3 農業、したい
わたしがこの町を出たころに、人口が2万人を切ったそうだ。100年以上の歴史があるという朝市通りに、野菜を売るお年寄りはいなくなった。24時間営業のコンビニは、22時で店じまいを始めた。空き家は増え、雪が降ると倒壊の恐れがある家がいくつもあった。若い人や子供の遊ぶ場所はなく、買い物といえば、ホームセンターかドラッグストア。そこにないものは約1時間車を走らせる必要があった。
人が減っていくにつれて、近所づきあいや、村の付き合いは活発になっていく。
つまらない町だ。こんな町、早く出て一人暮らしをしたい。高いビルがある町に住みたい。わたしは、高校大学とデザインの勉強をして、手に職をつけようとしていた。でも、そううまくはいかない。同級生で、夢をかなえた人なんて、五本の指も使いきれない。わたしも脱落した人のひとりだ。内定をもらえたことに、いまは感謝するしかない。営業か、はたしてやっていけるだろうか。モチベーションを保てるだろうか。
そんな私と比べて、兄は楽しそうだった。絵里さんがいるからというのもあるだろうけど。
いま思えば、おばあちゃんの手伝いをしていたときは楽しかった。うまくできなくても笑ってくれた。おばあちゃんみたいに上手くできなかったとき、何かいい言葉を言ってくれていた気がするけど、なんだったか。兄なら覚えてるかな。
ふと、上着のポケットの中でなにかに触れた。何だろうと出してみると、丸まったサランラップだった。いつかのおにぎりのラップを入れたままにしていたみたいだ。
これまで当たり前だった実家のお米。兄が作った米が一番おいしいと感じていた。それがもう食べられなくなる。そんなのは考えたくもないほど、嫌だと思った。でも、大変さも兄の労苦もしらないわたしが、自分勝手に嫌だとは、冗談でも言えない。
「この写真って、樹衣の畑?」
杏奈が壁にかけてある写真を見上げていた。わたしもはじめて見た写真でわからなかった。
「それは、稲刈り直前の田んぼの写真だよ」
「これって、もしかしてドローンですか?」
「そうだよ」
「きれい……」
空から撮られた田んぼの写真。黄金の絨毯のようで美しかった。風でなびいているのか、波みたいになっている。兄はこんなにも美しいものを作っていたんだ。知らなかった。
すると、興味なさそうだった朱璃が言った。
「バズりそう!」
なんとも朱璃らしいコメントだ。
「農業、したい」
いまの言葉は、自分の口から出たのだろうか。これまでの人生、思ったこともない言葉が口をついて出て、自分自身が一番驚いている。
私の兄はとても優しい。わたしがその場の勢いでそう言ってしまったことを理解してくれているようだった。
「ありがとう、樹衣。でももう決めたことだし。樹衣は内定もらってるんだろ? 夢だった仕事じゃないけれど、追いかけられなくなったわけじゃない。仕事をしながら、夢に近づけることもできるんだから。樹衣が気をもむ必要はないよ」
だよね、と同意しかけていたそのとき、杏奈が言った。
「私も、農業してみたいかも。こんなきれいな場所を、私も作りたい」
ここに居るみんなが、杏奈のことを見ていた。なんだかもう決めたことみた
いに言う杏奈が可笑しくて、目が離せなかった。
「あたしも。正直いまのバ先性に合ってないんだよね。みんなでここで新しいことに挑戦ってのも悪くなさそう」
ノリで決めてよいことではないのは重々承知している。それでも、兄がNOというのならどうにもならない案件だ。
兄が立ち上がった。さすがの兄でも怒りを隠せなかったか。そんなわけがなかった。兄はどんなときでもわたしの味方だった。
「まっ、その言葉ひとまず預かっておくよ。帰るまでには時間があるし、卒業まで時間もある。それに、一度夫婦で決めたことだ。絵里とも話し合いたいしね」
就職ができない、たったそれだけの壁で、将来が見えなくなっていた。窓もドアもない部屋に閉じこめられているように感じていた。でも違った。窓もドアもたくさんあったみたいだ。開けようとしなかっただけ。見ようとしていなかっただけ。兄がそれを教えてくれた。重くなった使い古しの空気を、窓を開けて喚気してくれた。それが望んだ未来じゃなくても、精いっぱい生きていかないといけない。それが社会に出るということなのかもしれない。わたしたちがまだもう少しの時間、社会に守られている間に気がつけてよかった。




