1. 始まりは
「こ、婚約を破棄させて下さいませ!」
(来た……! やっぱりな〜)
自慢のバラが咲き誇るバーンホフ邸の庭。
アドニス・バーンホフは人生23度目となる婚約破棄の真っ最中であった。
ハンカチで目頭を押さえている令嬢は震える声で続けた。
「も、申し訳ありません。侯爵家との縁談など身に余るお話であることは十分承知しているのですが……で、でもアドニス様は……私の気持ちなどこ、これっぽちも」
令嬢は今なお何かを期待するように彼を上目遣いで見る。
(いや、見るなよ。何その目)
「他に用件がないのであれば僕はこれで失礼するよ」
アドニスは彼女の話をさえぎるように立ち上がった。
そうしないと、延々とうっとおしい愚痴が続くからだ。
美しい白金の髪が揺れ、令嬢は一瞬泣くのを忘れ彼の美貌に見惚れる。
「婚約破棄の件は問題ない。僕から両親に伝えておくよ。ではごきげんよう」
令嬢に背中を向けると手をヒラリと振って立ち去ろうとした。
「お、お待ち下さい! 理由をお聞きにならないのですか」
(うざ……)
引き止められて不機嫌になったアドニスは面倒くさそうに振り返る。
「すまない。スキリオスが遊んで欲しそうにしているので」
アドニスの背後には飼い犬のスキリオスが尻尾を振ってこちらを見ていた。
「あんまりですわ!!この数ヶ月私が毎日どんな気持ちでいたか・・・アドニス様は婚約者よりも犬の方が大切だとおっしゃるのですか!」
令嬢は号泣しながら金切声をあげた。
「ええと、アデライン……男爵令嬢?」
美しいブルーの瞳を不快そうに細め、アドニスは言った。
「君のほうから婚約破棄を言い出し、僕はそれを了承した。よって君はもう婚約者ではなくなった。で何が問題なんだ?」
「……キャロラインですわ。…わぁあん!」
令嬢の泣き声が一層大きくなったが、アドニスは構わずその場を後にした。
(鬱陶しい……。毎度のことながらうんざりする)
婚約破棄も23回目ともなれば、もはや慣れっこだ。
今回はビンタされたり、お茶をかけられたりしなくて助かった。
念のためお茶のテーブルを外に用意させて、自分の服も汚れても大丈夫なものを着てスタンバイしていたのだけど。
ああ、またか。
この様子を遠くからこっそり見ていたアドニスの母親は肩を落とした。
今年19歳になるアドニスはバーンホフ侯爵家の一人息子だ。
宮廷貴族である彼の父親は現在この国の外務長官で、将来の宰相候補として順調に出世街道を邁進している。
母親のニコラ・バーンホフは現国王の従姉妹。
王都でも名高い美貌の大公家の姫君である。
アドニスの美しい瞳と金髪は母親譲りだ。
そう。アドニスは地位にも家柄に容姿にも……そして才能にまでも恵まれていた。
にもかかわらず、どういうわけか婚約するたび破棄されるのだ。
「私がアドニス様に真実の愛を教えて差し上げますわ!」
何度婚約破棄を繰り返しても挑戦者は後を絶たなかった。
アドニスが類稀なる美男子だったからである。
しかし令嬢たちは皆すぐに音をあげて去っていく。
アドニスの態度がありえないほど冷たかったからだ。
彼は婚約者にこれっぽちも興味がなかった。
無反応、無関心、無表情。
血の通っていない綺麗で冷たい人形……それがアドニスであった。
彼の性格に耐えてまでこの婚約にこだわるほど、彼女たちはお金にも異性にも不自由していなかったのかもしれない。
皆カンカンに怒って婚約破棄を言い出した。
「やれやれ、鬱陶しいティータイムだった」
令嬢が帰った後、アドニスは棒っきれを投げて犬と遊んでやった。
「アドニス!いい加減になさい」
背後から母の雷が落ちた。
「これはあなただけの問題ではないのですよ」
婚約破棄を重ねるごとにアドニスの社交界での評判は下がっていった。
婚約破棄した令嬢たちがこぼす恨み辛みは尾ひれがついて、瞬く間に貴族社会を駆け巡る。
やっかみもあるのだろうが、最近ではバーンホフ家に対する風当たりも強くなってきた。
これ以上家の評判を落とさないよう、早く身を固めさせなくては!
とアドニスの母は決意を新たにした。
「別に俺の方から婚約破棄したわけじゃないのに」
アドニスは口を尖らせた。そして
「適当に見繕って、結婚式の前日に教えてくれればちゃんと結婚するから」
悲痛な面持ちで懇願した。
「だから親睦を深める茶会とかなしにしてくれませんか母上?」
「お、お前と言う子は……! 婚約をなんだと思って」
「結婚さえすれば別に恋愛は必要ないでしょう? もう勘弁してくださいよ」
アドニスは女性にも恋愛にも興味がない。
代わりに何に興味があったのかと言えば……悲しいことに何にも興味がなかった。
好きなものもやりたいこともないのだ。
彼は恵まれすぎていたのかもしれない。
環境にも才能にも。
苦労せずになんでも出来るから感動を味わったことがない。
なんでも持っているから、何かを欲しいと思ったことがない。
物心ついた時からそういう人生だった。
(他に兄弟がいたらそいつが家を継げば良かったんだけどなぁ)
不運にも彼は一人っ子であった。
「スキリオス、お前が継いでくれない?」犬に話しかける。
「なんてことを言うのですかアドニス!」夫人が額に青筋を立てた。
バーンホフ侯爵夫人は覚悟を決めた。
もはや家柄や容姿などの条件を選り好みしている余裕はない。
この際、後継ぎさえできれば誰でもいい。
家が途絶えるのだけはなんとしても避けなくては!
(こうなったら、相手のスペックを下げて、絶対に断られないような娘を連れてこよう!)
夫人はため息をついた。
「本来なら王女様の降嫁先になってもおかしくない家柄なのに。条件の悪い田舎娘を義娘と呼ばなくてはならないなんて……」
残念だが仕方ない。23回も婚約破棄されてしまったのだから。
バーンホフ侯爵夫人は残り少なくなった独身令嬢のリストをめくり、24回目の婚約打診の手紙をしたためるべくペンを手に取ったのであった。