6. 淑女育成計画始動!
母のオフィーリアへの愛が止まらない。
翌朝アドニスが朝食のため食堂に行くと、自分の席の位置が変わっていることに気がついた。
前日までは長方形のテーブルの片側に父と母が並んで座り、向かいに自分とオフィーリアが並んでいたのだ。
ところが今朝は父の隣に自分、向かい側に母とオフィーリアが並んで座っていた。
「……?」
不思議に思ったが、果たしてそれはニコラ夫人の仕業であった。
理由は食事が始まってすぐに判明した。
「オフィーリア、ナイフの持ち方はこうですよ」
夫人は直接オフィーリアの手に自分の手を添えて指導する。
「オフィーリア! またソースを頬につけて! 全く手のかかる子だこと」
と言いながらいそいそと頬を拭いてあげる。
とにかく、夫人はオフィーリアのお世話をすることが嬉しくて仕方がないのだ。
手取り足取り教えるための席替えであった。
バーンホフ侯爵はこの様子を微笑ましく眺めていた。
妻のこんな楽しげな様子を見たのは結婚以来初めてだった。
いつもは頭痛がするからと言って朝食をとらないことすらあったというのに。
ああだこうだとひとしきりオフィーリアを注意したニコラ夫人は、ふと
(あまりガミガミ言いすぎるとオフィーリアに嫌われてしまうかしら)
と心配になった。
「あ…あの、オフィーリア。色々と口やかましいこと言いましたが、別にあなたが憎くて言っているわけではないのですよ」
「はい、ニコラ様」オフィーリアが照れたように答える。
「私は母を幼い頃亡くしているので……むしろ嬉しいんです」
「え?」
「母が今も生きていたらこういう感じなのかなと思って。ちょっと温かい気持ちになるんです。ふふ」
「オフィーリア!」
感極まった夫人はオフィーリアにガバっとを抱きついた。
「ええ…そうよ。そうですとも。あなたはいずれアドニスのお嫁さんになるのだから私の娘も同然です。これからは私のことをお母様と呼びなさい」
そう言いながらオフィーリアの縦結びになっているリボンを自ら結び直してやる。
アドニスはドン引きした。
さっさとこの場から立ち去るに限ると思い、朝食を素早く胃の中に詰め込んだ。
「ごちそうさま。お先に失礼し……」
「ちょっと待ちなさいアドニス!」
母親によって秒で阻止された。
「今後のオフィーリアの教育計画を考えました。あなたにも手伝ってもらいますよ」
オフィーリア本人にも全くの初耳の計画であった。
夫人の考えはこうだ。
知識、技術、外見、この3分野のブラッシュアップを急ピッチで進めなければならない。
『知識』は世界情勢、国の歴史、社交界の主だった人物のデータなどを覚えること。
『技術』はダンス、乗馬、刺繍など貴族令嬢としての嗜みを身につけること。
『外見』はドレスの着こなし、エレガントな所作を身につけること。
「装いとマナーは私が担当します」ニコラ夫人はウキウキと宣言した。
ファッションとエレガンスは彼女の2大得意分野だ。
「では座学は一流の講師を手配しようか」とバーンホフ侯爵が提案した。
「まあそれは助かりますわ! ありがとうあなた」
夫人が顔を輝かせる。
妻と会話ができただけでなく、感謝までされた!
バーンホフ侯爵は嬉しさのあまり心の中で小躍りした。
そして彼はオフィーリアをダシにするとニコラと会話が出来ることに気づいた。
(オフィーリア嬢には何としてでもこの家にずっと居てもらわねば……)
固く心に誓った侯爵であった。
「という訳で、アドニスあなたはダンス、乗馬、それから貴族社会への顔つなぎを担当して欲しいの」
「は? 嫌です。俺は関わる気はありません」
拒否してみるものの、アドニスの訴えは完全に無視された。
オフィーリアは驚いた。
花嫁修行と言うから、家事のようなものを想定していたのだ。
(ヨボヨボの老人にスープを食べさせる生活のはずが……)
改めてここが侯爵家であることを思い知らされた。
自分が生まれ育った田舎とは求められることがまるで違う。
不安だ。自分などに務まるだろうか。
田舎基準でさえ自分はポンコツだ。
侯爵家レベルの令嬢などに到底なれるとは思えない。
アドニスはオフィーリアが不安そうな顔をしていることに気づいた。
「母上、ほら! オフィーリアも困っています。 そもそもまだ俺と本当に結婚するかもわからないし。……婚約破棄の可能性だって……」
自分がこの面倒くさい計画に引き摺り込まれるのをなんとか阻止しようと試みる。
「縁起でもないこと言うのはおやめなさい!」
夫人が世にも恐ろしい顔でアドニスを睨んだ。
婚約破棄などさせてなるものかと顔に書いてある。
……と思ったら、次の瞬間目を大きく見開いて息子を見つめた。
「あらアドニス、お前オフィーリアの名前を覚えたのね!珍しいこと」
そして意味ありげにアドニスを見てニヤニヤした。
「ほらね。オフィーリアはこれまでの令嬢とは違うでしょう」
アドニスの抵抗も虚しく、かくして『オフィーリアを一人前の淑女に育てよう!』プロジェクトが始動した。
………………のだが。
オフィーリアは皆の予想を遥かに上回るポンコツだった。
まず所作。あらゆる動作が「こぼす、壊す、転ぶ」のウルトラ3Kであった。
美しさを追求するどころの話ではない。
また壊滅的な美的センスのなさも問題であった。
本人にはその自覚が全くないだけにタチが悪い。
ちなみに、先日アドニスに渡した不気味な犬の置物も、オフィーリア的には
「可愛い! 洒落てる!」と、真面目に選んだものだった。
オフィーリアのポンコツさの犠牲になるのは大抵アドニスであった。
ダンスのレッスンの時は悲惨だ。
何度も足を踏まれ、アドニスは靴を数足ダメにした。
またある時はこんなことがあった。
オフィーリアがバーンホフ侯爵に自分が刺繍したハンカチをプレゼントしようとしたのだ。
「先日ドレスを買っていただいたお礼です。初めての作品にしてはまあまあの出来ではないかと思うのですが」
見るとオフィーリアの指は絆創膏だらけだ。
「ありがとうオフィーリア。でもそれは私よりアドニスにあげるべきだ。婚約者にお守りとして刺繍入りのハンカチを渡すことはこの国の慣わしだからね」
バーンホフ侯爵、うまく逃げ切った。
作品を見る前から回避する勘の良さはさすがとしか言いようがない。
そしてアドニスの手に渡ったハンカチは……非常に前衛的な作品であった。
(ど、どこが『まあまあの出来』だよ!)
不規則に絡まった糸の「団子」があちこちに飛び出して、妙な立体感を出していた。
指を刺した時の血のシミまでついている。怖い。
(うっわ……お守りどころか呪われそうだ)
「ん? んんん?」
アドニス手に持ったハンカチを広げようとする……が。
「このハンカチ、広げられないんだが、どうやって使えと言うんだ!」
ハンカチは四つ折り状態のまま縫い付けられていた。
「………………」侯爵もニコラ夫人もフォローしようがなく無言になった。
「どうしたらこんなひどいものが作れるんだ。ポンコツすぎるだろお前……ぷっ!くくく」
アドニスが笑っている!?
侯爵夫妻も使用人も驚いた。
アドニスが笑うところなど誰も見たことがなかったのだ。
「オフィーリア!素晴らしいわ!」
ニコラ夫人が目を潤ませながらオフィーリアの手を取る。
「アドニスはね、ハンカチなんて山のようにもらっているの。だけどこの子を笑顔にしたハンカチはあなたのものが初めてよ!」
笑顔……とはちょっと違う気もするが。
確かに彼は見事な刺繍入りハンカチを引き出し一杯に持っている。
しかしその図案や送り主が記憶に残ったことは一度もなかった。
彼が婚約者の名前を覚えたのも……
彼の印象に残るハンカチをプレゼントしたのも……
彼を笑わせたのも……
田舎から来たこの貧乏で不器用な少女が初めてであった。
アドニスの中の『氷』が少しずつ溶け始めていたことに、この時はまだ誰も気づいていなかった。
…………当の本人さえも。