四
「さあて、いよいよ採点の時間となりました! 審査員の皆様には『ガンジス軒』か『かっちゃん』の、いずれかをフリップに書いて頂きます」
司会の言葉に、正良と瑠宇は緊張を隠せぬ顔立ちで審査員の手元を見詰めていた。
今までの手応えから察するに、片岡とミンメイは正良に投票。斉藤とほろろは瑠宇に投票すると考えておいて間違い無いだろう。
鍵を握っているのは、選りによって百四歳の『長老』、餅田鶴亀であった。
安っぽいドラムロールが鳴り響き、審査員達がフリップにペンを滑らせる。
「さあ、結果をどうぞ!」
じゃん! と効果音が鳴った所で、五人の審査員がフリップを立てた。
結果は……
片岡『ガンジス軒』
斉藤『かっちゃん』
陳『ガンジス軒』
原『かっちゃん』
そして――
勝負を決める鶴亀翁のフリップには、
『 』
何も書かれていなかった。
「……えーと。長老、これは一体?」
引きつった笑顔で問いかける越原に、鶴亀翁はまるで子供の様にイノセントな笑顔で、こう言った。
「あー、司会者さん。飯ぁまだかね?」
鶴亀翁の発した一言に、会場は瞬時にして凍りついた。
「ありゃ、スベってしまったかのぉ。すまんすまん、軽いボケのつもりだったんぢゃが」
物音一つ消えた会場を、それでも朗らかな笑顔で見渡しながら鶴亀翁は飄々と言い放った。
「ふう、安心しました。歳が歳だけに、モノホンのボケかと思ってしまいましたよ。それより長老、これは勝負でありますので、どちらかの名前を書いて頂きたいのですが」
「ふむ……」
鶴亀翁は、白紙のフリップを手にすると、
「どっちにも、点はやれんのぉ。強いて言うなら二人とも落第ぢゃ」
と呟き、フリップをフリスビーの様に投げ出してしまった。凍り付いていた会場が、今度は大きくどよめいた。
もちろん、正良も瑠宇も、こんな判定には納得がいく筈も無く。
「おい鶴爺! どっちが旨かったかぐらい、判断できんだろう? それともこの暑さで遂に本格的にボケちまったか!?」
「そうです鶴亀おじいちゃん! せめてどっちが良かったか、書いて下さい! いくらこの頃ボケが進行して来たからってこれじゃあ、あんまりです!」
何気に失礼な言葉を織り交ぜながら、鶴亀翁に詰め寄る。
しかし――
「だまらっしゃい!」
流石にあの大東亜戦争を戦い抜き、戦後奇跡の復興、その一翼を担って来た漢、餅田鶴亀である。『くわッ』と目を見開いて発した一喝に、二人はおろか会場までもが瞬時に静まり返った。
「この餅田鶴亀、老いてはおるがまだまだボケてはおらぬわ。主らがどうしてもと言うのなら、説明してやろう」
水を打った様に静まり返った会場に、鶴亀翁の言葉が響く。
「まずは、正良。お前のカレーは、良く言えば情熱的で直情的ぢゃが、悪く言えば一人よがりぢゃ。食べる人の事を考えておらぬ」
「ッ!? でも、それは本場の味を再現したから。確かに辛いのが苦手な人にはどうかと思うけど、巌さんやミンメイさんは評価してくれたじゃないか」
「本場ぢゃろうが何ぢゃろうが、ここは日本ぢゃ。お前は自分の理想を追求するあまり、一般的な感覚を失っておるのぢゃ。巌やミンメイちゃんは調理人ぢゃから通人として評価したんぢゃろうが、むしろほろりんの率直な意見の方が重要と心得よ。店に来るお客人は、殆どが彼女の様な一般的感覚の持ち主なのぢゃからな」
「…………」
「自分の理想を追うのは、良い。ぢゃが、それをお客に押し付けるのは言語道断ぢゃ。ただの自己満足に過ぎん。そんなカレーを評価出来る筈、無かろうて」
正良は魂を抜き取られたかの様に呆然とした表情で、肩を落として鶴亀翁の言葉に身を晒していた。
そんな正良に柔らかい笑みを送った後、今度は瑠宇を見据えて、鶴亀翁は語り出した。
「次に瑠宇ぢゃが、お前さんのカレーは、つまらん。カレーを通して、お前さんの姿が見えて来んのぢゃ」
「つまらん、って。私のカレーはバランスと食べやすさを徹底的に追求したんです。味の纏まりとバランスの良さは決してつまらないとは思えません。現に、斉藤さんとほろろちゃんに評価して頂きました」
「ふむ。しかし、それはたまたま正良のカレーの後だったから、そう感じたのかもしれんのう……いや、それは『たまたま』ではあるまい」
「なッ!?」
「お前さんは、正良がああいったカレーを作って来る事が分かっておった。違うかの?」
「そ、それはっ……」
全てを見透かした様な鶴亀翁の瞳に、瑠宇は耐え切れずに視線を落とす。
「あえて正良のカレーを先に出させ、自分のカレーを引き立たせる。そう言った計算がいやらしく滲み出ておる。だからつまらんのぢゃ。本来お前さんが持っておる華やかさや細やかさが、このカレーからはちっとも見えぬ。『勝負に勝ちたい』という気持ちが、お前さんの心を曇らせたのぢゃ」
「あ、ああ……」
瑠宇はがっくりと膝を落とし、その場に崩れた。
「るーちゃん!?」
「……正良」
へたり込んだ瑠宇に駆け寄り、手を差し伸べる正良。
しかし、瑠宇はその手を取る事をしなかった。
否。できなかった。
まるで彼に見られる事すら恐れる様に顔をそむけ、かろうじて言葉を搾り出す。
「私は……私には、あなたに優しくしてもらう資格なんか……無い」
「何言ってんだよ、るーちゃん。ほら、つかまって」
屈託の無い表情で手を差し伸べる正良。しかし、彼がそういう無垢な態度で接する程に、彼女は自責の念に駆られるのだろう。瑠宇は、ついに外聞も無く泣きじゃくりながら叫んだ。
「優しくしないで、正良! 私は汚い女なの。鶴亀おじいちゃんが言った通りよ。私は、あなたがどんなカレーを作ってくるか予想できていた。そして、それを利用してあなたを打ち負かそうととしたの! 癖の強いあなたのカレーの後に、バランスの取れたカレーを出す事によって相対的に高い評価を得る。そんな卑怯な作戦を立てていたのよ!」
「……るーちゃん」
「軽蔑したでしょ。こんな卑怯な真似をする女なんて」
瞳に涙と自虐的な笑みを浮かべて、瑠宇がそう呟く。
そんな彼女を、しかし正良は腰を下ろし、優しく抱きしめて耳元で囁いた。
「バカだなあ、るーちゃん。俺がそんな事でるーちゃんを軽蔑する訳無いじゃないか」
「まさ、ら?」
「るーちゃんの作戦は、卑怯でもなんでもない。相手の弱点を見つけたら利用するなんて、勝負の世界では当たり前の事じゃないか。要は、俺にそれだけの隙があったってだけの話だ」
瑠宇の髪を慈しむ様に撫で下ろしながら、正良は柔らかい笑顔でそう言葉を紡いだ。
「でも、でも」
「もしも俺がるーちゃんの立場だったら、きっと同じ事をしたよ。それに、今回の件は俺がガキみたいにるーちゃんの意見を全否定した所からこんな騒ぎにまでなっちゃったんだ。謝るのは、俺の方だよ」
おお。正良ってばここに来て、実に素晴らしい好男子っぷりでは無いか。
彼の反則的な程にナイスガイなその言動は観客と、そして何より当事者である瑠宇の心をこれでもかと鷲掴みにした。
「正良……」
感極まった瑠宇は、雫を浮かべた瞳をそっと閉じてその身を正良にゆだねる。
「るーちゃん……」
そんな彼女を、正良はまるで大事な宝物を扱うようにそっと抱きしめる。そして……
「好き。正良、だれよりも。もう私を放さないで」
「ああ。もう二度と話さない。たとえ最高裁判所に『別れろ』と判決されても、俺は決してるーちゃんを離さない!」
「うれしい……」
観衆の面前にも関わらず、まるでラテン系の人たちみたいに濃厚なくちづけを交わし始めた。
「ひゅーひゅー!」
「ご馳走さまー」
「リア充爆発しろー!」
「ままー。あの二人、またちゅーしてるー」
「だからもう見るんじゃありません!」
無責任にはやし立てる周囲の声も、もはや届かない。二人はこの日、執拗なほどのくちづけと共に、永遠に色褪せない誓いをお互いの心に刻み込んだのであった。
そんな彼等の姿に一瞬だけ目を細めた鶴亀翁はしかし次の瞬間、会場に居合わせた観客に向き直り、凄まじい剣幕で怒声を発した。
「そもそも貴様等! 若者達が悩み苦しんでおるのに、大のおとなが手を差し伸べるどころか見世物にするとは何事か!」
会場が再び凍り付いた。
そして怒気を含んだ瞳で越原を睨みつける。
「特に源三郎!」
「ひッ!」
「貴様、町会長という要職にありながら、何をやっておる!」
「あわわわわ……」
「まったく。とうに五十も過ぎたと言うに、まだ貴様はウチの柿を盗みに来とった鼻垂れ坊主の頃のままなのか?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
まるで悪事を見つかった小学生の様に平謝りする越原を華麗にスルーし、会場の中央に仁王立ちした鶴亀翁は、いつの間にか手にしていたマイクを握り、語り始めた。
「よいか、皆の衆。こんな娯楽の少ない町ぢゃ。少しくらい羽目を外すのも、たまには良い。しかし、真剣に未来を考える若者には、どうか手を差し伸べてやってほしいのぢゃ。正良も瑠宇も、子供達は皆かけがえの無い、この町の財産なんじゃからのお」
彼の言葉を聴いていた審査員の一人、斉藤和代が号泣しながら立ち上がり、大きく拍手した。
やがてそれは他の審査員にも、観衆にも伝わり、いつしか会場は大きな拍手につつまれていた。
さすがは『超老』餅田鶴亀。計算された寒いボケに始まり、最後にしっかりとおいしい所をさらって行く様は、まさに『老練』という言葉に相応しかった。
――ちなみに鶴亀翁。この後熱中症と刺激物の取り過ぎで倒れ、三日程死線をさまよう事になるのだが、それはまた別の話である。
「さすがは『超老』鶴亀じいね。何だかんだ言っても、やっぱり頼りになるわ」
「そりゃあ、昨日二人であんだけ頭下げて頼んだんだ。あんぐらいやってもらわねぇと」
「それよりも康一。あんた、わざと肝心な事教えなかったでしょ。まったく性格悪いわね」
「佳代だって、教えてなかったじゃねぇか」
「ま、ね」
会場を少し離れた道端で勝負の行方を見届けていた二人は、落ち着く所に落ち着いた展開に胸を撫で下ろしつつ語り合っていた。
「ふん。『相手を思いやる気持ち』。それは一期一会の精神にも通じる、俺達料理人が一番忘れちゃいけねぇ所だ。これで、ちったぁ奴等も身に染みたろう」
「私達は、気付くのに随分時間が掛かったけれどね」
少し寂しげにそう呟く佳代子に、康一は幾分柔らかい口調で「そうだな」と言葉を返した。
「でもさ。あの子達のおかげで、なんだか私達の事までスッキリした様な気がすると思わない?」
「……そうか?」
実はまんざらでも無い表情をしている康一に、まるで少女の様な微笑を返して佳代子は続けた。
「もちろん、もう私達はあの頃には戻れないけど。でも、あんたと過ごしたあの日々まで否定したくも無いって、今なら思えるのよ。ね、こーちゃん?」
「ふん。そうだな……かっちゃん」
二人はまるで三十年も前の様に、お互いが許しあった愛称で呼び合い、そして瞬時に頬を赤く染めた。