「お前を愛する事はない!」「誰がお前なぞ愛するものか!」と夫婦は争い、お互いに最愛の人を求めて行動した結果、一組の夫婦が幸せになりましたとさ
分割して投稿と悩みましたが、区切りが難しいのでそのまま投稿しました。
タグにも入れましたが、近親相姦描写があります。そうした描写が受け入れられない方はご注意下さい。
◆ の部分で、場面が転換する箇所が多々あります。
美しい春の花が咲き誇る日、一組の夫婦が誕生した。
新郎、ペリドット子爵家の長男クーネン。
新婦、ヘリオドール子爵家の長女ナディア。
両家両親が貴族学院時代からの友人であった事が縁で二人は出会い、その後両家が様々な方面で手を取り合う事が決まった事で結ばれた、政略結婚である。
とはいえ幼い頃から顔見知りの、いわゆる幼馴染という関係性であり、参列者の多くは二人が少なからず想い合って結ばれた夫婦だと信じていた。
――そんな、多くの参列者から祝福された夫婦は、大人が三人は余裕で眠れる広いベッドが一つだけ存在している寝室で、顔を合わせるや否や大声で罵り合っていた。
事の始まりは、先に初夜に向けて準備を終え、寝室に控えていたナディアの元に来たクーネンが、大声で怒鳴った事である。
「お前を愛する事はないぞ、ナディア!」
クーネンの声に新妻ナディアは息をのむ――事はなく、むしろ即座に叫び返した。
「それはわたしとて同じよ。誰がお前なぞ愛するものか!」
言い返し、ナディアはフンと鼻を鳴らした。その動作に、ギリリ、とクーネンは歯ぎしりする。それに気をよくしたナディアは言葉をつづけた。
「まさか、結婚式での愛の誓いを信じでもしたの? 愚か者ねぇ! お前のような男になぞ、嫁ぎたくもなかったわ。お父様たちの命令に逆らえなかったから、仕方なく、わ、た、し、が! お前で妥協してあげたのよ。感謝なさいな」
「なんだとっ!? 妥協したのはこちらだ! お前のような不細工など、私が仕方なく貰ってやらねば、貰い手もいなかった癖に!」
「頭でっかちで女に見向きもされなかったのはお前でしょう!」
双方、幼い頃からの顔なじみ。あっという間に二人は部屋の中で取っ組み合いを初めてしまった。
部屋に待機していた侍女は焦って外に助けを求めに行き、あっという間に、ペリドット子爵家に生まれた新しい夫婦の不仲が知れ渡ってしまったのだった。
それから先も、クーネンとナディアの距離が縮まる事はなかった。
顔を合わせれば嫌味罵倒三昧。放置すると手が出るため、使用人たちは二人が顔を合わせてしまったらできる限り引き離そうとしたし、そもそも会わせないようにこの若夫婦の行動を誘導するようになった。
若夫婦と共に暮らしているペリドット子爵夫妻は、なんとか息子夫妻の関係性の改善をしようと努力した。
まず、息子を叱りつけた。他所の家から嫁いできた若い女性――しかも己の友人の娘だ――になんという事を言うのだと。
そうするとクーネンは、表向き、しおらしい顔をする。
ところがそれは全く話を聞いておらず、当座の怒りを受け流すための所作だと、ペリドット子爵は知っている。
なのでクーネンの態度がまたすぐに悪くなり、また子爵が叱り、一時は大人しくなるが……というのを繰り返すだけで、改善されなかった。
ナディアの方とて、態度が良いとは言えない。
彼女の姑となったペリドット夫人はそれとなく態度を改めるように促したが「そもそも最初にわたしを拒絶したのはクーネンだわ」と言われると、それ以上に言えなくなってしまった。
仕方なしに、ナディアの実の母親であるヘリオドール夫人に助けを求めた。
ヘリオドール夫人は貴族の妻の心得として、想い合わぬ相手と結婚する事はあろうが、結婚した以上はしっかりと仕事をせねばならない、とよく言っていた事を言ったが、ナディアは、
「分かっておりますわ。仕事は果たしておりますでしょう?」
と言い張った。
確かに、若夫人として仕事はしている。だが、肝心のクーネンとの関係は、悪化の一途をたどっている。
最初の発端がクーネンなのは、ペリドット夫妻も認めている。
しかしその後その争いを大きくしているのは、口の回るナディアである。
どうしたらよいのだと、双方の親はひどく頭を悩ませる事になった。
「ここまで争うのであれば、なぜクーネンはナディアと結婚する、などと言ったのだ……」
ペリドット子爵はそう頭を抱えた。
そう。
この結婚は、クーネンとナディアが望んだ結果結ばれたものであった。
なので両家の親からすると、結婚式までは双方が相手と結婚することを強く望んでいたというのに、いざ結婚式を終えたら、双方が憎み合っているという、訳の分からない状況だったのである。
「クーネンは何を考えているの?」
ペリドット夫人は何度も息子と話し合いの場を設けたが、息子はのらりくらりとするばかり。真意は分からず、けれど妻となったナディアとの溝は深まるばかり。
二人が結婚してから三か月が過ぎたある夜、ペリドット子爵は当主の証でもある家宝の指輪を握り締めながら、自分達に加護を与えている精霊に祈りをささげた。
「精霊様。どうかお助け下さい。一体、どうしてこのような事に……」
祈りをささげるペリドット子爵の両手の中で、家名と同じ大粒のペリドットが、何かを暗示するように、暗く光っていた……。
◆ ◆ ◆
父親の苦悩など知らず、クーネンは、にやりと笑っていた。
「やっと、やっとだ……」
彼の目の前には、一つのぬいぐるみがあった。
「愛おしいコルネリエ。やっとお前に、肉の器を返してやれる」
クーネンは濁った瞳で、ぬいぐるみを撫でた。
「コルネリエ。コルネリエ! 私のたった一人の妹! 今、お前に、新しい生を与えてやるからな!」
クーネンの苦しみの始まりは、二年前にさかのぼる。
クーネン・ペリドットには、五歳年下の妹がいた。名はコルネリエ。ペリドットの名にふさわしい、美しいオリーブ色の髪をした、クーネンが文字通り目に入れても痛くないほどに可愛がっていた妹である。
ところがコルネリエは二年前、どこからか貰ってきた風邪をこじらせて、たった十一歳の若さで命を落としてしまっていた。
このぬいぐるみは、コルネリエが幼い頃から大事にしていたぬいぐるみである。
「お前が死んだのは間違いだったのだ。神は奪うべき人間の命を間違えられた!」
クーネンは部屋で、ぬいぐるみに向かってそう叫んだ。
ぬいぐるみはコルネリエではないが、この二年間、ずっと自分の手元に置いてコルネリエに伝えたい事を話していたので、(クーネンの中では)実質的にはコルネリエのようなものである。
彼は、妹の死を受け入れる事が出来なかった。
まだ未来があったはずの妹。数年後に迫ったデビュタントを心待ちにしていた妹。デビュタントでは、クーネンがコルネリエのエスコートをする予定であった。
それらの希望に満ちた未来はすべて、失われてしまった。
(これは嘘だ。これは間違いだ。こんな事があっていいはずがない!)
クーネンは教会で神父に、コルネリエが死んだのは間違いだ、奇跡で生き返らせてくれと頼んだ。
歴史上の偉人聖人にまつわる話で、一度は死んだものの生き返った者の事例は多い。
それをしてくれとクーネンが望んだ訳だが、当然、神父たちにそのような事は出来ない。
歴史上、生き返った偉人は己の力でもって生き返った。
そして聖人の力で生き返った者は、それこそ数百年数千年先に名が残るような力ある人物の祈りでもって生き返っているのである。
そのような力を持つ神父や修道女が現代にいたならば、とっくに有名になっていた事であろう。
病を癒すことに長けているといわれる聖職者などは幾人か存在するが、死んだ者を生き返らせる力を持つ者はいない。
そう、まっとうに返事をされたクーネンは、彼らを頼る事をやめた。
(使えない使えない使えない!)
クーネンは棺に入った妹に縋りついた。母も縋りついていたので、彼の行動は目立たなかった。
本当はコルネリエの体を土の下になど埋めたくなかった。だが、そのままクーネンの手元に置いておく事は両親が許すはずもなかったので、泣く泣く、クーネンは妹が埋葬されるのを見送った。
その後、クーネンは考えた。
コルネリエにはもう体がない。しかし魂は天に還ったはずである。コルネリエは愛らしい天使であったので、間違いなく天にある幸せの国に還ったとクーネンは確信している。
そのコルネリエの魂だけを、手元におけないか。クーネンはそう考えたのだ。
そうしてクーネンは、様々な本を読み漁った。霊媒の方法、霊と対話する方法をはじめとした、様々な――中には眉唾物の――本を読み漁り、実際に実行に移した。
だが、コルネリエの魂を手に入れる事は叶わなかった。
――そんなある日、クーネンの元にある人物が現れた。薄汚れたフードを被った、ひしゃげた声の男とも女とも言えない人物だ。
その人物は、クーネンに言ったのである。
「妹を取り返したいか」
初対面でそういいのけた人物にクーネンは驚き、相手の話を聞く態勢を取った。ガラガラ声で笑ってから、その人物は続けた。
「人間の魂を、天の国から取り返す術を教えてやろう。ただし、この術は教会に禁じられた術だ。使う事が発覚すれば、お前は破門されるであろう」
「構わない。その術を教えろ!」
即座に飛びついたクーネンに相手は笑って、それから術を教えた。
それは、別の人間の体に死者の魂を入れるという術であった。
まず、肉の器となる対象の体に、目印を刻む。
その後おおよそ三か月、とある術を相手に向けて唱え続ける。これは直接唱えるとすぐにバレてしまうので、相手のいる方角を向けて唱えればよい。
術を教えた奇妙な存在から渡された小さな宝石が真っ黒に染まれば、時が満ちたという証明である。
その後、対象を陣の上に入れて、それと対になる陣の中に、魂の持ち主と強い縁を持つ物を置き、最後の言葉を唱える。
そうすると一夜明けると、対象の体に死者の魂が入るのだという。
クーネンは、コルネリエの魂を入れる相手を、忌々しいナディアにする事にした。
ナディアの性格は最悪だが、見目は悪くなかったからだ。
また、コルネリエは幼い頃、ナディアの見た目を指して「あたくしもナディアおねえさまのようになりたい」と言っていた事があった。
コルネリエを生き返らせるのであれば、あの頃の妹の願いをかなえてやりたいと兄心で思ったのである。
もともと、ペリドット子爵家とヘリオドール子爵家の間で結ばれる政略結婚の予定は以前からあった。
だがそれは諸事情で白紙になっていた。
ナディアは未だに婚約者がおらず、恐らくクーネンが望めばある程度の確率で両家の婚約は結ばれるだろうと考えたのだ。
その考えの通り、クーネンが両親に願い出ると、あっさり話が進んだ。
とはいえナディアに拒絶される可能性も十分にあったが――どういう事か、ナディアはあっさりと婚約を受け入れ、そして結婚まで行った。
その後、クーネンはナディアの体に目印を刻んだ。
当初は初夜の後に刻むつもりでもいたのだが、ナディアの顔を見たらつい拒絶の言葉を吐いてしまい、その後言い返されて争いになって、それ以降褥を共にしていない。
なので仕方なく、侍女の一人に金銭を包み、ナディアが自分では気が付かない、かつ、目立たない場所に目印を刻ませた。
予想通り、ナディアは自分の身に刻まれた目印に気付かなかった。
そして三か月間、夜になるとナディアの部屋の方を向きながら術を唱えた。
二人の寝室は別にされたが、部屋自体は空室をはさんで隣だ。なのでまっすぐ、横の部屋に向かって唱えればよかった。
当初は上手くいっているか不安であったが、次第に奇妙な人物から受け取った宝石が黒ずみだして、成功していると理解した。
そして、今夜、ついに真っ黒になった宝石を見て、コルネリエを呼び戻す日が来たのだと悟った。
この三か月、ナディアが眠っているベッドには陣が描かれた紙が仕込まれている。
今の時間帯は深夜。ナディアは既に眠っている事だろう。
あとはこの、コルネリエが死の間際まで抱いていたぬいぐるみを使って、コルネリエを呼び出せば、一夜の後、コルネリエはナディアの体に入っているのだ。
「ああ、あと少しでまた抱きしめあえるよ、コルネリエ」
きっと目覚めたら、コルネリエは混乱する事だろう。何があったのかわからないはずだ。
コルネリエが死んだときは十一歳。今のナディアの体は十七歳だ。
最初はきっと、何をするにしても失敗をする。でも問題ない。クーネンがずっと傍にいて、コルネリエをサポートするのだから。
それだけでない。
「お前が戻ったら……今度こそ、褥を共にしような、コルネリエ」
ナディアの見目は良い。
胸と尻も大きい。
その体の持ち主がコルネリエとなれば……想像しただけで、クーネンの下半身は熱くなる。
……クーネンはコルネリエを愛している。
その愛はもはや家族愛を逸脱していた事は、実の家族ですら知りもしない事であった。
クーネンはナディアのベッドに仕込まれているのと対になっている陣の中に、ぬいぐるみを置いた。
そして彼は、最後の言葉を唱えた。
「甦れ 死者よ 汝の或るべき場所は かの 肉の器 である」
――ぬいぐるみがおかれていた陣が、黒い光を放った。
それを見てクーネンは確信した。成功したのだと。
「ああ、コルネリエ! 早くお前に会いたい! 抱きしめたい! お前の口を吸いたい!」
だがしかし、今はまだナディアだ。
夜が明けねば、コルネリエの魂がナディアの体に馴染まない。
今すぐ駆けだしたい気持ちを抑えて、クーネンは眠りについた。
明日以降の、輝かしい日々を夢見て――。
◆ ◆ ◆
「? ここは……?」
コルネリエ・ペリドット子爵令嬢は、こてん、と首を傾げた。
見渡す部屋は見覚えがない。
「あたくし、風邪をひいて……?」
それからどうしたのか。
必死に思い出そうと記憶をさかのぼるが、思い出せない。
ふと、周囲を見たくて横を見たとき、視界に黄緑色の髪の毛が映った。それにコルネリエは心底驚いた。
「えっ!?」
コルネリエの髪の色は、家名にふさわしいオリーブ色だった。両親も、五つ年上の兄も、いつもほめてくれた、自慢の髪色である。
それが、ずっと明るい黄緑色になっているのだから、驚かない方が難しいだろう。
「どうして……っ?」
驚いて体を起こし、己の髪の毛を触ろうと手を伸ばして……そして気が付く。
爪が、やたらと長い。
どこかにぶつけたりひっかけたりするから、デビュタントをすませてからでないと爪を伸ばしてはならないと、コルネリエは母であるペリドット夫人に言われていた。
更に。
うつむいた視界に、大きな、大きな、胸がある。
「????」
コルネリエは理解が出来なさ過ぎて、頭がパンッと破裂しそうになった。
何も、訳が分からない。
「お、おとうさま、おかあさま……」
理解できなさ過ぎて、コルネリエは両親に助けを求めた。
誰かを呼ぼうと部屋を見渡すも、侍女を呼ぶベルすらなぜかなかった。
「う、うぅ、っ」
嗚咽をこらえながら、コルネリエはベッドから降り――ぐらりと、バランスを崩した。
彼女には訳が分からなかったが、これは、彼女の知る体のバランスと、今の体のバランスが違い過ぎたがために倒れてしまったのだった。
倒れたコルネリエの手に、何かがあたる。
「……? 万年筆だわ」
父であるペリドット子爵や、兄であるクーネンがよく使っていた。とても格好良い、大人の男の使うものである。
側面に、N.Hと記載されているので、父の物でも兄クーネンの物でもなさそうだ。
コルネリエはそう一瞬だけ想い、けれどやはり誰かに助けを求めたいと、必死に床を這うようにして、なんとか部屋の外に出た。
ドアに体重をかければなんとか歩けるが、自力で歩くのは困難であろう。
廊下には、誰もいなかった。ぐすりと鼻を鳴らしながら、今両親や兄はどこにいるのだろう、とコルネリエは考えた。
その時、コルネリエがいた部屋の、隣の隣の部屋のドアが開いた。
そうして、茶色みの強いオリーブ色の髪の毛の男が、ふらりと部屋から出てきた。
顔色の悪い男は、顔に手を当てている。
けれどその人物が誰か、コルネリエはすぐに気が付いた。
「クーネンおにいさまっ!」
「……はっ?」
男が、コルネリエの方を見た。
コルネリエはうれしくなって、壁を伝うようにして移動しながら、クーネンの方へと移動していった。
「クーネンおにいさま、ねえ聞いて、おかしいのよ。朝おきたらね、髪の毛の色が黄緑になってるの!」
壁を伝い終わったコルネリエは、兄の胸に抱きついた。クーネンはいつだって、コルネリエを抱きしめてくれていたから、ためらう事はなかった。
「それに、なんだかうまく歩けなくて」
「待て」
「? クーネンおにいさま?」
きょとんとクーネンを見上げるコルネリエだったが、違和感に気が付く。
己を見下ろしたクーネンの瞳に、明らかな疑念のようなものがあったのに、幼い心ながらに気が付いたからだ。
「クーネンおにいさま、どうしたの……?」
「……お前は先程から何を言っているんだ、ナディア。いつからクーネンを兄と慕うようになったんだ」
「へっ?」
コルネリエは首を傾げた。
何故ここで、ナディアの名が出たのか、分からなかったからだ。
「おにいさま、何をおっしゃってるの……? あたし、コルネリエよ。クーネンおにいさまの、妹よ……?」
「馬鹿を言え、コルネリエは確かにクーネンの妹御だが、お前はナディアだろう! それと、ボクはノストルフだ! 何をどうしたら、クーネンと間違える……」
コルネリエはピタリと動きを止め、それから、限界を超えた状況に耐え切れず、大声で泣き始めた。
◆ ◆ ◆
さて。
ペリドット子爵夫妻は、妙な状況に頭を抱える事になった。
まず、朝からクーネンとナディアが争っているという連絡が来て、慌てて二人の元に向かった。
そうすると、クーネンは頭痛でもしているのか頭を押さえ続けており、ナディアの方はええんええんと幼女のように泣いているのである。
あのナディアが、幼女の如く泣いているのである。
それだけでも衝撃であったというのに、その大泣きをしているナディアは、ペリドット子爵夫妻を見て、涙をこぼしながらこう言った。
「おとうさま、おかあさま! クーネンおにいさまが、変なことをおっしゃるのぉ!」
ペリドット子爵夫妻とナディア個人との関係は、実はそれほど悪くない。
だが、義母義父と慕われる段階には至っていなかった。
しかも、ナディアがクーネンを兄などと呼ぶはずがない。あれほど嫌っていたのに。嫌がらせにしても、その呼び方はどこか舌足らずで……。
そこまで考えて、ペリドット夫人はハッとした。
「コルネリエ……?」
二年前に亡くなった、娘の名前を呟いたのは意図しない事であったが、名前を呼ばれたナディアはふらふらと、酷く怪しい足取りでペリドット夫人の方に歩いてくる。
「おかあさまぁ」
怖い事があった時、泣きながら、両腕を伸ばして庇護を求めながら歩いてくるのは、コルネリエの癖であった。
気が付けばペリドット夫人は、ナディアを抱きしめていた。
妻と義理の娘が話している横で、ペリドット子爵は、息子に語り掛けた。
「ナディアにお前は一体何を言っ――」
「ああよかった! おじ様。やはりあれはナディアですよね? 先程から、自分の事をコルネリエだと宣い、さらにはボクの事をクーネンだと言ってきて、困っていたのです!」
「……なんだって?」
ペリドット子爵は目を丸くした。
同時に、横で、ナディアを抱きしめて諫めている妻の声が聞こえてくる。
視線をやれば、そこでは、義理の娘であるはずのナディアが、二年前に死んだ娘の名を名乗りながら、ペリドット夫人に甘えるように抱き着いていた。
それを同じく見たのだろう。クーネンは眉根を寄せて、立ち上がった。
「ナディア! おば様になんと失礼な事をしているんだ! 離れなさい!」
その口調は、クーネンがいつもナディアにぶつけている嫌味の声色とは違った。
年長者が年少者を叱る。そんな声色の声である。
「あたしナディアおねえさまじゃないの!」
そしてナディアもナディアで、そう泣きながら顔を横に振る。
「何を言っているんだナディア。お前はどこからどう見てもナディアだろう。コルネリエじゃない!」
と、クーネンが言い。
「く、クーネンおにいさまこそ、どこから見ても、おにいさまよ! ノストルフおにいさまじゃないわ!」
とナディアが言い返した。
ふたりと、ペリドット子爵は頭を抱えた。
「何が、何が起きてるんだ? クーネン! ナディア! 我々を困らせたいなら、もう十分だ、早く種明かしをしてくれ!」
子爵の言葉に、クーネンとナディアはピタリと動きを止める。
「死者を愚弄する気なのか? コルネリエは、コルネリエは二年前に死んだ! ノストルフに至っては、もう亡くなってから五年も経っているのだぞ!」
コルネリエ・ペリドット子爵令嬢は、二年前に風邪で亡くなった故人である。
そして同じく、ナディアの兄であったノストルフ・ヘリオドール子爵令息も、故人だ。
五年前、乗馬の練習中に落馬し、命を落としている。
ペリドット子爵の言葉に、クーネンとナディアは目を大きく開いた。
ナディアは、フルフルと震えている。
「死んだ……あたし、が、死んだ……?」
「亡くなって、五年? おじ様、何を、言って……」
ハッとした顔になったクーネンが、声を上げた。
「だ、誰か、鏡、鏡を!」
慌てた様子で、この混沌とした部屋の様子に困惑していた使用人が、一つの鏡を持ってくる。その鏡を覗き込んだクーネンは己の顔を触りながら、愕然とした様子でいった。
「――ボクじゃない。ボクの顔じゃない! これはクーネン、なのか? 随分幼さが抜けているけれど……?」
ペリドット子爵は、死人の振りをしていると思ったクーネンが、いまだに友人の既に亡くなっている息子の振りをしている事に、違和感を覚えた。
一方、ペリドット夫人も使用人に鏡を持ってくるように命じて、届いた手鏡をナディアに渡した。
ナディアはそこに映った己の姿を見て、目を大きく見開いた。
「――ナディア、おねえさま? え? なんで? どういう、ことなの?」
嘘偽りなく狼狽えている様子の二人を見ながら、ペリドット夫妻も、酷く困惑していたのだった。
ただ、このままでは何も解決しないと、すぐさまヘリオドール子爵家に「家に来てほしい」という連絡を送る事となった。
そうしてやってきたヘリオドール子爵夫妻に対して、クーネン(の姿をしてノストルフを名乗っている人物)は「父様、母様」と呼びかけた。
対して、ヘリオドール夫妻の実の子であるはずのナディアは、ヘリオドール夫妻に対して「ヘリオドールのおじさま、おばさま」としか声を掛けない。
何か、悪魔に取りつかれたのかと心配になった両家によって、教会の元に助けを求める一報が飛んだ。
両夫妻にとって幸運な事に、この時、最も近い教会に、精霊や魂を視る事が出来ると有名な、高名な修道女が滞在していた。
修道女は「息子/娘に、死んだ友人の子を名乗る悪魔がとりついたのではないか」という連絡を聞き、すぐさまペリドット子爵家にやってきた。
薄水色の、アクアマリンの血族である事が想像つく容姿の修道女は、クーネンとナディアを見た後、顔をしかめた。
「このお二人の部屋を見せていただけますか」
修道女の願い通り、すぐさまクーネンとナディアの私室が開かれた。
双方の部屋を見て回ったのち、修道女は一同が集まったところで、こう切り出した。
「クーネン・ペリドット様とナディア・ペリドット様のお部屋に、禁じられた術の痕跡がございます」
「き、禁じられた術!?」
「はい。こちらを」
と、修道女についてきた若い聖職者が、ぬいぐるみと万年筆を出す。
「あたしのくまちゃん!」
「ボクの万年筆だ」
ナディアとクーネンがそれぞれ口にする。
「こちらのぬいぐるみは、コルネリエ・ペリドット様のもので、お間違いありませんか?」
ペリドット子爵夫妻と、ナディアが頷く。
「こちらの万年筆は、ノストルフ・ヘリオドール様のもので、お間違いありませんか?」
ヘリオドール子爵夫妻と、クーネンが頷く。
それらを見て、修道女は難しい顔のまま、説明を再開した。
「これは推測に過ぎませんが――状況からして、クーネン・ペリドット様とナディア・ペリドット様は、双方、禁じられた術を行使したものと思われます。その術の効果は、生きている人間の体に、死んだ人間の魂を入れるというものでございます」
誰かの息をのむ音が、部屋に響いた。
ペリドット子爵夫妻、ヘリオドール子爵夫妻、そしてクーネンの顔色が青ざめる。
その術のおぞましさを理解したからだ。
死者を生き返らせることそのものへの忌避感ではない。
他人の体を――生きている人間の体を合意もせず奪い、既に死んだ人間の魂を入れるという、命を命と思わぬ所業に、吐き気を感じていたのである。
一方、ナディアは、よくわからないという顔をしていた。
「どうゆうことですか、シスターさま」
成熟した女性の見た目に似合わぬ無垢な問いに、修道女は辛そうな顔をした。
「……貴女の魂は、コルネリエ・ペリドット様です。それは視て確認しても、間違いのない事です。けれど、その体は、貴女自身のものではなく、ナディア・ペリドット様――貴女様にとって分かりやすく言えば、ナディア・ヘリオドール様のものなのです」
ゆっくりと、ゆっくりと言葉をナディアは――コルネリエはかみしめる。
そしてなんとなく理解して、それから呟いた。
「どうして?」
と。
それを聞いていたクーネンが、今度は口を開く。
「――クーネンが、ナディアに術をかけて、コルネリエを生き返らせようとした。そういう事で、間違いありませんか、修道女様」
「ええ。相違ありません。そして、コルネリエ・ペリドット様とナディア・ヘリオドール様の身に起きた事と同じ事が、クーネン・ペリドット様とノストルフ・ヘリオドール様の身に起きております」
修道女の言葉に、クーネン――ノストルフは頭を抱えた。
双方の両親も、どうしたらよいのかわからないと困惑するばかりであった。
ペリドット子爵夫妻からすれば、ナディアのせいでたった一人の息子を失った事になる。
しかし、自分の息子は友人から、大切な娘を奪っている。
ヘリオドール子爵夫妻からしても、クーネンのせいでたった一人の娘を失ってしまったが、同じく、一人娘のせいで、友人は一人息子を失っている。
悪いのは、教会で禁じられるほど悪質な術を使った、クーネンとナディアだ。
しかし肉体こそ二人のものだが、そこにいるのはクーネンとナディアではなく、生者の願望によって無理矢理地上に呼び戻された、ノストルフとコルネリエの二人なのだ。
二人を責めるのも、おかしな話である。
「修道女様。ボクには、死んだ記憶がありません。また、死んだあとの記憶も……何故ですか?」
「術の後遺症です。正当なる方法ではなく、無理に人間の魂を天の国から呼び戻し、さらには別の人間の体に固定させるのです。合わないパーツを、曲げたりゆがめながら無理矢理合わせるので、うまくいきません。むしろ、お二人そろって、自我が安定していることが、奇跡です」
「え……?」
「この術は、簡単な術ではないのです。失敗する確率が高く、失敗した場合、魂のいれる先となった人間は死にますし、無理矢理生者の肉体に入れられようとした魂も傷を負います。その場合、恐らくもっと多くの事をお二人は失っていた事でしょう」
暫くの間、六人全員が黙っていた。
暫くしてから、ペリドット夫人が口を開いた。
「クーネンとナディアは……いえ、コルネリエとノストルフは、罰されるのですか?」
「術を行使した人物。そしてその術を使用するように諭した人物は、罰されるべきでしょう。けれど過去の事例では、この術によって生き返った事を罪とする対応はしておりません。……ここから先はわたくし個人の意見となりますが、教会に申し出る必要はありますが、魂が入れ替わり、別人になっている事は、伏せられた方がよろしいかと。コルネリエ・ペリドット様とノストルフ・ヘリオドール様は被害者なれど、肉体は加害者のもの。また、こうした術そのものを悪いものとして、迫害する人間も出ないとも限りません」
今であれば、二人が錯乱しているらしいという話ですむ。
ここから先、ノストルフとコルネリエがクーネンとナディアのふりをして「苛々してペリドット子爵夫妻に嫌がらせをした」とでもいえば、無理はあるが、中身が入れ替わったなどと考える人間はほぼいないだろうと修道女は語った。
また、肉体と魂の齟齬により何かしら問題が発生する可能性もあるので、定期的に教会で問題がないかを見てもらう必要もあるだろう、とも、修道女は語った。
◆ ◆ ◆
ペリドット子爵夫妻とヘリオドール子爵夫妻は話し合った。
その際、「仲を改善しろと煩い両親/義両親に対する嫌がらせをした罰」として、ノストルフ(クーネン)とコルネリエ(ナディア)の事は別室に謹慎させた。
また、使用人たちにも、朝の騒ぎはクーネンとナディアの演技である、という通達を行った。
幸いにも、これは信じられた。
ペリドット子爵夫妻のいないところで、クーネンもナディアも、「また仲良くしろと言われた」と愚痴を漏らしていたのを、使用人たちは知っていたからだ。
また、二人はそれぞれ亡くなっているノストルフやコルネリエとも親しくしていた。なのでこの二人を上手く演じる事が出来てもおかしくない、と長年仕えている者も思ったのである。
結局、この情報はペリドット子爵家に長く仕え、子爵の信頼厚い数人の使用人たちにだけ共有された。
そのうえで話し合い――両家は、ノストルフとコルネリエを、このまま、クーネンとナディアとして生きながらえさせる事にした。
理由は二つ。
一つ、貴族家の当主として、家門、家名に泥を塗るような事を表沙汰には出来ない。
貴族家当主としての判断だ。
ペリドット子爵家にしても、ヘリオドール子爵家にしても、それぞれの子が教会で禁じられたという術を使ったなどという事を広められては困る。
己の家だけでなく、本家、分家、その他親族にも多大な迷惑がかかるだろう。
修道女の言葉に従い、教会には改めて事の仔細を伝え――既に修道女がある程度報告はしているだろうが――そののち、二人の中身が肉体の持ち主と違う事は秘匿してもらえるように、話すことになった。
一つ、親として、一度死んでいる我が子を、もう一度殺すような真似は出来ない。
純粋な、親心である。
ノストルフもコルネリエも死んだときの記憶はないというが、両親はどちらもよく覚えている。
まだ幼い、未来ある己の子の命の火が目の前で消えていくあの絶望感は、二度も味わいたくない。
あの悲しみも苦しみも、もう一度二人には味合わせたくない。
クーネンもナディアも、どれだけ愚かな真似をしたとしても、大事な子供である。もし目の前にいて話が出来る状態であれば何度も叱り、彼らがまっとうになるように親として向き合っただろう。
だが、今はもう目の前にいない。
魂と会話が出来るような人物であれば話ができるのかもしれないが、ペリドット子爵夫妻も、ヘリオドール子爵夫妻も、どちらもそのような力はない。
だから今は、目の前にいるノストルフとコルネリエを、守りたかった。
――こうして。
十一歳で死んだコルネリエ・ペリドット子爵令嬢は、十七歳のナディア・ペリドット(旧姓ヘリオドール)として。
十五歳で死んだノストルフ・ヘリオドール子爵令息は、十八歳のクーネン・ペリドットとして生きていく事が、決まった。
◆ ◆ ◆
ナディアとなったコルネリエは、この状況にひどく困惑した。
自分はあの風邪をひいてそのまま死んだのだ、と言われても、その後の記憶は曖昧だ。思い出そうとしても、何も思い出せない。
だから死んだという認識が、あまり持てない。
けれど何度鏡を見ても、その姿は、自分のものではなかった。なかよくしていた、ヘリオドール子爵家の、「ナディアおねえさま」の姿である。
ノストルフと比べても、コルネリエは大変な立場にあった。
まず、普通にあるくのさえ一苦労だったのだ。
コルネリエの記憶の中にある十一歳の自分の体と、今動かせる十七歳のナディアの体は、身長が全く違う。
手の長さも足の長さも違うし、肩幅も違う。だから、これぐらい動かせばという感覚と、実際に動く感覚が違い過ぎて、なかなかまともにあるけなかった。
なのでまず、コルネリエは歩く練習から始めなくてはならなかった。
毎日毎日部屋の中を歩き回って――表向き、ナディアは体調を崩して療養している事になった――なんとか歩けるようになったら、勉強だ。
休む時間や自由な時間もある。けれどコルネリエが十一歳までの間に経験した日々と違って、一日の大半が勉強に費やされた。
「もういやよ、いやっ」
顔を抑えて泣くコルネリエの元に来たノストルフは、コルネリエを励ましつつ、けれど残酷な事実を告げた。
「一年で完璧にしろとは言わない。けれどコルネリエ、ゆっくりと君が身に着けていくのを待つ時間はそうないという事は理解してくれ。二年、あるいは三年で、君は淑女として一人前にならなくてはならない」
ナディアが体調を悪くしていると部屋に閉じ込めて置ける時間はそう長くない。暫くすれば、ペリドット子爵家の分家の人々と顔を合わせ、生活していかねばならなくなる。
最悪、子爵家当主の座にコルネリエの両親が就いている間は良いかもしれない。
だが、最終的に、ノストルフとコルネリエはクーネンとナディアとして子爵家当主にならなくてはいけないのだ。
その未来に向けて、本来であれば十一歳が十七歳に成長するまでの六年間で学ぶべき知識を、コルネリエはできるだけ早く取得しなくてはならない。
等倍の速度で学んでいては、いつまでも年齢と精神との齟齬が埋まらないので、少なくとも、一点数倍の速度で。
コルネリエも、そういう事が分かっていない訳ではない。
死んだときは十一歳であったが、それでも十一年間、貴族の娘として育てられていたから、己の立場には果たすべき義務が多く存在することは、理解していた。
それでもつらいと思ってしまうのは止められない。
そして自分のつらさを考えると、同じ立場であるノストルフの事を考えるようになった。
(ノストルフおにいさまはあたしみたいに苦労していないわ)
ノストルフは男性の中でも背が伸びるのが早かった。そのため、十五歳のノストルフと、十八歳のクーネンの身長にはほとんど差がなく、歩いたりする事には特に苦労していなかった。
また、既に社交界にデビューしていて、貴族学院にも通い始めていた事もあり、ノストルフは勉学と向き合う事も慣れたもので、あっという間に十八歳のクーネンのふりが出来るほどに知識もマナーも上達していった。
(あたしだって、学院に通うぐらいお姉さんになってたら、もっと勉強もできたわ。マナーだって、もっとちゃんとできたわ……)
ノストルフの言葉は正論だが、自分と違って恵まれているではないか。
そう、コルネリエは思っていた。
そのようなコルネリエの考えは、様々な事に対して全く考えが及んでいない想像だと気が付いたのは、ヘリオドール子爵夫妻がペリドット子爵家に来訪していた時だった。
ヘリオドール子爵夫妻と、クーネンが部屋にこもって、話し合いをしていた。
何を話しているのだろうと思いながらコルネリエは彼らの会話を盗み聞き――そこで、酷く疲れたような声で、ノストルフがヘリオドール子爵夫妻に話しているのを聞いてしまった。
「父様。母様。ボクは上手くやれているでしょうか……?」
「ええ。ペリドット夫人から、貴方はとても上手く出来ていると話が来ているわ」
「大丈夫だノストルフ。離れて暮らしているが、私たちはいつでもお前の味方だからな」
ひどく弱った雰囲気で、ヘリオドール子爵夫妻に抱きしめられているノストルフを見たとき、コルネリエは気が付いた。
(あたしは――いやな事があったら、すぐお母様に会えたわ……)
ナディアは何かあった時、頼る事の出来る両親がすぐ傍にいた。
また、屋敷の使用人たちも、二年の間に新しく来た者を除き、顔と名前、性格なども一致している。
けれどノストルフはどうだろう。
身体こそ、ここペリドット子爵家の息子であるクーネンの体だ。けれど中身はヘリオドール子爵家の息子であるノストルフ。
ノストルフの中には、クーネンがこの屋敷で暮らして築いてきた記憶も経験もない。
しかも、頼れる実の両親は、同居していないので、簡単に頼る事も出来ない。
確かにノストルフは、コルネリエよりたくさんの事を知っている。
状況にも早く適応した。
けれどそれは、コルネリエと同じく、無理をして状況に適応していただけなのだと、少女は気が付いたのだった。
それから、コルネリエは頑張った。
勉強、マナー。口調も、できる限り十七歳に見合った話し方が出来るように。
そして、使用人と関わる時、できる限りクーネンの傍にいるようにした。
この屋敷で働く人々の事ならば、コルネリエはノストルフより分かる。だからコルネリエができる限り、ノストルフを助ける。
夫婦とは、お互いに助け合う者である。
コルネリエは実の両親を見ていて、そう理解していた。
だからこそ、コルネリエはノストルフを助けられるようにと、頑張るようになったのだった。
◆ ◆ ◆
ノストルフ・ヘリオドールはこの状況に、頭痛がなかなかやまなかった。
それは(自覚はないが)死んだにも関わらず年下の幼馴染の体に入ってしまったからではなく。
そうなった、原因を知ってしまった事が、大きな理由である。
ノストルフが覚えている限り、クーネン・ペリドットとコルネリエ・ペリドットは、とても仲の良い兄妹であった。
ノストルフと妹ナディアの関係もそう悪くはなかったが、クーネンとコルネリエと比べると、やはり礼節のある関係だったと思っている。
それに対してクーネンは、どこであろうとコルネリエを一番に優先し、妹を溺愛していた。彼女のために自分の目を抉り出せと言われれば、抉り出しそうな熱意であった。
ノストルフがクーネンたちの様子をよく知っていたのは、幼い頃から遊び相手として会わされていたからだ。
ノストルフとナディアの両親と、クーネンとコルネリエの両親は学院時代からの仲の良い友人同士。
だからか、双方の子供に男女がいたとき、結婚させたいと親が動いたのはよくある流れであった。
双方、第一子は男児だったので、ノストルフとクーネンしかいないときはそういう話はなかっただろう。
だが、ナディアが生まれた事で、両家の間での結婚はほぼ決定的になった。
――が。
正式に婚約を結ぶ前に、子供たちを合わせているうち、両親たちは気が付いた。
ナディアとクーネンが、相性が悪いのではないか、という点にだ。
ある種、同族嫌悪というものだったのだろう。成長した二人はどちらも気が強く、頑固で、相手を見下す節があった。
だがそれらがはっきりしていない幼い時分で既に、お互いに顔を合わせて会話をするとすぐに殴り合いもみ合いになってしまうのを見て、両親は二人の婚約を諦めたのだ。
だが、クーネンに五歳年下の妹、コルネリエが生まれた事で、話が変わる。
コルネリエ誕生当時、ノストルフはまだ七歳だった。だが、ノストルフはナディアたちほど頑固だったり気が強い性質でもない。
どちらかというと大雑把で、細かい事を気にしない性格だった。
だから、七歳も年下の女の子に合わせて時間を過ごすのは苦ではなかった。
コルネリエも、幼いながらにノストルフに懐いていた。
それを見た両親は、期待に夢を膨らませ、先走った。
ノストルフ・ヘリオドールが十二歳。コルネリエ・ペリドットが五歳の時に、二人の婚約が結ばれたのだ。
二人の関係は良好だった。
七つも離れていると、コルネリエの我儘はたいした事でもなく、簡単に対応ができた。
それだって、遊ぶときの役どころについての話だったり、ちょっとした贈り物の色の好みぐらいの話なので、ノストルフは全く気にしなかった。
きっと、お互いに死んでいなければ、ノストルフとコルネリエとして、結婚していただろう。
(それがどうしてか、兄妹の体で結婚している始末だ)
これだけでも頭が痛いというのに、さらに、クーネンとナディアのそれぞれの部屋から出てきた様々な道具によって、ノストルフも、ペリドット子爵夫妻とヘリオドール子爵夫妻も、頭を抱える事となった。
まず出てきたのは、クーネンの日記だ。
そこに記されていたのは、実の妹コルネリエへの愛の言葉。
家族愛などではない。
もっと生々しい、情欲であった。
これが出てくるまで、クーネンが術を使ってコルネリエを復活させたのは、溺愛していた妹の死を受け入れられなかったからという家族愛由来だと誰もが思っていた。
ところがそれだけではないと知り、しかも生き返った妹相手にそういう事をし、子を儲けるつもりであった事まで記されていて、ノストルフは嘔吐した。
ペリドット夫人も倒れてしまった。
ジュラエル王国において、近親相姦は認められていない。
そうした発想になる事そのものが、もう、吐き気を催す受け入れがたいものであった。
クーネンの私物はすべて、隠されていたものを含めて回収され、点検され、すべて廃棄された。間違いなく灰になったのを、ペリドット子爵が直々に確認するほどであった。
それだけで事は終わらなかった。
クーネンは、妹への歪んだ愛情で禁じられた術を使った。
ではナディアは――? となるのは当然の事で。
ナディアの私室を別の部屋に動かして、ナディアが使っていた部屋も、すべてが点検された。
更に、実家であるヘリオドール子爵家のナディアの部屋も、隅々まで探索がなされた。
そうして発覚したのは、ナディアがノストルフに向けていた、重すぎる恋情の証明だった。
ノストルフは知らなかったが、ナディアは一人の男としてノストルフを愛していたのだ。
ノストルフとコルネリエの婚約が結ばれた時などはとても荒れていた――なおこれはクーネンも同じだったが――し、ノストルフが死んでしまった時は、どうしてコルネリエは生きているのだ、大事な婚約者が死んだのに後を追わないなんて、と過激な事まで書かれていた。
ノストルフは、ナディアを妹以上に見た事などない。
また、クーネンのように事あるごとに抱きしめたりして妹をかわいがるような所作も、したことはない。
だがそうして距離が(とはいっても張り付かないだけで、ごく普通の距離感だ)あるからこそ、よけいに燃え上がったのかもしれないが――今となっては、分からない。
ただ、そうしたナディアの日記などを見た父が倒れてしまい、母の数日寝込んだ、という事だけはノストルフの耳にも届いた。
驚くほどに、クーネンとナディアは似た者同士だった。
どちらも、本来なら結ばれる事の出来ない実の兄妹を呼び戻し、他者の肉体を使う事で、結ばれても問題のない関係になろうとした。
いや、むしろ、使う体の持ち主が既に結婚していたわけだから、もしどちらかだけがあの手段を用いていた場合、コルネリエもノストルフも、簡単には相手から逃れる事は出来なかっただろう。
肉体は自分のものではないし、「自分はノストルフだ」「コルネリエだ」と主張しても、周りからは信じてもらえない可能性が高い。
かつて可愛がっていた妹と幼馴染だった。
だが今となっては、ノストルフは、二人に嫌悪感しか抱けないと思った。
ノストルフは、残りの人生をクーネン・ペリドットとして生きていく事を決意した。
既に実家は、ノストルフからみて従弟にあたる人物が両親の養子となり、跡継ぎとなる事が決まっているし、そもそもクーネンの体では後は継げない。
だからペリドット子爵家の次期当主として、この家を盛り上げていく――のは良いのだが、そこには一つ、大きな障害があった。
それは、既に妻となっているコルネリエである。
コルネリエ自身がどうという話ではなく、彼女が使っている体が精神的な実妹であるという点だ。
中身はコルネリエなのだが、見た目はナディアなのだ。確かにノストルフが知っているナディアよりも成熟した女性に成長していて、全く一緒ではない。
だが見るだけでナディアと分かる程度にはナディアそのものの見た目なのだ。
しかも、ノストルフはナディアが自分と子づくりしたいと思っていたことなどを、ダイレクトに彼女が記した日記で知ってしまっている。
コルネリエ自身は悪くない。
だがとてもではないが、実の妹の見た目をした人間を抱ける心境にはなれなかった。
幸いだったのは、コルネリエはノストルフ以上に肉体と精神の乖離が激しいことから、そうそう子作りなんて段階に話が進むことはなかった事だ。
まず歩く事から、なんて話をしている人間相手に、子作りの問題を悩む方が変な話だとすら、ノストルフは思うのであった。
◆ ◆ ◆
ノストルフとコルネリエの成り代わりは誰かにバレる事はないまま、月日が過ぎた。
教会はこの術による成り代わりを理解しているが、修道女の言葉通り、二家が罰せられる事はなかった。
そして定期的にノストルフとコルネリエは修道女や他の聖職者と顔を合わせたが、肉体と魂の不調はなく、むしろ年々馴染んでいるといわれた。
そうこうしている間に、ノストルフとコルネリエの関係性も変わっていった。
コルネリエは急速に学び、マナーを習得し、一気に幼さがなくなって凛とした大人になった。
そしてノストルフは体感したのだが、同じ肉体でも、使う人間が使うと随分雰囲気が違った。
当初はコルネリエと思うより、ナディアと感じてしまう事が多かったが、次第に、違和感なく相手をコルネリエと思えるようになったのだ。
コルネリエの好みとナディアの好みが違う事も影響していたかもしれない。
ナディアは派手で目立つ物が好きだったが、コルネリエはそうしたものより可愛らしいものが好きだった。自然と、身の回りのものもそうしたものばかりとなった。
笑顔だって、パーツは同じはずなのに、ナディアの笑顔とコルネリエの笑顔は全く違う。
成り代わってからもうすぐ二年。
二人は未だに手をつなぐぐらいの接触しかしていないが、それでもお互いに支え合う、良きパートナーとなった。
◆ ◆ ◆
美しい春の花の咲き誇る日、ペリドット一族の祖であるペリドット伯爵家にて、ガーデンパーティーが開かれていた。
ペリドットの一族が一堂に会するこのパーティーに、ノストルフとコルネリエは、クーネンとナディアとして参加する事になった。
昨年は新婚したばかり、かつ、ナディアの体調不良を理由に、子爵夫妻しか参加していなかったが、今年は参加せざるを得ないため、二人は仲良く連れだって参加する事となった。
本当に近しい親族だけを招いたパーティーはした事があったが、それ以外も参加する大型宴席に参列するのは、二人とも初めてである。
実質、コルネリエにとってはデビュタントともいえるだろう。
それもあって、コルネリエは夜会ほど派手ではないものの、ペリドット夫人と二人、何日も話し合って、今日のドレスを仕立てていた。
「似合っているよ、コルネリエ」
「うれしいです。ありがとうございます、ノストルフ」
ちなみに呼び方に関しては、おにいさまと言われるといつまでも妙な罪悪感などが掻き立てられるので、随分前に、呼び捨てにするよう頼んだのだった。
――さて。
ガーデンパーティーが始まる。
最初は子爵夫妻の傍にいたノストルフとコルネリエだったが、すぐに二人だけで歩くようになった。そうすると、クーネンたちと同年代の令息たちがわらわらと集まってきた。
「やあ久しいなクーネン殿」
「クーネン殿、奥方を紹介してくれないか」
クーネンはその願いに答えて、ナディアをみた。コルネリエは、美しいカーテーシーを披露した。
「ナディア・ペリドットでございますわ。生家はヘリオドール子爵家でございます」
美しい黄緑の瞳を細めながら挨拶をするコルネリエに、ペリドット一族の令息たちは一瞬、目を奪われる。
そののち、一人の令息がコルネリエにこう挨拶した。
「お会いできて幸栄だ、ナディア夫人。すまないが、貴女の夫をしばし借りてもよいだろうが?」
「失礼。今日はコルネリエの傍を離れない予定なんだ」
クーネンの友人だったのだろう男の言葉に、ノストルフはすぐに割り込んだ。
驚いた様子の友人は、恐らく、クーネンとナディアの不仲を知っているのだろう。
「え……? どうしたんだクーネン」
「どうしたもない。ナディアは今年、初めての参加だ。離れては不安にさせてしまうだろう」
他の令息たちもざわついている。
一体クーネンはどれだけナディアの愚痴を吐いていたのか。
或いは愚痴ではなく、こういう場で若い妻を放置する男と思われていただけかもしれない。
「お前……本当にクーネンか?」
令息の一人に問われて、ノストルフは片眉を上げた。
「当たり前だろう」
「だって、お前……随分変わった事を言う」
「結婚したんだ。独身の頃とは変わるさ」
ノストルフはそう言って、コルネリエを抱き寄せた。コルネリエは一瞬目を丸くさせた後、ノストルフの事を見上げる。
視線が合うと、コルネリエはふわりと柔らかな微笑みを浮かべた。
その微笑みで、ノストルフの胸には温かいものが広がった。
「では、まだ挨拶しなくてはならない方々が残っているから、我々は失礼するよ」
「あ、ああ……」
困惑している令息たちから、ノストルフは離れた。
彼らがクーネンと仲が良かったのなら、あまり長時間話してはボロがでかねないからだ。
暫く色々な人に挨拶をして回ったが、ノストルフは「随分立派になった様子だ」と褒められる事が多かった。
休憩のために用意されたガセボの一つに腰かけて、ノストルフはため息を吐いた。
「はぁ……クーネンは一体何をしていたんだ、今まで」
ついこぼした愚痴に、コルネリエは困った顔をした。
「今になって思いますと……いつもあたしを連れて歩くか、若い方たちと遊んでおられたように思いますわ」
「まあ、結婚したことで貴族としての自覚が芽生えた、と前向きに考えてくださる方が多いから良いんだが」
二人はそう話をしてから、立ち上がった。ガセボをいつまでも占有していては、他の休憩したい人物が困るからだ。
そうしてガーデンパーティーの中心に戻る。飲み物を使用人から受け取り歩き出したところで――ばしゃり、という音がした。
「あ」
「え」
という間抜けな声が響く。
ノストルフは横を見た。コルネリエのドレスに、赤いシミが出来ていた。
そしてコルネリエと先程すれ違った夫婦のうち、男の方が、顔色を悪くしていた。彼の持つ手には赤い液体――恐らくワイン――の入ったグラスがあり、その中身はほとんどなくなっていた。
「あ――いや――」
咄嗟の事に反応するのが苦手なのか、言葉も発せないまま男は顔色を悪くさせている。
男のパートナーの女性は少し遅れて事態を認識したらしく、さっと顔色を変えてこちらに頭を下げ始めた。
「なんてこと……っ、申し訳ありません!」
「も、申し訳ありませんっ、手が滑って……」
男の方の、謝罪にすぐ続いた言い訳染みた言葉には少しイラっとしたが、ノストルフはすぐ、固まっているコルネリエの顔を覗き込む。
「控室に行こう、コルネリエ」
こくりと、小さくコルネリエが頷いた。
「あ、あの」
――視界の隅で、クーネンとコルネリエの両親が、こちらに向かってくるのが見えた。遠いが、ノストルフの視線を受けて、確かに頷いたのが見える。
「失礼だが、レキドンのペリドット子爵夫妻をご自分で探してくれ。今、こちらに向かってきている。クーネンの父母だ。謝罪もその後の対応も、彼らと貴殿らが話し合ってくれ」
自分がワインをかけたのが子爵家の人間と知った男の顔色は真っ白だ。
振り返り、まだ遠いが、間違いなくこちらに向かってきている夫妻の顔を見ていた。
参加前に渡され、把握していた重要人物の似顔絵にはなかったので、どこかの家の分家筋だろうと思われるが――しかし、これ以上相手には構っていられない。
コルネリエの瞳には水の膜が張っており、ギリギリで耐えている事が、ノストルフには分かっていたから。
今すぐ動こう。そう思ったノストルフだったが、ぐ、と組んでいた腕が引っ張られた。横のコルネリエを見れば、コルネリエは泣くのを耐えながら、けれど足を踏ん張っているらしかった。
(……そうか。ペリドット子爵夫妻が来るのを待つつもりか)
本心では、汚れたドレスのまま立ってはいたくないだろう。けれどなんの説明もなしに、両親にこの場を放り出そうと思っていないのだと気が付いて、自分の方がよほど理性を失っていると分かった。
なのでノストルフは、コルネリエの顔ができる限り他人に見られないようにと、抱きしめる。
コルネリエもノストルフの胸にそっと顔を伏せた。
そうして少し待つと、ペリドット夫妻が到着した。
簡潔に、すれ違った時にワインがドレスにかかった旨を伝える。
「ぶつかったわけではないのだな?」
「……はい。すくなくともあたしは、ぶつかったとは感じませんでした」
「ぶ、ぶつかってはおりませんでした……」
コルネリエと相手の意見が一致する。
ちょうどそこで、ガーデンパーティーの主催である伯爵家の使用人たちが一同の元に到着し、ノストルフとコルネリエ、ペリドット子爵夫妻、そしてワインをこぼした男性とそのパートナーの女性の六人は、ガーデンパーティーの会場から控室へと移動する事となった。
メインの話し合いはペリドット子爵夫妻に任せて、ノストルフはコルネリエと共に別室に向かう。
「代わりのドレスの方を、伯爵家からご用意いたします。今しばらくお待ちくださいませ」
使用人にそういわれ、二人きりになった。
そうしたところで、ノストルフは、椅子に腰かけているコルネリエの目の前に、跪いた。
そうすると、二人の目線はほとんど同じになる。いや、ノストルフの方がやや目線が低くなる。
だが黙って俯いているコルネリエの顔も、よく見えた。
泣くのを耐えている姿は、もう、ナディアとは重なりもしなかった。
彼女はもう、己の妻のコルネリエにしか見えない。
「コルネリエ。もう我慢する必要はない」
「……っ、泣きません。淑女は、こんな、簡単に、公的な場で、泣きませんっ」
「そうだな。だけど、今はボクしかいない。ボクしか、君を見ていない」
その言葉を告げて少しすると、小さく、耐えるようにしながら、コルネリエが嗚咽を漏らし始めた。
そんな妻の体を、ノストルフはそっと抱きしめた。
事の一件そのものは、そこまで大ごとにはならなかった。
それは何より、相手とそのパートナーが誠心誠意、ペリドット子爵夫妻に謝罪したお陰だ。
どうやらコルネリエにワインをかけてしまった男性は、今回が初めてのパーティー参加であったらしい。あちらこちらに挨拶をして回り、疲労し、持っていたグラスが傾いた事に気が付かなかった。
だから一瞬、コルネリエのドレスを汚したワインが自分の持っていたものだと気が付かず、言葉が出てこず、あの場での対応が言い訳染みてしまったのだという。
ノストルフは本人への処罰には不服も感じたが、しかし、コルネリエ本人は相手が初めてパーティーに参加したと聞き、同情から許してしまった。
「あたしもあの人と同じようなものです。あたしはノストルフが傍にいてくれたから失態を犯さなかったけれど……そうでなかったらきっと、もっとひどい失態を犯していたわ」
そう、被害者のコルネリエが言うので、ノストルフはペリドット子爵夫妻の判断に異を唱える事はやめた。
それに、本人はともかく、傍にいたパートナーは事態に気が付き、すぐに謝罪を述べてきた。
また、今回のパーティーは主催は伯爵家だ。あまり騒ぎ続けると、伯爵家からも睨まれる可能性もあった。
◆ ◆ ◆
――コルネリエはあのガーデンパーティー以来、男性のパートナーであった女性(ちなみにあの二人は恋人や夫婦ではなく姉弟であったらしい)とも親しくしており、楽し気である。
今までは兄と幼馴染の兄妹以外、触れ合う人間がいなかったコルネリエにとって、友人が出来るのはとても楽しいようだ。
あのガーデンパーティーは、ノストルフとコルネリエにとってもとても良い結論を招いた。
クーネンとナディアは、双方、あまりよくない噂を抱えていた。
まずクーネンはシンプルに、精神が幼いだとか言われて、親族間であまり印象がよくなかったようだ。
それが結婚し、妻をしっかりと守っている姿が外に出て、随分成長したといわれるようになった。
ナディアも、結婚後、当初の夫婦争いが外に漏れていたようで、嫁いできてそうそうに夫に歯向かった、と年配からは悪く思われていた。
また、クーネンも結婚前からなのか結婚後なのか、色々なところでナディアの愚痴を言っていたようで、そちら方面から出てきた悪評も経っていた。
しかしパーティーで夫に寄り添い、お互いに信頼しきった様子で過ごしていた事。
また、見るからに力を入れて用意をしたとみられるドレスが汚れても、相手を即座に責め立てるような真似もしなかった事などにより、好意的にみられるようになったのであった。
◆ ◆ ◆
「ねえノストルフ。キスもしてくれないのは、あたしを女に見れないから?」
ブッ、とノストルフは紅茶を噴き出した。
定期的に取っている、二人きりの時間だ。部屋の中にいるのは、ペリドット子爵夫妻の信頼厚い、二人の事情を知っている者だけなので、お互いに本当の名で呼び合って問題。
「……コルネリエ?」
「夫婦なのに、あたしたち、同じベッドでも寝てないわ」
夫婦仲が良好になった外部へのアピールもあり、寝室は共にしている。けれど普段は二人で眠るようのベッドと別にシングルベッドを用意しており、そちらで眠っていた。
しかしそれでは部屋の掃除に入る使用人に疑われてしまうので、定期的にどちらかが二人用のベッドで寝て誤魔化して……と過ごしてきていたのだ。
だがどうやら、その誤魔化しは、そろそろ終わりらしい。
「あたしの体が、ナディアおねえさまだから……やっぱり、そうは思えないのでしょう?」
うつむいて、少し、辛そうな顔でコルネリエが言う。
ノストルフは必死に口元をハンカチーフで抜き取って、それから、ごほん、と咳払いをわざとらしく一つした。
「……そうだな。そろそろ、そういう話も、するべきだろう」
コルネリエと向き合う。
そこにいるのは、コルネリエだ。
髪の毛も目の色も、骨格なども、ノストルフが知る、かつてのコルネリエ・ペリドットとは異なる。
「確かに。こうなった最初のころ、ボクは君と体を重ねるなんて、とんでもないと思っていた。それは中身が違うとはいえ、君が、妹のナディアにしか見えなかったからだ」
ぎゅ、とコルネリエが唇を引き締める。けれど俯きそうになった彼女の頬を、ノストルフはそっと救い上げた。
「けれど。……今はそんな風には思わない。君の顔を見て、ナディアを思い出すことなんてほとんどなくなったよ」
「まだあるのね」
「少しはね。コルネリエは、今のボクの姿を見て、クーネンを思い出すことは少しもないのかい?」
「……時折、あるわ。でも、普段は、おにいさまとは思わない」
「一緒だな」
ノストルフはそう笑って、不安か、不満か、唇を少しとがらせているコルネリエに、そっと口づけた。
唇が離れると、コルネリエは数拍おいて自体に気が付いたようで、その頬が色づく。
「の、ノ、ノスッ」
「今の君の体は、確かに大人だ。でもコルネリエ、君の精神的な年齢は、まだ十三歳ぐらい、だろう? 君にとってはこういう触れ合いはまだ恐ろしい事なのではないかと思って、ずっと触れずにいたけれど――君が望むなら、触れ合いを初めても構わないよ」
ボッと顔中が真っ赤になって、「あ」だとか「う」だとか言葉を漏らすコルネリエに、ノストルフはカラリと笑った。
「その様子では、まだ褥を共にするのは先だなあ」
「こ、子供扱いしないでくださいまし!」
「コルネリエ。焦る必要はないと思うんだ。ボクたちには、まだ、未来がある」
本来得るはずはなかった未来を、コルネリエとノストルフは手に入れている。望んだものではなく、無理矢理始まったものだとはいえ……まだ二人の人生は、続いていく。
「だから、君がゆっくり、その心構えができたなら、あのベッドに二人で眠ろう」
ノストルフの言葉に、コルネリエは少しの沈黙ののち、こう聞いた。
「……でも、たまにはキスしてくれる?」
「触れるだけなら」
「? 触れる以外があるの?」
おっと墓穴を掘ったと、ノストルフは誤魔化すように、もう一度コルネリエに口づけたのだった。
書きたかったのは双方自分の事しか考えてない夫婦が同じ術を使った結果、なぜか被害者だけが残るというくだりだったので、その他は余談みたいな話になってしまいました。最後に被害者がちゃんとハッピーになれていればいいのですが……。
◆コルネリエ・ペリドット子爵令嬢
ペリドット子爵家の長女。
幼くして風邪をこじらせ、そのまま亡くなってしまった。
その後は普通の死者同様に、天の国から家族をたまに見守って……兄が妙な事をしていると心配していたが、兄のした術によりそのあたりの記憶は失って、ナディアの体に魂だけ入る事となった。
精神的に幼かった事もあり、生前は兄の気持ち悪さには気が付いていなかった。
最終的に、もともと婚約者であったノストルフと夫婦になったので、まわりまわって元通りになったといえるのかもしれない。
兄が自分を女として見ていた事は知らない。
◆ノストルフ・ヘリオドール子爵令息
ヘリオドール子爵家の長男。
馬に乗っていた時、不慮の事故で命を落とした。
死後は天の国に行き、妹のナディアが自分に性欲を抱いていたりした事を知って愕然としたりしていたが、そのあたりの記憶は失い、クーネンの体に入る事となった。
コルネリエと比べればまだいろいろな知識や習得したマナーもあったが、それでも亡くなった時はまだ十五歳。十八歳のクーネンとの差は存在していた。しかしコルネリエの方が大変だから、自分がしっかりして彼女をフォローしなくてはならない……と頑張っていた。
当初はナディアとクーネンの思いを知ってしまった事もあり、コルネリエと夫婦関係を築くなんて無理だ……と思っていたが、そもそも夫婦関係は肉体関係がすべてではない訳で、肉体関係以外をまっとうに築くうちだんだんとコルネリエをナディアと同一視することもなくなった。
回りまわって婚約者だったコルネリエと夫婦になったので、元通りでもある。
◆クーネン・ペリドット子爵令息
ペリドット子爵家の長男。
妹のコルネリエを溺愛しており、その愛は情欲を伴ったものだった。やばいシスコン。
コルネリエを蘇らせるために嫌いなナディアと結婚し術を使ったが……。
術が成功したお陰で、体を追い出された後は魂が壊れる事もなく、自分の体が奪われた事を自覚した。ひどく騒いだが、ノストルフとコルネリエが定期的に教会に訪れていたせいで、我欲にまみれていた彼は近くにいる事が出来ず、最終的にはペリドット子爵家の精霊の我慢が限界に達して、強制的にあの世に送られている。
◆ナディア・ヘリオドール子爵令嬢 → (結婚後)ペリドット
ヘリオドール子爵家の長女。
実の兄であるノストルフを男として愛していた。やばいブラコン。
突如死んだ兄を取り戻し、愛し合って生きていくために、術を使ったが……。
ちなみに経緯はクーネンとほぼ同じであり(術を知ったタイミングはクーネンより先)、前々からクーネンと結婚して彼の体を使う事を考えていた。自分の生まれ育った屋敷でもないのに、使用人たちを上手く使って、クーネンに目印を仕込み、彼の部屋そのものに見えないものの今回の術に仕えるという液体(謎の人物産)を使って陣を描いていた。
愛する兄と婚約していたコルネリエの事は女として嫌っていた(婚約前はそうでもなかった)訳だが、そのコルネリエに体を奪われ、しかもコルネリエは愛する兄と夫婦になっており、死んだ後も怒り狂っていた。ペリドット子爵家の精霊より判断の早いヘリオドール子爵家の精霊により、サクッとこの世から引きはがされている。
◆ペリドット子爵夫妻
クーネンとコルネリエの両親。
幼くして娘を失い、息子が自分で望んで結婚したと思ったら嫁といがみ合って、それに困っていたと思ったら息子が非道な術を使って死んだ娘を蘇らせた。その代わりに息子は死んだ。
ヘリオドール子爵夫妻と並んで可哀そうな被害者。
友人であるヘリオドール子爵夫妻との関係もあって子供たちを一度は婚約させようとしたが、相性が悪いと分かればすぐ婚約の話を消す程度に理性はある。
そもそも子供同士がつながらずとも、自分たちの友情に問題が起こるわけではないので。
◆ヘリオドール子爵夫妻
ノストルフとナディアの両親。
将来有望と言われていた息子が突如亡くなり、娘が望んで嫁いでいったかと思えば嫁ぎ先で問題を起こしまくってどうしたらいいと悩んでいたかと思えば、娘が非道な術を使って死んだ息子を蘇らせた。その代わりに娘は死んだ。
ペリドット子爵夫妻と並んで可哀そうな被害者。
こちらも、仲が良いからという理由で子供たちを引き合わせるも、駄目そうならするに婚約の話を消す程度に理性がちゃんとある。
実質的に娘は嫁に行き、息子も婿にいってしまったような状態になったが、遠くから息子が幸せそうに生きているのを見て、ホッとしている。