15. 厄日
「ーーアドニス・バーンホフ卿、あなたとの婚約を破棄させていただきたく存じます」
オフィーリアが俺に向かって言った。
信じられない思いで顔をあげれば、冷たい二つの目が蔑むように俺を見下ろしていた。
「私もう我慢できません」
オフィーリアは怒りを含む声で俺を突き放す。
「だってアドニス様はいつも私を傷つけてばかりなんですもの。大嫌い!」
「だから私は優しいロバート様と結婚することにします」
そう言って、嬉しげにロバートの胸の中に飛び込んだ。
ロバートがそっとオフィーリアに口づけをするとオフィーリアはとろけそうな表情で彼を見つめた。
泉で見たあの表情だ。
やめろ!やめてくれ!
全身の血が逆流する。
オフィーリアが意地悪そうな表情で笑う。
「もう手遅れです。私はとっくにロバート様のものですから」
彼女に触るな! 触るな!!
無理やりオフィーリアをロバートから引き剥がし、力任せに抱きしめた。
「オフィーリア!!」
ーーバチン!
「……………………」
「寝ぼけるのもいい加減にしなさいよ!」
ビンタをくらってアドニスは目を覚ました。
そして自分がベッドで寝ていることに気づいた。
なんという悪夢だ。でも夢で本当によかった……とほっとしてから、
(あれ? 今俺にビンタしたのは一体誰だ?)と思い至った。
「お酒臭くて気分が悪くなりそうよ!!」
ディアンドラがカーテンを開けながらアドニスを睨んだ。
「デ、ディアンドラ!? ここは一体……いたた」
割れるように頭が痛い。ひどい二日酔いだ。
「酒場で酔い潰れているあなたを、偶然居合わせたうちの従者が連れてきたの。はいお水」
アドニスはディアンドラの家に泊めてもらったらしい。
過去にも遊びに来たことがあるので、従者とは顔見知りだ。
「感謝してよね。あなた危うく身包み剥がされるところだったんだから」
「助かったよ。礼を言う」
「別にいいわよ。あなたにはいつも色々世話になってるし」
アドニスとディアンドラはお互いを異性として見たことはなかった。
だからこそ二人の友情は長く続いているのだろう。
アドニスは女性に興味なかったし、ディアンドラにとってはそれが逆に心地よかったのだった。
朝日が昇ると、ディアンドラの家の馬車を借りて、アドニスは自宅へ帰っていった。
…………そして不幸にもその様子を数名の貴族に目撃されていた。
「アドニス・バーンホフが朝早くディアンドラの家からこっそり出てきたぞ!」
という噂はまたたく間に貴族社会を駆け巡った。
「アドニス!どう言うことです!」
鬼の形相でニコラ夫人が詰問する。
自宅に戻り馬車から降りるや否や、待ち構えていたニコラ夫人に捕まった。
婚約者がいる身でありながら、別の女性と一夜を過ごすとは何事かと。
何も起こらなかったというアドニスの言い分を信じるにはディアンドラはあまりに艶っぽい女性だった。
何よりニコラ夫人はオフィーリアを溺愛している。
「許しませんよ!! ディアンドラとやらは男性関係がだらしない娘だと言うではないですか」
ニコラ夫人はカンカンだ。
「母上! 彼女は決してそのような女性ではありません」
ニコラ夫人とアドニスのやりとりを部屋の外で聞いていた人物がいた。
オフィーリアである。
(彼女はそのような女性ではありません……か)
ディアンドラをかばうセリフ。
仲良しだと噂には聞いていたものの、本人の口から聞くとやはり堪える。
「本当にディアンドラ様のことを愛してるのね」
オフィーリアは寂しそうに笑うと、うつむいてじっと考え込んだ。
ニコラ夫人の怒りはおさまる気配がなかった。
本当ならまだまだ問い詰めたいところだが、あいにくその日の夜は王宮での舞踏会へ出席を予定していたため、一旦保留となった。
ニコラ夫人の祖母……国王にとっても祖母である太王太后の80歳の誕生日を祝うために開かれる舞踏会。
それは国王主催の舞踏会としては比較的小規模であった。
王都に拠点を構える宮廷貴族と王族のみが招待されている。
バーンホフ家からは侯爵夫妻とアドニスとオフィーリアの4名が参加予定だ。
そしてニコラ夫人は数日前から戦々恐々としていた。
夫人はこの80歳になる祖母が苦手なのだ。
恐れていると言ったほうがいいかもしれない。
とても厳しい人で小さい頃から叱られた記憶しかなかったから。
祖母はその昔、まだこの国が戦争にあった頃、和平のために外国から嫁いできた姫だった。
完全アウェイなこの国で、民の信頼を得るため死に物狂いで頑張った。
そして当時の国王と手と手を取り合ってこの国に平和と発展をもたらしたのだ。
ニコラの祖母はそんな激動の人生を歩んできた人だった。
そのような経緯からか現国王もその父の元国王も、この老婦人には頭が上がらないのであった。
王宮へ向かうバーンホフ家の大型馬車の中は重苦しい空気に包まれていた。
祖母に会う緊張と息子の朝帰りにイライラが隠しきれないニコラ夫人と、
それを心配する侯爵と、
二日酔いと恋の病で廃人のようになっているアドニス。
…………だから彼らはオフィーリアがいつになく元気がなく、黙りこくっていることに気づく余裕がなかった。
王宮に到着し、降りる順番を待つ。
「アドニス、贈り物は壊れたりしてないだろうな?」
持ち物や身だしなみを確認して降りようとした時…………
「ひっっ…………!!」アドニスの喉が鳴った
「えっ!?」
「アドニス、お前まさか」
アドニスがやらかした。
本日の主役である老婦人に渡すため、何週間も前から手配していたプレゼントを
屋敷の玄関に忘れてきてしまったのである。
「馬鹿者!何のために今日来たと思っているんだ」
「ど、ど、どうしよう」ニコラ夫人は顔面蒼白でガタガタ震えている。
とりあえず馬車を大急ぎで家に戻らせ、忘れ物を持ってきてもらうことにした。
「やあグレゴール、ニコラ」
大広間に入ると、国王陛下と王妃殿下がにこやかに声をかけてくる。
ニコラにとって国王は気のおけない従兄弟であり、バーンホフ侯爵にとっては毎日顔を合わせる職場の上司のような存在であった。
「陛下!助けて下さい。実はプレゼントを……」ニコラが国王に泣きつく。
事情を聞いた国王は絶句し、本日の会の流れを説明する。
「今からしばらく歓談して、だいたい20時ごろに太王太后殿下が登場されて、そこから順番にお祝いの言葉を述べ贈り物を渡していく。その後ダンス、王族の退場、あとは自由解散……といったところだ」
「贈り物贈呈をダンスの後にすることは出来ないの?」
そうすれば、忘れ物を取りに返った使用人が戻ってくるまでに間に合う。
「今言った流れはあくまでも想定だ。太王太后殿下は来たい時に勝手に来るさ。私たちにできることは予定より早く来ないことを祈ることだけだ」
ニコラは祖母の就寝時間が早かったことを思い出し、絶望的な気分になった。
老人が朝も夜も早いのは万国共通だ。
そして祈るような気持ちでバーンホフ家の馬車が戻ってくるのを今か今かと待った。
ただ、「プレゼント忘れた事件」で頭がいっぱいだったせいで、周りの貴族が自分たちの噂をしていることに気づかなかったのは幸いだったかもしれない。
そう、その日舞踏会の会場はアドニスとディアンドラのスキャンダルで持ちきりだったのだ。
貴族の噂なぞ、大抵は事実無根のデマであることが多いのだが、今回は目撃者がいた。
他人の醜聞に飢えていた貴族たちは今朝とれたばかりのスクープにハイエナのように群がった。
貴族たちはアドニスがディアンドラと結ばれるか否かで賭けをしていた。
中には馬や別荘を賭ける者までいたから驚きだ。
やがて、さまざまな思惑をよそにーー太王太后の登場を告げるラッパが無情にも大広間に鳴り響いた。
侍従に支えられながらゆっくりと歩を進める老婦人は小柄ながらも圧倒的な存在感を放っていた。
用意された椅子に腰掛けると、彼女は微笑みながら会場を見渡した。
その猛禽類のような鋭い目つきにニコラ夫人は縮み上がった。
(か、神さま!! プレゼント早く戻ってきて頂戴〜〜!!)
まずは国王が祝辞を述べる。
ふと視界の端の方でバーンホフ侯爵が妙な合図を送ってきていることに気がつく。
(なるべく話を引き延ばせって?何をやらせるんだあいつは……全く)
国王は呆れながらも、長い付き合いであるバーンホフ侯爵のためにひと肌脱いでやろうと決めた。
そして時間稼ぎのため太王太后の数々の功績や貢献を褒め称える話をしようとしたら、
「長い挨拶は不要です、アレクサンドル」
老婦人にバッサリと切られた。
「私は虚礼を好みません。時間はもっと有効に使いなさい」
「……………………」
有無を言わせぬ圧力であっという間にプレゼント贈呈タイムに突入してしまったのであった。
プレゼントを渡す順番はまず身内の王族から。
その次がニコラのように一般人に嫁いだ元王族。
その次が爵位の順に一般貴族であった。
皆、一列に並んで順番にお祝いを述べ、贈り物を捧げる。
バーンホフ家のすぐ後ろには、ライバルである財務長官一家が並んでいた。
バーンホフ侯爵か彼のどちらかが宰相になるだろうと言われている。
贈り物で出世競争に差をつけるつもりなのか、プレゼントの虎の毛皮をこれみよがしに見せつけてくる。
トラの毛皮はこの国では貴重品だ。
(お祖母様自体が猛獣のようだというのに、トラにトラの毛皮着せてどうするつもりなの。ふん)
ニコラ夫人は心の中で毒付いた。
アドニスは自分がしでかしたことの重大さに生きた心地がしなかった。
(まずい……このせいで父上の出世にもしものことがあったら)
オフィーリアは無言で太王太后の羽織っているマントの模様を見つめていた。
もしかしたらギリギリ間に合うかもしれないと、屋敷に取りに帰ったプレゼントを抱えて今にも柱の影から使用人がこっそり現れることに僅かな望みを託していたが、その期待も虚しくとうとう順番が回ってきてしまった。
(万事休す…………!)
ゴクリと唾を飲み込み、バーンホフ侯爵が進み出る。
「太王太后殿下。この度は80歳のお誕生日誠におめでとうございます」
ニコラ夫人は紙のように真っ白な顔をして俯いている。
「バ、バーンホフ家のお、贈り物ですが……………」
侯爵が言葉を詰まらせた次の瞬間
「あの……」おずおずと、侯爵の後にいた少女が進み出た。
そして驚くべき行動に出たのであったーーーーーー




