一
原幌町は昭和テイストの色濃く残る良く言えばレトロ、悪く言えばド田舎な、それはちんまい町だった。ちなみにどれくらい田舎かと言うと、バスが大体二時間に一本しか走っていない位の素晴しい田舎っぷりだ。
そんな町に、二軒のカレー屋が存在した。
一軒は、本場インドの味を売りとする『ガンジス軒』
もう一軒は、親しみやすい庶民派の味が売りの『カレー屋かっちゃん』である。
――ひとつの町に、ふたつのカレー屋はいらない――
別にカレー屋なんぞ何軒あってもかまわないと思うのだが、ガンジス軒の亭主とカレー屋かっちゃんの亭主は何故かそう主張し、長年いがみ合っていた。
そんな事をやられると、もちろん一番苦労するのはそれぞれの家族なのであるが……
「ああ、マジやってらんねぇ! あの二人の尻拭いはもうたくさんだよ! るーちゃんも、そう思うだろ?」
その日、ガンジス軒の跡継ぎにして副料理長である高科正良は、カレー屋かっちゃんの一人娘であり、看板娘でもある山本瑠宇を近所の公園に呼び出し、熱弁を奮っていた。
対する瑠宇も、
「……そうね。今までの事はまだ大目に見ても居られたけれど……今回ばかりは、ね」
クールな口調の中に静かな怒りを滲ませながら、力強く頷いた。
「ったく。後んなって後悔するんだったら、最初っからそんなバカな事言わなきゃ良いんだよ!」
「まったくです。毎度の事ながら、正良も大変ね」
「るーちゃんもね」
二人は互いに見詰め合った後、同時に盛大な溜め息を付いた。
事の起こりは、昨日の夜。
いつもの様に行きつけの(そして、この町で唯一の)バー、『サイド3』で一杯引っかけようと現れた、正良の父であるガンジス軒亭主の高科 康一は、やはりその店でグダを巻いていた、瑠宇の母親にしてカレー屋かっちゃんの女主人である山本佳代子と遭遇し、いつもの様に口論となっていた。
そこまではまあ、この町では割と良く見られる光景だったのだが、この時は少しばかり様子が違った。
その日康一がパチスロで大負けしたのが原因なのか、それとも佳代子が更年期特有のデリケートな日だったのが問題なのか。今となってみれば知る由も無いのだが何故か大いにヒートアップしてしまい、いつしか
『カレーで勝負して、負け方が店をたたむ』
という話にまで発展してしまったのである。
さすがにと言うか――
一晩経って冷静になり、自分の言った事に改めて恐怖した康一は正良に、
「佳代子の娘を通して、昨日の話は無かった事にしてもらえんだろうか?」
などと酒臭い息を吐きながら、泣きついて来た。
無論、その頃佳代子も二日酔いによる頭痛に苦しみながら瑠宇に、
「正良君づてに、昨日の話を無かった事にしてほしい」
と懇願していたので、まあ言ってしまえばどっちもどっちなのだが、頼られる方にして見ればたまった物では無い。
しかも。
普段は二人の交際について文句しか言わないのに、こんな時ばかり上手い事利用しようとするのである。そんな互いの親に、二人はいい加減辟易していた。
「やっぱ、俺達がどうにかしないとダメだよ。るーちゃん」
正良はそう言うと、瑠宇の手を取って、
「結婚しよう、俺達。そしてあの二人に目を覚ましてもらうんだ」
と、過分に熱っぽくも真剣な眼差しで、そう切り出した。
それは彼ぐらいの年頃に多く見られる、ともすれば短絡的な言動にも見えるが、その行動力と真摯な態度はそれなりに評価できるとも言えようか。
一方の、正良より三つほどお姉さんである瑠宇も、
「ええ、正良。私達が一緒になれば、あの人達も分かってくれるかもしれない」
頬を桜色に染めながら正良の瞳を見詰め、そう言葉を返した。
「るーちゃん!」
「正良!」
視線が交錯するや否や、まるで磁石のN極とS極のごとく瞬時に二人は固く抱き合い、熱いくちづけを交わす。向かいのベンチに座っていた親子から「ママー。あのふたり、ちゅーしてるー」「見るんじゃありません!」などという会話が流れて来るのも、お構い無しだ。
なんという事だろう。両親が犬猿の仲であるこの二人は、町で一番の、誰もが認めるバカップルだったのである。
「俺達の事を認めてもらえなかったら、いっそ駆け落ちしよう。一緒に東京に行くんだ」
「素敵。そして六畳一間の小さなアパートを借りるのね? 神田川沿いの」
「そう。風呂なんか付いてないから、二人で横丁の風呂屋に行く」
「うんうん。それで、『一緒に出ようね』って言ったのに、いつも私が待たされるのね?」
「そうそう。小さな石鹸がカタカタ鳴って」
「すると、正良は私の体を抱いて、『冷たいね』って言うのよ。お前のせいだっつーの!」
夢見る二人は昭和時代のフォークソングみたいな事を囁きあいながら、さらに強く抱きしめ、お互いを求め合う。向かいのベンチに座っていた親子は「ママー。あのふたり、すごいちゅーしてるー」「だから見るんじゃありません!」などと言いながら、お母さんが子供を引きずる様にして帰って行った。もはや二人の妄想を阻む者はどこにも居ない。
「そして汗水流して仕事して、貯めたお金で東京砂漠の片隅に小さなカレー屋を開くんだ!」
「ええ!」
嗚呼、これが若さゆえの何ちゃらなのか。二人の脳内ではすでに苦労して資金を貯めた後、都内に出店する段階にまで到達していた。ちなみに、都内でカレー屋を開くには少なく見積もっても一千万円程度の資金が必要だという事を、多分この二人は理解していない。二人の暴走は留まる事の無い様に思えた。
ところが――
「私、『カレー屋かっちゃん』みたいな、家庭的な味のお店をやりたい」
などと、瑠宇が早くも店のコンセプトを持ち出したその時、正良の表情が大きく曇った。
「何言ってんの? るーちゃん。やるのは『ガンジス軒』みたいな、正統かつ本格派のカレーを出す店だよ」
正良は、まるで出来の悪い子供を叱る教師の様な口調で瑠宇を諭す。
「カレーはね、やっぱ本場のインドやスリランカの味を尊重するべきなんだ。そこを間違えちゃあ、いけないよ」
そんな正良に、瑠宇は今までの甘い空気を薙ぎ払う様な口調で反論した。
「正良こそ、何言っちゃってるの。いい? 今やカレーは日本独自の食べ物に昇華されているの。国民食と言っても過言では無いわ。だから日本人は、日本人による、日本人のためのカレーを作るべきなのよ。今さらインドだのスリランカだのって、ナンセンスだわ」
「バカな! 基本をないがしろにして、ちゃんとした物が作れる訳無いじゃないか。るーちゃんは間違ってる!」
「間違ってるのは正良の方よ! そもそもカレーはインドからイギリスを経由して日本に伝わったのよ。最初から既にアレンジされているの。そこを無視して、基本だの本場だの言うのはバカげているわ!」
おお!? ついさっきまでの腹立たしい程にラヴい空気は、一体何処に行ってしまったのだろうか?
二人は、ほんの何分か前とはまったく意味の異なる熱い視線で見詰め合っていた。
もしも、ここに昨夜『サイド3』で飲んでいた客が居たら、彼等の親がまったく同じ内容で激論を交わしていた事を思い出して少し笑うかもしれない。何だかんだ言って結局は二人とも、親の影響を多分に受けているのであった。
……と、なると。次にどんな展開になるのかと言えば。
「正良がそこまで言うのなら……どっちの言い分が正しいか、勝負よ!」
「望む所だ! るーちゃんが負けたらウチに嫁に来い。町にカレー屋は一軒で充分だ!」
「そうね。正良が婿に来れば、カレー屋は一軒になるものね!」
あ、やっぱりこうなった。
しかも。元から存在したカレー理論の相違に加え、何気に痴話喧嘩までもプラスされてしまって更に厄介な話になってしまっているではないか。
ミイラ取りが、ミイラに――
もはや、この勝負を止める事は誰にもできなくなっていた。