1)美しい人魚の悲しい病気
「ミチルちゃん、行ってらっしゃい!」
「は~い。いってきま~す」
訪問看護ステーション「はるかぜ」の事務所で、ひらひらと手を振ってくれたこの訪問看護ステーションのオーナーである医師の月山先生に手を振り返し、仕事道具の詰まった訪問バッグを背負った私は、事務机が並ぶ詰め所から出ると、普段の出入り口とは逆の、建物の奥にある物品庫のさらに奥にある、ごくごく普通の鉄の扉を開けた。
「お~! 今日もすっごいいい天気! 最高!」
私の目の前に現れたのは、波打つ美しい草原と、砂利ひとつない、土の一本道で、見知らぬ花が咲き、木が茂り、聞きなれない小鳥の鳴き声が聞こえる『異世界・ダンデリオン』が広がる。
先ほどまで重々しい鉄の扉だったはずの、今は可愛らしい木の扉に猫の看板がぶら下がった扉を閉めると、いちに、とストレッチをしてから左手を伸ばした。
「よ~し、行きますか! 『収納庫オープン』出てこい『電動自転車』!」
この世界での最初のお約束である呪文を唱えれば、手首に嵌めていた自転車の彫りの入ったバングルが光って溶けて、あっという間に電動自転車の形に変わる。
「よっっと! じゃあ、出発ーーーーっ!」
自転車にまたがったミチルは、ぐんっとペダルを踏みこんで、土の道を電動自転車で走り始めた。
★★★
訪問看護ステーション『はるかぜ』は、月曜日から金曜日までは普通に『日本』で営業している訪問看護ステーションだ。
少し変わっているのは、一般的には看護師が訪問看護ステーションの所長を兼務することが多い中、この『はるかぜ』は、老年で小柄ではあるが矍鑠としたお医者様である月山カケル先生が診療所の隣に開設した下町の訪問看護施設で、星川ミチルを含む4人の看護師が一日4~6件の訪問に日々向かっているのである。
運転免許を所持していないミチルは、電動自転車で行ける範囲の訪問を、その他運転免許を持つ3人の看護師が遠方の訪問に出かけているのだが、ある日、月山に所長室に呼ばれたミチルは、紅茶道楽の月山から出された、とっておきの紅茶と高級なお菓子を前にしたところで。
「実は僕、異世界で医者をしてるんだけど、訪問看護してくれる人捜してるんだよね。ミチルちゃん、ファンタジー小説よく読んでるでしょう? どう? いってみない? お休みもちゃんと上げるし、お給料弾むよ? あ、こうしておやつタイムも作るよ? それに、平和な世界だから、魔物に襲われるとかないから! 一回お試しでやってくれないかな? 頼むよ!」
と、なんだか世間話をするようにさらっと言われ、しかもグイグイと押され、さらに出された紅茶とお菓子の美味しさ、提示された上乗せ分のお給料についついつられて頷いたのが、始まりである。
「『医者が治せる患者は少ない。 しかし看護できない患者はいない。 息を引き取るまで、看護だけはできるのだ』……だもんね。よし、頑張るぞ!」
それは、現代日本で著名な精神科医が残した、ミチルが自身の看護師としてどう働くか考えるきっかけになった言葉であり、異世界訪問看護ステーションの仕事を引き受ける後押しになった言葉でもある。
そんなことを思い出しながらぐんぐんと自転車をこいでいくと、目的地である『翡翠の森』に到着した。
「『収納庫オープン』『自転車』格納! 『妖精猫』のナビ開始! 《《ミタラシ》》、翡翠の湖へGO!」
「にゃぁ~ん♪」
自転車を腕輪に戻したミチルの目の前に現れた小柄で淡い三毛の長毛、足は短く大きな金色の瞳の妖精猫『ミタラシ』を先導に、ミチルは森の中の細い土の道を歩いていく。
見知らぬ鳥の声が心電図モニターの音に聞こえたり、日常よくみる犬猫兎によく似た生き物が横切ったりする中、到着したのは少し開けたところにある、そこまで見えそうな美しい鏡のような花の咲く湖だった。
トン、トトンと、ミタラシがミチルの腕の中に納まったところで、ミチルは湖の傍に膝をつくと、水の中に向かって声をかけた。
「こんにちはー! 異世界訪問看護ステーション「はるかぜ」のミチルですー!」
その声に呼応するように、湖の水面に湧き水が溢れるように山が出来ると、フワリ、と、ガラス細工のように透き通った、美しい人魚の少女が一人現れた。
「ミチルちゃん、お姉ちゃんのお熱、下がらないの。早く早く」
少女がミチルに近寄り手を握ると、ミチルの体は大きな水の膜に包まれ、そのまま湖の底にと引きずり込まれた。
(ふーー! いつやられても不思議な気分―! 水の中で息が出来てるー!)
水の中に入っているのに濡れる感覚もなく、息も普通にできるという現実では絶対にありえない不思議体験に、ガッツポーズを取りたいのを必死に我慢しながら、人魚の少女に引きずられて辿り着いたのは珊瑚のお屋敷。
「お母さん、お父さん、ミチルちゃんきたー!」
「こんにちは、異世界訪問看護ステーション「はるかぜ」のミチルです。失礼いたします」
「まぁまぁ、ミチル! よく来てくれたわ、待っていたの! さぁさぁ、入って頂戴」
少女の母親らしき人魚は、美しい容姿だが顔色が悪く、前回の訪問より幾分頬がこけて見えた。
「お母様、こんにちわ」
「えぇ、こんにちは。あの子、部屋から全く出てこないの……ずっと泣いているみたいで食事もほんの少ししか食べてないわ」
「……それは、心配でしたね。では、御様子を拝見してきますね」
「えぇ、お願い。ウコロ、ミチルちゃんの邪魔しないようにこっちに来なさい」
色とりどりの小さな魚が泳ぐ家の中、母親に抱き着いた小さな人魚の少女と母親と別れると、肩にミタラシを乗せたまま、珊瑚の柱を潜り抜けて隣の部屋に入って行く。
「こんにちわ、フィーン様」
「ミチル!」
声を掛けながら薄い紗のカーテンを抜けて少し奥に足を踏み入れると、突然伸びて来た細い両腕にからめとられて抱きしめられた。
「ミチル、どうしよう、どうしよう! 鱗が剥げて行ってしまうの!」
「拝見しますね、ベッドに横になりましょう?」
本日の訪問看護の利用者になる・湖人魚のフィーンの背をトントン、と優しく宥めるように撫でると、彼女を落ち着かせ、大きな岩にカービングの施されたジャイアントケルプの欠けられたベッドに横になってもらう。
鞄からバイタル測定セット一式と、聴診器、そしてタブレット端末を取り出し、熱、それから血圧と酸素飽和度と測っていく。
(人魚に酸素飽和度ってやっぱり鰓呼吸なのかしら? でも見た目、鰓はないのよねぇ)
なんて考えながら、タブレットの画面をタッチしてそれらを入力して一旦送信すると、『正常』とそれぞれの入力欄の隣に小さく青い字が点滅される。
(バイタルは正常、と)
異世界用のバイタルサイン測定セット(体温計、血圧計、酸素飽和度計)、そしてそれらを記入するタブレットは、月山がどこからか持ってきた異世界用の魔道具だそうで、種族が変わっても測定ができ、タブレットに入力すれば、その測定数値や症状が正常か異常か表示され、ミチルでもわかるようになっている。
原理はよくわからないが、魔道具ってそんなのものだろうと、ミチルは素直にありがた~く使用している。
「さて、じゃあ、お体拝見しますね」
「……」
大きな銀色の瞳を涙で潤ませながら頷くフィーンに、大丈夫ですよ、と優しく声をかけてから、そっと下半身の人魚たるゆえんである魚の部分に触れれば、虹色の鱗がぽろぽろと落ちていく。
そっと横目でフィーンの顔を見れば表情は変わらないため、鱗がはがれる痛みなどはないのだろう。
落ちた鱗にもぎ取られたような皮膚片や血液、体液は全くついておらず、これが自然に脱落していったものだと解るが、触れただけではがれてしまうのは余りにも脆すぎる。
(これでは、先程の早さで泳げばボロボロとはがれてしまうだろう……)
先程引っ張られて湖の底まで連れてこられた時に体感した人魚の泳ぐ速度を考えながら、落ちた鱗をつまむ。
小指の爪ほどのサイズの鱗ではあるが、頭を守る髪の毛、指先を守る爪のように、彼女たちが水中を泳ぐのには必要な器官の一つであると、事前にカケル先生から習っている。
訪問看護師が訪問看護を行うには、必ず主治医が発行する『訪問看護指示書』という、医師から看護師に向けて本人の状況や必要な医療行為が記載してある書類が必要で、その書類をもとに看護師は患者の個別性に見合う『訪問看護計画書』を作成し、それに沿ってご自宅に伺い、看護処置を行う。
彼女の病名は『落鱗症候群』。
医師からの必要な処置の指示は『服薬・薬剤管理』であるが、本人の不安が強いため、彼女の心のケアも含まれている。
人魚はとても美しい種族で、魔族・人族からも羨望のまなざしを受ける存在である。それだけに、彼女たちの美に関する意識と自尊心は高い。
そんな中で、人間で言えば思春期にあたる彼女は、美しく輝く鱗が剥がれ落ち、皮膚がむき出しになるという病気にかかってしまったのだ。
「痛みや痒みはないですか? 違和感とか、何でもいいです。気になる事はありませんか?」
「……ない、わ。でも、鱗が落ちていくの。それが、怖いの。私、人魚じゃなくなってしまうのかしら?」
「……」
そうだ、とも、そんなことない、とも。
看護師は、根拠のない言葉を発することができない。
原因もわからない病気を前に、不安になっている患者に「必ず治りますよ、大丈夫」などと気楽に言って期待させ、治らなかった時、彼女が自暴自棄になる可能性があり、その場合、その言葉の『責任』を問われる可能性もあるからだ。
これは異世界でも、現世界でも変わらない。
たった一言の無責任な言葉で、『看護師』というライセンスすら失う可能性もあるのだ。
だからこそ、頭の中で言葉を考えて、それを正確に伝える必要性がある。
ミチルは、ベッドの上に体を横たえ、顔を手で隠したまま、ぽろぽろと落ちていく鱗のように、頬を伝って落ちる涙を、鞄の中から取り出したティッシュで拭うと、落ち着くようにトントン、と彼女片尾あたりを擦りながら、落ちた鱗を袋に入れ、鞄の中に入れる。
「カケル先生に頼まれていたので、今日は少し、落ちた鱗を持ち帰らせていただきますね。来週はカケル先生が往診に来ますからその時に相談してみましょう。私からも、不安な気持ちを先生に伝えておきますね。今日は、先日先生が処方したお薬を塗って様子を見ましょう。なにか不安があったり、気になる事があったら相談してくださいね」
「……」
ミチルの言葉に小さく頷いたフィーンは、顔を覆っていた手を大きなジャイアントケルプの枕の下にさしこむと、そこから軟膏壺を取り出した。
この薬は、二週間に一度、往診にやって来るカケル先生が独自にこちらの世界の薬草を研究し、元の世界の薬屋や漢方と合わせ、魔術で完成させた『一時的ではあるが、鱗が剥がれ落ちなくなるための薬』だ。
それを受け取り、蓋を開けたミチルは、中の薬は一切減っていない事に気が付いた。
先週処方され、一日一回塗るように指示されていたはずだが、光り輝く白銀の鱗が自慢の彼女には、この、淡いけれど紫色の軟膏を塗るのに抵抗があったのだろう。
(……でも、咎めてはだめ。本人の気持ちも尊重して……。今日はこうして塗らせてくれたのだから、もしかしたらこれをきっかけに塗ってくれるようになるかもしれないもの)
「じゃあ、塗っていきますね」
塗る前にもう一度、軟膏を塗布する事を確認すれば、彼女は手で顔を覆ったまま頷き、それを確認してミチルは中に入った淡い紫色の軟膏を、手袋をはめた手に取ると、鱗が剥がれ落ちてしまった部分、剥がれ落ちそうな部分に丁寧に塗り込むと、その部分は僅かに熱を持ちはじめ、保湿性の高い膜が張って、これ以上の鱗の脱落を防止する効果を持っている。
「終わりましたよ? ありがとうございます」
手袋を外し、軟膏の蓋を閉めながら彼女に声を掛ければ、恐る恐る手を顔から離し、薬の塗られた自分の下半身を見る。
「色……目立たない?」
「えぇ。薄く、むらなく、丁寧に塗ったので、よく見ればうっすら色がわかるかもしれませんが、大丈夫だと思いますけど……どうですか?」
私の言葉に体を起こし、足を折り曲げるような形で下半身を自分の方へ近づけた彼女は、少しホッとした顔をして頷いた。
「本当だ、これなら、近くに寄らない限りわからない……よかった……」
「もしよければ、来週の往診まで、一日一回、塗ってみてくださいね」
「ありがとう、そう、するわ」
軟膏瓶を受け取りながら頷いて、少しだけ笑った彼女にミチルも笑顔を返すと、それでは、と頭を下げた。
「今日はこれで失礼しますね。来週はカケル先生の往診があるので、次に私が来るのは14日後です。よろしくお願いします」
「ミチル、来てくれてありがとう……お薬、頑張って塗るね」
「はい。よろしくお願いします。それでは、失礼しますね」
丁寧に頭を下げたミチルは、使っていた機械やタブレットを訪問バックに入れると、しっかりと背負って部屋を出、まっすぐと玄関に向かう。
「今日はこれで失礼いたします」
玄関傍でこちらの様子を伺っていた母親と、ミタラシと遊んでいたウコロに頭を下げると、ミタラシを抱いて連れてきてくれた母親が、愁いを帯びた顔をした。
「どうだったかしら?」
「今日はお体の方は変わりありませんでした。鱗の方が少し触っても剥がれ落ちてしまったので、少し頂いて、先生に渡しておきます。それから、先週、先生が処方したお薬。きょう塗らせていただけましたし、ご自身も毎日お薬を塗るとおっしゃっていたので、少し様子を見てください。来週、先生の往診で様子を確認させていただきます。私の方は、また14日後に伺いますね」
ミチルがそういえば、母親は少しホッとした顔をした。
「ありがとう……そう……よかった、薬を塗ってくれたのね。私達が言っても、駄目だったから……安心したわ」
「そうだったのですね。色のせいだと思いますが、少し抵抗はあったのだと思います。病気の不安もありますから、無理強いはしないで上げてください。先生にはしっかり伝えておきますね」
「えぇ、ありがとう。またきて頂戴ね」
「はい。それでは失礼いたしますね」
母親身に送られて家を出た私は、先を泳ぐミタラシに続いて泳ぎ、共に湖を出ると、パチン、と膜がはじけたのを確認してから歩き出した。
お読みいただきありがとうございます。
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誤字脱字報告、ありがとうございます。
***注意書き***
作者の全ての作品は異世界が舞台の『ゆるふわ設定完全フィクション』です!
その点を踏まえて、楽しくお読みください。