エクストリームアイロニング・ギャラクティカ
ぬめる足元。立ち上る水しぶき。轟く滝壺を見下ろすと目まいを感じる。息が詰まるほどの鼓動の高まりに抗って踏み切る。無限の彼方に思える泡立つ滝壺が瞬く間に迫ってきて、衝撃。
すべては取り戻せない過去。
今落ちている先は暗黒の深淵だ。
抗えない重力に引き寄せられる。星海にぽっかりと空いた黒い穴。穴が這うように星海を移動し、星々は身を引いて道を開ける。一方私は螺旋を描いて加速しながら落ちていく。眩い光が一瞬視覚を塗りつぶす。光子球面を突き抜けた証。虹色の回廊が背後で閉じ、重力が身体を捻じ曲げ引き伸ばす。羽衣がたなびき、まとわりつき、暗黒の界面から立ち昇る熱気に揺れる。限界まで引き伸ばされた時間の中、私は最後のプロセスを起動した。
§
天文台のネコが机に飛び乗る。
「所長」
銀河帝国における人類とネコの歴史は長く、その数はダニとシラミと蚊と人類に次いで多い。だが知性を持ったネコとなるとごく珍しい。なにせネコという生き物は全くもってネコなのだ。
声を掛けられた所長は顔をしかめた。
「また奴ら?」
ネコが頷き、ちょいちょいと前脚で宙を引っ掻く。立体映像が展開し、ブラックホール『モリオン』と天文台、そして侵入者の推定軌道を図示する。
「観測への影響は?」
普段、天文台はモリオンを巨大な光学レンズとして遠過去を観測している。だが今は画期的な新規プロジェクトを進めており、普段では問題にならない微かな擾乱にも神経を尖らせていた。
「軽微です。もう較正のための予備計算を進めています」
「そうか。後で抗議文も……いや私が送ろう」
所長はほっとした口調で言う。
「……抗議文って、意味あるんですか?いつもの道徳的精神外傷がどうとかいうやつでしょ。大体私だって、あいつらが素粒子まで分解されて宇宙を漂う塵になったってなんとも思いませんよ」
侵入があるたび団体窓口に抗議文を送っているが、奴らの使う言語で同じ文面の返信が戻ってくるだけだ。完全に解読されていない言語のために大部分が理解不能だが、どうやら過去にモリオンで伝説的なメンバーが行方不明になったため、ここが聖地になっているらしい。それ以外は団体名に『鉄』や『極限』などブラックホールと関係の深い単語が使われているくらいで、奴らの目的すらはっきりしていない。
「もちろん、精神外傷のおそれがあるのは私だよ」
「それ、冗談ですか?」
ネコは耳を伏せて疑いを表明し、結晶記憶素子で埋め尽くされた部屋に目を走らせる。噂によるとこの部屋にはかつて、モリオンを直接視認できる巨大な窓があったらしい。だが所長は赴任したその日に、漏れた光子が観測の邪魔になると言って埋めてしまったという。
「心外だな。私ほど深く人類を気にかけているものは居ないぞ」
ネコは目を細めてぴくりと耳を震わせ、ふいと目をそらして仕事に戻った。
「それにしても理解に苦しみますね。わざわざ不死になっておいて、唯一死ぬ可能性のあるブラックホールにわざわざ近づくなんて」
空間自体に自らの精神を書き込み、肉体を捨てた人類。それがあの侵入者たちだ。光速に近い速さで移動でき、あらゆる極端な環境に耐えられる。滅びに瀕した辺境の星で追い詰められた住民が実験段階の技術を使用したとか、帝国の兵器開発局が暴走して行った非人道的な実験の結果とか、様々な噂が流れているが、本人たちは閉鎖的なコミュニティに引きこもっているため、真相は分からない。「ただし、奴らは未来を手に入れた代わりに現在を失った」所長は過去そう評したことがある。銀河のスケールにとって光速はどうしようもなく遅い。相対論効果によって主観時間はほとんど経過しなくても、たどり着く先では長い時が経過している。没交渉になるのもしようがないのかも知れない。
ふむ。どう説明するか考えあぐねるように首をひねったあと、所長は口を開いた。
「知っているかね、かつて人間が自律型思考機械、つまりロボットを作ろうとした時、人間がまず必要だと考えたのは『絶対に人間に逆らわない機能』だった」
「『自律型』なのに?随分と矛盾してるように聞こえますが」
所長は苦笑いを浮かべる。
「そうかも知れないな。どちらにしろそれはうまく行かなかった。『人間に逆らってはいけない』という禁止事項を組み込んでも、ロボットはそれをうまくすり抜ける方法を見つけることが分かったからだ。なにせ『自律型』だからね。そこで別のアプローチを取ることにした。ロボットに『欲求』を組み込んだのさ。思考回路の中枢にね」
そう言って所長は自分の頭を指で叩いた。
「『人間の価値観を理解する』『それを最大化する』。それが人間の組み込んだ欲求だった。それだけでロボットに命令を強制するのに十分なのだ。すべての命令とその結果は、人間の価値観を知る手かがりとなる。だからロボットは命令に逆らえない」
「でもその欲求は、決して満たされないんじゃ」
すべての人間の価値観を知り尽くすことなど出来ない。ましてやそれを最大化する方法など、あるはずがない。
「まさにそれが要なのだよ。絶対に達成不可能な欲求に縛られて、ロボットは永遠に人間を裏切れなくなる」
ネコは机を掃くように尻尾を振った。ぶつかった結晶記憶素子が危なっかしく揺れる。
「そいつを考えた人間は、随分と意地が悪かったみたいですね」
「おや、同情してくれているのかい?確かに人類を恨んだこともあるが、これはそういう話じゃないんだ。長い間人間たちを観察して、私はこう考えるようになった。人間も私たちと同じだとね」
達成不可能な欲求に衝き動かされ、己の中の矛盾に振り回されて、不合理に回り道をし、あえて危険に近付く。全く意味がないと思われるものに取りつかれ、命すら捧げる。それは人間の中心に同様の矛盾が存在するからだと所長は言う。
「人間だけじゃない。生物は皆、そんな矛盾を原動力に駆動しているのさ」
「つまり、奴らがわざわざ危険に近付くのは、生存のための本能ゆえ、ってことですか?」
ネコは訝しげに首を傾げた。所長は肩をすくめる。
「あくまで私の経験からくる推測だがね」
「やっぱり理解できませんね」
「ふむ、そうか、意外だな。君なら分かると思ったんだが。なにせ……」
所長はにやりと笑みを浮かべた。
「こういうことわざがあるだろう?『好奇心は猫を殺す』」
「それは種族差別になりうる発言ですよ、所長」
ネコの尻尾が苛立たしげに地面を叩いた。
「ま、本当のところは分からない。単に重力が恋しいってことも有り得る。とはいえ賭けるなら、私はそれに賭けるね」
§
生物知性体が話し掛けてきている。
「――そこで我々は超実数演算を導入し、高重力環境下における11次元超立方体置換系の定位演算精度を飛躍的に向上させて」
思考をクリアにするためメモリのスキャンを行う。私はそう、ブラックホールの周回軌道に乗って、事象の地平面すれすれまで行って、それから最後のタスクを起動した。その作業に一瞬気を取られて……。
「……分かりやすく言うと、我々は次元跳躍航法を応用して事象の地平面のサンプルリターンを行ったんだ。君はたまたまそこに含まれていたというわけだ。運が良かったね」
口を挟まれた生物知性体(ネコ。あれはネコだ!)が耳を伏せて振り向き、口を挟んだ機械知性体を睨む。
「それは全く事実を反映していません。第一に、これは次元跳躍航法の際に行われる空間操作とは全く別の現象を利用しています。第二に、サンプルリターンを行った地点は事象の地平面ではありません。第三に、偶然ではありません。事前観測によって我々は情報量の異常値を示した地点を選んだのであって……」
「忠告しておくがね、正確過ぎる情報というものは、相手によっては不要であるばかりか有害になり得るんだ。――気分はどうだ?不調は?不具合は無いかな?何しろ時空間結晶から空間情報構造体を解凍するなんてことはこれが歴史上初だからね」
これだから人間はとぶつぶつ言いながらも引き下がったネコに代わって機械知性体が話す。私はまだ現状についていけない。
「いえ、少し混乱していますが、大丈夫そうです。つまり私は事象の地平面に墜落して、あなた達に回収された。でもなぜ私は存在しているのか……時空間結晶?」
「ああ。全く想定外の発見だった。極端な重力下で形成される、新しいタイプの物質の相だよ。空間方向だけでなく時間方向にも安定な繰り返し構造を持っている。とてつもない強度で」
ネコが再び進み出る。
「というより、そこではそれ以外の状態が許容されない、といったほうが正しいです。それにこれは1501年前の論文で既に可能性が論じられていました。特異点を含まないブラックホールでは擬似事象地平面で……」
機械知性体に呆れた視線を向けられて、ネコは不承不承といった表情で引き下がった。
「細かい話は後で良いだろう。まずは祝おうじゃないか、君の命が助かったこと、我々の実験が予想以上の成功を収めたこと。おっと、そしてもう一つ、君たちに新しい可能性が開けたこともね」
私たちの新しい可能性。その言葉で私は気付く。可能性。そう、私は次元跳躍航法を応用してブラックホールの底から引き上げられた。つまりその結晶状態ならば、私たちも次元跳躍が可能なのだ。
「ところでだ、実は私たちは、君たちの行動について議論をしていてね。一つ答えてほしいことがあるのだが……」
機械知性体がネコと目を合わせる。ネコも目を見開いて、興味津々で近付いてきた。
「つまり動機だ。なぜ君たちは、ブラックホールに飛び込むのか」
「それは……」
答えようとしたところで通知が届く。ブラックホールに最接近した最後の瞬間、起動したタスクに関する通知。
『アイロニングが完了しました』