓海は一人、放課後の水道場で顔を洗っていた。
冷たい水が、こびりついた汚れと一緒に、煮え切らない感情を流してくれればいいのにと思った。
手のひらを見れば、皮が剥け、真っ赤に腫れ上がっている。
「これ、使いな」
背後から声がした。振り返ると、ちひろが立っていた。
彼女はポケットから、小さな軟膏のチューブを取り出して差し出した。
「オロナイン。効くよ」
「……悪い」
「別に。みんな最初はそうなるよ。源だって、小学校の時はトラクターのタイヤに足挟まれて泣いてたし」
ちひろは、夕焼けに染まる大雪山を見つめながら続けた。
「ここはさ、何もないでしょ。でも、土は嘘つかないよ。勉強は、覚えたことを忘れたら終わりだけど、土は、手をかけた分だけ、ちゃんと秋に返してくれる」
拓海は、渡された軟膏を手のひらに塗り込んだ。ひりひりとした痛みが、少しだけ和らぐ。
「……秋に、返してくれるのか」
「そう。ジャガイモでも、カボチャでも。あんたが今日撒いたその臭い堆肥も、秋には美味しいものに変わるんだよ」
ちひろが去った後、拓海は自分の手を見つめた。
泥が爪の間に食い込み、簡単には落ちそうにない。
でも、不思議と嫌な気分ではなかった。
都会のバブルがどうとか、偏差値がどうとか、そんなことよりも今は、この手の痛みを鎮めることと、腹が減ったことの方が、ずっと現実味を帯びていた。
校門を出ると、駐輪場に源が待っていた。
「よお、佐藤! 帰り、ラーメン食ってかねえか? 旭川といえば醤油だろ。美味い店、知ってるんだ」
源の肩越しに、平成三年の夕暮れが広がっていた。
拓海は、まだ慣れない長靴を少しだけ鳴らしながら、歩き出した。
「……ああ、行くよ。お腹、空いたし」
それが、佐藤拓海の「ゆるゆる農業高校生活」の、本当の始まりだった。
挫折という肥料が、いつか彼の中でどんな芽を出すのか、まだ誰も知らない。




