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運命を紡ぐ

西日の差す喫茶店にて

作者: 蓮見庸

 東シナ海で生まれた低気圧が発達しながら本州の南の縁を沿うように横断し、桜の開花宣言が間近に迫ったこの季節にしてはめずらしく夜中に雪が降った。

 カーテンを開けて飛び込んできたまぶしい光に目を細め、やがて目が慣れてくると、子供が粉砂糖こなざとういたかのように雪が不均一にうっすらと積もっていた。


 わたしは午前中の用事を済ませ、遅い昼食をとり、ぶらりと外へ出た。

 雪はもうすっかり溶けていた。

 駅の商店街へ向かって歩いている時ふと思い立って、前から行きたいと思っていた隣町の喫茶店へ向かった。

 隣町までは電車でひと駅、いつも車窓から眺めるだけの駅に降りるのはとても新鮮だった。

 澄んだ空色そらいろの下、乾きはじめたブロックの歩道を歩いていると心が洗われるのを感じた。


 その喫茶店はバス通りから路地を一本入った場所にあった。

 店先には濃い赤紫色のクリスマスローズの鉢植えがいくつか置かれ、立て掛けられた手書きの看板には、日替わりランチのメニュー、今日のコーヒーとケーキの種類が載っていた。

 扉にはOPENの札がかかっていた。


 少し重い扉の取っ手を引き中へと入った。

 照明が控えめにともされた店内にはストーブが置かれ、ほんのりと暖かかった。

「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」

 背が高く整えられた口ヒゲをたくわえた銀髪の店主に迎えられた。

 わたしは店の中央近くにある、観葉植物の横の席を見つけた。

 店内にはカウンター席と両手で数えられる程度のテーブルがあり、半分ほどが埋まっていた。

 ふたり向かい合って話をしている初老の女たち、ヘッドフォンを耳にノートパソコンに向かっている学生風の男、分厚いメモ帳を広げ何やら書き込んでいる眼鏡を掛けた若い女、カップを手に窓の外を眺めている白髪の男、作業服を来た若い男は所在なくスマートフォンを眺めている。

 わたしは薄いコートを脱いで椅子にかけ、カバンをテーブルの隅に置いた。

 そしてテーブルに広げて置かれた手書きのメニューを見ていると店主がやってきた。

「ご注文はお決まりですか?」

「あ、はい。ケーキセットをお願いします」

「かしこまりました。今日のケーキはチーズケーキになります。コーヒーはホットでよろしいでしょうか?」

「はい」

 店主はメモ帳に書き込み、少々お待ちくださいと言って戻っていった。


 *


「いくらでも失敗すればいいなんて言われるけど、あたし、失敗したくて失敗してるんじゃないのよ」

 コーヒーを口にしながら本を読んでいると、カウンターから若い女の声が聞こえてきた。

「あたしこんな性格だから、みんなそうやって励ましてくれてるのかもしれないけど、みんなあたしのこと勘違いしてるわ。あたし、これでも、ちゃんとやってるつもりなのに……」

 彼女はそう言ってグラスを見つめ、ストローで不格好に砕かれた氷をかき回すと、カラカラと軽いさわやかな音を立てた。

「だから、失敗だなんて言ってもらいたくない。それに、あたし……あたしね、みんなが思ってるほど、そんなに強くないのよ。いろんなこと言われて、もう疲れちゃったわ」

 彼女はストローに口を付け、すーっとひとくちコーヒーを吸い上げた。すると角の取れた氷がグラスに当たり、今度はカランと小さな音を立てた。

「でもね、こないだ、そんなあたしを応援してくれてるっていう人がいたの。応援ってへんでしょ? 職場の人から聞いてたんだけど、その人はあたしのことを応援してるって言ってたんだって。それでね、おとついだったかな、たまたますれ違った時に名前を呼ばれて、あたし顔を知らなかったからびっくりしたんだけど、がんばってください、応援してます、って言われたのよ。ほんとに、応援してるって言って、それだけ言ってどっか行っちゃったのよ。何を応援されてるのかわかんないんだけど、あたし、あ、どうも、なんてばかみたいな返事しちゃって。そう、笑っちゃうわよね。でもね、それを聞いたら、もう少しがんばってみようかなっていう気になったの。不思議よね。誰か見てくれてる人がいるんだって思うと、失敗とかそんなの、もうどうだっていいやって。誰に、なんて言われても構わないって。マスターはそんなこと思ったことある?」

 彼女は店主のことをマスターと呼んでいた。

「……そうですねぇ。私もこの仕事を始めた最初の頃はうまくコーヒーがれられなくて、ずいぶんへこんだものですが、ある人がそんな私のコーヒーをおいしいって言って毎日通って飲んでくださいまして、それにはずいぶん救われましたね」

 わたしはひとりごとのように話す店主を見た。うつむいたその顔は影になってよく見えないが、おそらく穏やかな表情をして、手元のコーヒーカップをタオルで拭いていた。

「へえ、そうなんだ。あたしと似てるかも。その人ってお客さん?」

「そうですね……。まあ、そんなところです。ずいぶん昔の話です」

「ふーん」

「ところで、その応援してくださっている方は、どんなお方なんですか?」

 彼女は意外なことを聞かれたという顔でマスターをちらっと見て、それから少し考えて答えた。

「その人は、そうねぇ……。ぜんぜんパッとしなくて……小学校とか中学校の頃とか、クラスの中にぜんっぜん目立たない雰囲気の人っていたじゃない? そんな感じの人」

「それは……なんでしょう……。目立たないけど気になる、そんな感じの方ということでしょうか?」

「そうね、友達にすらなれないかもしれないけど、何となく気になる……そんな感じかな」

 彼女はもうこれ以上この話に興味はないようで、コーヒーを一気に吸い上げると、

「あたしもう行かなきゃ」

そう言って椅子から立ち上がり、テーブルの上に千円札を置いた。

「お会計、これでお願い」

「はい、有難うございます。少しお待ちください」

「ううん、お釣りはいいの。ねこちゃんのおやつでも買ってあげて。ちょっと少ないかもしれないけど」

「ご存知だったのですね」

「うん、こないだ他のお客さんと話してるのを聞いちゃった。その写真のねこちゃんでしょ?」

 彼女は短い黒のジャケットをはおると、カウンターの片隅に置かれた写真を指さして言った。そこには人に抱かれたねこが写っていた。抱いているのはおそらく女だが、顔が写っていないのでよくわからなかった。

「有難うございます。きっと喜びます」

 彼女はにこっと微笑んだが、急に真面目な顔になって言った。

「マスター?」

「はい」

「あたし、盗み聞きするつもりはなかったんだけど、耳に入ってきちゃって……。その……お店、なかなか大変なんだって? あたしなんにもできないけど、マスターのこと応援してるからね」

「はい、有難うございます。ご心配をお掛けしてしまったみたいですね。そう言っていただけるだけで十分です。私も応援してますよ」

 彼女は恥ずかしそうにうなづき、

「ねえ、今度違うねこちゃんの写真も見せてね」

そう言い残して足早に店を出ていった。

「またお待ちしています」

 マスターは彼女の後ろ姿に向かって口に出し、ゆっくりと頭を下げた。


 *


 彼女と入れ替わるように入ってきたのは、長いベージュ色のスカートに白いセーターを着た、落ち着いた雰囲気の年配の女だった。

 店主を見て軽く会釈すると、店内をちらりと見回して、ためらうことなく窓際の席へ向かった。

 わたしの席の横を通った時、偶然目が合い、どちらからともなく軽くおじぎをした。

 彼女はかすかにほほえんだように見えた。

 そしてカバンをテーブルの端に置き、椅子を軽く引いてゆっくりと座った。

「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりになりましたらお知らせください」

 店主は女が座った頃を見計らって水とおしぼりをテーブルに置き、そして声をかけた。

「あ、いいですか?」

「はい。お決まりですか?」

「ええ、コーヒーをホットで。ミルクもお願いします」

「コーヒーのホットですね。()()()()ブレンドでよろしいですか?」

「はい」

 彼女はやさしそうな表情をひときわ柔らかくして答えた。

「かしこまりました。ホットのブレンドコーヒーと、あとミルクですね。少々お待ちください」

 彼女はひと息つくと、カバンの中からカバーのかかっていない薄茶色の本と小さな手帳を取り出し机の上に置いた。

 そして手帳を開き、差してあったペンを手に取ってパラパラとめくった。

 カレンダーのページにはびっしりと書き込みがされていたが、途中から空白になっていた。

 彼女はページをさらにいくつかめくり、そこへ何かを書こうとしてペンを持ち直したが、ペン先は丸いしみを大きくするだけで動くことはなかった。


「もう2年になるんですよ」

 コーヒーを運んできた店主に向かって彼女はそう言った。

「もうそんなになりますか」

「早いわよね……」

「そうですね……。今日は結婚記念日でしたか」

「ええ、憶えていてくださったんですよね」

「いつも来ていただいていましたから。今日はお砂糖はいかがいたしましょうか?」

「ひとついただくわ」

「かしこまりました。どうぞごゆっくり」

 彼女が手にしていた手帳から写真が一枚滑り落ちてきた。彼女は手帳を閉じてテーブルの脇に置くと、その上に写真を載せて指で軽くなでるような仕草をした。

 テーブルに並べられたコーヒーカップに小さなミルクピッチャー、小さなお皿には角砂糖がひとつ載せられていた。

 彼女はコーヒーをお皿ごと手前に引き、砂糖を入れスプーンで軽くかき混ぜ、続いてミルクを回し入れた。

 そしてひと口飲むとカップを静かに置き、ゆっくりと目をつぶった。

 彼女の周りだけゆったりと時間が過ぎているように感じた。


 わたしも目をつぶり、彼女のことを想像してみた。

 どこで生まれて、どんな子供時代を過ごし、どんな人生を歩んできたのか。今はどんな音楽が好きで、何の花が好きなのか。好きな色は……?

 わたしはしばらくそうして思いにふけっていたが、コーヒーの香りをひときわ強く感じて目を開けると、店主がコーヒーのおかわりをテーブルに置くところだった。

「ごちそうさん!」

 声のしたほうを見ると、白髪の男が店から出ていくのが見えた。


 *


 それからどれくらい経った頃か、客の少なくなってきた店内で、人の話し声が聞こえてきた。

「うん、今は忙しいみたいなんだけど、帰ってきたら、桜の花を見せてあげたいの」

 彼女はまだ二十代だろうか。大人びた雰囲気の中にも隠しきれないあどけなさが宿っているようだった。話している相手は店主だった。

「桜、ですか?」

「わたしね、去年大きな桜の樹を見付けたのよ。生まれてからずっとこの街に住んでるのに、ぜんぜん知らなかったの。マスターも知らないかも。それがね、ほんとに綺麗なのよ」

「ええ」

「ほんとよ、ピンク色のお花をいっぱいに咲かせて、そこらじゅうがぱあっと明るくなったようになるの。もう、言葉にならないくらい綺麗なんだから」

「ええ」

「それでね、ふたりで一緒にその桜の樹の下でおにぎりを食べるの。いい考えだと思わない? お兄ちゃんはシャケのおにぎりが好きだから、ちゃんと焼いて作ってあげようと思って」

「ええ」

「それでね、おやつにはあそこの角にあるお団子屋さんで、お団子を買って行こうかなって」

「ああ、あそこのお店ですね。それはいいですね」

「でしょ? 何のお団子がいいかなあ。マスターは何が好き?」

「私はシンプルにみたらし団子ですね」

「そう。みたらしね……それもいいわね」

「おいしいですよ」

「うん、おいしそう。早く帰ってこないかな。もうすぐ桜も咲いちゃいそうだし」

「そうですね」

「ひょっとして今日帰ってくるかもしれないし、うちより先にここへ来るような気がするから、わたしもうちょっとここで待ってみようかな。いい?」

「ええ、構いませんよ。どうぞごゆっくり」

「ありがと」

 彼女はテーブルの向かいに誰かいるかのように嬉しそうな表情をみせながら、ケーキを小さく切って口へと運んでいた。


 *


 壁掛け時計の秒針が時を刻み、その規則正しい音が店内に響いていた。

「お客さま、たいへん申し訳ございませんが、そろそろ閉店のお時間です」

 マスターと呼ばれていた彼は、わたしのテーブルへ来ると軽く頭を下げてカップを片付けはじめた。

『ああ、もうこんな時間』

 わたしは確かに起きていたはずだが、まるで夢を見ていたかのように時間が過ぎ去り、他に客は誰もいなくなっていた。時刻は18時をとうに過ぎていた。

 白いレースのカーテン越しに差し込む西日はもうすでに弱く、テーブルの上にオレンジ色の一筋の線があるだけだった。

「とんだ長居をしてしまいました。お店の邪魔をしてしまいすみません」

「いいえ、そんなことは構いませんよ。私もまだ若い頃には、そうやって一日中お気に入りの喫茶店にいたものですから。どうぞまたゆっくりいらしてください」

 店主にそうは言ってもらったものの、わたしひとりのために待ってもらっていたのがとても申し訳なく、急いでテーブルの上に出していた本や手帳をカバンにしまった。

「先ほどの彼女、お兄さんに早く会えるといいですね」

 わたしは何の気なしに口にしたのだが、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。

「ああ、彼女ですか……。そうだといいのですが。けれど、彼女のお兄さんはもう何年も前にお亡くなりになっていますから……」

「…………」

「昔からの常連さんでして、最初はご両親に連れられてご家族でよくいらしたのですが、ご両親とも早くに亡くなられて、その後も、お兄さんが高校生になった頃でしょうか、よくおふたりで来てくださっていたんですよ。けれど、詳しくは存じませんが、高校を卒業して早くに働き始めたお兄さんもどこか遠くで亡くなったそうで、まだちゃんとおとむらいができていないとか。ここが彼女にとって唯一の思い出の場所になっているようです」

「それじゃ、彼女は……」

 彼はわたしが次に何を口にしようとしたのかを察したのか遮るように言った。

「いえ、しっかりしていますよ。ただ、ここにいる時だけは昔のままでいたいと、私もできるだけ昔と同じように振る舞うよう努めていますが、どうしてもやりきれなくなってしまって……。彼女もたぶんそれを察していると思います。私がかえって彼女に気をつかわせてしまっているのかもしれません」

 彼はテーブルを拭く手を止め、自分の指先を見つめながらそう言ったが、急に思い出したように顔を上げた。

「ああ、私としたことが、つい口が滑ってしまいました……。店主失格ですね。これは彼女と私だけの秘密でしたので、どうぞ忘れていただけませんか?」

 彼は寂しそうに笑っていた。

「もちろんです。けど彼女、今ごろひとりで泣いているかもしれませんね……。あ、ごめんなさい」

 わたしは椅子から立ち上がりカバンを肩にかけてカウンターの脇にあるレジへ向かった。

 彼は何も言わず、テーブルを最後にひと拭きした。

 西日が急に弱くなり、店の中は薄暗くなった。

 彼がレジを打つ音、続いてベルの音が店内に響き渡った。

 わたしは銀色のお皿の上に置かれたお釣りを受け取り、そして言った。

「彼女、えるといいですね。せめて、夢の中だけでも……」

 彼は一瞬びっくりした顔をしたが、ゆっくりと目をつぶりながら大きく息を吸い、小さく2度頷き、今にも泣きそうな、しかし柔らかい表情で言った。

「そうですね……。今夜はきっと逢えるのではないでしょうか」

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