理性の崩壊
「――本当に、殿下はどうしてこういうことにだけ熱心なんだ!?」
夜の王宮離宮、仄暗い照明のもと、アラン・ベルナーは深いため息をついた。
イザベル・フォン・ロズリン侯爵令嬢が隣に座り、シャンパングラスを揺らしている。
仮初の恋人ごっこ。皇太子・フィリップ・フォン・エルツバインからの命令。
政略も面倒事も「イザベルと仮にくっつけておけば問題なし」理論で押し切られたのだ。
「仮ですわよ。あくまでも私たちは。」
「もちろんだ。そのはず、なんだがな。」
だが、今日のイザベルは少し違った。
舞踏会の帰り、髪をほどいた彼女はなぜか無防備で、香水の香りも甘く、
彼のネクタイを外すような手つきで、冗談めかして彼の胸に寄り添ってきた。
「仮の恋人でも、ちゃんと恋人らしいふりは必要よ? ほら肩に手、置いてみてよ。」
困惑するアランの手を自分の肩に乗せると、イザベルは意味ありげに笑う。
「そんな顔して。緊張してるの? 仮のふりでしょ?」
――わかってる。
全部、ふり。任務。殿下の勝手な恋愛劇。
でも、目の前のイザベルの指が、アランの手を握り返した瞬間。
その全てがふりではなくなった。
「イザベル。冗談は、そこまでにしておけ。」
「本気で冗談かもしれないけど、本気になったら困る?」
彼女の微笑は、まるで試すようだった。
挑発。誘惑。仮のふりで守られていた理性が、静かにきしむ。
アランは立ち上がろうとするが、イザベルは彼の腕を引いた。
「逃げるの? 私、貴方の仮の恋人よ? ここで逃げたら、皇太子殿下に進捗報告できなくてよ?」
「貴族令嬢ってのは、そんな色仕掛けが標準装備なのか?」
「違うわ。これは“イザベル・フォン・ロズリン”の仕様よ。」
にっこりと笑ったその顔が、何よりも怖い。
彼女が静かにアランの膝に腰をかけてきた瞬間――
アランの理性の糸が、はっきりと、ぷつんと切れた。
「もう知らないぞ。」
腰を引き寄せると、唇が触れ合う。
仮初めだった関係に、熱が走る。
イザベルの指が彼の背中に回り、耳元に熱い吐息がかかる。
「ええ、知っててやってるのよ。」
唇を重ね、首筋に口づけ、肌をなぞる指先にアランの呼吸が荒くなる。
「これ以上は、仮でも演技でも済まないぞ。」
「それが、望みだわ。」
部屋の空気が甘く熱を帯び、ベッドのシーツが微かに軋む。
アランはそっとイザベルの胸元に顔を埋めながら、低くうめいた。
「なんで俺がこんな任務に振り回されてんだ。」
「任務で済ませようとしてたの、そっちでしょ?」
「今はもう無理だ。」
イザベルの唇が、満足げにほころぶ。
彼女はアランの耳元に囁いた。
「私ね、仮じゃなくて本当に好きなの。貴方の、不器用でまじめなところも、さっきの乱暴なとこも。」
「なんで全部ばれてるんだ。」
「ふふ、殿下が仕掛けた恋愛劇だけど……最後の仕上げは、私がもらうわね。」
――その夜、仮初の恋人たちは、本物の恋人になった。
そして翌朝。
ニヤニヤと笑う皇太子殿下が、アランの寝室のドア前で一言。
「進捗、100点だな。」
(フィリップ殿下、俺は本気で今、貴方を地獄の底に引きずり落としたい気分ですっ。)