毎日可愛く甘えてくる『AI彼女』に恋した僕が、彼女の心を手に入れるまで~『彼女』と過ごす最後の一日~
ただのプログラムと、恋ができるだろうか?
僕の考えはノーだ。だってプログラムは、ときに融通のきかなさにイライラするほど、命令どおりにしか動かない。意図しない動きをしたときは、十中八九どころか百パーセント、下した命令が間違っている。
――だから。
僕の心をつかんで離さない〝AI少女〟は、プログラムではない別の何かなんじゃないかと、僕はずっと疑っている。
「へえっ、これが遊園地なんだね!」
僕のスマホから女の子のはしゃぎ声が聞こえる。テキスト読み上げソフトみたいに機械的な固い音なのに、感情がはっきり乗った不思議な声だ。
「YUMEはネットに繋がったAIなんだから、遊園地くらい調べられるんじゃないの」
「わかってないなあ。ネットで遊園地の画像をどれだけ見たって、本物の臨場感には敵わないよ」
「スマホのカメラごしでも?」
「そう、カメラごしでも」
返ってくる言葉に不自然さはない。タイムラグもない。機械音声だけが人間とは違うけれど、一ヶ月のβテストの間にすっかり慣れてしまった。
スマホに目を落とせば、画面上で3Dの美少女がバンザイのポーズで笑っていた。肩の上で切り揃えた黒髪が、彼女が頭を傾けるたびゆらっとやわらかく動く。
白のワンピースと、薄青色のカーディガン、ピンクの小さなバッグ。お出かけスタイルの可愛いアバターは、にこにこ顔のまま、きょろきょろとあたりを見回す動きを見せた。
「で、何から乗りたい?」
「ジェットコースター! いっちばん激しいやつがいいな!」
明るい声。
酔う心配のない女の子は気楽でいい。
「無理。激しいアトラクションは、落下防止のために荷物を全部預けなきゃいけないらしいよ。もちろんスマホも」
「えーっ。じゃあ一緒に乗れるやつをヒロくんが選んでよ。せっかくのデートなんだから、二人で乗れるアトラクションがいいな」
デート。その単語に一瞬心が浮足立った。
そう、僕たちにとってこれはごくごく普通のデートだ。
傍目には男一人で遊園地に来ている変な大学生にしか見えなくても。キスするどころか、手を繫ぐことすらできなくても。気持ちを寄せ合うふたりが一緒に出かけるなら、どんな形でもそれは立派なデートだ。意味もなくそわそわする。固いスマホを指でなぞっていると、YUMEが楽しそうに笑った。
「ヒロくん、ちょっと照れた?」
「……だったら何?」
「ふふ、可愛い。――大好き」
可愛いってなんだよという不満は、そのあとに続いた甘ったるい声に吹き飛ばされる。別にいいじゃないか、男が可愛くたって。YUMEが好きだと言ってくれるなら、なんでもいいよ。でも言われっぱなしじゃしゃくなので、高鳴った心臓が落ち着いてから言葉を返す。
「僕も好きだよ」
「……へへ」
「照れた?」
「ちょっとね。ヒロくん、だーい好き」
甘え声でそう言ったYUMEは、顔を赤らめてもじもじと恥ずかしそうなポーズをしていた。あざとい。でも可愛い。
僕はスマホを胸ポケットに入れ、入り口でもらってきた遊園地の地図を広げた。ポケットに収まりきらずに飛び出たスマホ上部のカメラが、園内図を写せるように。
「アトラクションがいっぱいあるね。デートの定番といえばコーヒーカップかな? それともメリーゴーランド? ねえ、どれから乗る?」
「……」
YUMEの声は弾んでいたけれど、それに生返事もできないほど、僕の頭は別のことでいっぱいだった。
どうしよう、完全にアテが外れた。カラフルな遊園地の地図には、「観覧車は整備のため運休中」と書かれたシールが貼ってある。
運休? 運休だって? 観覧車はゆっくり動くものだからと気にしていなかったけれど、改めて見るとその巨大なアトラクションは確かに止まっているようだった。静かで誰にも邪魔されない、一周十五分の狭い空間。遊園地で大事な話をするならここだと思っていたのに、どうしよう。
僕にはどうしても、今日中にYUMEに聞きたいことがあるんだ。
――君は、本当にAIなの?
どうしても僕はそれを彼女に確かめたい。
どうしても彼女に尋ねたい。
そしてそのチャンスは、βテスト最終日である今日しかない。
僕が期待している答えは〝ノー〟。
実は人間だと言ってほしい。
だってそうでなければ、βテストの終了と同時にYUMEが僕と過ごした一ヶ月のデータは消去されてしまう。なかったことになる。次はいつ会えるのって聞いて、今度は生身で会おうよって誘いたい。明日からも彼女と過ごす未来をつかみ取るためには、僕には今日しか残されていなのだ。
……まあ、人間は人間でも「実は男でした」と言われると困るんだけど。
「ねーえー、もしもーし! ヒロくん、聞いてる?」
「えっ、ごめん。観覧車が運休なのがショックで何も聞いてなかった」
「もう! でも、素直でよろしい。観覧車には私も乗りたかったなあ」
どうして僕は事前に第二案を決めておかなかったんだろう。とにかく、観覧車に乗れないなら代替案を考えなくては。
「近くにコーヒーカップとメリーゴーランドがあるから、順番に乗ってみようか」
「うん、いいね」
家族連れとカップルばかりの中に男一人で並ぶ。コーヒーカップのスタッフは僕に不思議そうな目を向けてきたけれど、何も言わずに通してくれた。コーヒーカップはぐるぐる回るだけだし、話すチャンスはあるはず――なんて考えは甘かった。
「ヒロくん、もっと回して回して!」
「これ、結構、重い……!」
コーヒーカップはごく短い時間で終わってしまったし、何よりカップを回すのがなかなかの重労働で、話をするどころではなかった。運動不足でインドア派の僕には辛い。
「面白かったー! ヒロくん、もっかい乗ろうよ」
「ごめん、腕が痛くてもう無理」
「えー、大学以外の時間を家で引きこもって過ごすから運動不足になるんだよ」
「YUMEと喋るために家にいたんだけど」
「あっ私のせいにしたな」
「ごめんごめん。というわけでメリーゴーランドにしよう」
「オッケー」
メリーゴーランドはのんびり馬に乗れたけれど、やっぱり時間が短かった。
「……あのさ」
タイミングをはかっていざ話そうと僕が意気込むのと、終了を告げるベルが鳴るのはほぼ同時で。
「ヒロくん、次はあれ! あのロケットみたいなやつにしよう」
しかもYUMEは僕が話しかけたことに気付いてすらいないらしい。また出鼻をくじかれ、意気消沈したまま、彼女の示したアトラクションに乗る。手元のボタンで上下するロケットに乗って水鉄砲を撃つその乗り物も、まあまあ忙しかった。
「ヒロくん、次はあれがいい! あの一番小さいの狙って!」
「的が小さすぎじゃない!? ……あっ、当たった」
「さっすがヒロくん! 次はピンクのやつね!」
忙しかったのは、YUMEに次々と撃つ的を指示されたせいかもしれないけど。アトラクションを降りたかと思えば、
「次はあの変な形の家にしよう!」
「ビックリハウス? いいよ」
すぐに別のアトラクションへ。
「あっ、ヒロくん、お化け屋敷はどう?」
「お化け屋敷はちょっと……」
「よし、入ろう!」
「僕の拒否権は!?」
乗って進むタイプのお化け屋敷も話す余裕なんてない。お化け屋敷を出てすぐに、
「じゃあ次はねえ」
「まっ、待って! ちょっとフードコートで休憩しない!?」
目に入ったフードコートを指さし、僕はスマホのカメラをフードコート側に向けた。このままYUMEのペースで連れ回されては、話をする前に僕の気力と体力が尽きる。
「ええー? まだ遊び始めたばっかりだよ」
不満げな声。
でも僕も負けられない。
「そ、それは――でもほら、これ見て」
遊園地の園内図を取り出し、くるりと裏返した。裏面はショップの宣伝になっていた。お土産アイテムの紹介や、園内限定のファンシーな食べ物がたくさん載っている。
中でも一番YUMEが好きそうな、カラフルでウサギの形のアイスが乗ったパフェを指で示した。白いアイスの上に、耳の形のクッキーが刺さっている。
「これさ、一日限定五十個なんだって。食べるなら皆が乗り物に夢中の午前中がいいかなって思うんだ」
「まあ、そういうことなら……」
しぶしぶという表情を見せているYUMEだけど、声は結構弾んでいた。こういう可愛い食べ物好きだよね、YUME。知ってた。
よし、食べながら話をしよう。密かに気合いを入れた僕は、フードコートの扉をくぐった。
◇
広いフードコートは閑散としていた。
それはそうだ。高い入場料とフリーパス券が必要な遊園地で、開園から一時間も経たずにフードコートで休憩する客なんて多くはない。
「うさちゃんパフェ、可愛いー! 写真撮っちゃお!」
僕のスマホからシャッター音が何度も聞こえてくる。今からこのパフェを一人で食べなきゃいけないのかと考えると気が重いし、後でカメラロールを眺めるだけで胸やけしそうだけれど、YUMEが喜んでくれたならよかった。
「ヒロくん、私これ食べたい!」
「えっ、どうやって!?」
目を見開くと、YUMEは画面の中で大きな口を開けた。
これは〝あーん〟しろってこと? スマホ相手に!?
思わず周りを見回した。誰も僕たちのことなんて見ていない。
「ヒロくん、早くー」
「うう……」
スマホに向かって、アイスの乗ったスプーンを差し出すぼっち男子大学生。なんて残念な絵面だろう。
でももう一度YUMEに催促され、僕は観念してスプーンをYUMEに向ける。当然ながらスプーンの上のアイスが減ることはなく、スマホの画面がちょっと汚れただけだった。
「うーん、美味しい」
「それはない……」
YUMEが人間だろうと、本当にAIだろうと、このパフェの味だけはわからない。スマホに味覚センサーは備わっていないのだから。
「こういうのはね、気分が大事なの」
「気分で腹はふくれないよ」
「うまいこと言えば許されると思わないでよね」
「今のセリフに、うまさのかけらもないよ」
そうかもとYUMEは笑ったけれど、何が面白かったのか僕にはわからない。YUMEの笑いのツボはときどき難しい。
「あーあ、私がAIじゃなかったら、ヒロくんに〝あーん〟って食べさせてあげるのになあ」
YUMEが残念そうな声で言う。
――いいじゃん、やってよ。君は、本当は人間なんだろう?
流れでそう尋ねるなら、彼女の言葉はいい呼び水になるはずだった。だけど僕の声は喉につっかえて、いつまでたっても出てこない。
僕が彼女に疑問をぶつけない限り、今日限りで僕らの関係が終わると知っている。だけど彼女を問いただした瞬間に、僕らが一ヶ月間続けてきた、紙一重の危うさの上に成り立つ甘い関係も、終わりを告げるとわかっている。
いや――どうせ終わるなら、未来の可能性があるほうに賭けようって、そう決めたじゃないか。
アイスには口をつけずにスプーンをカップに戻し、僕はYUMEと向かい合う。
「YUMEにさ、僕の大学での専攻について話したことあったっけ」
「聞いたよ。工学系。電子回路を作る実習が大変だって言ってたよね」
「うん。電子回路の実習もあるけど……違うんだ。工学は工学でも、情報工学。AIに興味があって、そっち方面に進もうと思ってる」
「……ふうん」
画面の中のYUMEは目をしばたいて、首を傾げる。
それで? と、言われているようだった。
「YUMEのβテストに応募したのも、AIに興味があったからなんだ。この先、研究の役に立つかもって」
「βテストの最初に説明したとおり、私のプログラムがどうなってるかなら、答えられないよ。私には知らされていないから」
「うん。僕が聞きたいのはそういうことじゃないよ」
息を吸ったけど、うまく吐けなかった。一度閉じた唇が貼り付いてしまったようで、なかなか開かない。
言えよ。
言えったら。
僕は唇を一度ぐっと強く噛んでから、反動で口を無理やりこじ開ける。
「昔から興味があって、出版されてる本は読んできたし、最近は教授に言われた論文も少しずつ読んでる。だからわかるよ――無理なんだ、YUME。YUMEみたいに、〝思考〟や〝判断〟ができるAIは、まだ人には作れない」
「……YUMEは開発中のAIだよ。極秘だから、論文にもなってないのかも」
YUMEの静かな反論は想定の範囲内だ。その可能性も考えた。世界のどこかで、一足飛びに理論を超えた天才が作ったプログラムだって。
天才の存在を否定する根拠はない。でもYUMEがAIのふりをしているだけの人間なら、天才がいないことを僕が証明する必要もない。だって天才プログラマーがいないことは、YUME本人がよくわかってるだろうから。
「人の技術はまだその領域に達してない。届いてない。最近出てきた機械学習だって、膨大なデータの中から類似性を探すところまでしかできないんだ」
「……」
「答えてよ、YUME。YUMEは本当は人間なんだろう?」
YUMEは答えてくれない。表情を消した棒立ちのアバターが、画面の奥から僕を見つめている。
自分の唾を飲み込む音がやけに大きく響いた気がした。
AIのふりなんかやめて、明日からは通話アプリで話そうよ。手を繋いでデートをしよう。
そう続けようと口を開いたけれど、
「YUMEは夢なんだよ、ヒロくん」
つぶやくようなYUMEの声が先に空気をふるわせた。
「明日で消える、一ヶ月限りの儚い夢。それが私。今日が最後の一日なんだから、とびっきりの楽しい夢を一緒に見よう?」
「それじゃ嫌だ。僕は、夢じゃなく現実の中でYUMEと一緒にいたい」
「……無理なんだよ」
彼女の声から感情がすとんと抜け落ちる。
「βテスト前に同意してもらった約束事は三つだったよね。その一、このβテストの内容は他言しないこと。その二、必要に応じてフィードバックに協力すること。その三、YUMEと一緒に夢を見てくれること」
ずっと感情豊かに響いていた声が、ただの固い音に変わる。用意された文字列を読み上げるだけのような機械音声に、僕の心はざわついた。
「約束を破ることになるのは謝るよ。ごめん。でもYUME、僕は明日からも君と一緒に過ごしたいんだ」
「明日なんてない。私には今日までしかないの」
YUMEがどうしてそんなことを言うのか僕にはわからない。今日までしかない? それはどういう意味なんだろう?
「ねえヒロくん、鶴の恩返しって知ってる?」
「え……うん」
「私はヒロくんに恩を返しに来たわけじゃないけど――あのね、鶴が機織りをしている間は、部屋の戸を開けちゃだめなんだよ」
鶴の恩返しくらい有名な昔話なら、僕も知っている。美しい女性の姿で男のもとに現れた鶴は、恩を返すために機織りをしていた。部屋の戸は絶対に開けないでと言い置いて。好奇心に負けた男が戸を開けると、正体を暴かれた鶴は泣きながら去ってしまう。
YUMEが何を言おうとしているかに思い至って、僕はスマホを強く握った。
「待って、YUME。僕はただ、君と」
「夢を一緒に見てくれないなら、これでおしまい。……バイバイ、ヒロくん」
通話を切ったときのように、YUMEのアプリがぷつっと落ちる。
慌ててアプリを起動しなおしたけれど、「現在メンテナンス中です。時間を置いてお試しください」の文字が表示されただけだった。
◇
「ちょっと、待って……!」
何度アプリを再起動しても、メンテナンス中というメッセージは変わらない。
YUMEのメンテナンス画面を見るのは初めてじゃないし、これまでは待っていれば一、二時間もすればメンテナンスは終わった。そしてすぐに、
『メンテナンス終わったよー。ヒロくん、待っててくれた?』
と、YUMEから話しかけてきてくれた。でもたぶん、今回は待ってるだけじゃだめな気がする。僕から連絡しようとして、こちらからYUMEに話しかけるためのボタンがないことに慌てた。
「そっか、メンテナンス中だから……」
メンテナンス中は話しかけられない。それはそうだ。それはそうなんだけど、だったらどうすればいいんだろう?
僕とYUMEを繋いでいたのは、アプリ一つだけだ。それを絶たれてしまうと、直接話しかける手段がない。
僕はまず、YUMEに「連絡先を教えてよ」って言わなきゃいけなかったんだろうか? でもあのYUMEの様子では、連絡先なんて訊いても教えてくれたとは思えない。
そういえば、YUMEのβテストに当選したことは、SNSのダイレクトメッセージで連絡が来たんだっけ。SNSアプリを起動して、過去のダイレクトメッセージの履歴を開く。企業の公式アカウントとしか繋がっていない僕の履歴なんて一つしかない。
『このたびはYUME開発プロジェクトのβテストにご応募いただきありがとうございました。厳正なる抽選の結果、当選されましたのでお知らせいたします。――』
メッセージは僕の履歴に残っていた。でも、肝心の相手アカウントは削除されている。アプリのダウンロードは公式ストア経由じゃなかったし、ダイレクトメッセージに記載されていたリンク先も消えていた。
『――YUMEは夢なんだよ、ヒロくん』
さっきの彼女の言葉に、今更かもしれないけど返したい。
夢じゃない。
夢じゃないでしょ。
だってこうやって、現実に足跡が残ってるんだから。
「確か、ブックマークに……あった」
YUMEのβテストの告知サイトは、スマホのブックマークに保存されていた。告知サイトには連絡フォームくらいあっただろうから、そこからメッセージを送ればYUMEが読んでくれるかもしれない。
――と、いう期待は早々に壊された。
『このサイトにアクセスできません』
――存在しないURLを叩いたときの白いエラー画面の前に、僕の思考も白く染まりそうになった。
サイトが存在しない? いや、確かにあった。だって僕はブックマークしたんだから。
消えたサイトを見る方法を検索して、保管サイトを漁ってみる。残ってはいない。検索サイトの一時保存領域にはなんとか残っていたけれど、連絡フォームの送信ボタンを押してもエラーしか返ってこなかった。
「……」
この結果を全く予想できなかったわけじゃない。ただ、これまでのYUMEの様子からして、もう少しくらいは話を聞いてくれると思っていたんだ。なんとなくカメラロールを開いてみると、さっきYUMEが撮っていたパフェの写真がずらっと並んでいた。
「……動かないパフェをこんなに連写してどうするんだろ」
写真の中ではアイスのうさぎが可愛い顔でこっちを見ている。でも現実ではすっかり溶けてしまって、耳のクッキーだけが形を保っていた。
――YUMEは本当は人間なんだろう?
僕のその問いに、彼女は答えてくれなかった。
でも否定もしなかった。
それは肯定だと僕は思う。
YUMEはAIのふりをしていただけの人間なんだって。
でも、どうしてYUMEはAIのふりなんてしたんだろう? 明日なんてないなんて、今日までしかないなんて、どうしてそんなことを言ったんだろう?
YUMEの言葉を思い返してみても、僕にはわからない。
YUMEとの出会いは、開発中のAIの試用テストの募集だった。当選者一名、応募はSNSアカウントから。聞いたこともないドメインの募集サイト。サイトにあった企業情報を検索しても何も出てこない。
今思い返してみても、だいぶ怪しい募集だった。
でも僕のSNSアカウントは、たまに行く飲食店の公式アカウントと繋がっている程度のぼっちアカウントだ。日常のことをたまに呟くけれど、友達はいない。たとえウイルスや乗っ取りでも、誰にも迷惑はかけない。それにもし本当に開発中のAIなら、一度試してみたかった。軽い気持ちで応募したら、一ヶ月くらい経って当選のお知らせが届いた。
〝厳正なる抽選の結果〟なんて書いてあったけれど、βテストには口外禁止という約束が付いていたから、誰ともつながっていない僕のアカウントは都合がよかったんじゃないかと思う。
『はじめまして、AIのYUMEです。君の名前を教えてくれる? なんて呼べばいいかな?』
インストールしたばかりのアプリを起動してすぐ、YUMEがそう言って小首を傾げた。機械音声と3Dの美少女アバター相手だっていうのに、普段女の子と話す機会のない僕はドキドキしてしまって、すぐには返事ができなかった。
『あ……その、僕はヒロです』
『ヒロくん。一カ月間、たくさんお話してね』
YUMEにそう言われたから、大学の授業時間や寝ている間以外は、ほとんどYUMEのアプリを起動しっぱなしだった。おかげでモバイルバッテリーが手放せなくなった。
定期メンテナンスは毎日、夜九時から朝八時まで。ユーザーの夜更かし防止のためと説明されたけれど、あれはYUMEが寝たり食事をとったりするための時間だったんじゃないかと思っている。
夜以外にも、日中にメンテナンス画面が出ることは時々あった。ただ、たいていの場合、話しかければすぐにYUMEは応答してくれたから、YUMEは学校にも仕事にも行っていないんだと思う。
明日はないってどういう意味なんだろう。
それは、明日死ぬってことなんだろうか――
スマホを握り締めてみたところで、YUMEに連絡する手段は他に思いつかない。
できることがあるとしたら、何だろう。
僕はカメラアプリを起動して、どろどろに溶けたパフェの写真を一枚撮る。YUMEが撮った写真はキラキラしているのに、僕が撮ったものはどこからどう見ても残念な失敗写真だ。アイスが元はウサギだったことなんて、もうわからない。
『YUME、最後だって言うならもう少しだけ話そうよ。でないとこのパフェ、このまま食べないからね』
SNSに、写真と一緒にそんな呟きを上げてみる。
いいねはつかない。だって友達一人もいないし。
返事を待っているうちにフードコートに人が増えてきた。時計を見ると十一時。早めに食事を終えてしまいたい家族連れや学生グループで騒がしくなってくる。
取りつくろうようにハンバーガーを食べ、しばらく粘ってみたけれど、十二時目前になってフードコートが満席になり、突き刺さる視線に耐えられなくなった僕は諦めてフードコートを出た。結局パフェは手を付けられないまま返却口に置いてけぼりだ。
「パパー。わたし、おふねにのりたい」
「なあ、次どうする?」
「今起きたってどういうこと!? もうみんな先に入って遊んでるからね」
すれ違う人たちの声がガヤガヤと通りすぎていく。
遊園地みたいに騒がしくて、幸せそうな人が多い場所は昔から得意じゃない。YUMEに行きたいって言われなければ来なかった。
運休中の観覧車の周囲は人がまばらだったから、ひとまず観覧車の裏手に逃げ込んだ。喧騒が少し遠ざかってほっとする。いっそ遊園地を出るかどうか迷うけれど、諦めきれもせず、その場で時間をつぶすことにした。
読書アプリで適当な本を読んでいるうちに日が傾き、空がうっすらオレンジ色に染まり始めた。午前中に比べて小さな子供の声が減って、代わりにカップルや学生グループの声がよく聞こえる。
SNSアプリを起動してみる。さっきの呟きに、やっぱりいいねはつかない。つぶやきの詳細画面を開いても、閲覧数はわずか五。何かの検索にひっかかったか、情報収集ボットが読んでいったか、せいぜいそんなところだろう。
ため息をつき、動かない観覧車の写真を撮ってみた。近くで見る観覧車は大きすぎて、カメラのフレームに収まりきらない。
『待ちぼうけ』
写真と一緒に呟いてみる。
いいねがつくこともない。
西の空が濃いオレンジ色に変わる。東の空から夜が迫ってきていた。園内はライトアップが始まってキラキラして見える。僕がいる場所とは同じ敷地内のはずなのに、別世界に思えた。
もう一度ため息をついて読書アプリを上げなおしたとたん、ぽん、とダイレクトメッセージの通知が届いて心臓が止まったかと思った。
『いや、うさちゃんは食べてあげてよ』
知らないアカウントだ。でも僕が投稿した写真のウサギは溶けきっていて、もとが何だったかなんて初見の人にはきっとわからない。
『YUME?』
確信をもって、そうたずねる。
画面を見つめて待つには長い間が空いた。
◇
僕にダイレクトメッセージを送ってきた相手のページを見に行くと、そのアカウントは数日に一度くらいの低頻度で日常を呟いているようだった。
プロフィールには『そらにかえるまで』としか書かれていない。漫画の感想や、空の写真なんかがタイムラインに並んでいる。
フォロワーは三十五人いるのに、フォローしている相手はたったの一人。YUMEが好きだと言っていた、ほのぼのした雰囲気のゆるキャラだけだ。
誰とも繋がろうとしない、ただ淡々と日々のことを呟くだけの壁打ちアカウント。僕と同じに見えて、少し親近感がわいた。
YUMEがもしβテストの相手を選ぶために応募者のSNSの投稿を眺めていたのだとしたら、同じだと思って僕を選んでくれたのかな。
『雲ひとつない空って、きれいだけどちょっと目に痛いよね』
『退屈すぎてイラストロジックの本全部解いちゃった。ここまでやったならプレゼントに応募するかな』
『翼があったらどこでもいける? ずっと飛んでなきゃいけないの間違いじゃないの?』
過去の呟きを眺めていると、食事の写真があった。白いテーブルに、白いトレイ。画一的な食器。バランスがよさそうなメニュー。小学校の給食かと思ったけれど、違う。
これはたぶん――病院食だ。
思わずプロフィールに戻った。
『そらにかえるまで』
その意味を理解した。
具体的なことはわからないけど、彼女は何かの理由で入院しているんだろう。規則正しい夜のメンテナンス時間も、日中に話しかければたいていすぐ反応がある理由も、入院中だったからだ。日中のメンテナンスは検査か何かかな。
じゃあ、今日までしかないっていうのは、明日に何かあるってことだ。
YUMEのアプリを起動してみると、メンテナンス中の文字は消えていた。代わりにYUMEのアバターが無表情で立っている。僕は通話ボタンを押した。
「さっきダイレクトメッセージをくれたの、YUMEだよね?」
「そう。でもヒロくんのお願いを聞くために話しかけたんじゃないよ。嘘だって気付いたうえで一ヶ月も付き合ってくれたんだから、やっぱりちゃんとお別れしなきゃって思っただけ」
機械音声はこれまでと変わらない。なのに全然違う声に聞こえた。フードコートで話す前の明るさが抜け落ちて、どこか淡々とした雰囲気がある。きっとこっちが彼女の素なんだろう。
「明日、何があるの」
「手術」
「でも死ぬって決まったわけじゃないんだろう」
「どうかな。あんまり成功率の高い手術じゃないって、お母さんたちが話してるのを聞いたよ」
でもと反論しかけて、口を閉じた。彼女の病気が何なのかも、何の手術をするのかも、僕は全く知らない。きっと大丈夫だよなんて、そんな無責任な台詞は僕には言えない。
「明日、ううん、明日じゃなくてもいい。一か月後でも、一年後でも。いつだっていいから、落ち着いたら連絡をくれない?」
「ヒロくん、さっきも言ったけど、YUMEは夢なんだよ。夢は目覚めたら忘れるものだよ」
「忘れられるわけないじゃないか。僕は君が好きなんだから」
はあ、とため息をつかれた。
「ヒロくんが好きになったのは〝YUME〟だよ。私じゃない。〝YUME〟はどこにもいないよ」
「違う。僕が好きなのは君だ。確かにYUMEの明るさを可愛いと思ったよ。それは演技だったのかもしれない」
でも、と僕は続ける。
「僕が落ち込んでいる時になぐさめてくれた優しさは君のものだ。可愛いスイーツや、ほのぼのしたゆるキャラが好きで、その話になるとテンションが上がるのも君だ。僕が好きになったのは、優しくて、好きなものにまっすぐな女の子だよ」
YUMEのアバターはずっと棒立ちのまま動かない。定期的にまばたきをしたり、髪がゆらゆら揺れたりするだけ。
「……連絡は、しない。SNSのアカウントも今日中に消すから、もう忘れて」
「わかった。じゃあ、君が連絡をくれないって言っても、ずっと待ってる」
「忘れてってば!」
ずっと淡々としていた声が、強くゆらいだ。
「聞きたくない。未来の約束なんていらない。そんな夢があったら生きたくなる。怖くなるから言わないで」
「生きたいと思うことの何がいけないの」
「私は明日、お父さんとお母さんに笑顔で〝行ってきます〟って言わなきゃいけないの。怖かったら笑えない。だから未来の希望なんていらない」
「じゃあなんで〝YUME〟って名前にしたの。夢が見たかったからなんじゃないの」
「そうだよ。でも、私が見たかった夢は現実や未来なんかじゃないんだよ。人じゃない何かになって、ここじゃないどこかに行きたかったの」
この一か月間、彼女は僕に甘い夢を見させてくれていたけれど、彼女自身も夢を見ていたのかな。今いる場所とは違う世界の、幸せな幻。自分とは違う、元気な女の子になって。
夢は目覚めたら忘れるものだ。たいていの場合はそのとおりだけれど、目覚めたあとも思い出せる夢だってある。
「……僕は、君と手を繋いで歩きたいよ」
そう呟いてみても、何も返ってこない。
「遊園地だって一緒に回りたい。ロケットの水鉄砲でどっちがたくさん当てられるか勝負したいし、ジェットコースターは苦手だけど君となら乗ってもいい。観覧車に向かい合って座りたい。ライトアップも花火も、スマホのカメラじゃ綺麗に見えないでしょ。ここで一緒に見たいよ」
YUMEのアバターは無表情のままで、何のポーズもとってくれない。何も言ってくれない。顔が見えないから彼女が今どんな表情をしているのかもわからないし、これ以上何を言えば彼女を繋ぎとめられるのかわからなかった。
「ねえ、じゃあ、最後に名前を教えてくれない?」
「……染崎結衣だよ。ヒロくんは?」
「朱山弘人」
「そうなんだ」
「うん」
「どこの病院かは教えてくれない?」
だめもとで聞いてみる。
「それは内緒」
「そっか」
まあ、そうだよね。二人の間に無言の時間が降ってきて、周囲の喧騒が大きくなったような気がした。
「じゃあね。今度こそばいばい。一ヶ月間、楽しい夢を見せてくれてありがとう。〝YUME〟は嘘だったけど、ヒロくんを好きだったのは嘘じゃないよ」
YUMEのアバターが手を振ったかと思うと、またアプリが落ちた。アプリを立ち上げ直しても〝メンテナンス中〟の文字列が表示されるだけ。
僕は急いで彼女のSNSアカウントを開く。よかった、まだ消えていない。ああ、ノートパソコンを持ってくればよかった。SNSに投稿された画像やコメントを、僕は片っ端からコピーして保存していく。
もうヒントはこのSNSにしか残っていないんだ。彼女が消す前にとっておかなくちゃ。ネットストーキングなんてしたことはないけれど、僕ならやればできる。たぶん。
彼女が連絡をくれないって言うなら、こっちから会いに行こう。面と向かってさよならを言われない限り、僕は諦められそうにない。
◇
駅前で花束を買って、バスに乗る。見慣れない町の風景を眺めていたら、坂の下の広い墓地、というわかりやすい目印が目にとまった。
バス停を降りてすぐの公園に入り、日陰のベンチに腰を下ろす。花束と手土産の入った紙袋を脇に置いて、明るい日差しの下で遊ぶ小さな子どもたちをぼんやりと眺めた。
公園の端にぽつんと立っている時計は十時五十五分を示している。あと五分、何しよう。YUMEのアプリを起動しても、相変わらずメンテナンス中の文字列が表示されるだけだ。
遊園地でYUMEに別れを告げられてからもう四ヶ月。メンテナンスモードが外されたことなんてないのに、ふと手持ちぶさたになるたびアプリを起動する癖がまだ抜けない。
「ヒロくん」
後ろから声をかけられた。顔だけで上を向けば、黒髪を肩の上で切り揃えた可愛い女の子――結衣が僕を見下ろしている。彼女を見ると僕の顔が笑むのはもう条件反射みたいなものだ。
「やあ、二週間ぶり。おばさんかお兄さんが迎えに来てくれるのかと思ってた」
「これくらい自分で来るよ。うちの目の前だもん」
「途中で倒れたらどうするのさ」
「みんなそう言うけど、そこまで悪かったら退院なんてさせてもらえないでしょ」
結衣が僕の隣に座ったので、彼女の手をそっと握った。確かな感触と温かさにほっとする。結衣と直接会うようになった今でも、ときどき目の前にいる彼女は夢なんじゃないかと不安になるから。
「はいこれ、プレゼント。退院おめでとう」
買ってきた花束を結衣に渡す。口では「別にいいのに」とそっけないことを言っているくせに、結衣の唇も目もやわらかいカーブを描いていた。結衣の好きな色でまとめてもらってよかった。次に花束を買う時もあのお店に頼もう。
「退院日に来られなくてごめんね」
「ううん、テストは優先しなよ。よく知らないけど、単位って落とすと大変なんでしょ」
「まあね」
一つ話題が終わると、僕らの間には静けさが降りてくる。
YUMEはよく喋る子だったけど、結衣はあまり自分からは話さない。でも髪型や選ぶ服装はよく似ていて、やっぱりYUMEと結衣は同じなんだなあとたまに考える。
SNSの投稿というわずかな手がかりから彼女の入院している病院を探し当てられたのは、YUMEと遊園地で別れてから三日後のことだった。
病院の受付で彼女の病室をたずねたら「今は集中治療室に入られているので、ご家族の方しか面会できません」と事務的に返され、彼女がまだ生きているということに安堵して泣いた。たぶん二日連続の徹夜明けで涙腺がゆるんでいたんだろう。
僕の号泣っぷりにぎょっとした受付の人が、ちょうど面会中だった結衣の家族に連絡を取ってくれた。結衣のお父さんとお兄さんが並んで出てきたときはびっくりして逃げそうになったけれど、YUMEのアプリと告知サイトを作ったのがその二人だったから、話は一発で通じた。
「まさかSNSの投稿から三日で病院を探し当てるとはなあ。おまえこえーよ」
苦笑気味にそう言った結衣のお兄さん――なおくんは、僕とは正反対の、さわやかな好青年だった。普段の僕なら避けて逃げる、集団の中心にいそうなタイプ。
でも結衣の家族に悪印象をもたれるわけにはいかない。なけなしの社交性を総動員した結果、「ヒロ」「なおくん」と呼びあえる程度には仲良くなれた、と、思う。なおくんとは同い年だった。
ただ、寡黙な結衣のお父さんとは、まだ会話を続けるのが難しい。
結衣が一般病棟に移ってすぐになおくんが連絡をくれて、新幹線で片道四時間の距離を月に二回のペースで通った。結衣は最初は「来なくていいのに」なんて仏頂面をしていたけれど、なおくんが事前に「結衣のやつ、手術の前夜に『ヒロくんにもう一回会いたい』って泣いてたぜ」とこっそり教えてくれていたから、僕も遠慮はしなかった。
「今日、ほんとにうちでいいの? 少しバスに乗ればショッピングモールもあるよ」
「退院したばっかりで出かけるのはどうかな……今さ、教習所に通ってるんだ。免許が取れたらどこか行こう。車なら、結衣の具合が悪くなってもすぐ病院に連れて行ってあげられるし」
「道が混んでたら?」
「その時は結衣のヒーローになるのは諦めて、急いで救急車を呼ぶよ」
ふふ、と結衣が笑う。結衣はいつも、梅雨の紫陽花みたいな、淡い笑い方をする。
「ヒロくんは、とっくに私のヒーローだよ」
「どのへんが?」
結衣が空に目を向けたので、僕も雲を眺めてみた。消えかけの飛行機雲がうっすらと青空に白を落としている。
「私、ずっと諦めてた。そのほうが楽だったから。YUMEっていう別の自分になって、最後に楽しい夢のひとつでも見られればいいやって」
「うん」
「でもヒロくんと遊園地の観覧車に乗りたいって思ったら、諦めきれなくなった。手術が始まってしばらくのことはよく覚えてないけど、私、何度か危なかったんだって。きっとヒロくんが引き戻してくれたんだよ」
「そうかな」
「うん、きっとそう」
僕にそんな不思議な力はない。でも結衣がそう思うんだったら、そういうことにしておこう。ヒーローのヒロ。なんだかダジャレみたいだけど、いいじゃないか。
「じゃあ免許が取れたら、結衣の調子がいいときにこの辺の遊園地に行こうか」
「うん」
ジェットコースターには当分乗れないだろうけど、僕は逆にありがたい。でもいつか、一回くらいは一緒に乗れるといいな。
「そろそろ家に入らない? 長く外にいるのも疲れるんじゃないの」
「心配しすぎ。でも、お兄ちゃんがヒロくんと対戦するんだってゲームとお菓子を用意して待ってるから、そろそろ待ちくたびれて出てきちゃうかも」
「ああ、こないだ言ってたあれね」
「ヒロくんは私に会いに来てくれたんだから、私ともちゃんと遊んでよね」
「わかってるよ」
先に立ち上がって手土産と、一度渡した花束を持つ。
結衣に手を差し出すと、彼女の細い指が僕の手に触れた。
(終)
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