クール美女系先輩が家に泊まっていけとお泊まりを要求してきました……
仕事から現実逃避するために以前書いた短編「腹黒小悪魔系後輩がおっさん宅にお泊りを要求してきました……。」の別バージョンのようなものを書きました。
頭空っぽにして楽にぼけーっと読んで頂けるとありがたいです。
2019年5月15日 アース・スターノベル様より書籍版が発売となります!
皆様ありがとうございます!
朝の課内ミーティングを終え、始業開始直後の事だった。
「弓削くん? この書類の納期はいつだったかしら?」
冷めたような抑揚の無い声が俺――弓削明弘の耳に突き刺さった。
内容は叱責なのだが、特に感情を露わにする事も無く声の主――瀬能芹葉先輩は書類を片手に、澄んだ瞳でただただ俺のことを見つめているだけだった。
こんな怒られている場面で思うのも不謹慎かもしれないが、瀬能先輩はもの凄い美人なのだ。
笑っているところを誰も見たことが無いと噂が立つほどに瀬能先輩は表情を変えない、いわゆるクールビューティーというやつで、整った目鼻立ちでおまけに小顔で八頭身。スレンダーなモデル体型でありながら出るとこは出ていて、肩より少し長いストレートの黒髪はハーフアップでまとめられている。
気を抜けば現状を忘れて見惚れてしまうほどの美女。それが瀬能先輩なのである。
「……昨日です……申し訳ありませんでした課長」
「自分から素直に非を詫びるというのは美徳だけれど……それが必ずしも最善の選択肢であるとは限らないでしょう?」
「はい? ……次は無いように致します」
当初は瀬能先輩の淡々とした対応にどのように向き合えばいいのか分からずに困っていたが、入社半年が経った今は何となくどう行動すればいいのか読めるようになってきていた。
入社後2か月間は瀬能先輩が俺の教育係だったのだが、与えられた仕事は常に120%で成果を上げ、自ら取り組んだ課題では誰も予想できない効果を叩き出し、その結果……年功序列のうちの会社では前例のない20代での課長昇進となったのだ。
普通ならば異例の課長昇進に「上司と寝た」だの「色香で皆騙されてる」などの妬みや陰口を叩かれるのだろうが、瀬能先輩の場合は誰もが認めていたため波風も一切立たなかったとかなんとか。
話しがズレてしまったが……今回叱責されている件に関しては納期通り納められなかった俺が100%悪いので申し開きも無い。
「何か言いたいことは?」
「弁明の余地もありません」
「そう…………そういえば弓削くんの昨日の退勤時間が日付を跨ぎかけていたのだけれど、それは一体どうしてなのかしら? ……ねぇ? 釣井くん?」
「……えっ!? やっ……じ、自分に聞かれましても……」
俺が怒られていたはずなのに瀬能先輩は急に別の部下に話しを振った。
……釣井先輩は俺どころか瀬能先輩よりも年上の40代の社員で、一緒に仕事をするには苦手なタイプの人だった。
理由は社会人なら共感してくれると思うが、なんでもかんでも仕事を丸投げしてくるからだ。
ちなみに言い訳ではないが、昨日納期の書類をまとめきれなかったのは釣井先輩から「緊急案件でこのプレゼン資料とエグゼクティブサマリーを今日中に作っておいてくれ」と仕事を丸投げされたのもある。
正直プレゼン資料を作ってからでも書類をまとめられると思っていたので、結局は俺の見通しが甘かったのが悪いのだが。
「……ところで今朝あなたがメールで送付してくれたエグゼクティブサマリーとプレゼン資料は大変良くできていたわ」
……あれ? それ昨日俺が必死こいて作った資料だよな?
なんだか嫌な予感がする。
「あっ……そう言っていただけると注力して作成した苦労が報われます! ありがとうございます!」
褒めてもらえると気が付いたのか足早に瀬能先輩のデスク前にやってきた釣井先輩は、ペコペコと何度も頭を下げながら揉み手をしていた。
……そういうことか。
釣井先輩は俺が作成した資料を自分の手柄として提出したようだ。
もう怒りなどを通り越して若干あきれてしまった。
俺は口を挟む気力も起きず、ただ目の前で行われるふたりの会話に耳を傾けた。
「――どうしてあなたが“ありがとうございます”などという言葉を口にするのかしら? その言葉はこの資料を実際に作ってくれた弓削くんが口にするものでしょう?」
「…………」
――まさかの展開だった。俺も釣井先輩も予想していなかった事態だ。
瀬能先輩のその言葉に釣井先輩は笑顔のまま凍り付いた。額には玉のように吹き出した大粒の汗が光り、頻りに腕を組んだり身体を動かしたりと挙動不審な動作を繰り返している。
これでは自ら「作っていない」と言っているようなものだ。
それと瀬能先輩はなぜ俺が作ったことを知っているのだろうか?
俺はもちろん作成したことを言ってはいない。この調子だと釣井先輩も間違いなく言っていないはずだ。それにこの資料作成に関しては俺と釣井先輩だけで話していたので他の課員も当然知らないはずである。
……それなのに一体どうして瀬能先輩は知っていたのか? 謎は深まるばかりだ。
「私は釣井くんにこの仕事を振ったはずなのに、あなたはそれを勝手に弓削くんに回したわね? 現にあなたは昨日の夕方に私が進捗を確認した際、何もできていなかったのにも関わらず定時で帰宅している」
「そ、そこから鬼のような集中力で作成したんですよ!」
「釣井くんには素直に非を詫びるという気持ちはないのね……あくまでもこれはあなたが作成した成果物であると言うのかしら?」
「は、はい! 自分が作成しました!」
完全に言い切る釣井先輩……いや、先輩なんて付けるのもおこがましい“クズ野郎”。
これからこのクズ野郎に振られた仕事は極力断ろうと決意した時だった……、
「そう……ならばどうしてファイル作成者の名前が弓削明弘になっているの? ……それに教育係であった私が弓削くんに教えた作り方で作成されたこの資料が、誰によって作られたものか分からないとでも思いましたか?」
――さすがは瀬能先輩。細かいところまできっちりと見ていてくれたらしい。何気ないことかもしれないが、自分の仕事がしっかりと評価されるのは部下としてはこの上なく嬉しいものなのだ。
俺がひとり納得していたらほとんど表情を変えない瀬能先輩が、引き締まった凛としたような顔つきでクズ野郎を睨み付けていた。
珍しいなんてレベルではなく、まさか初めて見た表情と呼べるものが憤怒であるだなんて俺も想像だにしなかった。
そんな普段感情を露わにしない瀬能先輩だからこそ、怒られている当人からすればちびりそうなほど怖いはずである。現にちらりと横目でクズ野郎を見たら、身体をわなわなと震わせながら口を鯉のようにぱくぱくと開閉させていた。クズ野郎どころかただの“クズ”にしか見えなかった。
「も……申し訳ありませんでしたぁぁぁ!」
クズ野郎……もといクズはようやく観念したらしく、風を切る音が聞こえるほどの速さで見事な90度お辞儀を決めていた。
お辞儀をしながら震える姿を見て心がスカッとしたのは言うまでもないだろう。
ざまぁみろ!
「……ですので弓削くんは思っていることがあれば必ず私に言うこと。分かりましたか?」
「はい。承知しました」
頭を下げ続けているクズを一瞥してから普段の無表情に戻った瀬能先輩は、俺を諭すように言葉を掛けてから「釣井くん頭を上げなさい」と、どこか冷たく言った。
「釣井くんは私に与えられた仕事は必ず自分でこなすこと、いいわね?」
「は、はい」
こうして朝から気持ちの良い光景が見れた俺は、普段以上にその後の仕事に集中して取り組むことができた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昼休みを終えデスクに戻ってPCを復帰させたら、社内のビジネスチャットにメッセージが届いていた。
差出人は瀬能先輩だった。またしても珍しいことだったので少し驚いた。
瀬能先輩は業務連絡には必ずメールを使う。というかメール以外を使って連絡されたことが今まで無かった。
内心で緊張しながらビジネスチャットを立ち上げてメッセージを確認する。ちなみに確認すると“開封”という表示がされて、メッセージを送ってきた相手にも読んだことが強制的にバレる仕組みになっているのだ。このため、最近は皆ビジネスチャットをメインにして社内での連絡をしていたりする。
『(*'▽')直前で申し訳ないのだけれど、今日課の飲み会があるので弓削くんも参加できるかしら? もちろん用事があればそちらを優先していただいて結構ですし、もし都合が合うのならば参加してもらえると私は嬉しいな♪』
「――ブフォッ!?」
「何してんだよ弓削。エロサイトでも見てたのか?」
思わず噴き出してしまった。
それほどまでにインパクトの強い文面だったからだ……。
あとクズが何かしょうもないことを言っていたような気もするが、無視でいいだろう。開封スルー扱いだ。
さんざんクールビューティーだと言っていたので察してもらえるかもしれないが、一体このメッセージを送ってきたのは誰だ!? と本気で思考してしまう程に驚いた。
念のためもう一度差出人名を確認してみたが、瀬能芹葉という文字が表示されているだけだった。
……もしや瀬能先輩と同姓同名がうちの会社にいるのか? 一瞬そんな考えが頭をもたげたが、すぐに冷静になってふと瀬能先輩のデスクに目をやったら、
「…………」
「…………」
なぜかこちらを見ていた瀬能先輩とバッチリと目が合ってしまった。
互いに声を発することもなく相手の出方を窺うようにじーっと見つめ合うこと数秒、瀬能先輩は突如視線を逸らしたかと思えば凄い勢いでタイピングを始めた。
どうしたんだ急に?
『(;´・ω・)な、なにっ!? 私の顔に何か付いてる!?』
再度送付されてくるメッセージ。
「――ゴファッ!?」
「今度はなんだ? 会社のファイアウォールに阻まれてエロサイトが見られないという真実にようやく気が付いたのか? フッ……弓削もまだまだだな」
そしてまたしても噴き出す俺とバカなことを言っているクズ。
……どうやらこのメッセージの主は同姓同名の瀬能芹葉ではなく、紛れもない瀬能先輩本人のようだ。
クールビューティー瀬能先輩の意外な一面を知ってしまった。
――瀬能先輩はチャットだとクールではなく可愛いくなるということだ。
なんてギャップだ……気を抜いていたら無意識に『可愛いです』とメッセージを返してしまう程度に破壊力のあるものだった。
気分を落ち着けるために、2度3度と深呼吸をしてから返信した。
『何もついていません。それで飲み会の件ですがぜひ参加させて下さい。ちなみに幹事はどなたでしょうか? 当日参加ということでご迷惑をお掛けしてしまうかもしれないので、私から直接お伝えしておきたいのですが』
俺の送ったメッセージに即座に開封マークが付いたかと思いきや、瀬能先輩のデスクから小気味良いタイピングの音が聞こえてきた。
間違いなくチャットの返事を打ってくれているんだろうと考えるまでも無く理解した。
『ワァ───ヽ(*゜∀゜*)ノ───イ♪ 参加してくれてありがとう、嬉しい。それとあなたのことはサプライズゲストにしておきたいので、他言は無用でお願いね(*´゜3゜`)b シーッ!!』
「――ゲフォッ!?」
ほどなくして届いたメッセージは充分に身構えてから開封したのだが、やはり噴き出してしまった。
こんなの噴き出すなという方が無理がある。ちなみにクズは何を思ったのか「“エロ下着”で画像検索すればファイアウォールに引っかからずに見られるぞ」と、自慢気な表情を浮かべてバカなことを言っていた
……非常にけしからんので後で検索してからITネットワーク担当にチクっておこうと思う。俺の成果を横取りしようとした罪はここで償ってもらおう。
その後瀬能先輩から開催場所の店名やMAP、開始時刻の詳細が送られてきて、最後には『遅刻厳禁(`・д・)σ メッ!!』というメッセージが送られてきた。
なんとなしに瀬能先輩のデスクに顔を向けたらやはりこっちを見ていたようで、しばし透き通った瞳と視線が交錯した。
長く見ていると吸い込まれそうになるほど綺麗な眼に気を取られていたら、瀬能先輩に動きがあった。キョロキョロと周囲を見回して誰にも見られていないことを確認してから、ゆっくりと両手を口元の高さまで上げた。
……一体何をするんだ?
それから控えめに人差し指だけをぴーんと伸ばして唇の前でクロスさせた。
俺から見ると(・×・)←丁度こんな感じに見えた……もしかしてこれは『メッ!!』を伝えようとしているのだろうか? 可愛いのでこの際どうでもいいが。
ちなみにそんな瀬能先輩を見て俺が噴き出したのは言うまでもないだろう……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「お先に失礼します。お疲れさまでした」
時刻は17時30分過ぎ。課の飲み会のスタートまで30分を切ったところで、瀬能先輩が立ち上がって皆に声を掛けながらオフィスから出て行った。
周りを見ると皆口々に「お疲れさまでした」と言っているが、誰も早く帰りそうな素振りがない。
……たしか“遅刻厳禁”ってなってたけど、皆大丈夫なんだろうか?
いや、今は他人の心配をしている場合ではない。上司から遅刻厳禁と言われている以上俺も遅れることはできないのだ。
「お先に失礼します。お疲れさまでした」
「おっ! 今日は早いな弓削! アフター5上がりってことは彼女とデートでもあるのか? それともザギンでチャンネーとシースーか?」
「違いますって」
PCをシャットダウンしたところで、ガッハッハッとクズがひとりで笑っていた。
仕事が絡まなければ気の良い先輩なので、何となく憎めない。そこがこのクズの上手いところである。
会社を後にして店に向かって歩き始めてすぐの事だった。
後ろからスーツの袖を引っ張られた。
「――弓削くん」
「かっ、課長……お疲れ様です」
誰かと思いきや俺よりも先に会社を出たはずの瀬能先輩がそこにいた。
まさか俺のことを待っていてくれたのだろうか?
「もう仕事は終わったのだから……前…… ……」
掴んでいる俺の袖口を見るように俯いた先輩が何事かを言っていた。
ただ後半は周囲の喧騒に掻き消されて何を言っているか聞こえなかったので、まずは店に向かうことを最優先にする。
「課長? 急ぎ向かわないと遅刻になってしまいますよ?」
「……えぇ、そうね。行きましょう」
「そういえば他の人たちは遅刻厳禁ってこと知らないんでしょうか? 随分ゆっくりしていたようですが」
そんな俺の問いかけに答えは無く、結局スーツの袖を掴まれたまま店までたどり着いた。
「……ここよ。入りましょう」
店は会社から徒歩で行ける距離にある日本酒バルだった。
周囲に繁華街がないのでどこかひっそりと落ち着いた佇まいで、店名も小さなネームプレートが掛けられているだけのシンプルな外観。
看板なども一切出ていないので前を通り過ぎただけではここが日本酒バルだと気付く人はいないと思う。それほどまでに周囲に溶け込んだ店だった。多分こういう店を隠れ家的と言うのだろう。
「課長は先に席に着いていて下さい。私はここで他の人を待っておりますので」
「他の人は大丈夫だから私と一緒に来て」
「は、はぁ」
この店では皆が気が付かない恐れがあったので外で待っていようと考えたのだが、未だに掴まれている袖口を瀬能先輩に引っ張られてそのまま店内へと入ってしまった。……確かにスマホでMAPを見れば分かるしまぁ、いいか。
天井が高く思った以上に奥行きがあったので、外観から感じたイメージよりも店内は広々としていた。
黒を基調としたシックな内装で壁一面には日本全国の様々な銘柄の日本酒が並んでいる。
そう言えば瀬能先輩は日本酒好きだと聞いたことがあるので、その関係でこんな良い店を知っていたのかもしれない。
そして店員さんに案内された完全個室もまた落ち着いた雰囲気で――って!?
「あの? ここ精々4人くらいしか入れない気がするのですが……?」
「弓削くん、上着を掛けるから渡してもらえる?」
……おかしい。
どう考えてもおかしい。
俺の課は瀬能先輩を筆頭に全12名が所属している。
なのにも関わらず席は4人掛けだ。……もっと言うと4人掛けの席だが2人分のカトラリーしか用意されていなかった。
この状況から推測するに……参加者は俺と瀬能先輩しかいないということになる。
そんな状況なのに瀬能先輩は平常通りの調子で、やっぱり俺の質問には答えてくれないらしい。
「あっ、はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」
「それで課長……あの……他の人たちは?」
ふたりして席に着いておしぼりで手を拭いてから再度尋ねた。
忘れていたのだが俺はサプライズゲストらしいので、もしかしたら皆は別の個室にいるのかもしれない。そこに後から合流という演出なのか?
……あれ? けど俺と瀬能先輩よりも早く会社を出た人はいなかったような。
「来ないわ」
瀬能先輩は真剣な眼差しでメニューを眺めながらハッキリと言い切った。
来ない? 来ないってどういうことだ?
「もしかして皆さん都合が合わなくて急遽キャンセルになったとかですか?」
「……誘ってない」
「…………」
考えられる選択肢をひねり出してぶつけてみたら、あっさりと衝撃の真実が暴露された。
誘ってないって……課の飲み会なんじゃなかったのか?
いやいやそんなことよりも! 瀬能先輩とサシ飲みってことか!?
「弓削くん、飲み物は生中だったかしら?」
「はい」
俺が答えられないでいたら瀬能先輩が代わりに注文をまとめてくれた。
想定外のサシ飲みには若干驚いたが、瀬能先輩は元々俺の教育係を務めてくれていたので実は何度かふたりで飲んだことがある。その時は主に新入社員である俺の仕事に対する不安や不満などを聞いてもらうという“飲みにケーション”の場だった。……ちなみに俺は思っていることを全てぶちまけて毎回酔いつぶれるという最悪なパターンを繰り返していたので、また瀬能先輩から飲みに誘ってもらえるなんて思ってもいなかった。
「ご注文をお伺い致します」
「生中ひとつと……この“呑兵衛殺し”を雪冷えでお願いします」
「えっ? “先輩”お酒強くないって前言ってましたよね? 大丈夫なんですか?」
瀬能先輩はどうやら初めから日本酒で飛ばすらしい。
今までのサシ飲みは酒はあまり強くない瀬能先輩が聞き役に徹してくれて、あまり飲まないようにしてくれていたのだが、今回はどうやら俺がその役目を引き受けることになりそうだ。
なんてボケーっと考えていたら、一気に頭が冴えわたるような光景を見てしまった……、
「私は今日酔っぱらうために来ているの。だから今回は弓削くんが私のことを……介抱する番よ?」
急に上機嫌になって。
目を柔らかく細めて。
口角を仄かに上げて。
少し冗談めかしたようにクスクスと笑い声を漏らした瀬能先輩の姿だった。
……やばいやばいやばい!
今のは本当にやばい!
不意打ちだ。
完全にノーブロックで顎先にフックを食らったようなものだ。
まだ酒も飲んでいないのに頭がクラクラする。
――落ち着け。
一旦冷静になろう。
いいか? あれは普通に笑っただけだ。
……勘違いするな。
片や28歳という若さで課長まで上り詰めた瀬能先輩と片や23になったばかりの新卒の俺が釣り合う訳がないのだ。
夢を見るな。
「はぁ……分かりました」
「よろしい。ちゃんと“責任は取ってもらう”から覚悟しておきなさい」
「覚悟って……それで今日のこの飲み会は結局なんだったんですか?」
内心の動揺を悟られぬよう努めて冷静に言葉を返した。
俺からすると瀬能先輩は憧れの存在なのだ。
誰よりも冷静にその事態を見極めて。
誰よりも情熱を持って仕事をこなし。
誰よりも成果を出している瀬能先輩。
そんな瀬能先輩の姿を一番間近で見ていて憧れる……惚れない訳がない。
男の俺が言うのも変かもしれないが、とにかく瀬能先輩はカッコよくて、その上美女という反則的な存在なのだ。
「課の飲み会。私とあなただけのね」
「なんですかそれ……それなら普通に誘って下さいよ」
「それは課長として部下を依怙贔屓していると取られかねないからダメよ」
「そういうことですか」
「そういうことなの」
話がひと段落したところで丁度お通しと注文していた飲み物がやってきた。
俺は生中を受け取り、先輩はワイングラスに入った日本酒を……ワイングラス?
「あれ? 先輩ワイン頼みましたっけ?」
「日本酒だけど?」
「でもそれワイングラスじゃ……?」
「知ってる弓削くん? 日本酒とワイングラスって相性が良いのよ?」
ワイングラスを目の高さまで持ち上げ、透明な日本酒越しにこちらを見ている瀬能先輩は「弓削くんと私みたいにね」と軽い冗談を言うように言葉を続けた。それから今度はクールビューティーらしく落ち着いた優艶な笑みを湛えて「乾杯、しよっか」グラスをゆっくりとこちらに傾けた。
……俺はそんな状況に正直戸惑っていた。
ネガティブに捉えると、完全に子ども扱いされているのではないかと自己嫌悪に陥り。
ポジティブに解釈するのならば、これは好意を向けてもらえているのではないかと自意識過剰な自分に嫌気が差す。
……おかしい。どっちもネガティブな気がする。
「「乾杯」」
ワイングラスは薄くて割れやすいので、細心の注意を払いながら優しく重ね合わせた。
今更ながらこの状況に心が躍ってしまう。
目の前には思いを寄せる憧れの女性がいて。
時折会社の人間ですら見たことが無いであろう笑みをこちらに向けてくれる。
あまりにも自分に都合の良いシチュエーションだったので……俺もしかして今日で死ぬのだろうか? と、本気で考えてしまった。
それからはあっという間だった。
瀬能先輩は「私は今日酔っぱらうために来ているの」という宣言通り、良いペースで日本酒を飲み進めていった。
その際、新しい銘柄の日本酒を一口飲む度に小声で「 」と嬉しそうに呟く様は、死ぬほど可愛かった。美人で可愛いとはこれ如何に。
「今日の釣井には呆れを通り越して1周回ってやっぱり呆れてとってもイライラしたの。だって私の目の前で愛弟子たる可愛い弓削くんの手柄を横取りして挙句の果てに嘘までついてもう堪忍袋の緒がキャベツの千切り状態になったけれどグッと堪えて大人な対応をしたわ。けど本当はもっと怒ってちゃんと弓削くんにごめんなさいさせたかったのにやっぱり呆れてぐぬぬって辛抱したの。私ちゃんとできてた? 課長みたいに見えた?」
――そして酔っ払い瀬能先輩が降臨した。
平時より気持ち高めのテンションでマシンガントークを繰り出す。
以前は俺が新入社員としての愚痴を一方的に零していたが、瀬能先輩も新人課長として相当色々なことが溜まっていたんだと思う。現にほとんどそれ関係の愚痴だった。
……それにしてもつるりんって。瀬能先輩はどうやらあだ名を付けるのが好きなのかもしれない。
「見えましたよ。それに“課長”がしっかりと見抜いてくれたので――」
「――ちがうっ! 全然ちがーうっ!」
「何がですか?」
突如綺麗な黒髪を広げ頭を振る瀬能先輩。
よく見れば不満を表すように頬っぺたが膨らんでいる。……完全に酔っぱらい、いや駄々っ子のようだった。
「課長ちがう!! 先輩がいい!!」
可愛い酔っぱらいと化した瀬能先輩はいつものクールビューティーな姿からは想像できない興奮した様子で、力強く言葉を発している。
小さく握りこぶしを作っているあたり意外と真剣に言っているのかもしれない。
要求は分かったので試しに呼んでみる。
「……先輩」
「なぁに?」
微妙に怪しい呂律だったけど小首を傾げてこちらを潤んだ瞳でボンヤリと見つめてくる瀬能先輩が反則的なまでに可愛かった。ただただ可愛かった。
かぁぁぁぁ! わぁぁぁぁぁぁ! えぇぇぇぇぇぇぇ!
脳内で叫びながら今度はあえて課長呼びをしてみた。
「……課長」
「…………」
すると顔を明後日の方向にプイッと向けて、唇を軽く尖らせたまま無言を貫く瀬能先輩。
……なんだこれ、なんだこれ!?
俺の知っている冷静沈着な瀬能先輩はどこにもいない。
目の前にいるのは口を尖らせ、いじけてそっぽを向いている子供のような瀬能先輩だった。
「……先輩」
「はぁい!」
もう一度こちらを向いてもらうべく呼び掛けたら、手をぴーんと一直線に伸ばして元気良く返事をする瀬能先輩。おまけに「えへへ♪」と無邪気な笑みをプラスするその様は、子供のような――ではなく、子供そのものだった。……笑い上戸や泣き上戸は有名だが、瀬能先輩みたいなタイプは幼上戸とでもいうのだろうか?
まぁ、早い話がギャップ萌え。
普段のクールビューティーのクの字もない。欠片もないどころか面影すらないレベルで何と言えばいいのか分からないが、愛くるしさが爆発していた。
「弓削くんが私のこと課長って呼ぶの……寂しい」
あどけない瀬能先輩が天使過ぎると思っていたら、更に追い打ちをかけてくる。
無邪気な笑みから一転して半ベソ状態になった。
ついでに潤んだ瞳で上目遣いという庇護欲をくすぐるような仕種も加えて。
「そういうことだったんですか。でもさすがに他の人の目もありますから……」
「ふたりの時は先輩!」
「分かりました。それで先輩、そろそろ時間なのでお会計頼んじゃいますね」
「はぁい! お会計は先輩に任せて!」
瀬能先輩が望むのならいつでも「先輩」と呼びますよ! という本音をなんとか抑えきって、それらしい建前を口に。
これ以上無邪気な先輩と接していると本音が堰を切って溢れだしそうだったので、切り上げることにした。イケイケな肉食的発想の持ち主だったらここでグイグイと押すのだろうが……俺にはそんなことはできなかった。心から慕っている相手だからこそ下手なことはしたくないのだ。……仮に相手が一晩だけを共にするような女性だったとしても、結局俺はグイグイいくことはできないだろう。なぜなら――ヘタレビビリだからである。
席での会計を終えて(ちなみに俺もお金を出そうとしたら本気でいじけられそうになったので、素直にごちそうしてもらった)身体を左右に揺らしながら立ち上がろうとする危なっかしい瀬能先輩に手を貸して起こしたら、なぜだかそのまま俺の方に飛び込んできた。
……おかしい。このままではヤバイと切り上げたはずなのに、先程よりもマズイ状況になった気がする。
どうすればいいのか分からずに硬直していたら俺の胸元に顔を埋めて何やらグリグリと動いている先輩。どれほど硬直していたのか定かではないが「 」という言葉が聞こえてきて我に返った。
ヒィィィィィィッ! 持ってくれ俺の良心!!
そんな葛藤を知らない瀬能先輩は何の前触れもなく、ふと離れるとフラフラとした足取りで店の出入口とは反対方向に歩き出した。完全に酔っぱらいである。
「先輩! そっち出入口じゃないですよ?」
「うん! 知ってる!」
「えっ? ど、どこいくつもりなんですか?」
「お化粧直してくるの! ……弓削くんのえっち!」
意外にもしっかりとした受け答えだったが、壁にぶつかりながらお手洗いに消えていった先輩を見て、ここから歩いてさらに電車で帰るのは厳しいだろうと考え、店員さんにタクシーの手配をお願いした。
タクシーが来るまで店の中で待たせてもらい、外に出てから瀬能先輩に改めて今日のお礼を。
「ごちそうさまです……先輩今日はありがとうございました! お疲れさまでした」
おぼつかない足取りの瀬能先輩をなんとかタクシーに乗せて、手を離そうとした時のことだった、
「……えっ? 早く乗って?」
「……はい?」
心底不思議そうな顔をした瀬能先輩がより強く手を握ってきた。
早く乗れってどういうことだ? もしかして駅まで俺も相乗りさせてくれるってことか?
「運転手さん待ってるからはやく! 2次会は家だから!」
「それは……っ!?」
素直に嬉しいお誘いであることは間違いない。
けどこんな状態で瀬能先輩の家に上がり込むのは非常によろしくない気がする。
いくら俺がヘタレビビリでも男である。さすがに本音を抑えきることができなくなる気が――って瀬能先輩の家!? えぇぇぇぇぇぇぇぇッ!? ちょちょっ、まだ心の準備が……って俺は乙女か!?
「兄ちゃん……こないなべっぴんさんのお誘い断るんはないやろ~?」
内心で狼狽していたら、タクシーの運ちゃんからダメ押しの一言が放たれた。
ノリの良い関西弁を話す運ちゃんに釣られてなのか瀬能先輩も「……ないやろぉ~!!」と、今度は両手で俺の手を掴んでブンブンと振っている。
こんなの断れるわけないやろ~!
「わ、分かりました。今日はとことん付き合いますよ!」
「とことぉ~ん♪」
「ほな、行きますよ~」
「ほな、いってくださ~い!」
瀬能先輩の気の抜けたような言葉を合図に、タクシーはゆっくりと発進していった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
途中コンビニで追加の酒と肴を買って辿り着いたのは真新しい超高層マンションだった。
飲んでいた時に瀬能先輩が「課長昇進のご褒美に新しいマンションに引っ越したの」と言っていたので、てっきり新たに住まいを移したという意味のみで解釈していたが、ダブル・ミーニングだったらしい。
オートロックを抜けると、天井が高く開放感のあるエントランスが広がっていた。
「おかえりなさいませ」
モダンなインテリアは控えめで、カウンターにいた女性のコンシェルジュが瀬能先輩に声を掛けていた。
それに「ただいまー」と語尾を伸ばして返す瀬能先輩。ちなみに俺の腕に抱き着いていたりする。
そしてそんな様子にコンシェルジュがクスリと品の良い笑みを浮かべていた。
……あれ? ここって高級ホテル? と、思わず勘違いしそうになったのは言うまでもないだろう。
だからなのか……それともこれから瀬能先輩の家に上がるという興奮と緊張からなのか、若干ぎこちない動作で2回目のオートロックを過ぎてエレベーターホールに向かった。
高層階用と低層階用に3基ずつエレベーターが並んでおり、瀬能先輩に引っ張られるようにして高層階用の方に乗り込んだ。
ボタンは37まであったので37階建てということなんだろう。
迷うことなく26を押下した瀬能先輩が酔いからなのか、甘えるようにしなだれかかってきた。
密室空間で思いを寄せる憧れの女性に抱き着かれる……もうね、このまま一生エレベーターが上昇してくれないかなと割とマジで思った。
「ただいまぁー!」
「お、お邪魔します」
瀬能先輩の家に入ってまず思ったこと。
嗅いでいるだけで落ち着くようなイイ香りがした。
……完全に変態の感想である。
「うん? ……く、くしゃい!?」
どうやら無意識に鼻をひくつかせていたらしい。
……完全に変態の行動である。
「えっ!? いや違います! その逆ですごくイイ匂いがしますよ! お花ですか?」
そして瀬能先輩に尋ねられて焦って答える始末。
……もはやただの変態である。
「……よかったぁ~。カモミールの芳香剤使ってるの」
「そ、そうなんですね! ……それであの、上がってもよろしいでしょうか?」
「……は、はい! ようこそ我が家へ!!」
――な、何故に急に英語!?
今度カモミールの芳香剤を買おうと密かに決意しながら「失礼します」と靴を脱いで上がる。
瀬能先輩が先導する形で廊下を抜けると、10畳以上はあるであろうリビングが広がっていた。
引っ越したばかりだからなのか、それとも瀬能先輩の性格なのか、家具は必要最小限といったようで黒革のソファーとオフホワイトのローテーブル、それに台の上に鎮座する大型のテレビ。後は部屋の隅に観葉植物と真っ黒い筒のようなフロアスタンドライトがある程度。
今日は色々な姿を見て忘れかかっていたが、本来の瀬能先輩らしい洗練された大人の女性が住む部屋という感じだった。
さすがは瀬能先輩である。部屋までカッコいいとは予想していなかった。
「そこ座ってて! 荷物こっち! 上着ちょうだい!」
「はい」
どこにいるべきか分からずに棒立ちしていたら、テキパキとした指示(?)が飛んできた。こういうところは仕事中の瀬能先輩らしい。
言われた通りソファーに身を預けたら、ほろ酔いの火照った身体には心地好い革特有のひんやりとした感触が俺を迎えてくれた。身体を包み込む適度な柔らかさで、このまま座っていたら眠くなりそうだったので「何か手伝いますよ?」慌てて瀬能先輩に声を掛けた。
「大丈夫! 待ってて!」
「は、はい」
酔っぱらっているのに本当に大丈夫なんだろうか? と心配になりながら瀬能先輩の様子を見守る。
コンビニで買ってきた酒の肴を皿に盛り付けながら、どこか楽しそうに「ゆげくんゆげくん! なにのむ~?」と尋ねてきた。
「ハイボールでお願いします」
「はい、はいぼーる! はいはいぼーる? ……はいはいぼーる⤴!!」
何がツボったのかひとりで涙を流しながらクスクスと笑う瀬能先輩。
――なんだこの可愛い生物は!
たまに「うぃすき~がお好きでしょ~♪」なんて微笑みながら口ずさんでいるのも可愛さに拍車をかけている。
結局酔っぱらった瀬能先輩に酒と肴を運んでもらうのは危ない気がしたので俺が運んだ。働かざる者食うべからず精神である。
運び終えたところで瀬能先輩が部屋の照明を消し、間接照明に切り替え、そのままフラフラと歩いたかと思えば不意に藍色のカーテンを開け放った。
「……おぉ」
今の今まで自分が超高層マンションにいるということを完全に忘れていたが、それを一気に思い出させる景色が目の前に広がっていた。
遮るものが一切なく、眼下に広がるのは夜の街を煌びやかに照らす数多の灯り。
高速道路を流れる車のヘッドライトは流星のように駆け抜け、地上を見ているのに遥か天空を仰ぎ見ているような気さえした。
都心の高層ビル群は遠くに見え、屋上でゆっくりと点滅する赤い光はどことなく心を落ち着かせてくれる。
ちょっとした非日常の景色と思いを寄せる憧れの女性とのこのひと時が心を滾らせる。
それを悟られぬよう……、
「かんぱい」
「乾杯」
――本日2度目の乾杯の合図とともに俺たちはグラスを重ね合わせた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
時計の針がそろそろてっぺんを越えそうなことに気が付き、かなり出来上がっている瀬能先輩に声を掛けた。
「先輩、そろそろ終電なくなりそうなので俺帰りますね」
「…………」
先程まで機嫌良く「つるりんほんとつるつる!」だの「ゆげくんはゆげゆげ!」だのと支離滅裂なことを言っていた瀬能先輩だったが、急に無言になり焦点の合っていない怪しい目つきでこちらを見ながら微動だにしなくなった。
もしかして落ちた?
確認するべく再度瀬能先輩に声を掛けてみたら……、
「先輩?」
「……かえっちゃ…… 」
俺のYシャツの袖口を力なく掴みながら涙目+上目遣いで縋るように呟いた。
見れば身体が微かに震えていて。
普段凪いでいる瞳には波が見える。
それだけで俺の心は大きく揺れ動く。
会社では笑顔ひとつ見せない瀬能先輩。
クールでいつもバリバリと仕事をこなす。
だからこそこの行動にどれだけの威力があるか瀬能先輩は理解しているのだろうか。
「い、いやいやいや……帰らないとまずいんですって」
不意なギャップに揺れる思考を抑えて。
何事も無かったかのようにそう口にした。
精神的には一杯一杯、理性的には崩壊寸前。
この時ばかりはヘタレビビリに感謝すらした。
「……だれか……まってるの? ……かのじょ?」
「え? 彼女なんていないっすよ……」
自分で言ってみて悲しくなった。
いや……真実なんだけどさ。
「……そうなんだ! それなら……」
「それなら?」
「――泊まっていって……いいよ?」
ふと顔を近づけてきた瀬能先輩が俺の肩に顎をのせて囁いた。
僅かなリップ音と直接鼓膜を震わす甘く艶やかな声音。
ほろ酔い状態が瞬間的に醒めてしまう程の深い衝撃が脳に響いた。
未だかつて聞いたことのない色香を纏った声風に驚いてその顔を見たら、アルコールによる朱より更に濃い深紅を頬に溶かした瀬能先輩と、吐息が感じられるような至近距離で目が合った。
ちょ、ちょっと待てよ!?
これは一体どういうことだ!?
分からない。酔っ払い瀬能先輩の真意が分からない。
……あれか? もしかして親切心で普通に泊っていけと言ってるのか?
「……弓削くん? まずは一緒にお風呂でも入る?」
「ま、まままま待ってください!! 先輩相当酔ってませんか!? なななな何言ってるんですかホント!!」
言っている言葉は冗談だろうに、月明りに照らされた瀬能先輩の表情は真剣そのものだった。
あ、あかん! これただの酔っ払いや!
もはや取り繕うことすらままならない。
全開の動揺と半開の下心によってまともに返答が出来なかった。
「全然酔ってないよ? しいて言うのならば……気持ちの良いほろ酔い程度かしら?」
「いやいや! 店でもここに帰って来てからも結構飲んでましたよね!? お酒弱いのに!」
……ほろ酔いの訳がない。
普段ならば絶対に言わない冗談だ。
いや、普段と比べるのはあれだが。
「自称、お酒が弱い瀬能芹葉です――不束者ですがよろしくお願いします」ソファーのうえで正座をしてこちらに頭を下げる瀬能先輩
「嘘だ! 絶対酔っぱらってるじゃないですか! 顔真っ赤ですよ!」
「えぇ、酔っぱらい瀬能芹葉です――未熟者ですがよろしくお願いします」もう一度ぺこりと頭を下げる瀬能先輩
ふざけているのかはたまた真面目にやっているのか。
仕種や表情から読み取れない瀬能先輩の真意。
どう答えればいいのか、何をすれば正解なのか全くわからず混乱してしまった。
瀬能先輩の手のひらの上で転がされている気分だ……うん、悪くないな。
「ふざけないで下さい! 俺帰りますよ!?」
「やだぁ! かえっちゃ、やだぁ~!!」
ひとまずお断りを口にしたら正座していた瀬能先輩がそのままこちらに飛び込んできた。
駄々をこねる様に俺の胸元で「 」と顔を横に振るその姿が愛らしく、ヘタレビビリの身でありながら思わず抱きしめてしまいそうになった。それほどまでに庇護欲をかき立てる仕種だった。
「だ、抱き着かないで下さい!!」
「……かえんない?」
俺の言葉に顔を上げてちょこんと小首を傾げる瀬能先輩。目尻にはうっすらと雫が堪っていた。
ここで頑なに断り続けても状況が好転する未来が見えなかったので、ひとまず瀬能先輩が眠るまでは面倒を見ようと了承を口に。
「分かりました……今まで散々迷惑かけちゃいましたし、それに介抱するって約束したので……泊まらさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「…………はぁい!」
どうにか瀬能先輩を落ち着けることに成功したらしい。
抱き着いたままの瀬能先輩を引き離し、頭を切り替えるために氷がほとんど溶けてしまった薄いハイボールを一気に飲み干した。
今日は驚きの連続というか、瀬能先輩の意外な一面を見過ぎて脳がパンク気味だ。
会社では誰もが慕うキャリアウーマンでクールビューティーな瀬能先輩。
その実、お茶目な一面と可愛らしい内面を持った女性だった。
あまり感情を表にしないだけで普通の人が思っているような仕事に対する不満や不安を持っていたので、より身近に瀬能先輩を感じた。
今までは憧れが強くあったが、今日でそれは覆されてしまった。
こんな23の俺が思うのは生意気なんだろうが……本心の瀬能先輩を見て“守りたい”と思ってしまった。この人を“支えたい”と思ってしまったのだ。
完璧すぎるが故に自分には無理だと憧れで済んでいたものが、手を目一杯伸ばせばなんとか掴めるかもしれない距離にあると気が付いてしまった。
これはもう憧れや羨望という言葉では誤魔化せない……明確な慕情だ。
そんなことをぐるりぐるりと考えていたら、横から衣擦れの音が聞こえてきた。
「……んしょっ」
「……せ、先輩!?」
恐る恐る横を見て固まってしまった。
いつの間にかブラウスとスカートを脱いだ瀬能先輩がそこにいた。
スカイブルーのキャミソールと同色のショーツ。
月夜に照らされた肌は酔いのため仄かに赤みを帯びていて、スラリと伸びた足は白磁のようにきめ細かく、大きく盛り上がった胸元には豊かな起伏を持った双丘が顔をのぞかせていた。
一瞬しか見ていないが脳裏にはしっかりくっきりはっきりと焼き付いてしまった。
もう死んでもいいや……。
「おふろーはいるー♪」
「そんな酔っぱらった状態じゃ危ないのでダメです! 浴室で転んだらどうするんですか!?」
窓の外の夜景に全神経を集中させながら至極真っ当な意見を具申する。
……それなのに衣擦れの音は止まることが無かった。
ヒィィッ! 鎮まれ! 鎮まってくれ俺の息子!
「それなら……いっしょにはいって?」
「はいいいい!? だから何言ってるんですか!?」
やっと衣擦れの音は止まったがそれは中断したというような感じではなかった。
瀬能先輩がゴソゴソと動いていたことを考えると……全部脱ぎ終わってしまったので必然的に音が止まったというような気がする。
「おふろはいらないと、ねむれない! きちゃない!」
呂律の怪しい酔っぱらい瀬能先輩が綺麗好きということは分かった。
――だが今はそういう問題じゃない!
「今日は我慢して下さい」
「いっしょに……はいろ?」
「ダメです」
「……なんで?」
むしろどうして瀬能先輩は一緒に入っても無問題だと思っているのか?
……酔っぱらっているからならまだしも、もし異性として見られていないのだったら今すぐここで死ねる自信がある。
「俺と先輩じゃ……」
――釣り合わないです……と言いかけたところで瀬能先輩が被せる様に言葉を続けた。
「わたしはゆげくんとはいりたいの!」
「まずいですって!」
「なにが? まずいの? ゆげくんわたしとはいるのいやぁ?」
「いや…………じゃないです」
つい口から零れ落ちた本音。
嫌な訳が無い。
ウェルカム以外のなにものでもない。
だが本当にこんな状態の瀬能先輩とお風呂なんぞに入っていいのだろうか?
ヘタレビビリを自認している俺ですら過ちを犯すイメージしか湧かない。
罪悪感に押し潰されそうになっていたら、ふと背後から優しく抱きしめられた。
「……よしよし。すなおなゆげくんが……すき」
先程までのどこか幼く感じる反応ではなく。
年相応の落ち着いた声音で告げられ。
優しい手つきで頭を撫でられ。
骨の髄まで溶かされた。
唐突にこんなことをされたらもうどうしようもないのだ……。
「反則ですよ先輩……」
「……ん? なんのことかしら?」
……え?
もしかして瀬能先輩――酔ってないのか!?
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺はやり遂げたぞぉぉぉぉッ!!
そう叫びたい気持ちをグッと堪えながら、ソファーに座る瀬能先輩に水の入ったグラスを手渡す。
「先輩、お水飲んどいて下さい」
水気を含んで艶めいている長い黒髪に、風呂上りの色艶の良い顔。
瀬能先輩から大人の色香がとめどなく溢れているのが分かる。
「…………」無言で頷く瀬能先輩
アイボリーの落ち着いたワンピースタイプのナイトウェアに着替えた瀬能先輩は、グラスを両手で持って小動物が行うようにちびちびと水を飲んでいた。……ふとした行動が可愛すぎるやろ!
……ふたりで風呂に入るというありえないシチュエーションに何とか対応するべく、瀬能先輩を問答無用でタオルでグルグル巻きにしてから俺の息子も同じくタオルで簀巻き状態にして臨んだ。
後は心を無にする……ことは不可能だったので、素数を数えたり、ひたすら宇宙の果てについて考えたり、死後の世界はどうなっているのか? などの途方途轍もないことに全神経を集中させた。
途中何度も瀬能先輩のタオルが“不自然に”捲れたり、その結果お山の上にツンと張り出していた薄いピンク色の“サクランボ”やら、チラリと見える魅惑の“デルタゾーン”に目がいってしまったり、何度も俺の息子が目を覚ましそうになったが、何とか過ちを犯さずに“一緒にお風呂”をやり遂げたのである。……断じて、ど、どどど童貞だからビビった訳じゃないぞ!?
「……もしかして具合悪くなりました?」
風呂に入る直前まですこぶる上機嫌だった瀬能先輩。
それが風呂を出てからというもの、一言も言葉を発さずにどこか思い詰めたような深刻な表情を浮かべていた。
「…………」無言で顔を横に振る瀬能先輩
結構飲んでいたので体調が悪くなったのかと思ったがどうやらそうではないらしい。
なら一体どうしたんだ? と内心で首をひねりながら壁掛け時計を見たら、長針が深夜2時過ぎを指していた。
……もしや眠くなったのか?
あれだけ元気良く楽しそうにしていたのできっと疲れが出たのだろう。
幸い明日は土曜日なので会社は休みだ。
ゆっくりと眠ってもらおう。
「明日は休みですけど、もう遅いので寝ましょ――」
「――弓削くん」
俺の言葉を遮った瀬能先輩が顔を上げて真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
その表情はこれまでに見たことが無い、淡く儚げで困ったような笑みだった。
瞬間的に目が奪われ。
次の瞬間にはその美貌と表情に心臓を鷲掴みにされた。
――無意識化で行われる当たり前の動作である息を吸うこと、瞬きをすることすら、身体が忘れて硬直し。
息を呑むほど綺麗で。
心臓が止まりそうになるほど美しくて。
一瞬ハッとなるほど凄みのある瀬能先輩の微苦笑から目が離せなくなっていた。
俺が返答できずに無言でいたら、瀬能先輩が更に言葉を続けた。
「……私って魅力ない?」
「……え?」
――何言ってるんですか? 魅力しかないですけど? と口にしたかったが、それはできなかった。
瀬能先輩の纏う雰囲気が張りつめているので怖気付いたのである。……要するにヘタレビビリが本領発揮したのだ。
「これでも私なりに懸命にアピールしたつもりなの」
「……先輩」
アピール?
どういうことだ?
話しが見えてこないぞ?
……ま、まさか瀬能先輩は……いや、己の都合がいいように解釈してはならない。
俺と瀬能先輩は釣り合わない。……これはゆるぎない事実なのだ。
今にも雫が零れ落ちてしまいそうな瞳。
声は震えていて、手は爪が食い込むほど強く握られ、頻りに瞬きをする瀬能先輩。
「……私は自分の感情を表現するのが……苦手で、
昔から何を考えているのか分からないとよく言われたわ。
だからあまり親しい友達も……できなかったし、
……そもそも深く人と関わることもなかったし、
私自身別に……それでもいいって思っていたの」
…………瀬能先輩。
詰まりながらも言葉を続け。
一切目を逸らすことなく俺を見つめる瀬能先輩。
いくら俺がヘタレビビリでも、今は絶対に目を逸らしてはならないと直感が告げている。
だからこそ俺も瀬能先輩の瞳を見つめ続けた。
「けれど弓削くん……あなたと出会って私は変わってしまったの。
始めは礼儀正しくて気配りができる……男の子だとしか思っていなかったわ。
でもね、あなたの指導社員になって。
一番身近であなたと接するようになって。
――気付いてしまったの」
そこで瀬能先輩は長く目を瞑り、ゆっくりと深呼吸をしてから目を開いた。
震える睫毛に押し出されるようにして一筋の雫が頬を伝い、涙となって零れ落ちていった。
あまりのインパクトに整理が追い付かない。
身体が、精神が、この事態を、この現状を、処理しきれていないのだ。
……瀬能先輩は俺のことを――。
「謙虚で、でもやる時はしっかりと望む姿。
酔っぱらった時の面白くてかわいい姿。
どんな課題にもひたむきに頑張る姿。
……気が付けば素直で純粋で無垢なあなたの姿を目で追うようになって。
……いつの間にか思考の中心には常にあなたがいるようになって。
……自分勝手な想いだからダメだと意識すればするほど、逆にあなたのことが気になって」
時が止まってしまったのではないかと真剣に思ってしまう程に、一切の音が止んだ。
耳鳴りがするようなその静けさの中、瀬能先輩の頬から伝え落ちる涙だけが時を刻んでいる。
毎日顔を合わせることができる喜び――これを愁いと恐怖に変えたくなくて。
毎日些細なやりとりができる楽しみ――これを苦痛と絶望に変えたくなくて。
……ヘタレビビリだからと自分に言い聞かせ、やれ釣り合わないだのと理由を並べて現状から進むことを拒んでいたのだ。
男のくせに女々しすぎる自分に嫌気が差す。
――瀬能先輩が今、時を進めようとしてくれている。
飾ることのない言葉で素直な想いを吐露してくれている。
そんな中、俺はいつまで止まっているんだ?
ここまで瀬能先輩に言わせておいて、いつまで“ヘタレビビリ”でいるつもりなんだ?
……いい加減歩みを進めろ。
……想っていることを全てぶつけるんだ。
その結果ドン引きされようが、「やっぱナシ」と断られようが、知ったものか!!
この想いを真摯にぶつけることが俺にできる精一杯だ!!
「……もう自分でもどうしようもないくらい……あなたのことが……弓削明弘くんのことが――」
「――先輩! 俺は自分の想いを隠すようなヘタレで、今の関係を壊したくないビビリです。
なので先輩が思ってるほど素直でも、純粋でも、無垢でもありません。
打算的な考えで動きますし、あげく捻くれてて、正直色々と拗らせてます。
だから捻くれながら、拗らせながら頭を捻って、理由を考えたんです。
――新入社員で23の俺が先輩と釣り合う訳はないと」
「……うん」
優しい声音の相槌だった。
やっぱり瀬能先輩には……この女性には敵わないと思った。
たった一言で俺の心を掴んで。
その相槌を聞いただけで込み上げてきてしまった。
滲む視界の中なんとか言葉を紡ぐ。
「……頭ではそう理解していたのに、先輩と話せば話すほど近づきたいと思うんです。
……接すれば接するほど先輩のことが気になって仕方ないんです。
先輩から見れば頼りない半人前でヘタレでビビリかもしれませんが
……瀬能芹葉さんのことが――好きです。
生意気かもしれませんが、誰よりも近くであなたを支えたいと想っています。
こんな未熟者ですが――お付き合いいただけますでしょうか?」
俺は取り繕うことなくすべてを曝け出した。
もしあのまま瀬能先輩の言葉が続いていたら、踏み出さなかったことを……本心を口にしなかったことを一生後悔していただろう。
後はもうどうにでもなれ。
半ばヤケになりながら瀬能先輩の反応を待った。
「私こそ何を考えているか分かりにくいと思うし、
その上空回りしてばかりだけれど、
弓削くん……弓削明弘くん、
あなたのことが――好き。大好き。
こんな不束者ですが、こちらこそよろしくお願い致しますね?」
いくつもの涙痕を残しながら穏やかな笑みを浮かべる瀬能先輩を見て、気が付けば俺も涙を流していた。
暫時ふたりして泣きながら笑うというカオスタイムを過ごした後……、
「緊張で汗かいちゃったから、もう一回いっしょに――――おふろはいろ?」
「……せ、先輩……今更なんですけど、お、俺その経験が……」
「……だめっ! 先輩違う! なまえで呼んでくれないとやだ!」
「……せ、芹葉さん」
「……うん♪ ……私も明弘くんといっしょだけど、お姉さんにまかせて?
」
耳元で魅惑的な言葉を囁いた芹葉さんに手を引かれながら、俺はロボットのようなぎこちない動作で風呂場へと向かったのだった……。
男のくせに好きな人の前で泣いた挙句、リードまでされるなんて――俺は本当にどうしようもないヘタレビビリである。
――END――
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~書籍版表紙公開コーナー~
既に公式ホームページなどで公開されておりますので、こちらでも載せておきます!
2019年5月15日に書籍版が発売となります!
しぐれうい様が描いてくださいました、こっそりひっそりしっかりと可愛い瀬能先輩が表紙です!
よろしくお願いいたしますね!
お読みいただいてありがとうございました!
ポイント・ブクマ等頂けると発狂いたします!\(^o^)/
11/1追記 ⇒ このお話しの続編書きました。
タイトルは『【続編①】クール美女系先輩が家に泊まっていけとお泊りを要求してきました……』です。
もしよろしければ読んでいただけますと嬉しいです。