002 天使と奇跡と再会と
とはいえ、私のような未熟者が、彼女のような大人で天使な存在に話しかけるなんて言語道断なのは百も承知である。
いくら同性とはいえ、そんなことはできない。彼女に対して、同党にはなれないが、それに準ずるくらいの地位にまで、私を高めなければならない。
しかし、どうすればそこにたどり着けるのか、皆目見当がつかない。こうして放課後になってもなお、隣では黙々と描き続けている彼女に、話しかけようとする人はいない。
そしてまた、こうも隣で悶々としている私に話しかけるようなもの好きも、この教室にはいない。
はずだった。
「……あの、」
声がした。後方から。誰だ。男だ。私に用か。いや、隣だろう。
「蛇塚さん、でしたっけ」
私だった。もしかすると、人生で初めて、男の子から声をかけられたかもしれない。
「ひゃいっ?!」驚きのあまり、変な声を出してしまった私を見て、彼は笑った。
……つーか、お前かよ。こいつ―瀬川十哉とは、幼少期からの付き合いだった。小学3年くらいで彼が引っ越して、それ以来疎遠になっていたけれど、今年度、久々に同じクラスとなったのだ。しかし、彼の方はそれを覚えていない。
はあ、合わせてやるか。
「すみません、急に話しかけてしまって」
お行儀よく謝る彼は、相当にガタイが良くなっていた。
「……ええと、誰でしたっけ」
我ながら失礼な話だが、しかし顔と名前が一致しているのは、人生で数えても数人しかいない。その数少ない人のうちの一人だというのに、こいつはどうして忘れるのか。むしろ、感謝してほしいくらいだ。
「僕は、瀬川十哉です。きっと、これからお世話になるでしょうから、覚えて頂けるとありがたいです」
すると、隣に座る天使はぷぷっと微笑み、「何それ」と呟いた。どうやら、彼と彼女は知り合いらしい。
「じゃあ、僕はこれで。また明日です」
「ま、また」
コミュ障が悔やまれる。あそこで、一言くらい話を弾ませられないものなのか。反省にも似た逡巡をしていると、やはり何も思いつかなかった。もはや7,8年前になってしまったクラスメイトとの会話。趣味―も合う気がしないし、テスト―いや、いきなりそういう話はちょっとなぁ。どれくらいのスタンスでテストを受けているのか―例えば、満点を狙っているのかとか、赤点回避を狙っているのかでは話す態度が全く異なる―分からないので、そんな話もできない。
ただ、ここで共通の話題が産まれることは確かだった。
ここで言う共通と言うのは、私と彼ではなく、私と彼女の、だ。
「あの、子村さん」
話のきっかけを作ってくれた彼には、結構感謝している。どんな話をしようとか考えてもいなかったけれど、とりあえず話がしたかった。そうすれば、彼女に似合う私像が見えてくるはずだ。
「明奈でいいよー」
絵に集中しながら帰ってきた言葉は、私を天に昇らせた。
明奈でいいよー。
可愛すぎんだろうが。
「あ、明奈さん」
すかさず読んでみた。焦点は合わず、ちゃんと発音できていたかも怪しい。頬全体が真っ赤に染まる感触があり、もうその後の言葉はすべて忘れてしまった。
緊張の極大値をとろうとしている私は、この世界には私と彼女しかいないという空想に、気づけば浸っていた。
あと少しで、体が触れ合える。
そんな距離にいるとさえ思っていた。
しかし、現実ではそうもいかず、私が話しかけた瞬間に、重いはずの教室の扉が、勢いよく開いたのだった。
「あれ、明奈ちゃん、友達出来たの?!」
元気いっぱいな少女は、何のためらいもなく私達の席まで猛ダッシュしてきた。そして、私の顔をじっくりと見つめた後「あーそういうこと」と呟いた。人の顔を見てそういうこと言うなよ。気になるじゃんか。
「ええと、蛇塚香音さんです。あってますよね?」
彼女の紹介に、私はうんと頷く。
そして、その声からは何となく―これはもう、本当に直感くらいの感覚だったけれど―嬉しそうだった。
その喜びは、誰に向けたものなのだろうか。
「にゃるほど。私は、外村うてな。宜しくです」
右手で敬礼ポーズという、ベタなことをしてくれる彼女には、割かし好感が持てた。まあ、好感を持っているからと言って友達に慣れるかと言ったら、それはまた別問題なんだけれど。
「で、明奈ちゃん。今日は帰んないの?」
「これ終わらせてから、帰ろうかな」
「だったら、今日は蛇塚さんと帰りなよ」
私と彼女、同時に「えっ」と言ってしまった。そして、互いに顔を見合わせてしまった。ふいに訪れた奇跡。なんだ、彼女は。もしかして、キューピッドなのか。この学校には、私がちゃんと直視していないだけで、天使が多いのか?!
「……いい、ですか?」
彼女は、こちらを見つめる。
良いに決まっている。むしろ、私からお願いしたいくらいだ。本当に今日はついている。唐突に始まったこの奇跡。この際男子だろうが女子だろうが関係ない。今から家事のスキルを上げて、この天使のお嫁さんになるのだ。
「も、もちろん」
「じゃ、よろしくねー」
外村さんは、あっけなく帰っていった。
この後、私達は結局最終下校時刻まで残ることになった。
帰り道。コミュ障にしては上出来なほどに、私達は会話を弾ませた。そして、彼女もまたコミュニケーションを苦手としていることが分かり、親近感を持てた。可愛いな、本当に。
「今日はありがとう」
「あ、あのさ」
私は勇気を振り絞る。
「よかったら、これからも一緒に、帰らない?」
「……もちろん」
彼女は微笑んだ。
それだけで嬉しかった。彼女がどうして、誰かと一緒に帰らないといけないのか、そんなことに思いは馳せなかった。




