001 日陰者と日向者と邂逅と
君には君の、僕には僕のやるべきことがある。
人は、そんな風に自分の存在意義を決めないといけない―生きていけないらしいけれど、しかし私―蛇塚香音は、そう思わない。存在意義を定めた方が、幸せになれるみたいな風潮は、きっと人類が始まったころからあるのだろうけれど、はたしてそこまでの能力を、それが持っているのだろうか。
即答しよう。持っているはずがない。
だって、確実に、何もしない方が―何にも縛られない方が楽しいに決まっているからだ。意義に縛られ、常識に縛られ、世間体に縛られ、そんな生活をしていれば、私みたいな人間は3歳児くらいで死んでいる。大袈裟でもなんでもなく、私はそう思う。
なら、どうして現在―高2まで生きてこられたのかと、こうしてダラダラと授業を聞きながら物思いにふけっているのかと言うと、それはすべての責任を姉が背負ってくれているところがあるからだ。
姉。蛇塚波音。頭脳明晰でもなければ、運動神経抜群というわけでもない。出会って5秒で相手の警戒を解く圧倒的なコミュニケーション能力で成績を伸ばし、この度指定校推薦で私立ではトップクラスの大学へと進学が決まっている。
というわけで、両親は姉につきっきりなのだ。めちゃくちゃ嬉しい。いつ死のうが、私の勝手なのだ。どういう世界で生きようとも私の自由なのだ。だから私はいつも考えている。
『……はぁ。良い男いないかなぁ』
まあ、この見た目・性格を鑑みて、そんな奴はいない。
ぼさぼさのロング。黒髪ではあるけれども。病的なほど白い肌。外出ないからな。勉強しかできない出来の悪い脳みそ。経験値がほとんどねえ。運動神経なんて、訊くんじゃない。学校ワースト記録を何十年科ぶりに更新したんだとか。
こんな奴だ。いるわけねぇ。
まあ、それを見越しての、いわば仮定法なわけですけれど。
『だましたところで意味がないんだよなぁ』
バレてしまえばおしまいなのだ。それを隠すだけの努力を、私はしたくない。こんなところからぼろぼろ零れ落ちる私の堕落っぷりは、自分でも駄目だなと思いつつ、そんな自分を嫌えずにいるのも事実だったりする。
まったく、とんでもない奴が産まれたものだ。
『まあ、いいや』
どうせ、なんだかんだ言って、微妙に長く生きていくのだ。中途半端に生きれば生きるほど、変に長生きするものらしい。適当に生きても成績だけは落ちずに、それなりの大学へ進み、悪くない会社に勤め、首になることも出世することもなく、気づけば定年で退職する。
落胆しながら言っていたつもりだったのだが、むしろその方がよくないかと思い始めるのも、私らしいところだ。
やっぱり、努力と言うのは付加価値であり、それを義務にしてはならないと思う。努力に見合ったボーナスポイントが加算されることで、その人が幸せになれば良いと思う。
『てか、早く終わんねぇかな』
目の前に立つ教師と言う名の歴史オタクは、今日も今日とて雑談に花を咲かせる。
永遠に語られる内容は、自身曰く全く受験に関わらないところらしく、だからなのか、周りを見渡すとほとんどの人が話を聞いていない。三分の一が寝て、三分の一が上の空。三分の一が、他の科目の勉強をしていた。
時計は後10分を指していた。
まるで、時計は「あともうすこし」と言っているよりは、「まだ続きますよー」と小ばかにしているような気がして、私は時計を睨んだ。まあ、良いんだけど。たまに面白かったりもするし。ただ、この人の話、ただの歴史オタクじゃなくて、かなり偏った意見の持ち主なので(私の知識では、それが左なのか右なのかは判断できないけれど)、なかなか鵜呑みにできないのが本音だ。
隣をちらりと見やる。
真面目にノートをとっているのかと思いきや、そこにはやたら艶めかしい少年の絵が描かれていた。よくよく見ると、それはもはやノートでもなんでもなかった。見たことはあるのだけれど、正式名称を知らないものだ。ええと、わかりやすく言うのなら、それは漫画を描くための用紙だった。漫画原稿用紙で良いのかな。
とにかく、そこにとてもある意味戦場的な―扇情的な絵が描かれていたので、思わず凝視してしまった。
すると、その絵を描いた張本人は、すっきりとした笑顔を見せ居ていた。なんだろう、この気持ち。
その笑顔は私のテンションを上げた。別に、ただの隣の席なだけなのに。そして、彼女はこちらを見るや否や「どうかな」と囁いてきた。声を出すわけにはいかないと悟った私は、サムズアップした。すると、彼女はもう一度その満面の笑みで私を苦しませた。
ちくしょう。めっちゃ可愛い。
「我ながら良作」
そう呟くと、もう一枚取り出して、作業に戻ろうとした。
すかさず私は止めに入り、「なにか、応募とかするの?」と訊いた。そんな専門的なものを使って練習しているというのなら、それはもはやプロ志望の方なのではないか、私はそう考えたのだ。
しかしながら、返ってきたのは思いもよらぬ一言だった。
「私、同人誌書いてるの。それで、これは商品にする予定」
まじかよ。こんなプロみたいな絵を描いて、それで稼ぐって、もはや、それって。
「大人じゃ、ないですか」
私は、そう漏らしてしまった。
「そうかな?」
彼女の微笑みは、天使のそれだった。
そして、それが私を変えるきっかけとなったのだ。
11月11日木曜日。14時15分。チャイムと同時に、私の恋は始まった。
子村明奈という、天使への片思いだ。




