薄緑の葉
空を見上げれば、やけに白く大きな月が浮かんでいた。その影は濃紺を薄らがせ、月の周りだけを少し白めいた青に変える。雲が少しだけその輝きを遮り、しかしすぐに退いて行く。
私の黒いサンダルが砂浜の波打ち際に、私の歩んだ跡を残す。しかしそれはすぐに波に攫われて消された。漣は全てを等価に奪ってゆく。昼間は透明に澄んでいるのかもしれない海も、夜に放り込まれればそれの色に変色した。黒い海の中に、ひたり、と足を踏み入れれば、靴下も履いていない素足の爪先が、その冷たさに震える。
足を進めるごとに、水は踝を、脛を、そして膝をも覆っていった。白いワンピースの裾が、静かに湿り気を帯びていく。
そのとき、不意に来た波に足を取られて、私は平衡感覚を崩してしまう。ぱしゃりという音が聞こえたときにはもう、浅瀬に腰を付いてしまっていた。
濡れた服はそのままに、私は再び立ち上がる。
そして視線を正面に戻すと、いつの間にかそこには、一人の女性が立っていた。
年の頃は、私と同じくらいか。月と、遍く広がる海洋を背景にして佇む彼女は、私を見ると微笑んで小さく頭を下げた。とても軽々しい様子ではあったけれど、嫌悪を覚えることは無い――どころか、親愛の情すら思い出させるような仕草だった。
彼女は握手を求めるかのように、その手を私に差し伸べた。彼女が浮かべていたものは何処までも強い笑顔だった。
しかし、私の眉根は強く寄る。
やめて。
それを見ることが、苦しく悲しく辛く、嫌だったのだ。
やめて。私にその表情を向けないで。懇願しながらその場に膝を付いた。白いスカートが浅い海に広がる。
こめかみの内側に強い痛みを覚えて、私は両腕で頭を抱えた。そして彼女への拒絶の証として左右に振る。しかし彼女は何を案ずることもないと、それでも私に右手を向けた。あなたを救おう、と彼女は言う。
嫌だ。
全てを拒絶するかのように、硬く目を閉じる。心にある、いくつもの感情を整理してから再び瞼を上げると、私は感情のない双眸をそれに向けた。
それから私の唇が紡ぐのは、それを滅する呪文。
幻ね
そこにあるものは、全て。
呟けばその姿は掻き消えた。存在が失われる直前、彼女がほんの少しだけ淋しそうな顔を浮かべていったのは気のせいだと信じる。今まで私が見ていたそれは私の作り出したただの幻であり、実在する人物ではないのだと強く念ずる。
彼女の姿は、一瞬の後に忘れた。――鍵をかけて奥底にしまい込んだ。救えなくてごめんね、と私の耳元で誰かが呟いた気がしたが、きっと錯覚だった。
私の心を護るために、私は全てを忘れた。
そして視界に残るものは、月の白と濃紺の空と海の黒。それから私の白いワンピース。波の音が私の耳を撫でた。
月影は海の底まで降り注ごうと努力するが、底はあまりにも深く深く、手を延べ入れることは何処までも難しかった。遠く深い海中の、奥の奥に存在する静かな暗い色を知らぬままに、月の光は霧散していく。そして同じように海の奥で響く静かな唄も、悲鳴も、声も、ここには届かない。
黒く染まった海は何処までも黒く暗く、冷たく、そしてその姿を見せない。
誰か、光を。
「大丈夫よ」
私の耳元で声がして、目を開ければ彼女がいた。私が消したはずの彼女が。
彼女はお気に入りのバッグを左肩に担ぎ、水面の上に何の違和感も無く立っていた。バッグの口からは、パールグリーンの携帯電話が覗いていた。
彼女の愛用の携帯電話。そのアドレスをそらで言えはしないが、私の携帯電話にも登録してあることは確かである。
それを聞いて私が思ったのは、『何が』大丈夫なのかという質問ではなく、
「どうして?」
何を案ずることもないと言い切れる、その理由。
いつか昔に、彼女と同じ会話をしたことがあることを、私はきちんと覚えていた。そしてそのときと同じように、私は彼女に尋ねているのだ。私の唇が紡ぐ言葉は、私の意思とはまったく関係なく作られていく。
私は彼女の亡霊から逃げられないのだろうか。ふとそんなことを考えて、少しだけ眉根を寄せる。けれどその後に、それでもいいかと考え直した。特に何の不利益があるわけではないのだから、それでも良いだろう。――良いのだろう、きっと。
そして尋ねれば、やはりいつかのように彼女は答えた。
「救えないものはこの世に無いわ」
夢物語を、戯言をと罵られる言葉を、いとも簡単に。世界が美しいものであると信じて疑わぬ赤子のように、彼女は純粋な笑顔でそう言った。
だが私にはそれがあまりにも美しすぎて、それ故に、歪めてやりたいという悪戯心が芽生えてしまう。その感情に任せるがまま、私は、彼女に対しこんなことを告げてみた。
「世間ではそういうものを、絵空事と言うのでは?」
私の口にした言語がわからないとでも言わんばかりの表情で、彼女は小首を傾げた。何も言わずに私を見ている。
そしてそんな彼女を見返しながら、言葉を続ける。唇の端に、少しばかり自嘲を帯びた笑みを浮かべながら。
「私がいくつのものを失ったのかあなたは知らないでしょう?」
「あなたがいくつのものを手に入れたのか私は知らないわ」
けれど先ほどの質問とは違い、今度はあまりにも早く、そして簡単そうに、そう答えた。
そして彼女は再び微笑むのである。世界の何をも知らぬ彼女は。
「救えないわけがないじゃない」
再び目を開ければ、彼女はもう、そこにはいなかった。濃紺の虚空にぽっかりと浮かんだ白だけを置き土産にして、彼女は去っていた。
すくえないわけがないじゃない。
彼女の遺した最後の言葉が、耳鳴りのように木霊する。そうだ――そうだ。そう言って、私の前から彼女は消えていったのだ。砂浜に残された足跡が波によって消えていくように、彼女もまた。
バッグから覗いていた、薄緑色の携帯電話を思い出す。
例え送ったとしても、今はもうUser unknownとしか帰ってこない彼女の携帯電話のメールアドレスには、確か『小さな葉』という意味の英単語が入っていた。
私の知る限り、彼女は一度たりともメールアドレスを変えることは無かった。彼女は一体何を思ってその言葉を使っていたのだろうか。それを聞くことすら許されぬ今となっては、勝手に想像することしかできないけれど――。
世界の全てを救おうとして、けれど結局自分すら救えなかった彼女は何を思ったのだろう。何を助けることができても自分が助からなければ意味が無いという前提にすら、まさか彼女は気づけていなかったのだろうか?
漣が私の鼓膜を揺らす。暗い世界の中で波は、引いて寄せて、また引いて行く。
高みを目指す彼女は、高みを目指す故に遠く消えていった。
私は? 私はいつまでここに残ればいい?
答えの帰らない問いかけを、私はひとり、誰にともなく尋ね続ける。