1杯目 ラーメンのなかった世界で、始まりの一杯
そして、草むらの上で目を覚ました。
そんなわけがないのだ、私は車に轢かれて命を落としたのだから。
痛みらしい痛みを感じる前に意識は飛んだけれど、その瞬間の記憶は確かにある。
「……うぇ」
思い出して、ゾッと鳥肌がたつ。
とはいえ、今意識があるのも事実。
病院に運ばれて奇跡的に一命を取り留めた?
だとしたら、どうして草むらの上にいるのだろうか。
今いるのはそよ風の心地よい草原、上を見れば一面広がる青空。
向かって右側には広葉樹の生い茂る森が広がり、左側の遠くには大きな山が望める。
テレビの大自然特集とかで見るような光景。治療後にこんなところに寝かせておく病院があるとしたらちょっとワイルドすぎる。
「なるほど、ここが天国ね」
まあ、そう考えるのが妥当だろう。
「くぅ~、なんか体も軽いかも」
思い切り伸びをする。気温もちょうど良い、空気も澄んでいて肺の中が洗われるよう。
日頃デスクワークで凝り固まった両肩も、いつの間にか随分楽になっている。
そのまま目を閉じてそよ風を感じているだけで、何時間でも過ごしていられそうなくらいだ。
ついさっき目覚めたばかりなのに、なんだかうとうとしてきた。
平日は毎日六時間にも満たない睡眠時間でやってきたのだから、天国に来てまずお昼寝をしても誰も文句なんか言わないだろう。
大の字に寝転がって、ゆっくり呼吸をして、いつしか眠りの底へと……
「……か?」
落ち切る前に、誰かの声で現実に引き戻される。
「何をされているのですか?」
透き通るような綺麗な女性の声。
「んん……何よ、人が寝てる時に」
目を開けると、こちらを覗き込んでいる声の主と目が合う。
彼女は私の頭の先の方に立っており、逆さまの顔がそこにはあった。
「え? 天使?」
口を衝いて出た、正直な感想である。
眉のあたりで揃えられ、斜めに流した前髪。重力に従って私の方へと垂れてきているサイドヘアは顎のラインで揃えられ、ショートボブになっている。アッシュグレーの髪色は陽光を浴びて純銀のようにキラキラ煌めいていた。
目を引くのが、サイドヘアの生え際辺りにある二つの楕円。三つ編みで作られたそれは、彼女の横髪を艶やかに飾り付けている。
そんな頭髪に囲まれた小さな顔には髪と同じ灰色の眼、小ぶりの鼻、薄い桃色の唇が綺麗に収まっており、落ち着きのある印象を受けた。
アニメに出てくるような美少女。そんな容姿の彼女が纏っているのは純白のワンピースと、花の装飾が施されたベージュのサンダルだ。
これを天使と言わず、何というのだろうか。
天使さんは眉を下げ、困ったような表情で答えた。
「えーと、とりあえず私は天使ではないですし、私有地で何をされていたのかお伺いしているのですが……」
「ん? ……ん?」
頭の中を疑問符が駆け巡る。
彼女が天使ではないのはいいとして、私有地? 天国にもそういう概念があるなんて。
「ご、ごめん。天国とはいえ決まり事はあるよね……」
「て、天国ですって⁉︎」
今度は彼女がすっとんきょうな声を上げた。両者共に非常に間抜けな状態である。
「ここは天国じゃない……と、思います……よ? 私死んだことないですし」
あまりに会話が噛み合わないからか、彼女の喋り方もしどろもどろになってしまっている。
しかし、死んだことがないから天国ではないというのは理にかなった話かもしれない。
いや、私は死んでるんだよなぁ……。
今の状況か、あるいは車に轢かれるまでの人生は夢だったのではないかとおかしな考えを始めたその時、ふと脳裏によぎった言葉があった。
「そっか……じゃあさ。ここって、どこの国なの?」
私の問いに、彼女はさも当然のように言った。
「プリミナ王国です」
聞いたことのない国。しかし私は確信した。
命を落とし、気が付けば大自然の中。そこにアニメみたいな美少女が現れ、ここは天国ではないと言うではないか。
私がいた世界とはかけ離れているのは間違いない。ならばここはどこなのか。
不思議なもので、自らの恰好というのは案外目に入らないものだ。今更になって私は、ようやく自分の姿を確認した。
トップには、キャメルカラーのフリルがついたオフショルダーのブラウス。ボトムには少しタイトな黒のパンツ。履いていたことすら気が付かないほど軽い素材のアンクルストラップは、真っ白で塵一つついていない。
あら、かわいい。そんな具合のファッション。神に誓って言い切れるが、私にこんな服は確実に似合わない。もちろん買った記憶もない。
極めつけは、肩程まで伸びている髪。
長さ自体は以前と変わらないが、持ち上げてみるとそれは私の知っている乾燥気味の黒髪ではなく、さらさらと絹のように流れる若葉色の髪へと変貌していた。
出勤中や帰宅中にアニメを見漁り気を紛らわせていたおかげで、これがどういう状況なのか理解できた。
車に轢かれて命を落とした私は、死後の世界に来たのではない。
異世界に、転生してしまったのだと。
*
立ち上がって向き合うと、私の方が少しだけ身長が高いのがわかった。視点の高さに違和感がないので、身長自体はあまり変わっていないのかもしれない。
天国のくだりは忘れてもらうことにした。かなり訝しげな眼をされたけれど、なんとか誤魔化した。
事故にあって、気が付いたらここにいた。自分が住んでいたのはここから遠く離れていたところである。
大体こんな感じ。無理があるのは百も承知だけれど、彼女は納得してくれたようだった。
「ちなみに、どこからいらっしゃったのですか?」
「よ、ヨコハマ……」
「聞いたことがないです……」
そりゃそうだ。
「あ!」
彼女はハッとして、両の掌をを口の前で合わせた。色白の細い右薬指に絆創膏が貼ってあるのがふと目に入る。
「アシュリン・ミルルと申します」
遅くなってごめんなさい、と彼女は名乗った。
「よろしく、アシュリン。私は……」
望月八千流。素直に言おうとして、言葉につまる。
そもそも日本風の名前は通じるのか? それに、せっかく転生したのだから違う名前にしてみるのもありなのではないか?
咄嗟に名乗ってみたい名前を考えてみたけれど、いい案は思いつかない。何かないかと周りを見回しても、一面緑しかない。
このままだと私の名前は森丘野原さんだ。
「……ヤチル」
結局、そのまま答えることにした。両親にもらったこの名前が一番しっくりくる。
「ヤチルさん、ですね! それで、なのですが……」
恐る恐る、といった感じでアシュリンは続ける。
「ヤチルさんはこの後、どうされるのですか……?」
そこが問題なのだ。ハッキリ言って私に目的はないし、行くあてもない。
アシュリンはここを私有地と語った。自分の敷地内に知らない女が居座っていても、迷惑極まりないだろう。
「どうしようかなぁ」
口を衝くのは、生産性のない言葉だけ。
「ヤチルさんがここに来てしまった原因がわかれば良いのですが……そういえば、ヤチルさんはここへ来る以前は何をされていたのですか?」
ラーメンチェーン店のマネージャーをやっていました、と答えるわけにもいかない。またはぐらかして答えることにする。
「飲食店で働いてた。お店の方針とかを考えてたよ」
「ふぇっ?」
目を丸くしたアシュリンに、私は焦る。
何かまずいことでも言ったかな?
「具体的には、どのようなお仕事を?」
私の思いとは裏腹に、アシュリンは食い気味に質問を重ねる。
「メニュー考案がほとんどで、厨房に立つこともあったかな」
「め、めにゅー……!」
アシュリンの目がキラキラ輝いている。お淑やかなイメージはどこへやら、すっかり熱が入った様子でアシュリンは続けた。
「その、ヤチルさん」
「ん?」
「行くあてがないんですよね?」
「まあ、そうだね」
「少し、私に付き合ってもらえませんか……?」
子猫のような上目遣いで、彼女はそう言った。
「付き合うって、何に?」
事態を飲み込めていない私に、アシュリンは「実は……」と身の上話を始める。
「私、料理が大好きで、飲食店を開業しようと考えているのです! お店も既に用意してある、のですが……」
アシュリンがしゅんとする。
「私には、メニューを考える才能が全くないのです。用意できるのは家庭料理ばかり、これでいいのかとなかなか開店に踏み切れず迷っていたのです」
アシュリンは両の拳を握りしめ、言い放った。
「そこでヤチルさん、うちのお店のメニューを評価していただけませんか?」
突拍子もない提案。それに私の専門分野はラーメン。果たして彼女の期待に応えることができるだろうか。
そう考えると同時に、異世界の飲食店事情に興味があるのも事実だった。そもそも、このままだと訳のわからない世界で放浪生活待ったなしの私にとってこの提案は非常に魅力的。
迷った末、出した答えは……
「わかった。いいよ」
「いいのですか⁉︎」
大喜びのアシュリンは、勢いそのまま声高々に宣言した。
「早速、行きましょう!」
こうして私は、異世界で出会ったばかりの少女と飲食店のメニューについて考えることになったのである。
*
背の高い木に阻まれて見えていなかったが、アシュリンの案内で森を抜けるとすぐそこが住宅街になっていた。
茶色、黄色、ピンクに朱色。色とりどりに着色されたレンガ造りの家が規則正しく並んでいる光景に、ふとイギリスの町並みを思い出す。
辺りを歩く人々の髪色が総じて奇抜な点には驚いたが、私自身緑髪で歩いているのだしそういうものだと割り切ることにした。むしろ原宿や渋谷よりも落ち着いているように思えるのは、みんな決まって布地の服を着ているからだろうか。
そんな町中で特に目を引くのが、赤レンガがふんだんに使われている大きなお屋敷。連なる住宅群から少し離れ、森に隣接する位置に建っているそれは、他の家が五つは囲えてしまいそうなほどの敷地を誇っていた。
「アシュリン、あれは博物館か何かなの?」
町中の整備された石畳の上をを歩きながら、私は問う。
「ああ、あれは私の家ですよ」
「……はぁ?」
今日一大きな疑問符が出た。
「ですから、あれは私のおうちです。と言っても、今は殆ど使っていないんですけどね」
開いた口を塞ぐことを忘れてしまった私に、アシュリンは「きちんと説明いたします」と話を始める。
「自分で言うのも気が引けますが、両親が資産家でして。お屋敷は立派ですが、両親は仕事であちこち飛び回っていて滅多に帰ってこないですね」
「じゃあアシュリンはあの屋敷でメイドさんとかと暮らしてるの?」
「いえ、私はお店に一人で住み込みで準備をしております」
つまりあの大きな建造物は現状ただのランドマークというわけだ。
「お店をやりたいと相談したら二つ返事で出資してくれましたし、一人残った私を気にかけてはくれているみたいですが……」
アシュリンはそう言って笑ってみせる。一方私はアシュリンから漂っていた謎の気品の正体はこれだったかと、一人納得していた。
雑談交じりにミルル邸の方へと進んでいくうちに、ミルル邸の敷地内、ちょうど住宅街の道に隣接するあたりにちょこんと建った家屋が目に入る。
赤レンガで造られているのは同じだが、屋敷より幾分か真新しく感じる。他の住宅と比べて奥行のある形状には、ピンとくるものがあった。
「もしかして、あれがお店?」
「はい!」
玄関に配置された緑葉植物、黒いドア。朱、緑、黒のコントラストに加えて正面はガラス張りになっており、ヒノキのような木製の椅子と机が並んだ内装を見ることができる。
小洒落たカフェのような外観でありながら、住宅と同じ建材であるために町の一部のように溶け込んで見える。
「素敵なお店だね」
「でしょう? さ、どうぞ中へ」
アシュリンの案内で引き戸を開き戸を潜る。
中央の勘定場から左にはカウンター席が六席、右には四人がけのテーブル席が三席。いかにもご飯屋さんといった配置である。席と席の間に余裕があるあたり、思ったよりも中は広いのかもしれない。
「お好きなところへおかけください! 私は厨房で用意を……」
早歩きで厨房へ向かっていたアシュリンが、不意に振り返る。
「そういえばヤチルさん、お腹は空いていますか? 今からお作りして、食べられますか?」
言われて初めて、しばらく何も口にしていないことに気がついた。
「全然食べれるよ」
「なら良かった……すぐにお持ちしますね」
言うなり、アシュリンはカウンターを抜けて厨房へと姿を消した。
同時に、ぐぅ。とお腹の虫がその存在を主張してくる。
意識すると途端お腹が空くものだ。太陽……なのかはわからないけれど、少なくとも太陽と同じ働きをしているそれが真上にあることから察するに今はお昼時だろう。ご飯にはちょうどいい。
一番厨房に近いカウンター席に腰掛けて、料理の到着を待つ。
家庭料理ばかりとアシュリンは言っていたが、この世界の家庭料理がどんなものなのか想像もつかない。
とんでもないゲテモノが出てきたら、どうしよう。
期待と不安を半分ずつ胸に抱き、答え合わせの時間を待っ……ているのだけど、その時がなかなか来ない。
厨房の様子を伺っても、物音一つ聞こえてこないのだ。
「ちょっと、アシュリン?」
「はぁい」
「今ご飯を作ってるんだよね?」
「そうです!」
「何を作っているのかしら」
「秘密ですぅ」
「あ、そう……」
秘密というなら、仕方がない。それに調理はちゃんとしているようだから、もう少し待ってみようかな。
足を組む。外の様子を眺める。髪をいじる。
雲がゆっくり流れていって……それでも料理はこない。
「……アシュリン?」
「はぁい」
「ちょっと、こっち来てもらえる?」
いつの間にか黒のエプロンを身に纏い、腕捲りをして料理モードのアシュリンが出てきた。
「何を作っているの?」
「それは……」
アシュリンが躊躇う素振りを見せる。秘密にしておきたいようだけど、この手の飲食店での長い待機時間はそのまま印象に関わる問題だ。理由を聞かなくてはならない。
「ジャンルだけでもいいからさ」
「ジャンルは……煮物です」
「……もしかして、一から?」
アシュリンがゆっくり頷いた。
なるほど。家庭料理なのだから煮物はベターな選択かもしれない。
けど、注文を受けてからそれを一から作るというのはさすがに無茶なのではないだろうか?
「作り置きとかは?」
「出来立てを提供したいのです……!」
彼女なりのこだわりらしい。とはいえ、それでお店をやっていくのは無謀と言わざるを得ない。
「ちなみに、他のメニューはどんなものがあるの?」
「煮物以外だと、蒸し物とか茹で系だとか……」
待機時間は煮物と大差なさそうだ。
「オッケー、パッと出せるものはあるかしら?」
「パッと……」
うんうん唸るアシュリン。どうやら彼女のレシピにお手軽に作れる料理はないようだ。
「そういえば!」
諦めかけたその時、アシュリンが両手を合わせて声を上げた。
「まだ試作段階ですが、新しく考案中のレシピならいくつかございます!」
「じゃあ、それをお願い」
「承知しました!」
アシュリンが持ってきたのはカップに入ったプルプルした何かと、タンブラーのような容器に入った黒い液体。
「まずはこれです」
「これは……」
調味料と思しき黒い液体を指に取って舐めてみる。
「えええ⁉︎」
こんなことがあるだろうか? 心底驚いた。素性の知れない液体の味は、なんと醤油そのものだったのだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「ああ、こめんごめん。気にしないで」
異世界で醤油と出会った喜びを、どう表現したものか。一人で感動する私に、アシュリンは恐る恐る料理の説明を始める。
「まずこちら、卵と牛の乳を使ったお菓子なのですが」
……おや?
「それにこちらの調味料をかけるだけ! これでなんとあのモンスターの味を再現できるのです!」
どこかで聞いたことのあるレシピ。いや、これはレシピというのかも怪しい。
こちらの勘違いであることを望みつつプリン的なものに醤油的なものをかけ、口に運ぶ。
うん。これはあれだ。あまりに再現度が低くてなんとも言えないやつだ。
「ちなみになんの味かわかりますか?」
アシュリンがウキウキで聞いてくる。別の世界でこれを料理として出したら大バッシング間違いなしなのだけれど、知らぬが仏とはこのこと。
「……うに?」
「残念! ニードルスフィアでした!」
要するに、正解である。
「……他には何かある?」
「え、反応うす……もっとすごいやつがありますから、期待しておいてくださいね!」
次に持ってきたのは、棒状の緑色野菜と黄金色のドロっとした液体。
「お野菜と調味料で、なんと果物の味になるのです!」
品物を見て察していた私は、それ以上説明を聞くこともなくきゅうり的なものに蜂蜜的なものをかけてかじった。
メロンの味など、するわけもなく。
「まだまだありますよ!」
意気込むアシュリンに、待ったをかける。
「いや、もう十分だから」
「え? もういいのですか?」
これは、ダメかもしれない。
私の脳が白旗の用意を始めたところに、アシュリンが救いの一手を打つ。
「その、厨房に来てみます……? 食材は色々用意しているので、ヤチルさんがお仕事で扱っていたものも作れるかもしれませんし」
「そうだね、お邪魔するよ」
そのままアシュリンに続いて厨房へ入る。
「わ、すご」
無意識の呟きに、アシュリンが頬を綻ばせた。キッチンで働いていた身として調理設備の充実加減というのはよくわかるし、そこを褒められると料理人は嬉しいものなのだ。
棚には汚れ一つない綺麗な食器が並べられ、壁には鍋やフライパンといった調理器具がこれまた丁寧で、かつ使いやすいような配置で置かれている。
調理台の上には大きなまな板と包丁、そして大量の調味料が配置されており、先程の醤油的のように見覚えのあるものから全く検討のつかないものまでよりどりみどりである。
ガスの概念はないようで、コンロの代わりにかまどと焚き火を用いた暖炉のようなものが並んでいる。暖炉に一つ置かれた鍋には作りかけの煮物が入っていた。根菜や卵が入っているこれは、私のいた世界で例えるならばおでんに近いだろうか。
なんにせよ、かなりよくできた設備である。火回りも、コンロほどの便利さはないにしても特に問題なく料理はできそうだ。
しかし、最も肝心な物が見当たらない。
「食材はあそこに保管してあります」
例の物を探してあたりを見回していた私を見てアシュリンが指さしたのは、三メートル近くもある大きな灰色の箱。
石でできているそれは、最も肝心な物……冷蔵庫のように見えなくもないが、俄には信じがたい。
「こんなのが……」
半信半疑でそれを開けると、予想に反してひんやりと冷気が溢れ出した。それは紛れもなく冷蔵庫を開けた時の感覚と同じである。
「電気もないのに、どうして……?」
「どうです? そのサイズの氷晶庫はなかなかないでしょう? うちのお店一番の自慢なんですよ!」
「氷晶?」
中を覗いてみると、箱の上部には薄紫色の宝石が嵌め込まれていた。手を近づけるとそれが冷気の発生源であることがわかる。
なるほど、異世界らしいアイテムが出てきたじゃないか。心のどこかで異世界ならではの体験を期待していた私は、ようやく出てきた“異世界っぽさ”に胸を躍らせた。
「これなら、食材の管理には困らなそうね……」
飲食店のライフライン、冷蔵庫問題はあっさり解決してしまった。となると次の問題はどんな食材があるのか。
氷晶庫とやらには、あらゆる食材が所狭しと詰め込まれている。何かの肉、野菜類、卵、瓶詰めの牛乳にお茶。その中で黒い壺に目をつけた私は、手にとって中身を確認した。
茶黒い、と表現するのだろうか。粘り気のあるその物体は、深みのある懐かしい香りを放っている。
「嘘でしょ……」
さらに、もう一つあった白い壺には先のものに比べて少し色味が薄く、粘度も低いがよく似たペーストが入っていた。
震える指でそれを少量取って、舐める。
「う、うそ……」
嘘なんかじゃない。これは味噌だ。
思いがけない味噌との再会に涙を浮かべる私だったが、衝撃はそれでは終わらなかった。
氷晶庫の最上段。最も冷気が増す位置に置かれていたのは、何より見慣れた白い紐状の食材。
もちもちした触感のそれは、私の手中で光輝いているようにすら感じる。真っ直ぐ伸びたフォルムが芸術品のような趣を漂わせている。
本来ならもう少しちぢれていた方がスープが絡んで美味しくなるのだが、このままでも食べ応え十分の良いラーメンが作れるだろう。
「麺がどうかしましたか?」
麺を持ったきり固まってしまった私を心配したのか、アシュリンが横からチラリと覗き込んでくる。
「アシュリンはさ、麺を使ったメニューとか考えたりしないの?」
「ええ⁉︎ 麺なんて出しませんよ!」
目を丸くして驚くアシュリン。麺を使ったメニューというのはそんなに珍しいのだろうか。
「具合の優れないお客さんがいらしたら、お出ししても良いかも知れませんが……」
「なんでぐあ……」
いや待て、この噛み合わない感じはもう経験済みだ。今するべきなのは、オウム返しの質問ではなく……
「この地域……プリミナ王国では、麺はどういう風に食べるの?」
「薄味のつゆに入れて食べるのが一般的、かと思います。食べやすい物なので、主に風邪を引いた時に療養食として選ばれることが多いですね」
そうきたか。ラーメンの概念がないのは少し寂しいけれど、納得のできる内容でもある。
歴史、カルチャー、文明の違い。馴染みのある食材ばかり出てきたせいで頭から抜けていたが、やはり世界が違えば生活方式にも差が出るものなのだ。
しかし、そこに全く新しい、革新的なものを持ちこんだらどうなる?
例えば。麺類の使用方法が療養食しか無い世界に、一杯一食として満足できる画期的な麺類のレシピを持ち込んだら?
私はその魅力と、それを伝える手段をよく知っている。
「ねえアシュリン」
「はい?」
「今から、私のとっておきを見せてあげるわ……」
麺を片手に、不敵に笑ってみせる。一つ断っておくけれど、私は麺を使った異能力者などではない。
「この、麺を使ってね!」
ひとまず、めぼしい材料と調味料をひたすらかき集めてみる。
両親の店も、私が働いていたチェーン店も味噌ラーメンをメインに提供していた。故に味は味噌一択。
あとは麺、ニンニク、もやし、ネギ、野菜ベースのオイルに加え、もろみもあったのは幸いだった。もちろんどれも異世界産なので、正式なものではない。ネギを手にとった際にアシュリンが「マンドラゴラの葉……」と呟いたのは、聞こえていないないことにする。
「本当に、麺で作るのですか……?」
アシュリンが不安げな表情を見せる。前世で例えるなら、自信満々でお粥を作っている人を見ている感覚に近いだろうか。
私としてはお粥も全然ありだと思うけれど、飲食店のメニューに加えるには少しパンチにかけるかもしれない。
「まあまあ、見てなって」
湯切りに入れた麺を鍋にかけ、片手鍋を手に取る。そこにもろみ、粉末状に砕いたニンニク、オイル、そしてもやしとおたま一杯分のお湯を入れる。
このお湯も本来なら豚骨や魚介で出汁を取ったものを使いたいのだけれど、今は我慢。他の食材が充実しているので、これでもかなりいいクオリティの品を作れそうだ。
鍋を火にかけたら、そこにデッシャーで掬った白味噌を投入。泡立て器で崩しながら混ぜ合わせる。
食材のみならず、調理器具もほぼ揃っているのが非常にありがたい。
「さて味は……うん、悪くない」
白味噌の優しい甘さの奥に、ニンニク由来のスパイスが隠れている。改良の余地はたくさんあるけれど、あり合わせで作ったにしてはかなり良い出来である。味見の結果は、八十点といったところか。
「手際が良いですね……!」
興味津々で見学しているアシュリンを尻目に、早速仕上げに取り掛かる。
まずはお湯からあげた麺の湯切り。水が滴り切るのを待ってから、手首のスナップをきかせて三度振る。丁寧に、かつスピーディーに。ここを拘らずして、何がラーメン屋だ。
ツヤツヤの麺を丼に入れ、そこにスープを流し込む。トングで麺をつまみ上げたら、平たく畳んで直した。こうすることで見栄えとスープとの絡みがグッと増すのだ。
麺の上にマンドラゴラの葉……もといネギを乗せる。他に使えそうなのは……
「これ、もらうね」
作りかけの煮物に取り残されていた卵。殻が剥かれているところを見るに、これはあらかじめ仕込まれていた味玉であると推測できる。氷晶庫には入っていなかったので、最後の一つだったのだろう。
主役と言っても遜色ない程の存在感を持つチャーシューがないのがなんとも寂しい。影の引き立て役であるメンマがないのも、非常に残念だ。海苔は……個人的にはそこまでかな。
とにかく、これで異世界ラーメン一号の完成だ。我ながら、うまく作れたと思う。
「完璧ではないけど、ひとまず完成だね」
私の声に反応するように、アシュリンがゴクリと唾を飲む。
「食べようか?」
「はい!」
数分前の不安そうな顔はどこへやら。待ってましたと言わんばかりの返事に、こっちも嬉しくなる。
丼をもってテーブル席へ向かう私を、アシュリンが追いかけてくる。その手には二対のお箸が握られていた。今更お箸の登場程度で驚く私ではない。
対面する形で座ったら、二人で手を合わせた。
「「いただきます」」
まずは、しばらくラーメンのことしか目に入っていない様子のアシュリンの方へ器を寄せる。
アシュリンは滑らかな所作でネギと麺を一緒に挟み、そのまま口元へと運んだ。揺れる前髪を指で耳にかける動きがなんだか色っぽくて、不覚にもドキドキしてしまう。
アシュリンの柔らかそうな唇に到着した麺が、音もなく彼女の口へ吸い込まれていく。これが育ちの良さの為せる技か。
感心すると同時に、ラーメンってこうやって食べるんだっけ? とも思ってしまう。
麺を啜りきったアシュリンは、ゆっくりと咀嚼をしたのち……目を見開いて固まった。
「……もしもし?」
よく見ると、プルプル小刻みに震えている。新しすぎる反応に、どんな感想を抱いているのか想像の余地もない。
アシュリンの意識がどこかへ行ってしまっている隙に、私も一口いただく。
「あ、美味しいじゃん」
思いのほかスープと絡んでくれた麺はしっかりコシがあって食べ応えがある。その食感と同時に、味噌の旨味が口の中でふわりと広がるのだ。もちもちした麺を噛めば噛むほどじんわりスープが舌に溶け出し、香る風味がまた麺の良さを引き立てる。飲み込んだ後にはニンニク由来のスパイスが麺ののどごしをキリリと引き締めてくれる。
嚥下するとお腹から全身に伝わっていく温かさ。この優しい味わいこそ味噌ラーメンの魅力である。
ふぅ、と思わずため息を漏らすと、それに反応するようにしてアシュリンが正気を取り戻した。
「これ、おいしすぎます……!」
すっかり頬が緩み、あんまりお外では見せられないような顔でアシュリンが感嘆の声をあげる。
「こんな素敵な料理があるとは知りませんでした! ヤチルさん凄いです!」
「そりゃどうも」
「温かくて、優しくて。まさに私の理想の料理です……」
そこまで感動してくれるとは。嬉しいし誇らしいのだけれど、ちょっと恥ずかしい。
「あの、ヤチルさん」
「うん?」
「私……この料理を、お店で出したいです」
かつてないほど真剣な眼差しで、アシュリンが私の目を見つめる。
「でも、ヤチルさんはこれをお仕事にしていたんですよね? それを私のお店で使ってしまって良いのでしょうか……?」
あまりに真面目なアシュリンの姿が、なんだか可笑しく見えてしまった。
「……っぷ、あはは!」
「な、なんで笑うんですか!」
「や、ごめんって……っふ」
頬を膨らませるアシュリンを、なんとか宥める。
わざわざついてきて、ありあわせとはいえ実際に振る舞って、素敵な感想を貰って。そんなの……
「当然、良いに決まってるじゃん」
アシュリンが、はっと息をのむ。
「これで、うちのお店もついに……!」
「そうだね、これから……」
頑張って。言う前に、アシュリンに割り込まれる。
「これから、一緒に頑張りましょう!」
「……いっしょ?」
「ええ!」
いやいやちょっと待て……そう考えたのはほんの一瞬だけだった。
どうせ行くあてもない。なんてのは建前で、この世界のラーメン屋がどんな風になるのか気になってしまっている。
それに、前世でうんざりしていた職場のチェーン店とは違う、両親のお店のようなのんびりとした雰囲気を、あの心温まる場所をアシュリンとなら作れるかもしれない。やってみたい。そう考えている自分がいる。
答えが出るまで、長くはかからなかった。
「うん。やろう、一緒に」
私の答えを聞いて、アシュリンは満面の笑みで左手を差し出した。
「よろしくお願いします、ヤチルさん!」
笑い返して、その手を取る。
「こちらこそよろしくね、アシュリン」
アシュリンの手のひらの温もりに、ふと母親を思い出す。
ラーメン屋の隣にある実家に帰るとき、ママの手をよく握ってたっけ。
「そうと決まれば、食材を用意しなくてはですね! この後市場にでも行きますか」
感傷に浸る私とは反対に、アシュリンは今後の計画を練り始める。
「ああ、でもその前に……」
考え事をしながら上を向いていたアシュリンの視線が、器の方へと戻った。
「こちらを全て頂いてからですね……!」
幸せそうにラーメンを頬張るアシュリンを眺める時間は、温かくて甘美なものだった。
わけもわからぬまま始まった二度目の人生。やることは同じラーメン屋でも、全く違う道のりになると私は確信していた。
これが、その始まりの一杯目である。