プロローグ
………不自由も、不満も、さほどなく暮らしていたと思う。
物心つく前に実の両親とは死別したらしいが、記憶がないからかあまり今でも悲しいとは思わない。その上、有難いことに養親に恵まれた自分は、こうして周囲と何ら変わりなく高校生活最後の夏季休暇を迎えた。
養父は大財閥の社長で、その妻である養母は一流のファッションデザイナー。子供に恵まれなかった夫婦は、孤児院から引き取った自分を世間的に言えば過保護と言われる程に愛してくれている…と自負できる。2人とも時に厳しく、時に優しく、自分を本当の娘のように育ててくれて家族仲はいたって良好だ。
「先輩!!」
うだるような暑さの中なんとなくそんな事を考えていた少女は、自分を呼ぶ複数の声で我に返った。
「……ん?」
その声の主は共に帰路に就く運動部の後輩達だ。皆彼女を、周囲曰く少々過剰気味に慕っている。
終業式の後、挨拶がてらすでに引退した部室に顔を出すと、そのまま練習に巻き込まれて今に至る。
「あそこ見てください!!」「蛇!!」
口々にそう言って自分の腕やらなんやらに抱き着いてくる後輩達に更なる暑さを覚えながら、彼女も視線を移した。
「蛇?」
しかしすぐには見つけられず聞き返すと、後輩の1人が指をさした。
「白いやつ!!」
指の先を追うとそこには確かに、白く細長い何かがいた。一見しただけではただの紐と思ってもおかしくないが、目を凝らすと動いている。
「……」
こんな人通りの多い場所に蛇がいるのが見つかったら、騒ぎになるかもしれない。そんな考えで、体が自然と動いた。
「えっ、ちょっと先輩?!」「うっそー!!」
声を上げるのも無理はない。
「おいで、虐めたりしないから」
彼女が何の躊躇いもなく、蛇に手を差し伸べたのだから。
「……」
真っ白なその蛇は、彼女の言葉が分かるかのように差し出された手に乗った。
「良い子」
自分達の大好きな先輩が満足そうに言うと、騒いでいた女子部員は全員静かになった。
「先輩、その子どうするんですか?」
「ん~…こんなに綺麗な子だし、人馴れしてるからどっかのペットかもしんないな」
なんとなく彼女の手の上で満足気にしているよう見える蛇を、優しい瞳で見つめながら答える。
「迷い猫ならぬ迷い蛇?」
「交番に届ける?」
「でも蛇って脱走とかするんですか?」
「放し飼いは流石にないだろうしねー」
口々に疑問を口にしながらも、少し遠巻きに見てくる後輩に、少女は内心苦笑する。
少女は爬虫類に抵抗がないどころかむしろ好きな方だ。しかし、犬や猫と比べたら苦手な人が多いのも事実。彼女達の態度にそれが顕著に現れていることを仕方ないとは思っても不満はない。
「…とりあえず今日は家に連れてくか」
全国大会を幾度となく制覇している強豪校の部に所属する彼女達は、終業式の後だろうがなんだろうがみっちり練習する。それに最後まで付き合っていたのだ、日没の時刻はとうに過ぎていた。
「確かに……今から交番って遠いですよね」
「真っ暗になっちゃったら帰り道危ないし」
夏とはいえ、もうじき完全に夜になるだろう。彼女と同じ考えに辿り着いたのか、後輩皆でうんうんと首を縦に振る。ペットであった場合飼い主には申し訳ないが、夜道を避けるために一晩だけ許して欲しいと思う。
「明日にでも交番に行ってくるよ」
「……あっ、でも先輩の家、猫ちゃんいますよね?」
心配そうにそう口にした後輩に、彼女は優しく微笑みを返すことで答えた。
「ただいま~」
彼女の養親が所有するマンションは、所謂デザイナーズマンションというやつだった。その最上階フロアを全てぶち抜いて“一部屋”という扱いにし、あまつさえ愛娘の一人暮らしのためにプレゼントする辺り金銭感覚も溺愛っぷりも常軌を逸している。まぁ文句など当然ないし、ありがたく快適に住まわせていただいているが。
「んな~」「な~う」
返事をするヒトは居ないが、2匹の猫が姿勢良く座って出迎えた。
「ラグナート、ベルフェ、お迎えありがとう」
ラグナートと呼ばれた黒い長毛種は、蒼玉のような瞳で彼女を見上げ、ベルフェと呼ばれた白い短毛種は、翠玉のような瞳を細めて彼女の足に擦り寄った。
「今日はこの子も家族として仲良くしてあげて」
彼女がそう言うと、大人しくとぐろを巻いて少女の手で運ばれて来た蛇が、その手から二匹を見下ろすように顔を覗かせた。
「「「!!?」」」
「あれ?皆固まってどうした」
顔を合わせてそのまま動かなくなった3匹に、1人首を傾げる。
「………?
ま、仲良くやってくれ、私はシャワーに行ってくるよ」
呼び掛けても動く気配のない様子に不思議そうにしながら、蛇を手頃な高さの観葉植物に移し、彼女は部屋の奥に消えた。
「……何故貴様がここに」
彼女が浴室に行ったのを確認した後、ラグナートが口を開いた。
「それはこちらの台詞だ」
観葉植物の上から、あの白蛇が答える。
「お前が動く程の事が、あっちであったってのか?」
それに対し、ベルフェが剣呑な眼差しを向けて問いかけた。
驚くことにこの3匹は何食わぬ顔で人間の言葉を発しているが、それにツッコむ者はいない。
「こちらが先だ
何故蒼の王と翠の王がここにいる」
威厳をもってそう言う白蛇に、ラグナートは不機嫌そうに唸り、ベルフェは肩を竦めた。
「お前達は、それぞれ“薔薇”を探しに行ったはずだが?」
「別に間違ってねぇよ?その通りだ」
「フン」
白蛇の言葉に、ベルフェが答え、ラグナートはそっぽを向いた。
「私が見る限り……1人の娘に飼われているようにしか見えないのだが」
「そりゃこの姿だしな」
「貴様にとやかく言われる筋合いはない」
白蛇に各々が反応すると、表情筋が存在しないはずの蛇が目を眇めた。
「そもそも同じ場所にいる時点でおかしいだろう
“薔薇”とは何か忘れたのか?」
「それはまぁ……そうなるか」
「………………」
唐突に沈黙が訪れる。白蛇に2匹が言い返さなかったからだ。
しかし、3匹にはいつまでも沈黙している時間はなかった。
少女が浴室から出てくれば、人語で会話するわけにもいかない。少なくとも今はまだ、自分たちは動物でいなければならないだろう。
「はぁ……お前たちへの言及は後だ」
優先事項を正しく選択してそう宣言した白蛇は、早急に話題を変えた。
「……皇帝が、崩御された」
咳払いを一つして白蛇が厳かに放った言葉に、2匹が瞠目する。
「……暗殺か?」
「それとも流行病とか?」
ラグナートとベルフェ、そのどちらにも白蛇が曖昧に頷く。
「暗殺とも言えるし、流行病とも言える」
「は?」
「両立せんだろう、気でも触れたか」
「暫く皇都を離れていたお前達に私を疑うだけの根拠が?」
「「…………」」
一言で2匹を黙らせた白蛇は、スルスルと植物の幹を伝って床まで降りる。
「皇帝は、流行病を利用して暗殺されたのだと我々は見ている」
そう言いながら、少女がいる浴室のドアの前まで移動した。
「流行病なら民にもかなりの犠牲が出てんじゃないか?」
ベルフェの疑問に、白蛇は首を横に振った。ラグナートは黙って2匹の会話を聞いている。
「皇帝を蝕んだのは、瘴気だ」
「瘴気だって?」
「うむ、そのことから恐らく標的は──」
そこまで話してふと、白蛇は鎌首をもたげた。
「ふ~……………………ん?」
少女が濡れた髪を拭きながら、浴室のドアを開けると、そこには白蛇と飼い猫達がいた。
「あれ、皆揃ってどうした?」
こてん、と首を傾げる彼女だったが、3匹とも動かない。
「君も待っててくれたの?」
それを特に気にもせずしゃがんで、鎌首をもたげていた白蛇の頭を優しく撫でた。
「ありがとう、優しいんだな」
目元を細めた彼女に、白蛇が擦り寄る。
「「………………」」
そのまま手を登っていく白蛇と、表情こそあまり変わらないものの嬉しそうな主人を見て、2匹が不機嫌になったことに気付く者はいなかった。
「───、─」
「…ん?」
「─て、───え」
「なに……」
「─きて、───ん」
「誰……」
「起きてほしいなぁ、綺麗で可愛いお嬢さん?」
「……!!?」
猫に挟まれて眠りについていた少女が勢いよく飛び起きた。ここには彼女以外、ヒトはいない。人が話す言葉が、自分に聞こえるわけがない。その異常事態に本能的に反応したのだ。
「……なんだ、ここ」
寝ぼける暇もなく覚醒した少女の視界には、見慣れたものは何一つ映らなかった。愛猫も、保護した白蛇もいない。見渡す限りでは窓がないし、天井も含めて真っ黒な壁紙は一見重苦しさを感じさせるような部屋。
しかし実際には、少女はそう感じなかった。壁に掛けられた2枚のタペストリーを見ると、紫の天鵞絨に金の糸で蓮、赤の天鵞絨に銀の糸でダリアの刺繍が施されており、それぞれとても美しい。少し離れた場所に見える執務机は木製アンティークなのか、鈍い光を放つ重厚な物で、所々に繊細な彫刻が施されている。自分のいるベッドのすぐ側にあるサイドテーブルもその執務机と同じ細工の高級品に見えるし、その上に置かれた青と白のガラスで作られたランプはいつぞやにガラス美術館で見た歴史的作品と見紛うほどに美しい。
「おかえりなさい、お嬢さん」
「!」
自分の置かれた状況を把握することそっちのけでしばらく内装に見入っていた少女だが、呑気な声がそれを現実に引き戻す。
「いつ見てもこの部屋のセンスは素晴らしいよねぇ」
声の主は、腰まである煌めく白銀の髪を持つ青年だった。ランプの明かりに照らされて何色にも光るそれはなんとも言えない神秘的なものだ。
角度によって水色にも黄色にも見える不思議な色彩のアーモンドアイ、すっと通った鼻筋、形のいい唇。それらすべてのパーツが完璧に配置されている。後輩達の言葉を借りるならいわゆるイケメンというやつだろうか。
しかしそれはあくまで後輩達が見たらというだけで少女はそんな青年の見た目には目もくれず、疑問だけを口にした。
「どちら様ですか…?」
彼は“おかえりなさい”と言ったが、少女はこの部屋にも青年にも全く見覚えがないし、なんなら自分の寝室はどこに消えたのか説明して欲しい。
「……おや、お嬢さんは覚えてないのかな?」
青年の涼しい表情が驚きに変わった。
「覚えてないも何も…生まれてこの方こんな場所に来たこともあなたに会ったこともないと思いますが……」
「ふむ…………」
青年は暫し脳内で自分と会話する。
まさかの忘れられてる感じ?え、つらい無理。てかなんで?記憶が消えるなんてそんな術式組み込んでないんですけど?まさか人違い?いやそれこそありえないよねなんてったって彼女の“気”が全てを物語ってるしというか僕の方にはバリバリ記憶あるし。いやいやここで僕まで混乱したら彼女が困ってしまうそれはいただけない。そうだようんうん僕は冷静でいないとほら。
そこまで(脳内で)息継ぎなしに喋った後、改めて少女を観察することにした青年は、あくまで彼女には不審がられないように微笑みかけた。
自分を見つめ返してただ首を傾げる美しい少女は先程自分に対して“ここもあんたも知らないんですけど”と言い切った。悲しすぎる。しかしそれを鑑みると全く知らない環境で全く知らない異性がいるというこの状況でのこの態度は、肝が座っているというほかないだろう。それとも彼女が現在暮らしている環境は、そんな危機感を覚えないほどに平和なものなのだろうか。いやそれにしては感じる“気”からはちゃんと警戒も不振も伝わってきている。ただ平和ボケしているだけのようには見えない。
記憶がないというイレギュラーには驚かされたが、それよりも少女の態度を興味深く感じた青年は面白そうに目を細めた。
そんな青年の思考を遮るように、落ち着いた声が耳に入ってくる。
「この姿勢はさすがに失礼でしたね、すみません」
律儀に頭を下げてすぐにベッドを降りようとする少女に青年は嬉しくなった。こういう行動は自分の知っているその人そのものだったから。記憶にもなく理解し難いこの状況でも、彼女は相手に礼節を示そうとした。その姿に感心する。
少女としては青年が自分を見て微笑んだままずっと黙っているので居心地が悪くなり、取り敢えず視線を外してもらおうと試みただけだったのだが知る由もない。
彼女の行動を手で制し、青年はそのベッドの端に腰かけた。
「構わないよ、ここは君のベッドだし、突然訪れたのは僕の方だ」
にこりと微笑む青年に、少女は納得がいかないようで、首を傾げる。
「とはいえ記憶がないなら混乱するよね、うん」
困っちゃうねぇなんて言いながらにこにこする青年を見ながら、少女は少女で脳内を整理するため考え始めた。
わけが分からないのは変わらないが、とりあえず青年から敵意は感じない。ここが危険だと感じない。それだけはなぜか自信を持って言える気がする。
「あなたは私をご存知なんですか?」
「うん、ずっと前からね」
…………ストーカーか何かだろうか。一瞬そんな考えが少女の脳裏をよぎった。それなら敵意ではないかもしれないが危険ではあるから前言撤回しないといけない。
「ちょっと待って、今ものすっっごい不名誉な勘違いをされた気がするよ?」
「すみません」
「否定しないんだ…」
ズーンとかガーンとかいう効果音が視覚的に分かりそうなほど肩を落とした青年を横目に、また考える。
初対面であるのに、青年との会話はテンポが良い。まるでずっとそんな風に会話してきたコンビのようだ。あまり口数が多い方ではない自分に対して饒舌な彼が、沈黙をうまく回避しているのだろう。全く知らないはずの相手は、自分との接し方を心得ているように見えた。
ここが夢であるのならそんな状況も腑に落ちるが、少女がこっそりつねった自身の手の甲は普通に痛みを伝えてくる。
しかし───
「教会や皇室にあれやこれやと雑用を押し付けられてそれでも必死で1年分片付けてきたんだよ?君にずっと寂しい思いをさせてしまったなぁとか全然会いに行ってあげられなかったから怒ってるんじゃないかなぁとかすごく心配してたんだよ??なのに君ときたら蒼と翠の王を侍らせておまけに皇室守護神の側近まで誘惑しちゃったの?ほかにもいるんじゃないだろうね??あぁでも君はそういう体質だったねだから養親にも恵まれてるんだよねとっても素敵なお二方だ!!」
夢じゃないならここはどこだ?───
1人考え込んでいた少女に対し、青年が一気に捲し立てた。その内容は心配しているのか貶しているのか褒めているのか分からない。おまけに美しい見目のせいかマシンガントークをする様がなんとなく変な感じだ。
「仰っている意味が全く分からないのですが……とりあえず両親を褒めていただいてありがとうございます?」
「………………………」
首を傾げながら呑気に礼を言う少女に、青年は拗ねたように目を眇めた。そんな彼に、少女は失礼だと自覚しながらも“あの人はイケメンだけど喋ると残念系だよねー”ととある男子部員を採点していた後輩の言葉を思い出す。目の前の彼もその類なのかと彼女達に聞いてみたい。
「でもほんと、なんで記憶がないんだ…?
あの時はそんな兆候見られなかったのになぁ術式確認してみようか……
うん、やっぱりなんの問題もない流石僕、美しいまでに完璧な術式だ天才だでもだとすると原因が…………」
なにやらブツブツと小声で並べ立てているが、少女にははっきりと聞き取れず、青年を注視する。
「蒼と翠の王は知ってて一緒にいるのかなぁ?
......いやそれはそれでおかしいよねぇ」
深刻そうに見えるので声を掛けることは躊躇われ、そういえばここにいない愛猫と白蛇は大丈夫だろうかと心配する方に意識を向けた。
ラグナートもベルフェもとても賢く全く手がかからない良い子達とはいえ、突然飼い主が消えたなんてことになっていたら流石に困るだろう。世話をする者がいなくなるということは、飼育される側からしたら死に近しい。それに今は誰かの大切な家族かもしれない白蛇を保護しているのだ、そちらも心配で仕方ない。
「まぁ僕はさみしくなんかないけどね!!」
愛猫と白蛇のために、早急にこの場所から元の部屋に返してもらおうという結論で思考を止めた彼女の耳に、負け惜しみにしか聞こえないような青年の叫びが届いた。