バーンホフ侯爵が片想いを卒業するお話(前編)
「どうして俺達が行くはずだった新婚旅行に、父上と母上が代わりに行ってるんだっ!」
アドニス・バーンホフは激怒した。
しかし新妻のオフィーリアを膝の上に乗せ、首筋に顔を埋めている体勢だったため、傍目には激怒しているようには見えなかったが。
感動的な結婚式が終わって1ヶ月余。今週から新婚旅行に行く予定だった。
アドニスは忙しい合間を縫って二人のためにとっておきの宿を探した。
美しい山脈が連なる地方の、ほとんど使われていない古い城。
所有者に連絡を取り、1ヶ月間だけ借りられるよう交渉した。
交渉が成立した後はお金を払って人を派遣し、埃だらけの城を磨き上げ、調度品を運び込み、花壇に花まで植えさせた。
頑張って何ヶ月もかけて準備したのに………。
「仕方がないから、私たちは別のところに行きましょう。私アドニス様と一緒ならどんなところでも嬉しいですよ」
「…………………だ」
「え?」
「あそこでなくてはダメだ」
アドニスはガックリ肩を落とし、ため息をついた。
「せっかく……うってつけのホット・スプリングがあったのに」
ホット・スプリング。漢字で書けば『温泉』だ。
アドニスがこの城を気に入った理由は露天の温泉があったからに他ならない。
泉で水浴びをするオフィーリアを見た時の感動と衝撃。
アドニスは未だにそれを忘れてはいない。
(あの時は斜め後ろからチラッとしか見られなかったけどーー)
今は法的にも認められた夫婦であり、愛し合っている者同士だ。
(一緒に入って堂々とま、前から見て……ふ、ふ、触れることだって……)
何度その瞬間を想像して鼻血を出したことだろう。
それくらい楽しみだったのに〜〜〜!!!
「俺はもう親子の縁を切る! 絶対父上を許さないからな」
アドニスは涙目だ。
「だいたいなんで突然旅行に行くことになったんだ?」
「それが、話せば長い事柄でして…」オフィーリアがアドニスの髪を撫でながら話し始める。
「そもそもの発端は私が床をぶち抜いたことでしたーー」
「ん?なんだって?」アドニスが顔を上げた。
「床をぶち抜いたんです」
「? 床を……ぶち抜いた、君が。ぶち抜いた、床を、えーと?……俺の心臓のように?」
「ええ。うふ」
「いや、意味がわからないんだが」
結婚式が終わって間もないある日のことだった。
オフィーリアはニコラ夫人に呼ばれた。
なんでも見せたいものがあるのだと言う。
「さあオフィーリア、これをご覧なさい」
満面の笑みで差し出されたのは一冊の綺麗な装丁の皮張りの本だった。
「まあ、綺麗な本ですことお母様………………ってこれ!?」
それはアドニスとオフィーリアの恋物語を綴った本だった。
ミアとデミィにとらせた記録を小説風に書き直させた。
「これは元本なの。写本がもうじき王都の本屋に並ぶわ!」
出版する気らしい。
「いくらなんでも、恥ずかしいです! やめてください」
「あら大丈夫よ、名前は変えてあるから」
「オリーフィア……ってオフィーリアと大して変わらないじゃないですか。
あっ! しかも「ポンコツな芝居を披露」…ってひどい!」
「本になって、いずれお芝居として上演されたら素敵よね」夫人はうっとりしている。
「そうなったら毎日観に行くわ私」
オフィーリアはその言葉を聞いてちょっと考え、意味ありげに笑った。
「お母様。ロマンチックなお芝居でしたら、もっといいものがございますの」
そして今晩9時に自分の部屋に来て欲しいとニコラに告げた。
そして夜9時。訳がわからないニコラがオフィーリアの部屋を訪ねる。
「まずあらかじめ断っておきますが、これはアクシデントだったんです。悪気はありませんでした」
オフィーリアは先に言い訳をすると、床に敷いてあるラグをめくった。
「きゃー!」
そこには大きな穴が空いていた。
応急処置的にキャンバス入りの額縁で雑に塞がれていた。
「ご、ごめんなさい……」オフィーリアは気まずそうにしている。
「虫を追い出そうとしてカーテンを振ったらシャンデリアに引っかかって……それを取るために本棚に乗ったら、本棚の上半分が落下しちゃって」
その本棚は上下が2分割になって重なっているタイプだった。
変な体勢で乗ったらひっくり返り、上半分が落下した。
そして運悪く角が床をぶち抜いたのだった。
夫人はめまいがした。
オフィーリアは続ける。
「それで……この床下、一階と二階の間の空間なんですけど。ものを落としてしまって。拾うためにこの空いた穴から入ってみたんです」
ものを落としていなくてもオフィーリアだったら入ってみただろうなと夫人は思った。
「そ・う・し・た・ら!」不意にオフィーリアが嬉しそうに顔を両手で覆った
「ふふふふっ…ものすごく素敵な発見があったんですっ!」
赤い顔をしてはしゃいでいる。意味がわからない。
「と、言うわけで。さあ行きましょうお母様」
「えっ! まさかこの私に床下に潜れと……?」
「そのまさかですわ」
嫌がるニコラ夫人を無理やり床下に引きずり込んだオフィーリアは人差し指を一本立てると「シー!」と声を出さないよう合図した。
二人は四つん這いになって薄暗い床下を進んだ。
しばらく行くとオフィーリアが小さな鉄格子の換気口を指さした。
階下の部屋の天井にある換気口だ。
この位置は……どこの部屋の上だったかしら?と夫人が考えていると
「ーーニコラ愛してる」
小さいがはっきりとした声が聞こえた。
「…………⁉︎」
唐突に自分の名前を呼ばれギョッとする。
(ここは……確か主人の書斎のある辺りでは?)
換気口から漏れ聞こえてくる声は間違いなくバーンホフ侯爵のものだった。
「初めて君を見た時、雷に打たれたような衝撃を受けた。この世にこんな美しい人がいるなんて信じられなくて心が震えた」
「君と結婚できるなら命さえ惜しくはない。君が僕の妻になってくれるなんて奇跡だ」
独り言を聞かれているとは知らないバーンホフ侯爵が気の毒である。
これは恥ずかしい。
バーンホフ家のプライバシー、色々と問題だ。
侯爵の愛のポエムは延々と続く。
「……ニコラ愛してる……世界で一番愛してる。この想いは初めて見た時から少しも変わっていない。永遠に変わらない。君だけを愛してる」
ニコラ夫人は赤面して片手で口を覆った。
グレゴール・バーンホフは無口でおとなしい少年だった。
社交や華やかな場所も苦手だ。
そんな彼は19歳の時、国の式典で当時16歳だったニコラを一目見て激しい恋に落ちる。
一目惚れだった。初恋でもあった。
(この女性の顔を毎日眺めて暮らしたい)
強くそう思った。
お金にも出世にも興味がなかったグレゴールの初めての願望。
たった一つの人生の目標となった。
しかし身分的に差がありすぎた。
当時のニコラは国王の姪。
父親は王位継承権3位の王弟だった。
加えてニコラは国内外にその名をとどろかせる美貌の持ち主。
バーンホフ家は辺境伯の家柄ではあるものの、とても釣り合わない。
かと言って諦めることはできなかった。
ニコラのために王都に留まり官職に就くことを決意したグレゴール。
もともと学業ではとても優秀だった彼はそこから死に物狂いで頑張ってどんどん出世していった。
そうするうちにニコラと王太子との婚約の話が持ち上がった。
グレゴールは居ても立っても居られなくなり王太子に直談判しに行く。
王太子の婚約者を横取りするなんて不敬にも程があるが、逆に王太子に気に入られそのおかげでなんとかニコラと結婚することができた。
王太子ーー現国王とは以後ずっと良い関係が続いている。
めでたく愛するニコラと結婚できたグレゴールだったが、そもそもが口下手な男だ。
想いを伝えるどころかニコラが眩しすぎて直視すらできなかった。
二人の関係はアイドルとファンのような関係だ。
グレゴールにとってニコラは「尊い」「推し」なのである。
ニコラをこっそり眺めるだけで喜びを感じたし、なんなら敷地内のニコラお気に入りスポットを密かに「聖地巡礼」していたくらいだ。
愛情を言動で表さないせいで、ニコラが悲しんでいるとは思いもしなかった。
ニコラは愛情が足りないと枯れてしまう花のような人だ。
ニコラの表情がどんどん曇って、元気がなくなっているのに、グレゴールはそれを自分の地位や家柄が低いせいだと勘違いしていたのだった。
ニコラは本来なら王太子と結婚して王妃になるはずだったのだから。
ニコラ様は自分などが軽々しく触れていいような女性ではないのだ。
二人の心の距離はどんどん遠くなり……その結果、夜な夜な一人芝居でニコラへの愛を語るという異常な行動に走るようになってしまったのだった。
小説のような恋愛に憧れ、ベッタベタに愛されたいニコラとニコラ一筋のグレゴールは本来なら需要と供給のシンデレラ・フィットのはずなのに。
「ーーそっか。それで父上の本心を知ってめでたしめでたしってことであの二人、旅行に行ったのか」
アドニスはオフィーリアに膝枕をしてもらっている。デレデレだ。
「そう思いますよね? それがまだ少し続きがあるんです」
オフィーリア:「お母様、あの本を出版するなら、私だってお母様たちのことを本にしますから!」
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(もともと自分のことを記録されていたとは知らず、ニコラたちのことを本にしようと思っていた)
バーンホフ侯爵:「ひいぃい!!! 頼むからそれだけはやめておくれ!」
ニコラ:「皆様、本日はこの上演会に足をお運びいただきありがとうございます。ご存知の通りこの物語は私達夫婦の愛の軌跡を描いた実話でございまして……」
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(すでに舞台上演された時の挨拶を考えている。)




