寂しさ
手袋が欲しいの、と彼女は言った。
それから少し遅れて、お金は払うから、とそこへ付け加えた。まだあどけなさの透けて見える顔立ちだった。重みを増した長い黒髪の上に、真っ赤な毛糸の帽子がしっとりと濡れている。よく見ればそこへ落ちる雨に雪が混じっていた。どう見ても積もらずに消えるその質量が、余計に素手の私を凍えさせた。
私は手袋を持っていなかった。
私は人の流れを避けた。とはいっても、もう決して早い時間ではない。すぐそばの閉店後の大きなシャッターの前に彼女と並んだ。傘を差したまま、私は彼女の目をのぞき込んだ。彼女は怯えていなかった。黒い瞳がまっすぐに私を見た。ただ、僅かな疑念だけがその目にあった。彼女は何かを求めて期待していた。
だが、私は手袋を持っていなかった。
ただでさえ天気の悪い日だった。もう開いているのはコンビニくらいしかない。彼女の頬は風に晒されて真っ赤になっていた。私は自分のマフラーを外して彼女の首に巻いてやった。ありがとう、と彼女はほほえんだ。三重に巻いたそれを確かめるように、彼女は小さな両手でそっと触れた。視線の先でその手は微かに赤く、幼くもほっそりとしなやかだった。彼女は手袋を持っていなかった。
私も、手袋を持っていなかった。
私は様子をうかがっている彼女を小さく促した。ひとつ心が決まった。傘を左へ寄せて、そこへ彼女を入れた。凍えた左手が、しなやかな右手に捕らえられた。私はその手をそっと引き寄せた。傘を出来る限り左へ寄せた。それから、ゆっくりと歩み出した。風はほとんど止みつつあった。それでも時折ぶつかる雫は背筋が震えるのに十分だった。彼女の手も凍えていた。時折縋るように強く握られた。
けれど、私は手袋を持っていなかった。
電灯の橙に照らされた通りで、その電飾はとても目立った。落ちる雨粒を透かして、まっすぐに私の目へ届いた。そっと引いた手はするりと離された。彼女は、傘を閉じようとする私をどこか不思議そうに見ていた。ガラス張りの前面を通して、店内の空気が滲みだしているようだった。その光の中へ踏み出した。間の抜けた音と共に扉が開いて、温かい風が漏れた。気のない声を出した店員がひとつ身震いした。のぼせそうな空気の中に目線を走らせた。
そして、私は手袋を見つけた。
手袋はすぐ入り口の前にあった。真っ黒な地に白で雪の結晶が描かれていた。私がちょうど思い描いていたものだった。私はそれを指し示し、僅か後ろに立って見ていた彼女を伺った。
今、私の手には手袋があった。
けれど。
彼女はつまらないとでも言いたげに、首を横に振った。
半ばひったくるように、彼女は私の手を取った。驚くほど凍えた手だった。彼女は私の手を引いた。この私の心を引くようだった。私は少なからず動揺しながら、揺れる彼女の髪をただ見ていた。引かれるまま、引くままに、私と彼女は転げるように店を出た。勢いをそのままに、彼女はかなり強い力で私を店の壁に押し付けた。肩に触れる手は細く、食い込むようにすら感じられるほど強張っていた。
私は手袋を持っていない。その言葉が思考を浸した。私は手袋を持っていない。
なのに。
何故、と言葉が溢れた。それは俯いた彼女の帽子に撥ねて、水滴と共に足元の闇へ吸い込まれて消えた。彼女の顔は青ざめていた。僅かに震えてさえいた。雨音が僅か遠くから聞こえた。ガラスについた水滴が私のコートを少しずつ湿らせつつあった。風は私の背後から吹いていた。彼女は暫く答えなかった。ただ僅かに唇を噛んだように見えた。
私はもう一度、どうして、と問うた。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
手袋は、いらなかったの。彼女はそう細く囁いた。
本当は、手袋なんていらなかったの。
ただ、誰かと同じ道を歩きたかっただけなの。
だから、もういいの。
そう、と私は半ば溜め息をつくように言った。やっと私は理解した。私が決めた心を理解した。私の心を決めさせた何かを理解した。全ての欠片が組み上がったそこに、私は彼女と私の間に通ずるひとつの繋がりを見たような気がした。僅かな哀れみのような感情が、私の心の片隅に灯った。
また俯いてしまった彼女の頭に、私は凍えた右手を乗せた。僅かに目を細めた彼女の頭を、私はそっと撫でた。
いいよ。そう言って、私は彼女を許した。それから、マフラーを綺麗に巻き直してやった。
いいから、早く帰りなさい。
それを聞いて、彼女は小さく微笑んだようだった。雨音にかき消されるほど小さな声で、彼女は何事かを呟いた。その言葉の終わりも、足元の闇に吸い込まれて消えた。
その言葉がなんだったのか私には分からなかった。ただ、分からなくてもいいのだろうということは、なんとなく分かった。私は彼女に手袋を与え、彼女はまた、それに見合うものを私に与えてくれたのだと思った。雨はほとんど雪に変わりつつあった。翌朝までには積もりそうな様子だった。これなら、彼女も道に迷わないだろう。それは予感というよりは確信だった。
私は少し笑った。少し握りこんだ手の中に、あの凍えた感触が過る。マフラーのなくなった首に、その手を当てる。
ほんの僅かに微笑んだ彼女がどこへ行ったのかは、知らない。