表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

第1話 地図にない坂と白いベンチ

 週末の朝は、エンジンの震えで目が覚める。いや、実際に鳴っているわけじゃない。ただ、外に出ればいつだってキーを捻る準備ができているのだと・・・そんな気持ちで枕元のスマホを手に取る。天気は曇り。降水確率は低め。予算は、燃料と昼食と、途中で買うお茶まで入れて五千円。今日はそれで、地図の上では途中で途切れている細い坂を確かめに行く。


 ヘルメットの内側に、柔らかな洗剤の匂いが残っている。手袋を締め、シート下を確かめる。簡易工具、レインコート、空のサコッシュ。鍵を回すと、原付が小さく咳払いをしてから目を覚ました。まだ早い住宅街を抜けると、パン屋の前だけ温かい匂いが漂って、思わず速度が落ちる。誘惑をやり過ごして県道へ出ると、風はすこしだけ湿っていた。


 坂の入口は、地図アプリの灰色の線がふっと薄くなる場所だ。舗装は荒れ始め、路肩の草は伸び、家並みは遠のく。カーブミラーには薄曇りの空と自分の肩が映って、角を曲がるたびに景色が少しずつ近づいてくる。スロットルをほんのわずか開き足す。エンジン音が胸の内側で小さく反響し、脈と歩調を合わせる。


 上りは長くはない。けれど、終わりが見えないと長く感じる。そんな坂だ。汗が額ににじみ始めたころ、路面の傾きがやわらぎ、視界がぱっと広がった。畑と畑の間に一本の細い道。その先、池のふちに、白いベンチがぽつんと立っている。背もたれに打ち付けられた薄い板には、マジックで「ご自由にどうぞ」と書かれていた。文字は角ばっていて、どこかやさしい。


 原付を端に停め、ヘルメットを外してベンチに腰を下ろす。木目は日差しで少し乾いて、手のひらにざらりとした感触を残した。目の前の水面を、風が斜めに渡っていく。青い空ではないけれど、銀色の光がさざ波の縁に沿ってちらちらと走り、岸には名も知らない白い花がいくつも揺れている。鳥の声が遠くから聞こえ、誰かの笑い声のように聞き間違える。


 「座ってくれて、ありがとうな」


 声に振り向くと、畑から麦わら帽子の男性が歩いてきていた。肩に鍬を担ぎ、長袖の作業着の袖口をまくっている。帽子の影からのぞく目が、光を吸ってやわらかい。


 「ここ、通る人がたまにいるんだ。坂がきついから、休めたらいいと思ってさ。家にあった木でこしらえた」

 「とても、助かります」

 「季節が変わると、あの桜がよく見える。池に映るから二倍だ。ふふ、ちょっと得した気分だろ」


 男の人はベンチの脇に置いた保冷バッグから、よく冷えた麦茶のペットボトルを出してくれた。ラベルに水滴が浮かび、指先がひやりとする。ひと口。麦の香りが喉の奥に丸く広がる。体の中の余分な熱を、静かに連れていってくれる味だった。


 「この道は、地図だと消えてるんですね」

 「そうそう。昔はここを通って向こうの集落に行ったんだが、今は大きい道ができたからな。急がん人だけが、ここを通る」


 急がん人。たぶん、今日の自分はその種類の人だ。去年の自分は、いつも急いでいた。時計や模試や、締切のあるものばかり追いかけて、追いかけられていた。歩幅は広がったけれど、景色は薄かった。思い返しても、合間の色が抜け落ちたスケジュール帳みたいだ。


 「坂、上りやすかったか?」

 「長くはないけど、先が見えないと長いですね」

 「先が見えんから、途中で座る場所がいるんだ。先さえ見えたら、ちょっとくらい急でも人は行ける」


 男の人はそう言って笑い、鍬を持ち直して畑に戻っていった。ベンチに残ったのは、麦茶の冷たさと、言葉の余韻。私はもう一度水面を見た。風が少し強くなり、さざ波の角度が変わる。鏡は同じでも、映るものはいつも同じではない。


 ポケットでスマホが震えた。画面には「A」の頭文字。大学で知り合った友人だ。週明けの昼休みに、よくパンを半分ずつ交換する仲。『今度、キャンプ行かない?』 短い文字列に火が灯る。返事は少し考えてから、『行こう。静かなところがいい』と返す。入力の最後に句点を付けるか迷って、やめた。こういうときは余白があったほうが、空気がやわらかい。


 ベンチの背もたれの「ご自由にどうぞ」を指でなぞる。ペンキはところどころ薄くなり、板の木目が覗いている。誰かがここに置いて、誰かが座って、誰かが通り過ぎた印が、うっすらと積み重なっていた。私も今日、その層に一枚だけ薄く重なる。


 帰り道は、行きより短く感じる。坂は同じ傾きのはずなのに、心が知っている道は体にもやさしい。カーブミラーに映る自分の肩が、さっきより少しだけ軽い。住宅街に戻ると、朝よりもパンの匂いが濃くなっていて、今度は誘惑に負けてメロンパンをひとつ買った。袋の口から湯気が逃げ、手のひらにほのあたたかい重みが落ちる。


 部屋に戻り、机の上でサコッシュから小さなノートを取り出す。旅のページに今日の日付を書き、「白いベンチ 麦茶 急がん人」と三つだけ記す。言葉を増やしすぎると薄くなることを、去年のノートが教えてくれたからだ。境界線のように短い線で区切ってページを閉じる。


 窓の外では、さっきの曇りがほんの少しだけ明るくなっていた。雲の裏で昼が深呼吸しているみたいだ。スマホにAからもう一度メッセージが届く。『焚き火、したいね』 今度はすぐに、『わかる』とだけ返す。


 白いベンチは、きっとあのまま、今日の午後も誰かを座らせる。急がない人のために。先が見えない坂の途中で、息を整えるために。私もまた行く。次に行くときは、季節が少し違うかもしれない。桜が二倍になる頃だと、どんな景色になるのだろう。


 鍵を机の端に置くと、金属が小さく鳴った。音は薄く、しかし確かだった。私はノートに細い矢印を描き足す。次の週末へ向かう小さな矢印だ。


    次は、雨上がりの踏切を見に行こう。少し不思議だと噂の、あの踏切へ。












評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ