後編
視界がホワイトアウトする。
僕は、天使と共に再び人間界に戻るため『扉』をくぐった。
小汚い世界。やかましい世界。矮小な世界。でも、僕のいた、住んでいた、生きてきた、懐かしい世界。すなわち、人間のための人間の世界。僕は一秒でも早く、あの懐かしい世界に還りたかった。
随分長いようにも、また短いようにも思えた。遠くから水の流れる音がする。次第に音が大きくなってきた。視界もまだぼやけているが、白い霧が晴れるように、何かが見え始めていた。
人だ。人がいるように見える。流水の音はさらに大きく聞こえてくる。僕は、そこがシャワールームだという事に気付いた。まずい! 僕の姿は普通の人間には見えないとはいえ、それでもシャワールームで誰かの裸を見るなんて……ッ! 視界が戻ったら、すぐに目を閉じて、シャワールームから出よう。その際に、少しでもシャワーを浴びている人の裸体を見てはならない! 失礼である! 人として最低である! 手で目を塞いで、迅速にシャワールームから退出するのである!
でも? 少しくらいは見えてしまうかもしれないなあ? まあ仕方ないよネ! 少しくらいなら!
視界はどんどん回復してくる。肌色ボデーが! 肌色ボデーが見え――
やけにがたいが良い。というか筋骨隆々のような……。
貞夫だった。貞夫が僕の目の前で、全裸で、気持ち良さそうにシャワーを浴びていた。
「うぉう! お前ら、いつの間に還ってきていたんだ! 人のシャワーは覗くもんじゃないぞ!」
貞夫の家のシャワールームから天界に旅立った、ということをすっかり忘れていた僕だった。
「覗きたくて覗いたワケじゃないわボケェェェェェェェェ!」
誰が好きこのんでエアガン大好き残念おじさん(バツイチ)の裸体なんぞを見なけりゃならんのだ!
「おっす貞夫! おひさ~」
この馬鹿天使は、貞夫の裸を見てもどうとも思っていないようだ。一応女の子なんじゃねーのかよ。一方で貞夫は、さすがに若い女性(に見える)天使にまで裸を見られて、かなり恥ずかしいようだ。
「早く……出ていってくれないか……?」
「出てく! 出てくよ! だけどモジモジしてんじゃねぇ! オッサンがモジモジしてても気持ち悪いだけなんだよッ!」
新たなる発見。身体がないと、嘔吐することもないらしい。もし僕が普通の状態だったら、確実に吐いていただろう。
時刻は、土曜日の二一時過ぎだった。今朝家を出た時の時間がたしか九時ごろだったから、もう殺されて……こんな身体にされて、半日経ったらしい。
たった半日で、ここまでいろいろな体験をすることになるとは思わなかった。自分の事を天使だ、なんていう電波少女に出会って、しかもその少女に『間違えて殺しちゃった』だなんて、とんでもないカミングアウトをされてしまった。
一緒に電車に乗って、サバゲー大好き残念おじさんに会って(しかも出会った日に全裸まで見てしまった)、挙句の果てに神様に会いに天国まで行ってしまったのだ。これが世に言う『臨死体験』なんてやつなんだろうか。よくテレビで『僕は三途の川を見た事があるんですよ~』とか笑顔で語っている人がいるが、ああいう人は全てインチキだろう。
なぜなら。実際に体験している僕は、笑顔で今日一日の出来事を他人に語るなんて出来ない。正直もうこりごりだ。早く元の身体に戻りたかった。人間に戻りたかった。
「飯でも食べていくか……と思ったが、お前さんは『物』を食べられないのか」
風呂から出てきてすっごくダサいジャージを着ているこの男・貞夫は、僕らに好意でだろう、食べ物を出そうとしてくれたが、今の僕は『物』に触れることすらできないのに、食事なんて出来るわけがなかった。
「はは、ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ」一応僕は貞夫に礼を言った。
「私は食べられるよ? ありがとう貞夫、それではご厚意に甘えてお寿司食べたい。用意して」
ソファに寝っ転がりながら天使は言う。
「人んちに来てゴロゴロしながら寿司出せっていう図々しい奴は、多分世の中探してもお前だけだと思う!」
「えぇ~……じゃあピザでもいいよ」
「いや……悪いな。さすがに家には、寿司もピザもないな……」
貞夫は顔を引きつらせながら答える。実に不憫だった。
「だが、レーションならあるぞ。食うか?」そう言って僕に差し出してきた。
「食わねーよ! なんでわざわざ屋内にいるのにレーション(野戦食)食わなきゃならねぇんだよ!」
このオッサン、どこまで軍人に成り切りたいのだろう。『夢見る軍人さん』だったっけ? 貞夫の娘さんが付けたあだ名。素晴らしいネーミングセンスだと思う。感服した。
「じゃあ出前とれば良いジャン。電話どこだっけ? 私電話する~」
「電話するな! 人んちで何してんだお前は!」
貞夫がまた泣きそうになっていたため、一応僕がこの馬鹿の暴走を止めてやることにする。
「何!? お前が電話したいの!? ダメッ、私が電話すんの! 私がメニューを選ぶ!」
「別に僕が電話したくてキレてるわけじゃないから!」
「とりあえずポテマヨと~……」天使はこれだけ言ってるのに、電話の子機のボタンをプッシュしようとする。
「やめろっての!」
僕は、天使の手から子機を奪い取った。人の家で、本気で出前を頼もうとするとは。しかもどうせ金なんか払いやしないだろう。貞夫に奢らせるつもりに決まっている。この女、世界で一番図々しい奴に違いない。
天使はブーブー文句を言ってはいるが、食べることは諦めたようだ。
「で? この後どうするんだよ。標的を探しださないといけないんだろ?」
本題に入る事にする。僕たちは、一人の人間を殺さなければならない。その人は、これから『悪魔』になるのだという。
「『その人』が悪魔になってからじゃ遅いって話だっただろ。早いとこ出発したほうがいいんじゃないか?」
天使は出前を邪魔されたからか、凄く不機嫌だった。
「じゃ~あ~、お前が探してきて。わたしゃ寝るよ」
「寝るな馬鹿が!」本気で寝ようとしてやがる!
「でもね~、探すって言っても、全っ然気配を感じないんだよね~」
ソファに寝っ転がって鼻くそをほじってやがる。全然感じられねーのは気配とやらよりかは、お前のやる気だ。
「気配? ていうかそもそも、お前らはどうやって『標的』を探してるんだ?」
「心が穢れるとね、分かるのよ、気配が。大体人間界の、どの辺にいるのかって。でも何処にいるかまで正確に感知出来る程っていうと、もう本当に心の穢れが臨界点に到達する直前だけ。それより前は、よっぽど近くにいなきゃ分からない。今分かってる情報は、名前と『男・二七歳・東京都在住・フリーター・前科持ち』」
なかなか怖いステータスをお持ちの方のようだった。
「で、今はその気配が感知できないのか?」
「そうそう。全然感知できない。執行令状が出て、私に上から今回の任務が伝えられた時点では『あと一週間以内に臨界突破・悪魔化』って話だった。あれから四日、明日で五日か。どうだろう、もうちょっと時間がかかるかな」
「じゃあ、気配が感知できてから動くってことか?」
「でもねぇ……やっぱそんな悠長な事も言ってらんないカモ」
天使は横目で僕の方を見て、そんな事を言った。
「どういうことだ?」
「だって、お前はあと持って一日だと思うし」
言っている意味がよく分からなかった。
「あと一日? どういう意味だよ?」
僕は天使に問う。天使は相変わらずソファの上でゴロゴロしながら、説明を続けている。
「昼にも言ったと思うけど『人間は死んだ後、強い思念を持ったものは意識体となって人間界をさ迷う。しかし、意識体でいられる時間はそう長くはない。次第に存在が薄まっていき、次期に消滅。長くても、意識体が四八時間以上人間界に存在し続けた前例はない』の。前『送り課』だったし、試験で出たから覚えてる」
試験とかあるんだ。
「お前は、既に意識体になってから一二時間経ってるでしょ? 明日の朝で二四時間。『どんなに長くても四八時間』だから、お前が四八時間持つとは限らない。明日の朝に消える可能性だってある」
「マジかよ! ヤバいじゃないか!」
「でも」天使は笑顔で続ける。
「お前は結構意識体として特別な方に入ると思う。天使に触れて、さらには天界まで足を踏み入れておいて正常でいられるなんて珍しいよ。今こうして話をしてても、特にお前の存在が薄れてきているようにも感じないし。明日の日中くらいは持つんじゃないかな?」
「それでも全然時間がないのは確かだろ?」
「そうなんだけど、でも今は探す方法もないし。『清浄課』の天使は、標的の穢れが臨界点に近付くにつれて強くなる気配を感知、索敵範囲を狭めつつ接近待機、臨界に限りなく近づいた時、気配がマックスで感知できるようになってから直接接触・浄化すんの。もし発見に遅れて失敗したら悪魔になっちゃうけどね。いつ臨界点に到達するかは分からない。だから天使は早めに人間界に降りてきて、気配を感知できるまで待機しているわけ」
「なるほどね。だからお前は、四日も前から人間界で待機してるわけだ」
それでコンビニでジャン〇立ち読みしたりしながら時間を潰してたのか。
「今は全く感知できないのか?」
「多少はするけど。だから、そいつの心の穢れ具合がヤバいって分かるわけだし。でも『何処』とまでは正確には分からない。少なくとも都内にいるのは確か」
それだって、十分範囲が広いと思う。
「天界にあるお前の部署に問い合わせても、分からないのか?」
「分からない。天界って言ったって、全人類・個人個人を常時監視してるわけじゃないから。前はしてたらしいけど、人件費やプライバシーの問題とかで議論になって、二千年くらい前から監視はやめたんだってさ」
二千年前からプライバシーだのなんだの言ってたのか。えらく進んでんだな、天界ってのは。
「そうだ! じゃあ神は!? 神なら居場所だってわかるんじゃないか?」
我ながらグッドアイディーア。だと思ったが、天使は首を横に振る。
「神様は、基本天使の仕事内容にはノータッチ。一応天使省のトップだけどね。いろいろ制限があんの、神様にもね。それに、私たちが自力でターゲットを見つけ出して、ってのも込みの、あの条件だろうし」
「なるほど……。それにしても使えねーな、あのオッサンは」
「そう。基本使えないんだよ、あのオッサンは」
出逢ってからおよそ半日。初めてこいつと分かり合えた気がした。
「でも、じゃあどうするんだ?」
「明日一日、この“街”をプラプラする」
「プラプラ? そんな事してる時間があるのかよ? 僕は余命一日なんだろ? さっきお前が言ったじゃないか」
余命一日。凄い言葉である。『余命半年』とかならよく聞くが、まさか自分が余命一日と宣告されるとは思わなかった。前の日に宣告されても、一日で何が出来るんだって話だ。
いや、違うな。そもそも僕の場合は、『余命』って言葉自体が合ってない。なぜなら、既に死んでいるからだ。
「人の多い場所でプラプラする。それが一番遭遇できる確率が高い。ある程度近づけば、気配が弱くても分かると思うから。で、もし気配が強まってきたら、それから接近すればいいってワケ。どうせほっときゃいつかは感知出来る程に気配が強くなるわけだし。まあもっと平たく言っちゃえば、どこにいるかも分かんないのに、当たりを付けて探せないでしょ?」
「なるほど。でも、本当に上手くいくのか?」
「まあ大丈夫。任せとけって。だって……」
天使は、不敵な笑みを浮かべる。信じられるわけがない。お前、ミスの常習者なんだろう?
でも。それでも。こいつの笑顔を見てると。
「天使に不可能はない。それに、私は運だけはいいのヨ。天使試験の時も、当日大熱出してマークシートは全部カンでやったけど満点だったし」
それはどんだけ羨ましい能力なんだ。つーか結局運頼みかよ……
でも。どこに根拠があるのかは知らないけど。
どこからこんな自信が湧いてくるのかは分からないけど。
それでも、こいつなら何とかしてしまいそうな気がする。
なぜだろう。
渋谷である。東京都渋谷区である。今日は日曜日である。三連休のド真ん中である。
さすがに人が多かった。とりわけ、この街のメインターゲットであろう若い人達が多い。街を行き交う人々は、そこらへんを歩いている女性でも捕まえて『実はこの人、今テレビで絶賛売り出し中の人気タレントさんなんだぜ』と言われれば純情な人なら信じてしまいそうなくらい、少なくとも下町出身の僕には、みんなオサレさんに見えるのである。
ある人達は、美男美女のカップルで。またある人達は、派手に着飾った若い女性グループで。休みの日だろうに、なぜか制服姿の女子高生たちもいる。渋谷には、人が溢れていた。
そんな喧騒の中、黒髪の男と、金髪の少女が、スクランブル交差点に並んで立っている。これだけの情報だと、一見どこにでもいるようなカップルに聞こえるかもしれない。
しかしその二人には、普通のカップルとは決定的に違うことがある。
一つは、女の方が人間ではないこと。そしてもう一つは、男の方もまた、人間ではないこと。最後に、これだけ人の往来が多い場所で、二人はさっきからずっとその場から動かず本来なら相当に通行の邪魔なはずなのに、誰ひとりとして彼らに不平を言うどころか、見ることも触れることもできていない、ということだ。
男、つまり僕は、隣に立っている金髪碧眼の少女に聞く。
「どうだ? 気配を感じたか?」
しかし金髪の少女は首を横に振る。
「全然。この辺りにはいないのカモ」
「そもそも、人の多い場所=渋谷ってのが、いかにも普通の人間っぽい考えだよな。お前、よく渋谷来んの?」
「週五です」少女はしれっと答える。
「多いな!」予想外の答えだった。
街を行き交う人々は、みな美男美女に見える。それは、きっと僕が普段、こんなオサレさんたちが集まる街に来ないから、まるで大学入学を機に上京してきたばかりの田舎っぺボーイみたいに、“渋谷補正”とでも言おうか、自分に比べて周囲の人間たちが圧倒的にオシャレみたいだとか、『東京ってすげー』的な補正が僕の中でかかっているのであろうけれど、しかし、それでも、あの美女も、そちらの美少女も、今僕のとなりにいる少女の可愛さには、足元にも及ばないだろう。
この少女、顔だけは可愛い。それは認める。いや、『可愛い』なんて簡単な言葉では、形容しきれないほどだ。金髪碧眼が日本人離れしているからか、より人間より貴い、神聖な雰囲気を醸し出している。穢れをしらないような、太陽のような明るさを持つ笑顔。視界に入れただけで心の穢れが浄化されそうなほど、明るく清らかな笑顔。その様は、まさに『天使』と呼ぶに相応しかった。
しかし。
その他の要素で、結果この少女に対する僕の総合評価は、差し引きマイナス一億点くらいだ。つまり、容姿以外の全てが――顔が良ければ別にいい、なんてとてもじゃないが言えないほどに――最悪だった。
『女は性格より、顔とかスタイルだべ』とか言っちゃう男性諸君、ぜひ僕の傍らに居るこの少女と、一日一緒に過ごしてみるといい。きっと『女性は性格』という考えに行きつくことであろう。
時刻は朝の十時。僕とその少女、つまり馬鹿天使は、今渋谷に来ていた。理由は簡単。人探しだ。
ただしこの人探し、そう簡単に終わりそうもない。今分かっているのは、僕たちが探している『その男』が、東京都内にいるだろう、ということだけだ。都内と言ってもかなり広い。それだけじゃあ、正直探し出すことなんて出来ない。仕方がなく、僕と天使は人の多い場所で『その男』と偶然すれ違うことを期待して、さっきからアホみたいに突っ立ってるわけである。だからわざわざ普段来もしない渋谷なんぞにいるのである。
正直こんな馬鹿な方法で探し人を見つけ出すというのは、天文学的な確立なのではないだろうか。東京都内には、一千万人以上の人間が住んでいるという。この国の十分の一の人間が、この首都に住んでいるのだ。そんな中からたった一人の男を探しださなければいけないなんて……もう地獄の苦行か何かかもしれない。
「う~ん。これ以上ここにいても、無意味かな。うん、しゃあない! 探すのは諦めて、109行こう!」
「うん、どうしてそうなった?」
「服が欲しい」しれっと言いやがる。
「お前な、時間がないんだぞ!? もうちょっと真面目に――」
「まぁまぁ! 焦っても仕方ないって!」
天使は話を途中で遮り、僕の手を掴んで走り出す。
「ほらっ! いくぜ109にっ!」
「ちょっと待てって! 本当に服買いにいくつもりかよ? てかお前、人間界の服買ったところで着れんの?」
「モチのロンよ! 今着てんのだって前に渋谷で買ったやつだし!」
いちいち古臭い言葉を使う奴である。ていうか、渋谷に人間の服を天使が買いにきているってどんな話だよ。
「逆に聞くけど、お前は渋谷で服買ったりしないの? 一応イマドキの高校生でしょ?」
「僕は〇ニクロ一択だ」
「だからモテないんじゃねーの?」
「関係ねーよ! 多分……。つうかお前今、全国の〇ニクロ愛好者にケンカ売っただろ! 謝罪しろ!」
「あっ……そうだね、〇ニクロせいじゃない。モテないのは、お前の顔そのものが悪いせいだもんね……」
「僕にも謝罪しろっ!」
「じゃあ、私がお前に似合う服をこーでぃねーとしてやんよっ!」
天使はそう言うと、僕の腕を引っ張って街角のオシャレな服屋の中に連れ込む。店の中にはイケテル若者が着ているような服しかなかった。こんな服でアキバに行ったら浮くかなぁ……。
僕がそんなどうでもいい事を考えている間も、天使は僕に似合う服とやらをあれこれ探してる。
「色、どうしようか。上は……茶色かなぁ……。下は……下も茶色かナ?」
「何が言いてぇんだ?」
「いや、別に誰もお前の事、ウンコみてぇだなんて思ってないヨ! 気にすんなよ被害妄想激しいウンコだなぁ」
「よっぽど僕に殺されてぇみたいだな、お前!」
どこまで口が悪いんだよこいつ!
「ていうかそもそも、僕たちは普通の人間には見えないだろ? どうやって会計すんだよ?」
電車は、ホームにやってきて扉が開いたら勝手に乗り込めばいい。けど買い物は店員さんと会話をしなければ成立しない。会話ができない、そもそもお金に触れない、いや商品にすら触れない僕には、買い物なんて出来るはずがない。
「ん? ああダイジョブダイジョブ! 私が代わりに会計してやんよ。もちろん立て替えるだけだけどネ!」
「お前は買い物出来るのか?」
「言ったっしょ? 天使は天界・人間界すべてのものに干渉できる神の使い。人間に姿を『見せる』ことも、会話をすることも、物に触れることもできる。結構『力』使うけど」
「今みたいに『見えない』ことも、『見える』ことも出来るってことか」
「そうそう。お前らの言うところの『幽霊』みたいっしょ」
天使は笑いながら言う。なんというか、ずるいって感じだ。
「羨ましいな。便利そうだし。何より『天使』ってのも面白そうだな」
「ははは。じゃあ天使になる? 普通の人間でも、試験を受ければ天使になれるよ?」
そんな試験があったのか。
「考えておくよ。就職活動に失敗したら受けてみようかな」
羨ましいな。こいつみたいに、自由に(ってほどでもないのだろう、実際は。こいつだって一応仕事をしているのだから)生きられたら、どんなに楽しいだろう。
……でも僕は、まだこの世界で生きていきたい。人間として。
「まあ仕事内容は結構辛いから、舐めてたら痛い目見るけどね。……私みたいに」
天使は伏し目がちになって言う。すごく説得力があった。
――その後、結局一時間くらい服選びに費やしてしまった。僕達に残された時間は少ないというのに、渋谷で得たのは探し人の具体的な情報ではなく、数着の新しいイケテル服だけだった。うん、なんだかんだ言って、僕が普段自分では買わないような、カッコイイ服を選んでくれた。こればかりはこの女に、感謝しなければならないかもしれない。
正午ちょっと前。天使がどうしても腹が減ったと言いだしたので、僕たちは今、名前も知らない公園のベンチでハンバーガーを食べている。いや、僕たちは、というのは誤りだろう。正確に言えば食べているのは天使だけだ。今の僕は食事ができない。まあ空腹じゃないからいいのだけれど。
「すげぇ食うな、お前」
天使は『ちょっちハンバーガー買ってくる!』と僕をこの公園に残し、何処かへ風のように駆けて行ったかと思うと、満面の笑みで両手にそれぞれどっさりとハンバーガーショップのお持ち帰り用の袋を抱えて帰ってきた。ちなみにさっき渋谷で買った僕の服が入っている袋二つは、天使のポケット(四次元らしい)の中に吸い込まれた。実に便利だ。
天使は、おそらく店にある全ての種類のメニュー(ハンバーガー以外にも、ナゲットやポテトまで買ってきていた。しかも全てLサイズ!)を注文したのだろう。僕は天使が十個目のチーズバーガーを食べているところまでは頭の中でカウントしていたが、カウントするのをやめてからも多分その倍以上は食べているだろう。今はとびっきりの笑みを浮かべながら、本人曰く『メインメニュー』の月見バーガーに取りかかっている。
「どっかの誰かさんが、昨日の晩飯を邪魔してくれたおかげでな!」
「だってお前、貞夫の電話で出前頼もうとしてたじゃねーか!」
「別に、金は私が払ってればよかったわけでしょ? ホラッ、私はちゃんと日本円も持ってるし! 私が私の金で食べたくて出前取ろうと思ったのに!」
うっ……そう言われてしまうと、こちらとしてはもう何も言い返せず、むしろ昨日の夜の事を謝らなければならない……そんな気が……するような、しないような……。
「悪かったよ! てっきり呼ぶだけ呼んで、金も払わず貞夫んちからトンズラする気だと思ったからさぁ!」
「まぁそうする気だったけどネ」
「今までにお前に言った謝罪の言葉、全て返せ」
天使は無視して、おそらく好物なのだろう月見バーガーの食事を続けている。
「あぁ~、やっぱ月見バーガーを食べると、今年ももう秋なんだな~って思うよネ!」
「完全に人間のセリフだよな、それ。もう普通に日本の小市民みたいな奴だな」
昨日今日と一緒にいて、分かったこと。
こいつは、性格と思考回路がブッ飛んでいる以外は人間臭いのだ。とことん。渋谷で服を買ったり。コカコーラが好きだったり。月見バーガーが好物だったり。
「なあ。お前は元・人間なんだろ? で、『天使の試験』とやらを受けて天使になったのか?」
「そだよ~」天使は食事を続けながら、こっちも見ずに答える。
「いつ頃?」
「う~んと……多分……百年くらい前かな」
「ああ、あなた随分とババァだったんですかって痛い痛いイタイイタイ腕はそっちには曲がらないから! 関節ってそっちには可動しないからぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「でも神様のフィギュアは、こっちにも可動したよ?」
「それ可動したんじゃなくて可動させたんだろっ!?」
「その後、腕のパーツが折れたけど」
「壊したのかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「そう。ついやっちゃったのヨ。ついでに神様のココロも壊しちゃったけどネ!」
「怖すぎるぞお前ッ!」
「さ~て。次はお前の腕が壊れる番カナァ?」
今までにこいつの口から聞いたこともないような、低い声で強迫してくる!
「悪かった悪かった許して許してぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ! 訂正します! 訂正させていただきますからぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁお姉さまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「フンッ! ようやく分かったようだな、愚かな人間めが!」
ようやく腕を解放してくれた。どこの魔王のセリフだよ、それは。
「百年前に天使になったってのは分かったけど。じゃあお前が人間界で生まれたのはいつなんだ?」
「う~んとね。多分、五百年くらい前かな?」
「化石だな、そこまでいくとぅうおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
「今ピキって言ったよねぇ!? もうちょっとすると、ミシッって言うんだよ? で、最後はボキンッ☆」
「なんで知ってるんだよおぉぉぉぉぉぉぉぉ悪かったですお姉さまぁぁぁぁぁぁぁぁだから腕離してぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
恐るべき悪魔だこいつは! ようやく腕を解放してもらったが、まだ力が入らない。あとちょっとで折れていたと思う。
「五百歳って言ってもなぁ! 天界で、しかも天使の中じゃペーペーなんだぞっ! 自分で言うのもあれだけど!」
五百歳でペーペーって……じゃあ、あの『神』は、いったいいくつくらいなんだろう。何千歳、何万歳、とかそういうレベルなんだろうか。
「でも……なんで天使になったんだよ?」僕は目に涙を浮かべながら聞く。こいつに『天使とは、元・人間だ』と聞いた時から。こいつがなぜ天使になったのか、ずっと気になっていた。
「なんでって……暇だったから……かな?」
予想外の答えだった。こいつのことだから、『面白そうだったから!』とか『カッコよかったから!』とかそういう理由だと思っていた。
「暇だった?」
「私ってさ。ものごころが付いた頃には、天界にいた。もう死んでたんだよね。人間界で生きていたって記憶が、まったくないんだよ。最初っから天界で生まれたような感じ。もちろん人間界に人間として生まれて、そして死んだっていうのは確かなんだけどサ」
ものごころが付いた時には、もう死んでいた。人間だったころの記憶はない。それは、一体どれだけ寂しい事なのだろう。僕にはわからない。
「私みたいなのってのも結構天界にはいてさ。つまり、赤ちゃんのころに死んで天界に来た人。私は家族の顔も知らない。友達もいなかったし。たまたま近くに住んでた天使様に育ててもらったんだよ」
家族の顔も知らない。昨日僕が天使に『家族はどんな人だった?』と聞いた時、こいつは『覚えてない』と、寂しそうな顔で答えた。僕は一体なんて酷い質問をしてしまったのだろうか。
天使は続ける。
「天界にいる魂は、一定の期間を過ごしたら記憶を消されてまた人間界に転生する。そう教えられたけど、でも私は人間になんの思い入れもないし、どうせ転生したってまたすぐに殺されるかもしれない。何より、今回は運が良かったから意識体になって、天使に連れてこられて天界で生きることができたけど、次は違うかもしれない。死んだら意識体になりもせずに、その場で消滅してしまうかもしれない。地獄に堕とされるかもしれない。死ぬなら死ぬで別にいいけど、痛い思い、辛い思いをしたくはないし」
なんて寂しい事を言うのだろう、こいつは。
「天使になれば、少なくとも突発的な事故で死んだり、殺されなければ普通の魂より遥かに長く天界にいられる。もちろん天使にも寿命って言うか、期間があるけど。その分激務だしネ」
天使は笑いながら続ける。
「でもどうせ暇だったし。すごく長いんだよ、転生するまでって。だから、私は天使になった。忙しくても退屈はしないし。結構大変だったんだよ? 誰にでもなれるわけじゃないからね。国家資格だし。すっげぇ勉強したんだから! 受かったら受かったで、最初はデスクワークから。その後に新人研修やら実地訓練もあったし。こうやって単独で人間界に来られるようになるまで、何十年もかかった」
途方もない話だった。僕は天使に何も言えない。二人の間には、沈黙だけが流れていた。
「ねぇ? 私も質問していい?」不意に天使が、僕に聞いてくる。
「ああ、いいけど」僕に答えられることならば。
「何でお前は生きたいの? 人生楽しかったから? この世界は楽しい? 最高?」
天使は、『本当に理解できない』といったような顔で、僕を見ていた。
こいつは知らないのだ。人として生きるという事を。僕は、どう答えたらいいのだろう。僕はこの世界を、どう思っているのだろう。
「少なくとも最高ではないな。この世界が楽しいのかどうかっていうのも、断言はできない。人生を悩みもなく単純に楽しめてるような人間なんて、おそらくほんの一握り……いや、多分いないんじゃないか? 大抵の人間には、何かしら悩みがあるはずだ。それが『病気だ』とか、『金がない』とか、『夢があるのに叶わない』とか、『好きな人に振り向いてもらえない』とか、『髪の毛が薄い』とか、理由は人の数だけそれぞれなんだろうけどさ。世の中には金がなくて、生きていくのも困難で嘆いている人も、それこそ何億人っているのに、一方では『金があり過ぎて困る』なんて事を言ってる金持ちもいるらしいぜ? 笑っちゃうよな」
僕の人生は。
「僕だって悩みは腐るほどあるぞ? モテないし、そもそも男友達すらいない。勉強だって出来ないし、二年後には大学受験だ。無事受験が終わって大学へ進んでも、今度は就職活動。今は就職氷河期だしなぁ……。で、会社に入っても一生毎日朝から晩まで働いて終了。正直、今からうんざりするね」
それでも。
「じゃあ、何でお前はそんなに生き返りたいの?」
天使は、『本気で理解出来ない』という眼を僕に向けてくる。
でも。だからこそ。
「面白いこともあるから、かな。辛い事の方が多いかもしれないけど、それでも幸せな事だって、面白い事だってある。きっとあるはずだ。だから、生きていたい」
これは本心だ。僕の。辛い。つまらない。けど、それでも生きていたら良い事もある。それを僕は知っている。まだたった一六年しか生きていないけれど。
「ふ~ん……よくわかんないな」
天使は、最後のハンバーガーを口にしながら言う。
「あ、あと。僕は昔、約束をしたんだ。『絶対長生きする』ってね」
天使は噴き出した。
「ハハハッ、何それ! なんの約束だよ! 誰と?」
「死んだ父さんと。『死んじゃった父さんの分まで長生きしてくれ』って言われた」
昔の約束。白い夜。あの夜の事を、僕は今でも覚えている。
「……でも、お前が頑張ったって、寿命はどうにもならないじゃん。ある日いきなり事故に遭うかもしれない。若いうちに病気になるかもしれない」
「ある日、天使に間違って殺されるかもしれないな」
「うっ……」天使の顔が青ざめる。
「それは、さ。まぁ悪かったと……少しは……思っています。……ごめんな」
驚いた。まさか、こいつの口から、こんな言葉がでるなんて。いや、確かに今までも『許せ』だの『悪かったって!』だの言われてはいたけど。
それでも。この時初めて天使から、心のこもった、真の意味での謝罪を受けた気がした。
「『少し』は余計だろ」
「悪かったって!」天使は慌てながら言う。
「絶対に許さない。絶対にな」
「うっ! せっかくこっちが下手に出てやったってのに!」
天使はむっとした表情で、僕を睨んでくる。
「今は、な。さ、早いとこ例の人を見つけ出そうぜ! 僕の命がかかってる。……お前のクビもな。まだ天使でいたいんだろ?」
一瞬ポカーンとしていたが、天使は直ぐにまた、彼女本来の、太陽のような明るさを持った笑みを僕にぶつけてくる。
「そだねっ! じゃあ行こうぜ!」
天使は、勢い良くベンチから立ちあがった。
――僕のために。天使のために。残された時間は少ない。
十二時。僕たちは豊島区池袋へ来ていた。
「じゃあ水族館行こっか。ペンギン見たい」
「『水族館行こっか』じゃねぇよ! デートしてんじゃないんだぞ!?」
「はぁ!? 分かってるし! 山手線沿線ブラリ旅行だよネ?」
「ちげぇよ! んなもんは〇レ東でやってろ!」
「いや、むしろ〇レ東はもうアニメだけやってりゃいいんじゃね?」
「言い方が酷いな!」
どうやら完全に遊び感覚のようだ。もうちょっと緊張感を持ってほしい。
と、急に何かを見つけたように歩き出す天使。UFOキャッチャーだった。ガラスケースの中には、可愛らしい犬のぬいぐるみ。
「もしかしてと思うけども、お前これが欲しいのか?」
いや、まさかね。
「……ぉぅ……っ! ちょ……ちょっと欲しい」
……ヴァカな。この性格最悪スイーツ(失笑)ビッチ天使が、こんな少女趣味丸出しの可愛らしいぬいぐるみを欲しがっている……だと……?
「うお――――――――い!! お前、今絶対に失礼極まりないこと考えてるだろ!?」
「ははは、何をバカな。寝言は寝て言えよ、と思っただけサ」
「なぜ私がぬいぐるみを欲しがったらいけないの!?」
「いや、だってそんな、いかにも女性みたいな事、急に言われても……ねぇ……」
「私は女だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
そう言うと天使は、ポケットから財布を取り出した。どうやら本気でぬいぐるみをゲットするつもりらしい。
「見てろ! 絶対に殺ってやるっっ!」
「その『とる』は、意味が違うと思う!」
しかし天使様のガラスケース内のぬいぐるみを見つめる目には、確かに殺気が込められていた。
――UFOキャッチャーとは、貯金箱である。むかしむかしの、どこかの偉い人の金言だそうな。まあ、確かにその言葉は的を射ているだろう。なぜなら、今僕の目の前で繰り広げられている惨状は、まさにこの言葉を体現しているからだった。大人のように、財力を持っている者ほど趣味にハマると、どこまでも深みに嵌り大金を投資するようになる、とよく聞くけども。
僕の目の前で必死にアームを操作する、見た目は美少女、中身は悪魔、その名は天使様は、まあ先程からバンバンと財布の中から漱石さんを取り出しては、この大きすぎる貯金箱に投げ入れていた。もう数千円は使っただろう。天使さんの眼がどんどん血走ってきているのは、端から見ていても非常に怖かった。
「なあ……そろそろ諦めたらどうだ? もう、おもちゃ屋に行って同じようなぬいぐるみを買っちゃったほうが、安く済みそうなほど金使ってんじゃん」
まあ別に僕のお金ではないから、正直他人事と言ってしまえばそれまでなのだけれど、しかしさすがにそろそろセコンドが白いタオルを投げ入れてやるタイミングだろう。先程からアームを操作するスティックやボタンから、ミシミシととても嫌な音が聞こえ始めてるしネ。なんか、『おい、そろそろこの嬢ちゃんを止めてよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ! このままじゃ俺、壊されちゃううううううううう』と必死に助けを求められてる気がする。
「ここまで金を使って、引き下がれるか!」
ああ、もう駄目だな、こいつ。負けた分をさらにギャンブルで取り戻そうとしちゃうギャンブル依存症の人みたいな眼をしちゃってるよ……というか、UFOキャッチャーでここまで眼を血走らせてる人、初めて見たぞ。
「せめて、僕が操作できたらなぁ」
「……あん? お前なら取れるって言うの?」
すんごく不機嫌な顔と声だ。言いつつ、財布から新たな漱石さんを出そうとしている天使さん。もうやめとけって……。
「まあ、これでもゲーセンマスターと言われてるからな、僕は」
「脳内で?」
「バカにすんな! 家族からだ!」
「それも、寂しい事に変わりない気がするけど……」
切ない目で見てきやがる。何をバカな! 僕は、こういう景品系ゲームから格闘ゲーム、音楽ゲームまで、家の近所のゲーセンではすべてランキング最上位に名を刻みこんでいるんだ。
「いいから、僕が『止めろ!』っていったらそれに合わせてボタンを押せ。タイミングを教えてやるから」
天使は「むー」と唇を尖らせて何か言いたげだったが、おそらく本人としてもこのまま続けても取れる気がしなかったのだろう。
「……わかったよ。タイミングよろしく」
天使はそういうと新たなコインを筺体に入れた。
派手なBGMが鳴り響き、天使はゴクリとつばを飲み込んでボタンを押す。ゆっくりと横にアームが動く。
「今だ!」
僕が思いっきり叫ぶと、天使はボタンを押す!
「……おし、いいぞ! 今度は僕が奥を見ておくから、また合図と同時にボタンを押せ!」
「……うん。よろしく!」
天使は汗を拭って、アームを縦の動かすボタンを押す。僕は横からアームの動きを見つつ、絶妙なタイミングで再び叫ぶ。
「押せ!」
「おっしゃあああああああああああああああああああ」
ドゴンッ! ……すごく嫌な音がした。
「おい、僕はボタンを押せと言ったんだ。潰せとは言ってねーぞ」
「大丈夫、壊れてないヨ多分」
なんか明らかに筺体が凹んでんですけど……。しかし、そんな考えを断ち切るように、ガタンと音がする。天使はしゃがみ込むと、筺体の下に付いている出口から、ぬいぐるみを取りだした。さっきからずっと狙っていた、あの可愛い犬のぬいぐるみだった。
「おっしゃああああああああああああああああ殺ったどおおおおおおおおおおおおお」
「だから字が違う!」
「うわあぁ……エヘヘ、嬉しいなぁ!」
天使はぎゅっとぬいぐるみを抱きしめて、満面の笑みを見せる。
おいおい、お前そんなキャラじゃないだろ! 笑顔でぬいぐるみを抱きしめているその少女は、(見た目と言う意味での)年相応に見えて、またこの女、見た目だけはかなりハイスペックなものだから、ようするに、その仕草、光景は、つまり……ヤバい、正直可愛……
「あーこいつはストレス発散用サンドバックに使えるわー。なんか一目見たときから、殴りやすそうだと思ったんだよねー! おっしゃ、こいつの名前は横浜だ!」
「おいいいどういう意味だあああ!!」
「え、意味ってそのまんま、サンドバッ……」
「言わせねえよ!!」
なんて酷い事を言う奴だ! これ以上言わせたら横浜市民を敵に回すことになるぞ!
「ん、でもさ」
天使が、ふと真顔になる。
「あん、何だよ?」
「えーと。……その、さ。嬉しいよ。まあ一応少しは、お前のおかげかな。んー……つまりさ……あんがとってこと!」
ツンッっと顔をそっぽ向けながら投げやりに言う。
うっ……。ちょっと今の表情は可愛かったぞ……。不覚だ。ま、ちょっとだけ、だけどな。それにしてもこの女、これでも一応礼を言うことくらいはできるようだ。むしろそっちの方が驚きだな。
「おっしゃ、気分良いからお姉さんおごっちゃうぞー!」
「お姉さん……だと? お前いくつだ、年齢的にはもうババアとおりこしてええええええええええええええええええいたあああああああああああああああああいいいいい」
また関節技をかけてきやがった! 僕は本当のことを言っているだけだろうが!
「次言ったら、お前を壊れかけのマリオネットみたいに全身の関節をブランブランにしてやるからな」
「例えがハンパなく怖いんですけど!」
やっぱこいつは悪魔だな!
「人の好意は素直に受け取れよ、おごってやるって言ってんのに、悪口で返すな!」
……む。たしかに、今のは僕に非があったかもしれない。しかし、やはり僕は事実を述べたまでなので、悪口にはなっていないと思うのだが、しかしそれを今このタイミングで口にすると本当に全身の関節をブランブランにされそうなので、何も言わないことにする。
「おし、じゃあプリクラ撮ろうず!」
「おめーは九〇年代の女子高生か!?」
今日びプリクラって! しかもプリクラっておごるって言うのかよ?
「んだよ、プリクラいいじゃん! 記念になるよ」
天使は何を言ってんだかこのアホは、見たいな目で僕を一瞥する。
「何の記念だよ」
「横浜の獲得記念」
「本当にそのぬいぐるみの名前を横浜にするな!!」
しかしそんな事を聞きもせず、天使はふふふーんと呑気にも鼻歌を歌いながらプリクラの筺体へ走っていく。
「大体プリクラってさぁ……天使なのにそんなので遊ぶのかよ?」
天界とやらで、十年近くも遅いブームでも起きてんのか? 今時プリクラなんて、せいぜい初デート中のカップルくらいしか使う人はいないんじゃないのか?
「え? いつも一人で撮ってるけど」
「寂しすぎる!」
いきなり重い話にしやがった!
「じゃあ、そういうお前はプリクラを一緒に撮るような人はいるの?」
ふん、ナメるなよ! もちろんいるともさ!
「僕はよく妹とプリクラを撮るぞ! たまに母親も一緒にな!」
「うわぁ……家族としか撮ったことないって……ヒくわー……」
「いつも一人で撮ってる奴だけには言われたくねーよ!」
「あーもううるさいなぁ! いいからいいから、撮るぜっ!」
天使は強引に僕の腕を掴むと、ちなみに腕を掴んでる一方で手首の関節をきめてくるのはやめてほしいのだが、そのままプリクラの筺体の中に僕を無理やり連れ込む。
このババ……失敬、この少女、年齢こそ相当お年を召しているようだが、しかし趣味・趣向はせいぜい十代後半から二十代前半、精神年齢に関しては幼稚園児並のようだった。
「いえーい、撮るよー! はい、チーズ!」
――さて。今の僕は、天使いわく『意識体』とやらになっている、なってしまっているが、その意識体と言う存在は、残念ながら写真などには写らないようだ。一緒にプリクラを撮ったはいいが、さすがのプリクラの最新機種も、(認めたくはないが)半幽霊の姿を映し出すことは出来ないらしく、しかし天使様の御身は映し出せるようで、なんか友達がいない可哀そうな少女が一人でプリクラを撮ったみたいな、彼女が普段撮っているという痛々しい個人写真が今回も出来上がってしまった。
……その後はいつのまにか音ゲーやらコインゲームやら、意識体の僕とでもなんとか対戦できるゲーム探しに変わってしまっていた。遊んでいる時間なんかなかったはずなのに。
まあいいか。その……ほんの少しだけど……楽しかったしね。
十四時。台東区上野に来ていた。
「本当に山手線沿線ブラリ旅行になってるじゃねーか!」
「まあ落ちつけヨ! どうせ焦ったって事態は好転したりしないんだからサ」
「お前は落ちつきすぎだろ! 余裕綽々じゃねーか!」
自分のクビもかかっているというのに、なぜここまで落ちついていられるのだろう。
まあ僕みたいに、命そのものが危ないわけじゃないからか。それでも、もっと本気になってほしいのだけれど。
「それにしても! 最近来てなかったなぁ! 上野は!」天使の顔がにぱーっと明るくなる。
「へぇ、上野には、頻繁に来たりするのか?」
渋谷だの上野だの。繁華街が好きな奴である。
「いや、毎年春になると上野で花見してっから。うちの『清浄課』は」
「随分と日本の庶民みたいな娯楽をやってるんですね、天界の人達も」
「で、毎年呼びもしないのに、神様が来るしね」
「来てほしくないの!?」
「え~……神様来るとさぁ、みんなテンション下がるんだよねぇ……」
「あの人、そんなに嫌われてるんだ……」
「だってさー、酔った勢いで裸踊りとかするし~、酒呑むのを強要するし~、『俺が若かった頃はなぁ!』とか昔語り始めるし~」
「それは確かに、ウザい上司の典型だな」
さすがにそれは天使に同情する。それにしても、神様のくせにどこまで部下から支持されていないオッサンなんだよあの人は。
「それで? 気配は?」
こいつはすぐに本題を忘れる。本当に旅行気分なのかもしれない。
「気配は……しないねぇ、残念ながら。まぁ仕方ないから動物園行こう動物園」
天使は僕の手を掴んで走り出す。
「ちょっと待てや! だから何故そうなる!」
「だってさっき池袋では水族館に行かなかった! ペンギン見たい!」
「知らねぇよ! また今度来ればいいだろ!」
「今行きたい」
「この追い込まれている時に何故!?」
「もしかしたら、探している奴だって動物園でペンギン見てるかもしれないじゃん!」
「前科持ちで悪魔になりそうなくらい心が穢れてるってのに、動物園でペンギン見てんのかよ!? どれだけ心清らかな人!?」
「あ、そうだ。知ってる? ペンギンの子どもって、お父さんの股間の下で育てられるらしいよ? 動物って不思議だよねぇ……」
「何故このタイミングで、そんなトリビアを披露してきたのかが不思議だけどね!?」
「あれ? もしかして、お前も――」
「言わせねーぞおい!!」
「動物園、楽しみだネ!」
「いや、僕はめっちゃ気が萎えたけどね!?」
「い~い~か~ら~! 行~こ~う~よ~!」
ついにはおもちゃ売り場から離れたがらないお子ちゃまみたく、駄駄をこね始めちゃったよ。しかも、見た目はお子ちゃまなどでは当然なく、十代後半の少女。完全にアウトな絵柄だった。僕達の姿が、普通の人間には見えなくて助かった。こんな光景が往来のど真ん中で繰り広げられてるのを目撃したら、僕なら黙って来た道をUターンして戻るね。
「なんで、そんなに動物園に行きたいんだよ?」
「へ? だって、醜くも人類に媚び売って餌を恵んで貰って生きつないでる、誇りも捨てて家畜と化した卑しい畜生共を見下したいじゃん?」
「理由が最悪すぎる!」
そんなこと言われて、動物を見たくなる奴なんかいないだろ!
しかし天使は嫌がる僕を強引に引っ張って、無理矢理動物園の中に連れ込んだ。
――結局僕らが動物園を出たのは、入園してから二時間後の一六時前だった。
一六時。僕らは今、丸の内のオフィス街にいる。九月なのでこの時間でも日はまだ高いが、それでも街頭時計はすでに夕方である事を示していた。日曜日だというのに、路上にはおそらく会社帰りであろうスーツ姿の人達が多い。三連休真ん中だというのに、御苦労な事です。
いや。というかそんなことより。
「どーすんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ! もうマジで時間ないんじゃないのぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」
昨日の天使の話によると、意識体として人間界に留まっていられる時間には制限があると言う。どんなに長くても、四八時間。『どんなに長くても』だから、僕の場合はもっと短い可能性の方が高い。今日の日中くらいは持つのではないか、と言うのが天使の見立てだった。それなのに、時刻は既に一六時。もう涙目である。僕の余命(?)はいかほどのものなのか。
「まぁあと一時間は持つんじゃね?」
一時間!? しれっと言いやがったよコイツ!
「一時間しかないの!?」
「うん。だってさっきからどんどん存在感が薄くなってきてるもん、お前。ヤバいかもネ!」
「『ヤバいかもね!』じゃねーよ! もっと早く言えよ!」
「実を言うと、動物園でペンギン見てる時から消えかかってるよ、お前」
「二時間以上前じゃねーか! もっと早く言ってよ!」
「え~! だってお前、めっちゃ楽しそうだったじゃん! 水を差すのも悪いと思ったし」
「僕が楽しんでた!? そんな事! ……なかったんじゃないかな……?」
「はぁ? 『動物園なんて、幼稚園の時ぶりだよ~HAHAHA』とか言ってたのどこのどいつだよ!」
そんな事言った気がしないでもないでもないヨ。
「うるせぇ! そんな事より、まだ気配はしねーのか? 早いとこ標的を見つけ出さないと!」
もう四の五の言ってられない。早いとこ任務を果たして神に報告し、生き返らせてもらわなければ僕は消えてしまう。
「いや~、しないねぇ」「ホントかよこのヘッポコ!」「ああん!? こっちだって遊びつつちゃんと気配察知もしてたっての!」「遊んだって言うな!」「お前だって楽しんでたじゃん!」「お前は勤務中だろが! もっとまじめにやれや!」「ああ!? お前こそ命かかってんだぞ?」
……こんなやり取り自体が時間の無駄だと分かってはいるが、それでも僕らはお互いに責任を押し付け合って口論してしまう。これはおそらく僕らの仲が最悪だからだろう。
「ああもううっさい! どこにいるか分かんないんだからしょーがねーじゃん! お前も命かかってるだろうけど、私だってクビかかってんだよ! これで失敗したらニートに逆戻りだよチクショウ! 数百年ニート生活味わってみろってんだよっ!」
天使は思いっきり僕を突き飛ばした。こいつ、身体はこんな細いくせして人間より遥かに力が強いから、天使が勢いよく押したせいで僕は吹っ飛ばされて信号待ちをしている人ごみのなかに突っ込んでしまう。
「押すなって!」
涙目で僕は天使に抗議する。正直かなり痛かった。
と、そこで。
「おいッ! 邪魔だボケがッ!」
このオフィス街に果てしなく似合わない、えらく顔が怖いスキンヘッドの男にガンを付けられてしまった。情けない話だが、正直僕は今かなりビビっている。僕は不良とかそういった人種と全く縁無く育ってきたので、こういう状況に凄く弱い。
「あっ! す、すいませんでした!」思いっきり頭を下げて、許してもらう事にする。
「チッ! 気をつけろクソガキ! ブッ殺すぞッ!」
男は信号が青に変わって、男は僕を一瞥した後舌打ちを残して去って行った。正直助かった。チビっちゃうかと思ったヨ。それを見ていた天使は、
「ハッ! 情けないねぇお前! 男だったら、こう、ガツンとさぁ!」
と拳で人を殴る真似をしながら、僕を馬鹿にした。
「今はどう考えても僕が悪かったし……ていうかお前が突き飛ばしたからだ!」
「ハンマーで頭殴るくらいのことをしろよ!」
「普通の男だったら、人の頭をハンマーで殴ったりしないよ!?」
相変わらず、とんでもない思考の持ち主だなコイツ!
うん。
…………。
………………?
……………………あれ?
何か……何かがおかしい。何かがおかしい気がする。
「おい天使。何かがおかしい」
「おかしいねぇ。違和感、感じたねぇ」
「……僕、今会話したよな……?」
「してたねぇ。普通に会話してたねぇ」
「お前とじゃなく」
「普通の人間と」
「僕のこと、見えてたよな?」
「思いっきりお前の顔を見てキレてたねぇ、あのハゲ……」
「聞いたい事があるんだけど。悪魔に成りかけてる人間ってさぁ」
「限りなく私たちに近付いてるから、天使や意識体を見る事が出来る事もあるんだよ」
「……。」
「……。」
一瞬の沈黙。
「「あいつかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」」
僕たちは、男が去って行った横断歩道を走って渡る。信号はすでに赤に変わっていて、車がバンバン僕の右から左へと、また左から右へと通り過ぎていくが、それらが僕の身体に接触することはない。この意識体になって、またひとつ得することができた。
「おい天使っ! 気配はどうだ!?」
走って男を追いかける。僕は興奮しながら、天使に確認を求めた。
「近づいたら分かったっ! 穢れてるっ! すっごい穢れてる! もう肥溜めみたいにっ!」
それはどれだけ汚いんだよ……。
「じゃあ、あいつで間違いないんだな!?」
「間違いないッ! どんどん気配を強く感じる! 天使の私に接近したからかな、穢れの進行度が、さらに加速していってるみたい!」
見つけた! ついに僕らは見つけた! ……一日遊んでいるだけだったけど。追いつくと、ハゲは広い通りをフラフラと歩きながら、すれ違う人達全員に因縁を付けていた。 その様子はまるで麻薬中毒者のようだ、とでも言うべきだろうか。あの男の周りだけ、人混みがポッカリと開けているのが分かった。
「すげぇ! 本当に見つけちまったな!」
「ヘッヘ、だから言ったじゃん?」天使はない胸を張って勝ち誇る。
「天使に不可能はないんだよ!」
「……本音は?」
「……かなーりホッとしてますわ、ええ」
正直なヤツだった。
でも、ようやく見つけたんだ! 僕と天使の、標的を。あいつを『浄化』すれば、任務達成で僕は生き返る事ができる。天使は、処分を免れることが出来る! お互いにとって救世主のようなハゲに、ようやく巡り会えたのである!
「「やったやったやった!」」
僕と天使は、手と手を取り合って跳ねて喜ぶ。
「さて! あとは、あいつを『浄化』して終わりか!」
僕は興奮しながら、天使にこれからの行動を確認する。
「そうそう! あいつをぶっ殺して終わり!」
「せっかく人が『殺す』ってワードをオブラートに包んで言ってるってのに、わざわざ怖い表現で言い返すな!」
天使は、満面の笑みで、もう僕の話なんて聞いてない。
「ねぇねぇ! どうやって殺す?」
「怖えーよ! ウキウキしながら殺し方考えてんじゃねぇ! どこの殺人鬼だお前は!」
「燃やす? 吊るす? 刎ねる?」
「だから怖えーってんだよ! もっと普通の殺し方してあげて!」
僕の発言もどうかと思う。
「ちぇっ、仕方ネーナ……」
「何で残念そうなのお前!?」
「いろいろ考えるのが面白いのに……」
「お前まさか、僕の時もそんな恐ろしいこと考えてたのか!?」
「お前? お前の時は……確か……燃やすか……裂くかだったと思う」
「裂く!? 裂くってなんだよっ!?」
「え? だからサ、こう左右にパカッ☆っと……」
「銃殺にしてくれてありがとう! って言いたくもないのに礼を言いたい気分になった!」
こいつはマジで天使というより死神とか、それこそ悪魔の方が似合う気がするんだが。
「いや、今はそんな事はいい! 早いとこ、あいつを『浄化』してくれ!」
「おっし分かった! ちょっちそこのスタンドでガソリン買ってくる!」
「焼死はやめたげて!?」
チッっと、天使は唇を尖らせて僕を睨んでくる。
「ったく! お前は本当に文句が多いなぁ! じゃあこれだ!」
そう言うと天使は、ポケットの中から何かを取りだす。僕も見たことがあるものだった。思い出したくもないものだった。それは、初めて僕とこいつが逢った時、僕を撃ち殺した銃だった。
「これは……ええと……天使銃!」
「明らかに今名前考えましたよね?」
「うるさい! 名前をド忘れしただけだっての!」
「お前、自分の武器なのに何一つ名前覚えてねーじゃん!」
「うるさいうるさい! とにかく、こいつなら苦しまずに一撃で浄化してあげられる。天界謹製・一撃必殺の銃弾! 『天界への呼び鈴』! これでお前も文句ないだろ!?」
「最初からそれでいいじゃねーか!」
フンッ! と僕を睨みつけると、天使はズンズンと不貞腐れながら、例のハゲに近付いて行く。
「ねぇねぇ! ちょっとそこのお前!」天使がハゲに話しかける。
「ああッ!? なんだクソガキ!」
相変わらずおっかない。僕に向かってではないとはいえ、こうやって遠目から見てても怖かった。しかし天使は全く怯んでいない。むしろ面倒くさそうな目で、ハゲを睨みかえしている。
「メンドクサイけど、これも一応やっとかなきゃいけないからね。ゴホンッ」
天使はそう言って咳払いをすると。
「えー、こちら『天使省、人類管轄局』です。お前はこれから数時間ののちに『悪魔化』します。よって神の名のもとに、お前を『浄化』します。あっ、これが執行令状ね」
天使はなにやら一枚のプリントをポケットから出して見せつけた。くっしゃくしゃになってるぞ、おい。執行令状って公的な、重要書類なんじゃねーのかよ。
「恨むなら、心が穢れるような人生送ってきた今までのお前自身を恨むんだね! さてと、それじゃあ『神に祈る三秒』をあげ――」
「アあン!? さっきから何言ってんだてめぇ! 頭狂ってんのかこの糞アマ! ぶっ殺すぞこの貧にゅ――」
ズドンッ!
天使の構えていた銃から、硝煙が立ち込めている。ハゲは仰向けに倒れた。おそらく昨日の朝、こいつに撃たれた時は僕もこんな感じだったのだろう。
「おい、三秒はどうなった?」
「このハゲには三秒くれてやるのももったいないッ!」
歳はともかく、こいつを胸の事でからかうのはもうよそう。僕はそう決意した。
たった今。腕の関節をキめられるどころじゃ済まなそうだ。言葉通りの意味で殺されそう。
「でも……これで終わったんだよな……?」
「うん! これで任務完了! おつかれ~」
僕と天使は、お互い安堵の笑みを浮かべながら近づいて、握手をしようとした。これですべてが終わったのである。僕は神に生き返らせてもらえるし、天使は天界に帰っても、まだ『天使』で在り続けることができる。全てが上手くいった。
そう思った。
その時。
最初に、鳥肌がたった。次に戦慄。そして恐怖。そして――咆哮。
ここが日本国の世界に誇る大都市・東京であることを忘れてしまうような。
まるで、ここがどこか北欧の夜の森で、野生の狼の群れが一斉に吠えているかのような。
まるで、一瞬ここがどこか砲弾飛び交う戦場の最前線であると錯覚させられるような。
咆哮。
何か恐ろしい。とてつもなく恐ろしいものが、僕の後ろに在る。という確信。
僕はゆっくり振り向く。首の方向を変えている途中。隣に天使の顔が見える。
天使はすでにその方向を向いている、という事が分かった。
振り返る。そこにいたのは――
青い体毛を靡かせる、おそらく三メートルはあるであろう巨躯。
全身をまるで鎧であるかのように覆う筋肉。
そして、怖ろしい、なんてチープな言葉で片付ける事が出来ない、その貌。
その様は、まるで――。
「オオカミ人間?」
「お前ホント緊張感ねーな!」
いや、そうなんだけどさ! 簡単にこいつを説明するなら、青いオオカミ人間って説明するのが一番だろうけどさ! それにしたってこの女、まったく恐れていないようである。
「おい! こいつ何なんだよ!?」
あまりにも天使が『あ~あ、うぜぇだりぃめんどくせぇ』程度にしか思っていなさそうな表情をしているので、僕はつい素に戻ってしまった。それでもこの目の前にいるバケモノが、相当に恐ろしいという事は変わらない。
「こいつ、もしかしてさっきのハゲか!?」
「もしかしなくても、さっきのハゲだねぇ。ハゲだったから、毛に憧れてたのかもね。それで全身フッサフサのオオカミ人間になったのかな?」
死んだ(?)人間にまで酷い事を言う奴である。
「あ~あ、やっちまったなぁ……」
天使は、もうどうにでもなれ、見たいな顔でぼーっとこのオオカミ人間(仮)を見つめながら呟いた。
「やっちまったって? どういうことだよ!?」
天使は僕の方を見て、説明するのも面倒くさそうに、頭を掻きながら話す。
「間に合わなかったのか何なのか知らないけど、でもこいつ悪魔になっちゃった。一歩遅かったのかなぁ……」
「悪魔になると?」
「私の仕事はこれでお終い、かな。こっから先は、対悪魔が専門の部署の管轄になるし。私の、『清浄課』の出番は終了。あとはこいつが一般人に手を出さないように見張りつつ、担当者がきたら代わってもらう。って感じかな」
「でも! それじゃあ、神との条件、僕とお前で、お前の本来の任務を完遂するってのは、失敗した事になるんじゃないか!?」
「まぁそうだろうね。私達『清浄課』にとっての最大のミスは、担当の人間を悪魔にすることだから」
そんな平然と言われても! 天使は全く焦っていない。
「どうすんだよ! それじゃあ僕たちは」
「もうこうなったら仕方ないね。まあ少なくともお前については、神様にもう一度お願いしてみるよ。私はもうこれで免職は免れないだろうから、失うものはないし」
笑顔で言った。こいつ、笑顔で言いやがった。
僕は、自分の命だけが惜しくて言ってるんじゃない! お前の事だってあるじゃないか!
お前は天使でありたいんじゃないのか!?
「それで良いのかよ! 頑張って天使になれたんだろ!? 諦めちまっていいのかよ!」
「ちょ……お前、何いきなり熱くなってんのヨ? ダイジョブだって! 天使に不可能は――」
天使がそこまで言った時。
天使は僕を、思いっきり横に突き飛ばした。それこそ力の加減もせずに。
僕の身体は、歩道から遥か遠くの路上まで吹き飛ぶ。一体何をされたのか分からなかった。
身体は激しく地面に打ち付けられた。肉体はないはずなのに。でも考えてみれば、僕は肉体がないのに今まで地面に立っていられた。と言う事は、地面は例外で、触れれば相応のダメージを負うのかもしれない。
それでも、僕は直ぐ立ちあがることが出来た。多少は肉体がない事によって軽減されているのか。もし今の勢いで肉体がある時に吹き飛ばされていたら、おそらく頭を強く打ち付けたりして死んでいたのではないだろうか。
「……ッ! おい! いきなり――」
何するんだ。そう怒鳴ろうと思った。
が、怒鳴る相手がいなかった。怒鳴ろうと思った相手は、道の上で倒れていた。
僕が知っているそいつは、服装は真っ白のへそ出しTシャツ。
下はこれまた真っ白のショートパンツ。
足にはまたまた真っ白のブーツ。
金髪と碧眼が非常に似合う、肌まで純白なはずの少女。
その少女は今、赤く染まっている。
彼女の身体は、おそらく彼女の中で循環していたのであろう深紅の液体で彩られていた。
「おいっ! 天使!」
僕は天使に駆け寄る。オオカミ男は、さっきまで僕がいたところに立っていた。
僕のためか。僕を庇うために、天使はおそらく一人でならよけられたのであろう――なぜなら、天使はこのデカブツの動きを察知できていたのだから――攻撃を、あえて食らいつつ僕を遠くへ突き飛ばしてくれたのか。
「おい天使! 天使聞こえるか! 意識あんのか! しっかりしろ馬鹿!」
僕は倒れている天使の頭を抱えて、抱き起す。天使は腹の左半分が抉りとられていた。人間なら即死レベルじゃないだろうか。
「な……にやってん……の……ッ! ほら、うしろにオオカミ男が……いるッ! 私はダイジョブだから、お前は……逃げ……ろッ! 意識体は……天使や悪魔に攻撃されれば……消滅しちゃう……からっ!」
天使は苦痛に顔を歪め、口から血を吐きながら、それでも僕に逃げろと言う。振り向くと、悪魔は僕を睨んでいた。眼光で殺されてしまう気がする。
悪魔は僕から、倒れている天使に視線を移した。
どちらの方が、強いのか。
どちらの方が、脅威なのか。
どちらの方が、今、容易に殺せるのか。
そんな事を考えているのだろうか。悪魔は、倒れている少女に向かって動き出す。
まずい。天使という存在の身体がどれだけ丈夫なのかは知らないが、少なくとも今僕の腕の中で苦しんでいるこの少女は、今にも意識を失いそうな弱弱しい息をしている。
僕が守らなければならない。
この少女を。
なぜならこいつは。
僕の敵であり。
たった今、僕の恩人にもなり。
そして、僕の友人でもあるからだ。
いや、こいつが僕の事をどう思っているかなんて知らないけど、少なくとも渋谷で服を買ったり。池袋でゲーセンに行ったり。上野で動物園に行ったり。公園のベンチで並んでご飯を食べたり。シーソーをやったり。自分の部屋に呼んだり。そういう事を一緒にする奴の事を、人間界では『友達』と言うんだぜ? 僕には友達がいないけど、漫画やアニメでそう言っていた。
そして友達は絶対に守らなければならないらしいんだ。知ってたか、天使?
ああ、悔しいけど、なんだかんだ言って昨日今日と、まあほんのちょっぴりだけど、一マイクロくらいだけど、楽しかったと言ってもいい! ほんのちょっぴり、だけどな!
僕はな、あんなふうにどこか知らない街に、誰かと二人で出掛ける、なんて事、これまでしたことないんだよ! いっしょに服買いにいく仲のやつなんざいねーんだよ!
お前は僕の事を、まあそこら辺を歩いている人間と一緒……いや、もうゴミみたいに見えているようだけど、それはそれで本気でブン殴りたくなるくらいムカツク事だけど、それでも僕は、お前に対し、一種の友情と言ってもいい……かもしれないくらいの気持ちは抱いてるんだ!
口は最悪だし暴力的だし汚ねぇことばっかしてる最悪のスイーツ(笑)だと思っているけど、それでもお前といっしょの東京めぐりの旅を、なんだかんだで楽しんでいる僕も、同時に存在したんだ。
お前の事なんか、大っきらいだ。
でも、お前のことを、良い奴だとも思っている。
僕はやるぞ。お前を守る。たった今お前が、僕を守ってくれたみたいに。
女に命を張ってまで助けてもらったんだ。
命を張って守らないと、嘘だろ?
もちろん、僕も死ぬ……殺されるつもりなど、毛頭ない。
一緒に帰るんだろ? 天使。
僕の目の前には、先程まで天使が握っていた、あの黒い武器が。拳銃が落ちていた。
「おい天使! これ、僕にも使えるのか!?」
僕がまともにケンカしたところで、人間の、学校の同級生にすら勝てないだろう。それならせめてこの銃さえ使えれば。天使を担いで逃げる隙を作る事くらいは出来るかもしれないと考えた。僕は天使に聞く。が、天使は答える気力もないようで、
「……んあ?」
……寝てた。こいつ、今絶対に寝てた。間違いない。だって鼻に提灯つけてたもん。
「お前どこまで緊張感ないの!? この状況で寝ようとしてたでしょ今!」
「いや、してないっすよ……? 全然してないっすよ」
「嘘つけよ!」
「嘘じゃないって。だってお前が『知ってたか? 天使』ってしたり顔で言ってるところまで、ちゃんと聞いてたもん」
「僕、さっきのセリフ口に出してた!?」
「出してたよ。超出してた。おかげでうるさくて寝れなかった」
「超恥ずかしい! つか寝ようとしてたんじゃねぇか!」
「良いじゃん寝かしてくれたって。疲れてんだよ。てか死にそうなんだよ」
「寝てる間にあんたトドメ刺されそうなんですけど!? 永遠の眠りを提供されそうなんですけどぉぉぉぉぉ」
「なにぃ! それはマズイ! 実にマズイ!」
「だから言ってんだろうが!」
「追っ払って! 早くぅぅぅぅぅぅ」
僕の腕の中で、じたばたと暴れだす。急に騒がしくなりやがった。こんなことなら寝ててくれた方がマシだったかもしれない。
「ええいままよ!」
悪魔はまるで日本刀のように鋭利な爪が生えた腕を、槍みたいに構えている。おそらく僕ごと抱き抱えている天使を貫くつもりだ。考えている暇はなかった。
僕にも銃が使えるか否かなんて。
撃ってみれば分かることだ。
僕は引き金を引く。
銃声。
僕の肩が悲鳴を上げる。悪魔もまた、悲鳴を上げた。
かっ……肩がっ! 肩が外れそうだ……っ! 天使の奴、こんなもん片手で撃ってやがったのか! 一発撃っただけで肩が外れそうなほど痛い。もう一発撃ったら脱臼してしまうかもしれない。悪魔はどうやら頭に銃弾が命中したようで、死……んでなかった。痛そうに獣の頭を抱えていたが、死んではいない。いや、むしろ――。
「おい。こいつ怒ってるみたいなんだけど……?」
僕は恐る恐る天使に話しかける
「おう。めっちゃ怒ってそうだネ」
「一撃必殺じゃなかったっけ、これ? 知ってるか? 一撃で必ず殺すことを、『一撃必殺』って言うんだぜ?」
「知ってるよそれは。でもお生憎様。残念ながら、これの謳う『一撃必殺』って、人間に対してだけなんだよねー」
「つまり? この状況は?」
「余計怒らせちゃった……みたいな?」
明らかに僕らに向けられているものだろう、雄叫び。咆哮。
その音量に、近くの建物のガラスが一気に砕け散る。ワンテンポ遅れて、道を歩いている人達の悲鳴が上がる。
「どーすんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
もう涙目である。正直こんな映画の中でしか見ないような化け物に勝てるわけがない!
僕は天使を両腕で抱きかかえた。お姫様だっこだとかそんなことを言っている余裕は今はない。天使はまるで羽のように、体重を一切感じないほど軽かった。
「お前軽いな!」
「天使は人間界では体重……つか質量なんてあってないようなもんなのッ! 自由調節可! その代わり天界では本来の重さに戻るから泣きたくなる!!」
「それは女には辛いかも知れないけど、この状況じゃ好都合だな!」
僕は傷ついた天使を抱きかかえると立ちあがり、一気に悪魔から逃げようと駆けだす。
しかし。背後から三度目の咆哮。そのまま、何か強大なモノが超スピードで後ろに迫ってきているのを感じる。
「来てる来てる!」僕に抱きかかえられながら、後ろを見ている天使が騒ぐ。
「ヤバい来る! 伏せろ!」
喚く天使。
「伏せればいいのか!?」
「そう……だっつのッ!」
そう言うと天使は、僕の首元を掴んで強引に下に引き、僕を前のめりに倒しこんだ。直後、僕の頭上を何かが通り過ぎた気配がする。次いで鈍い金属音。天使を抱えたまま前に倒れた僕は、すぐに起き上がって背後を確認した。
側に立てられていた電信柱が根元からスパッと切られ、大きな音を立てて倒れているところだった。周りを歩いている普通の人達からすれば、いきなり電柱が倒れたかのように見えただろう。周囲は悲鳴に怒号、逃げまどう人々で大混乱になっていた。
「これ……こいつがやったの?」
「今こいつがやった。こいつの腕と爪でね」天使は冷静に状況を説明してくれる。電柱を紙切れのようにスパッと切りやがった……! しかも、これがただのチョップだというのがまた恐ろしい。
「あれ……? でもちょっと待てよ。こいつ悪魔だろ? 僕達と同じ、普通の人間には見えない、触れない存在。なのに電柱を切ったのか?」
「天使だって、人間界のものに触れるっしょ? 同じようにこいつら悪魔も触れる。しかも当然悪魔も意識体にも触れるから、お前があいつの攻撃を一撃でも食らったら死ぬと思って」
なんて無理ゲーなんだよそれは! 僕には残機なんて一切ないし、リセットボタンだってない。セーブだって出来ないんだそ? と、そこで嫌な予感。というよりすでに確信に近い。が、あえて天使に質問する。
「じゃあ、こいつ人間にも……!」
「触れる。まあこいつのレベルなら、触るイコールそのまま殺す、になりそうだけど」
とんでもないことだ。こんな化け物が、現に今東京のド真ん中で暴れている。
「こいつ『劣等種』だから言葉なんて通じないし、なによりまだ悪魔に成りたてだから暴走してる。このままほっとけば、何をしでかすかも分からな――!」
天使が説明を言いきる前に、僕は再び天使をお姫様だっこで抱きかかえて走り出す。悪魔は、今ちょうど僕達がいたところに右腕で一撃を穿っていた。まるで掘削用のドリルのようだ。アスファルトの地面に、腕が肩まで埋まっている。あんな攻撃食らったら、 問答無用で一撃で死んでしまいそうな気がする。
悪魔は更なる咆哮を上げる。それは凄まじい音量で、空気の振動だけで周辺の窓ガラスが吹き飛ぶ。
「あれ……?」
しかし今度の咆哮で、僕は恐怖とは別の感覚を覚える。
「お前……苦しいのか?」
なぜか、その声は。一見、獣のものにしか聞こえない、その咆哮は。
僕には、この男が苦しんでいる、叫び声のように。
――泣き声のように。
そう聞えた。
その瞬間。
「おいっ! ぼうっとしてんじゃないよっ!」
いきなり天使が僕の身体を後方に強引に引っ張った……その直後、僕が立っていた場所を、青い閃光が走る。
「っっっっ!! うおおおおおおおおおおおおおお、あっぶねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
悪魔の腕が一閃、僕を上半身と下半身にブッツリと分けるべく、横に薙ぎ払われていた。
「天使いいいいいいいいいいいいい、、ありがとおおおおおおおおおお」
天使が僕の身体を引っ張ってくれてなければ、今頃僕の身体……いや、魂か? まあとにかく、僕は真っ二つになっていただろう。
悪魔はというと、ますます暴走しているようで、もはや手当たり次第に周囲の物を壊そうとしている。
「どうすればいいんだ! 逃げたら逃げたであいつ、そこら辺の人間を襲うかもしれない!」
それが一番避けたい事だった。関係ない一般人まで巻き込みたくない。でも、僕も死にたくない。逃げたい。一体どうすればいいのか――!
「私が戦う」
天使はそう言い切った。彼女の碧い双眸の奥に、炎が宿っているのが見えた気がする。
「ぜッッッッッッッッッッッッたい! ブッッッッッッ殺してやんよ犬っころがァァァァァァァァァァァァァ!」
天使様は、めちゃくちゃキレていらっしゃった。
「でもお前、怪我が!」
「よく見ろっつの! もう塞がりかけてんでしょ? かなり『力』は消費しちゃったけど治した! これでまだ戦える! 降ろしてっ!」
そう言うと天使は、自分の身体を抱きかかえていた僕の腕から降りる。
「ん~。まだコンディションはマックスには程遠いけど! お前みたいな犬っころ、この天使様には楽勝だっつの! お気にのシャツを汚してくれやがって! ブッ殺してやる! かかって来いや!」
もうどちらが悪魔なのか分からなかった。
しかし挑発のせいだろうか、悪魔の眼は先程からずっと、天使を射抜いていた。悪魔はジリジリと天使との距離を詰めてくる。
瞬間。悪魔が消えた。いや、正確には天使に向かって駆け出したのだろう。僕の眼にはその速さはとてもじゃないが追い切れず、消えたように見えた。先程までは全然本気を出していなかったのだろう。本気を出した悪魔のスピードでは、きっと僕では動き出す間もなく殺されていたはずだ。
――しかし。
それ以上に。金髪の少女は速かった。
天使が先程まで立っていた場所に、今は悪魔が立っている。悪魔の右腕から繰り出された鋭い一撃は、しかし空を切っていた。そこにいるはずの少女が。この悪魔の考えでは、今頃上半身と下半身に真っ二つにされていただろう少女がいない。
悪魔は即座に周囲を警戒して、消えた敵を――。
その背後からの、強烈な一撃。
まるで高速で走るダンプカーが建物に衝突したかのような、そんな衝撃、そして轟音。それを、少女の拳を受けた悪魔の巨躯から聞くことが出来た。悪魔は僕らの正面に建つビルの中へと吹き飛ばされていった。今の衝撃でビルの一階部分、エントランスがめちゃくちゃに崩壊しているのが音で分かる。すぐにエントランスからスーツ姿の男女が何十人と、一斉に外へ飛び出してきた。彼らには先程の衝撃と轟音、エントランスの崩壊は、ガス爆発でも起きたのでは、というふうに思えたのだろう。みな必死の形相だった。
「とんでもない騒ぎになっちまったな……ていうか天使、お前もしかしてめっちゃ強いのか!?」
「私は、もしかしなくてもめっちゃ強いヨ!」天使はない胸を張ってエッヘンと威張る。
しかし。その瞬間。入口が崩壊したビルの中から、先程吹き飛ばされていったはずの青い影が飛び出してくる。
その影は、一直線に僕に向かって――。
しかし青い影は、僕に到達する前に、横からすっ飛んで来た白い光に再び吹き飛ばされる。
白い光、つまり天使は右脚を振り上げたまま、左脚一本で音も立てずに着地する。
「ぬぅ……頭を砕いたかと思ったケド、肩に当たったか……」
「すげぇぞ天使! 今のお前は、まるでカンフーの達人みたいだ!」
「ぬ!? カンフーの達人……だと…!?」
この馬鹿、『カンフーの達人』というワードが存外気に入ったらしく、「ふわちゃぁ~!!」などと、まあおそらく映画とかに出てくるカンフーの達人ってやつを、記憶を頼りに見よう見まねでだろう、演じ始めた。
しかし天使が遊んでいる背後から、がれきの崩れる音。青い巨躯が、再び僕らの視界に入る。この悪魔、かなり頑丈なようである。まだ戦うつもりらしい。悪魔はよろめきながら立ちあがると……跳躍。そのまま先程のビルの窓ガラスを伝い、屋上へと昇っていく。悪魔が通った窓ガラスは割れ、破片が地面に降り注ぐ。僕達のいるビルの真下の通りは阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わっていた。ビルはおそらく一〇〇メートルはありそうな高さだったが、一瞬のうちに悪魔の姿は天辺へと消えていった。
「おい天使! あいつ屋上に逃げたぞ!」
そう言って天使の方に振り向くと。
天使は片膝を地面について、息を荒げていた。
「どうした? 苦しいのか!?」
僕は慌てて天使に駆け寄る。天使の額は汗でびっしょりと濡れていた。呼吸が乱れている。正直かなり苦しそうだ。
「おい天使!」
「ぬぅぅぅ、“力”が足りない……急に疲れがきちったよ……」
「無意味にはしゃいで、遊んでたからじゃね!?」
「かもしれぬ……」
「お前やっぱ馬鹿だろ!?」
いらん事して、大事なチカラとやらを消費してんじゃねーよ!
「私は……まあまだまだダイジョブだから……早いトコあいつを追わないと……」
しかし天使は、よろめきながらも立ちあがろうとする。
「お前! もう息も絶え絶えって感じじゃないか!」
「違う! ……そうじゃない……回復が間に合ってないだけ……完治してないのに、ちょっち本気出し過ぎたかな……もうちょっと休めば回復するから……ダイジョブ!」
天使はエヘヘ、と笑っている。
こいつは辛い時でも。苦しい時でも笑うのか。
「でもあいつ、ビルの中に入っちまった! ビルの中には、一般人が大勢いるぞ?」
今頃は、ビルの中にいる一般人を襲っているかもしれない。そうでなくとも、これからビルの中は僕達とあいつとの戦いで、さらに激しい戦場になるだろう。一般人がすぐそばにいる場所で、先程のような戦いを繰り広げるわけにはいかない。
ビル下層の方では既に騒ぎが起きているようで、このビルで働いていたのであろう人々が次から次へと飛び出してくる。しかし、もしかしたら上層階の方では騒ぎが伝わっておらず、まだいつも通り仕事をしている人もいるかもしれない。そういった人達も全て含め、全員をビルの外へ追い出したかった。
どうすればいい? 考えろ。どうすれば。どうする?
――困ったことがあったら――。
不意に、頭の中で男の声がする。
「困った事があったら……」
男の声だった。低くて渋く良い声。だが、できる限り思い出したくないような……。
「困った事があったら……『CALLしろ』! そうだ! あいつがいる!」
僕は、たった一人。今この世界に、天使以外で僕と会話が出来る人間を思い出す。
「天使! 携帯は持ってるか!?」
「携帯……? あることはある……けど」
「貸してくれ! 今すぐだ!」
天使は何が何だかよく分かっていないようだったが、ポケットの中から携帯を取り出すと僕に渡した。
「なんで〇イフォン?」最新機器を持ってやがるよこいつ。
「カッコイイから」
……あっそ。まあ今は機種なんて気にしている場合じゃなかった。
僕はポケットから一枚のカードを取り出して、そこに書かれている無線の周波数……もとい電話番号に、CALLした。直ぐに電話越しに男くさい、低く渋い声が聞こえる。
「おい、緊急事態なんだ! 今から僕が言う事をやってほしい! あんたにしか頼めないんだ! 頼む!」
僕は簡単に内容を説明すると、男に実行してくれるよう必死に頼み込む。なぜなら僕がこれから頼もうとしている事は、仮に百人に『やってくれませんか?』と聞けば、百人が『絶対いやだ』と答えるであろう、そんなレベルの無茶なお願い。しかし、それを頼めるのは、僕はこの男しか知らなかった。暫くの沈黙。電話の向こうの男は一言。
「任せておけ……!」
そう言った。
かれこれ二〇分ほど経っただろうか。
ビルの周りは、パトカー数十台と大勢の野次馬達でごった返していた。しかし誰ひとりビルの中へと入る者はいない。一歩でも黄色く区切られた線を越えてビルに近付けば、 ただちに警察官に制止させられるからだろう。警察官たちは集まった野次馬を注意しつつ、無線機で情報をやり取りしているようだった。
「行くよ」
天使が促す。僕は天使に肩を貸して、一緒に歩き始める。僕らは警官たちが張った黄色い立ち入り禁止のテープを超えるが、しかし誰ひとりぼくらを咎止める者はいない。なぜなら。僕達は見えないからだ。
ビルの中に入ると、荒れ果てた光景が目に入った。廊下のいたるところにプリント用紙やら筆記用具やらが散乱している。それこそ、先程まで戦争でもあったのではないか、と言った感じである。中にいた人達はなりふり構わず逃げてきたのだろう。見事に人っ子一人いなかった。他に音がしないため、僕と天使が歩く音だけが聞こえる。
「おおう! 見事に誰もいない! よくもまあ、これだけ短時間で全員追い出したねぇ。これで本気で暴れられるってモンだよ! やるじゃん」
天使は笑顔で僕を褒めてくる。
「いや、これは違うよ。貞夫のおかげだ。まさかこんな短時間で全員退避するとは思えなかったけど。まあ、日曜だから、平日に比べてそもそものいる人数も少なかったんだろうな」
今のこのビル内部の状況は、貞夫が作りだしてくれたものだ。貞夫は使えないオッサンなどではない。やれば出来るオッサンなのだ。普段やらないだけで。まあそれはどうでもいいけど。
「気配はどこから?」僕はもう一度天使に確認をとる。
「いる。上だ。まだ屋上にいるのかもしれない」
天使は、僕には分からない何かを感じ取っているのだろう。僕との会話をやめると、じっと天井を――恐らく天井を通り越して、さらに上に在るモノを――睨みつけていた。
「それにしても……まともに動けるのか、お前?」
今の天使は僕に肩を支えてもらって、ようやく歩けているという状態だ。これではとてもじゃないが、あの化け物に勝てるとは思えない。『一〇分休憩すれば大分良くなる』と天使は当初豪語していたが、しかし今以って天使の身体はボロボロに見える。
「やっぱさっきの……」
僕を庇って受けた、あの一撃。普通の人間だったなら即死していただろう一撃。それを天使は僕を庇って受けてくれたのである。それでこんなにボロボロに――。
「舐めた口利いてんなよ? 私がこの程度でくたばるワケないっしょ!」
天使は口では大きい事を言っているが、しかし明らかに息は荒いし、一人でまともに歩けるとも思えない。
エントランスの一番奥にあるエレベータの前に着く。エレベータ一階に止まっていた。そりゃそうか、みんな一階から逃げていったのだから。天使はボタンを押して、鉄製の箱に乗り込む。本来なら屋上へ直行するはずの『R』のボタンを押したいところだが、それを押そうとする天使の指を、しかし僕は制止する。
それを押す前に、どうしても確認しなければならないことがあった。
「あん? 何やってんの。早く行かないと、あいつ移動しちゃうかもよ?」
天使は怪訝な顔で、僕を急かす。
「本当に、あいつと戦うんだな?」
「はぁ? 当たり前じゃん! 何言ってんの、今更」
とたんに天使の眼光が鋭くなった。
この天使様、なかなかにマジギレされているらしく、結構、いや本気で一瞬ビビったが、しかし僕は引かない。
「お前、さっきみたいな肉弾戦はもう無理だろ。 第一身体を支えてやってないと、一人でも立っていられないじゃないか。一体どうやって戦う気だよ?」
勝てるのか。いや、それ以前に戦えるのか。ここが最後の引き返し地点だろう。
「あん? 私を誰だと思ってるんだよ!?」
天使は怒鳴って、しかしふいに表情を緩め、優しい目で僕を見つめた。
「そんなことより! こっから先は、私の独断・私怨の、悪魔と天使の“戦争”だよ? お前こそ、別に来なくてもいいよ? 私に付き合って危険な場所に来ることはない。お前の事は、後でちゃんと神様にお願いしてみるから、お前はここで待っててもいいよ?」
なんだこいつ、僕の事を心配してくれてんのか? だとしたら、それこそ、
「何言ってんだ」、だぞ?
僕を馬鹿にすんな。大怪我してる女をおいて、すごすごと逃げ出すようなクズじゃないつもりなんだ、これでもな。
「ここまできて、後は全部お前に任せる……なんて事、言うわけないだろ。僕も行くよ。どうせこのまま逃げ出したって、僕の前にあるのは『死』しかないからな」
「ハッ! 言うねぇ」
天使はニヤリと笑う。
「おっしゃ。じゃあ行こうぜぃ!」
「っておい、ちょっと待てよ! 行くのは良いけど、本当に勝算はあるんだろうな!?」
どこからくるのか分からない自信満々・傲岸不遜な発言はあったが、しかしまだこの女の口から、具体的な勝算を聞いていない。そもそも、どこからどう見てもボロボロで、一人で立つこともままならないような傷付いた(表向き)可憐な少女が、これから狼男と戦争する、なんて言っているのだから、それはまともな心の持ち主なら、誰だって制止したがるだろう。しかし、たとえ満身創痍の身体でも、この女は不敵な笑みを崩さない。というか、ここまで笑顔が似合う人間(本人いわく人じゃないらしいが)、この世界にはいないのではなかろうか?
「ダイジョブだって! だって天使に不可能はない。まぁ作戦があんのヨ」
「作戦?」
「そうそう。これから私が言うこと、しっかり聞いとけヨ?」
エレベータが止まる。目的階への到着を知らせる電子音が鳴った。
ゆっくりと扉が開く。高いからだろう、風は非常に強かった。空は次第に赤くなりつつある。
そして。紅いの空の中、しかし青い体毛。おそらく三メートルはあるであろう巨躯。全身をまるで鎧であるかのように覆う筋肉。そして僕の記憶の中に在る狼を、百倍怖くしたかのような貌。悪魔がそこにいた。
下。地上。今では野次馬どもと、警察官、マスコミが蠢いている、人間達がいる世界。この獣が、今では戻りたくとも戻れない世界。悪魔はそれを、身じろきもせず屋上からじっと見つめていた。何を想っているのだろうか。
でも。それは分からないけれど。
「悪いな。あんたに暴れられると迷惑なんだ」
申し訳ないが。
「あんたが“人間”の時、何をやってきたかは知らないよ。でも、少なくとも、そんなバケモノみたいな姿で、人間としての尊厳を失ってまで、奪われてまで、悪魔とやらの奴隷として生きていきたくはないだろ? 悪魔としてでも生きていきたいってんなら、僕を怨んでくれていい。呪ってくれて構わない。けど、僕はこのままあんたを悪魔にさせるつもりはない」
先程の、この男の咆哮。あれは、僕には苦しんでいるように聞えた。いや、実際に『苦しい』って言われたわけではないけれど、しかし僕は、不思議と確信していた。
この男は苦しんでいる。哀しんでいる。
――人間ではないモノにされてしまったから。
――まだ、人間として生きていたかったから。
ああ、そうか。
僕もまた、人間ではないから分かるのかもしれない。
悪魔は答えない。言葉が通じていないのだろうから、当然のことだ。しかし。悪魔は先程から唸り声を上げ、眼光は僕を貫いている。やる気だ。『殺』に『る』と書く方の、殺る気だ。殺意をビシビシと感じる。
屋上には貯水槽やら通気口などが雑然と設置されていて、あまり広くは感じられなかった。しかし一切開けているよりかはいい。隠れる場所があるからだ。
そう。今から戦うのだ。
誰が? 僕が。
誰と? この悪魔と。
天使はいない。『僕』がこの悪魔と今から命をかけて戦う。僕の右手には、天使から預かった拳銃がある。銃を構える。先程は、一発撃っただけで肩が外れそうになった。でも、もう構うもんか。
なぜなら。殺らなきゃ殺られる。
実にシンプルな言葉である。漫画やゲームではよく出てくる言葉だが、まさか現実に自分が使う事になるとは思ってもいなかった。銃口を、悪魔の胸に向けて構える。これは先程エレベータの中で簡単に天使から戦い方を聞いた時に教わったものだ。僕みたいなド素人が銃を撃ったところで、銃弾は狙ったところに行きやしない。頭のように小さい的なら、なおさら当たらない。
ならば。初めから人間の身体の部位で、一番大きいところを狙えば。
仮にそこを外れても、どこかには当たるかもしれない。だから、胴体を撃つのである。胴体に上手く当たれば臓を破壊し殺す事ができる。
頭に当たれば、それはそれで即死。腕や足に当たっても相手の動きを封じる事が出来る。
なるほど、言われてみればヘッドショットなんて高度な技術を僕が出来るわけがないのだから、少しでも当たる可能性の高い場所を狙うべきだ。
しかし、問題は。こいつが人間ではない、ということだ。銃弾が当たったところで死んでくれるとは思えない。そもそも、先程の戦いでは僕はこいつの頭を狙い撃ったはずなのに、今でもピンピンしてやがる。
それでもこれしか武器がない。これしか対抗手段がないのである。天使が言うには、残弾数は七発。七発ブチ込めば、倒せるのだろうか。
僕は深呼吸をして、腹を括る。
大丈夫だ。きっと大丈夫。今頃あいつも準備に入っているだろう。
僕はトリガーに指を掛ける。
瞬間。悪魔が一瞬で間合いを詰めてくる。しかしその速さは、まったく目で追い切れないというほどではなかった。こいつ、明らかに以前に比べて速度が落ちている。天使との戦闘で、こいつにも結構なダメージが蓄積されたのだろうか。
僕はアクションスターが映画の中でよく魅せるようなかっこいい回避――ではなく、無様にも頭を抱えてしゃがみこみ、横からの腕の一振りをかわす。
好機! 僕は悪魔の懐に入り込んでいる。このままゼロ距離で、一撃ぶち込んでやる。
銃声と激痛が同時発生した。悪魔に銃弾を撃ちこんだはずなのに。僕の肩が悲鳴を上げている。
悪魔はよろめく。さすがにゼロ距離の攻撃は効いたのかもしれない。僕の肩はおそらく限界に達しているのだろうけど、そんな事を言っている場合じゃない。
殺らなきゃ殺――
腹部に激痛が走る。悪魔の蹴りが、見事に僕の左わき腹にヒットしていた。僕はそのまま右方向に吹き飛ばされる。全身がぐったりとしていて、力が入らない。四肢を動かすことも間々ならず、僕は冷たいコンクリートの上にうつ伏せで倒れる。呼吸も出来なくなっていた。起き上がって逃げることもかなわず、かろうじて霞む視界に悪魔の姿を収める。悪魔は再び僕との間合いを詰めて来ている。
しかし。今度は歩いて、だ。もう僕がまともに動けないと察したのだろう。
見事大正解。
僕の意識はすでにトびかけていた。もはや抵抗する体力も気力もない。しかし悪魔はそれでは気が済まなかったのかもしれない。悪魔はそのまま、僕の首を掴んで吊るし揚げる。
ああ、こいつは僕をなぶり殺すつもりだ。二回も銃弾ブチ込んだからなぁ。恨まれて当然かもしれないけど。いや、そもそも僕は、こいつを殺そうとした。ならばこいつに殺されても、文句は言えないのかも知れない。言う資格もないのだろう。
このまま首をへし折られて殺されるのか。それとも呼吸が出来なくて殺されるのか。はたまたその鋭い爪で一突きか。どれだろう。人間死ぬ時と言うのは、意外と冷静なのかもしれない。自分が殺される光景を数パターンも考えてしまった。
殺されると言えば。僕は昨日も殺されたんだっけ。まったく、四八時間の間に二度も殺される経験なんて、そう出来るものじゃないだろう。
悪魔に殺され。そして天使にも殺された。
天使との作戦。約束。
『出来るだけ耐えること。そして悪魔を逃さず、更には死なないこと』。
悪いな、どうやら無理そうです。
ていうか。最期に冷静になって考えてみれば。
『死なないこと』って、僕はお前に殺……され……。
「おっしゃぁ! 待たせたなッ! ……って死にかけてんじゃねーよ!」
……やかましい声が聞こえる。夢かな。
「お前、死ぬなっつっただろうが! お前が死んだら昨日今日の私の努力、どうしてくれるんだっつの!」
なにか、酷く勝手なことを言ってる馬鹿の声がする。
「お前、死なないって約束しただろ! 私と! 親父に! それに一六で死んでいいのかよ!? お前、ファーストキスもまだの童貞君だろうが!」
非常にやかましい。むかつくブッとばしてやりたい!
「どっ……童貞っは……ッ! 今は関係ないだろうが!」
やっとこさ言葉を口にする。そうだ、僕はまだ死んでなんかいられない。
いろいろやりたい事がある。死んだら悲しんでくれる人達がいる。
そして。
この馬鹿に、いろいろ言ってやらないと気が済まない!
「天……使ッ……!」
僕は最後の力を振り絞り、先程から蹴られようが首を絞められようが決して離さなかったそれを、声のする位置を頼りに投げる。
「へッ! 遅いっての!」
直後、銃声。悪魔の腕が、僕を解放する。
死ぬかと思った! というかもう半分覚悟しちゃってたよ! 咳き込み涙目で首をさすりながら、声が聞こえた方を見た。
天使が、左手に拳銃を構えている。銃口から硝煙。悪魔は腕を押えて呻いていた。天使は僕の首を掴んでいた悪魔の右腕を撃って、僕を解放してくれたのだ。
「助かったよ……」縺れる足で悪魔から距離をとりつつ、天使に礼をいう。だが天使は、まっすぐに悪魔を睨んでいる。
「それで……準備はできたのかよ?」
僕は天使に問う。この悪魔、なかなかに頑丈でしぶとい野郎である。それでもまともな状態で戦ったら、先程の地上での一戦のように天使が難なく勝てるのだろう。しかし。天使は今、まともに戦える状態ではなかった。人間一人庇うために、負傷したからだ。さっきまでは立つのもやっとの状態だった。しかも天使のメインの武器である拳銃ですら、多少はダメージを受けているようだが、完全に倒すと言うほどには至らないようである。
ではどうすれば勝てるのか。答えは簡単。
拳銃以上の火力を持つ兵器で、一撃で吹き飛ばしてしまえばいい。
「チャージは完了したのか? ムカつくエネルギーのさ」
僕は天使に、もう一度聞く。
「バッチリよ! 腹に風穴開けられたこの恨み! 手間掛けさせてくれちゃったこの恨み! そしてなにより! 貧乳って言いやがっただろこの糞ハゲがァァァァァァァァァァ!」
あれ? それって人間だった時じゃなかったっけ? しかも、それが一番怒るポイントなのかい?
天使の右腕には、懐かしい――いや、あのおっかない最終兵器があった。
『エンジェルロッド』である! ……あれ? 『天使ステッキ』だっけ? まあどちらでもいい。
天使は僕が悪魔と戦っている間、こいつのエネルギーをずっと充填していたという訳だ。
しかし改めて見ると、昨日初めて見た時とは、まったく雰囲気が異なっている。昨日見たものは、デパートのおもちゃ売り場で売っているような、安っぽいおもちゃのステッキだったはずだが。今のそれは。豪華絢爛、見事な装飾が施してある。ゲームとかなら一番能力値が高そうな。どこかの博物館に、国宝として展示されていそうな。見事な錫杖へと変貌していた。
そして何より。激しいエネルギーが錫杖からほとばしっている。
「顔殴られた! 目つぶしされた! 腹パンされたし、フライングニ―ドロップされた! 絶対許さねぇ!」
「あれ? それってもしかしてもしかしたら、悪魔じゃなくて僕に対しての恨みじゃね!?」
「そうだよッ! 全部終わったら百倍返しにしてやんよ!」
恐ろしい! こいつ、根に持ってやがったのか!
「だから! 終わらせてさっさと帰るぞ!」
「おう! 僕は終わったら即行でお前から逃げるけどな!」
天使は頭上に錫杖を構える。振り下ろせば、あの大爆発が起きるはずだ。
しかし。天使はなかなかそれを発動しようとしない。
「……? おい天使! どうした? 何か問題でもあんのか?」
今更になって『発動できませんでしたーゴメンネ☆』とかはやめて欲しいのだけれど!
こいつのことだから、十分あり得そうで怖い! しかし天使の口から告げられたのは、そういう事ではなく。
「飛び降りろ!」
僕を真剣そのものの眼差しで見て言う。いきなり何を言い出すんだこいつは!
「飛び降りる? なんで?」
「これマジやっばい! どんくらいヤバいかって言うと、死ぬほどヤバい! 多分お前も巻き込んじゃう! だから早くッ!」
巻き込まれるって! 天使の言葉からではイマイチその『ヤバさ』とやらがどの程度なのか伝わってこなかったが、それでもこいつが取り乱すほどである。相当な威力になるのかもしれない。
「でも飛び降りたら! 僕はどうなる!?」
「死ぬ。こんだけ高いところから落ちたら、どんな人間でも本能的に死を悟っちゃうから」
「じゃあ無理ですよ!」
とんでもない言葉を言われて、ついつい敬語になっちゃったよ。キッパリ『死ぬ』と言われてそのまま行動に移す馬鹿はいないだろう。
だが。
「いいから早く! 悪魔がまた動き出してる! もう撃つから!」
悪魔はゆっくりと天使との距離を縮めていた。早く撃たなければ、悪魔は天使を襲うだろう。今の天使に攻撃を防ぐだけの体力は残されていない。だから、充填中に攻撃されることを恐れてさっきは僕一人で悪魔と戦い、天使は離れて待機していたのである。
天使は攻撃をしたがっている。しかしそのためには、僕に屋上から飛び降りろと言う。
でも、だって、落ちたら――死
「天使を! 私を信じろッ!」
なぜか。その一言で、僕は屋上を走り抜け。手すりを飛び越え。
虚空へとダイブしていた。
世界が、止まった気がした。
未だかつて聞いたこともない、轟音という言葉も陳腐に思えるほどの爆発音。
それを、僕はたった今聞いた。
東京都内の、とある空中である。夕方だった。
視界に茜空が広がる。身体が堕ちていくのが分かった。
先程まで僕がいた、立っていたこのビルの屋上で、大爆発が起こっている。
あまりの閃光に、目が潰れるかと思った。
全てが、ビルの屋上だけでなく空も、雲も。あの火炎に飲み込まれていくのが見える。
さらに速度を増して、僕の身体は地上へと堕ちていく。
薄れゆく意識の中で、しかし僕の目に映り込んできたものは――。
少女が、純白の翼を広げて飛翔している姿だった。
その姿はまさに。
神々しく。
『天使』と呼ぶに相応しい美しさだ。
天使は自由落下中の僕との距離を一瞬で詰めると、そのまま空中で僕を受け止める。少女にお姫様だっこされている男という、なんともみっともない姿になってしまった。
「す……すげぇ! 羽だ! 羽がある! お前、羽があったのか!」
「そりゃあ天使だかんネ! これでもさ!」
「お前、本当に天使だったんだな!」
「今までそうじゃないっていう可能性が少しでもお前の頭の中にあったってことにショックを覚えるけど!」
「いや、死神か悪魔かなんかと思ってた」
「悪魔は今さっき戦ってたアイツだから!」
それにしても。
まさに絶景だった。茜色に染まる東京の空を、天使はまるで鳥のように自由に飛翔する。僕にもまた、翼が生えたかのような気分だった。
「勝ったのか?」
僕が問うと、天使は凶悪な顔で
「命取ったどぉ! ざまぁぁぁぁぁぁ! あのワンコロが! って感じだよねー」と答えた。こいつは人間・神・悪魔に対してだけじゃなく、犬にまで口が悪いのか。もう、どうしようもないんだろうな。
振り返るってみると、僕らが今まで居たあのビルは、ろうそくのように燃えていた。つまり、屋上とその真下の高層階だけが火の海と化している。
「よかった。あのビルが崩壊でもしたら、どうしようかと思ってた」
せっかく中にいる人達を全員避難させても、ビル自体が崩壊してしまっていたら野次馬の人達や警察官など、ビルの正面に集まっていた人達にも被害が出ていただろう。まあもちろん屋上が大火事状態なので、集合していた人達もさすがにこれで危険を感じて避難を始めただろうけど。
天使は僕を見ず、ずっと先を眺めながら飛んでいる。
「まあこれでもそーとーパワーをセーブしたからネ! 本気でやってたら、東京まるごとフッ飛ばしてたかもしれないし」
「あれ、そんなにヤバかったのかよ……」
一歩間違えば、ビルどころじゃなく東京消滅の危機だったってのか。
「まぁ勝てたんだしっ! あれがなければ負けてたかもしれないんだから良いジャン」
いや、全然良くないだろう。
「さてと! じゃあこのまま貞夫んちまで、一気に飛ぶから!」
天使はそう言うと、さらにスピードアップした。天使の翼が、雲を切り裂く。
「このまま飛んで行くのか?」
昨日こいつは、『人間界で空を飛ぶと『力』を消費するから、『力』の節約のために普段は飛ばないようにしている』とか言ってなかったっけ?
「おい大丈夫か、お前。身体の方は」
「正直かなりキツいけど、今はそんな事言ってらんない。お前の『存在』、マジで消えかかってるよ」
天使は僕の顔を見ながら真顔で言う。
「うっそぉ!?」
「ホントホント。結構ヤバい。もう存在が超希薄になってる。三〇分持つかどうかってトコかな。だからこのまま一気に貞夫んちから天界まで行って、『お前を生き返らせて』って神様にお願いしなくちゃ」
こいつ……! 僕のことを考えて、そう残っていないであろう自らの『力』を削って飛んでくれているってのか……!
「力を使い果たしたら、どうなっちまうんだ?」
正直、僕を助けるために天使が消えてしまったりするというのなら。
そこまでしてくれなくていい。
これは僕の本心だ。
「天界に還った後二、三日はまともに動けなくなるくらい筋肉が痛くなる」
「筋肉痛レベルかよ!」
「あ、もう駄目だ落とす。もう抱えてらんない」「ふざけんなもうちょっと頑張って!」「無理だわー重いわーお前」「嘘つけよ! あんなデカブツ軽々ふっ飛ばす奴が、僕如きの体重を重いと感じるワケがねーだろが!」「じゃあ落とす」「うわぁぁぁぁぁぁ! てめぇホントに手を離すな! 死ぬかと思っただろ!」「お前もう死んでジャン」「お前のおかげでな!」「いやぁ、おかげだなんてそんなぁ! エヘヘ。気にしなくてもいいよぉ」「イヤミ言ってんだよ!」
――東京タワーから墨田区押上までの、この一瞬の東京フライトの間、僕は残り時間がどうだとか、そんな事は忘れてしまっていた。
紅い空の中に、ギャーギャーと騒ぐ黒髪男と金髪女。
僕達は、茜色に染まる東京の空を飛び続ける。
墨田区押上にある天界サポートセンターもとい貞夫の家に着いた。天使が翼をたたみ、路上に着陸する。僕は天使にお姫様だっこで抱えられているという、相当恥ずかしい格好でここまで来たのだけれど、ようやく地に自分の足を付けることができた。
「あ~、この距離を人担いで人間界で飛んだの、初めてカモ」
天使は自分で肩をもみながら、疲れた表情で言う。
「サンキューな。お前が飛んで運んでくれなかったら、間に合わなかったんだろ?」
こいつが僕を抱えて飛んでくれたから。僕の命は助かった。そして東京の空を生身で飛ぶという、今後も絶対に経験できないであろう事を体験できたのである。僕は素直に天使に感謝の意を伝えた。
僕らは急ぎ階段を上がって二階にある山元ビル、二〇五号室のドアを開ける。しかし部屋の中には誰もいなかった。
「くっそ! こんな時にいねーのかよ貞夫は!」
「今頃八王子じゃね?」
「サバゲー中かよ! プリーズ・カムバック貞夫ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
こんな時にいないなんて! やはり間が悪いというか、悪く言わせてもらうなら『使えない人』だった。
「天界への扉って、貞夫がいないと開けられないのか?」僕は天使に涙目で聞く。
「いや、やろうと思えばできると思うけど、やり方がちょっと分からないかな。あっちから来るのは簡単だけど、こっちから還るのはムズかしいのヨ。侵入者対策とかいろいろあるし」
僕は天使につい先程『もうお前は三〇分も持たないかも』と言われてしまった。僕の余命は残り数分ってところか? もう人生やり残した事をどうするとかそういうレベルじゃない。遺言ですら書く余裕がないじゃないか! 部屋のパソコンのハードディスクを消したりクローゼットの中のモノを家族に見られる前に処分してもらったり。誰かに遺書を書いて頼み込み、そういう対策をしなければいけないのに!
「天使! どうしようどうしようどうしようどうしようッ!?」
もう狂乱状態である。
「まあ、こんだけ頑張ってもダメだったんだし。これがお前の天命なんじゃね? もう諦めて楽になっちまえばぁ? 一緒に天界で暮らそうぜぇ?」
「諦めてたまるかぁ! ここまで来て諦めてたまるかよ!」
僕は部屋の奥に進んでバスルームに入る。蛇口をひねろうとしたが……しかし僕の身体は、蛇口に触れることは出来ない。
「天使っ! 頼む扉を開けてくれ!」
「う~ん、私これ準備した事ないんだよな~。ちょっち時間がかかるかも。待ってて。とりあえずやれるだけやってみたという感じで」
「いや、やって!? やってみた感じとかじゃなくてマジでやって!」
諦めんなよ! 僕の命が懸かってるんだぞ! 僕のために諦めないで下さいよ!
と、その時。
「ははは」
不意に男の笑い声がした。
「お前ら、相変わらず仲がいいなあ。もう結婚しちまえばいいんじゃないか?」
部屋の中央、低いテーブルを囲むように置かれたソファ。神がそこにいた。こんな寂れたビルの一室に、この世界の『神』がいる。凄く違和感を覚える状況だ。
「あんたは人格だけじゃなく目も腐ってるのか?」
「神様神様! 悪い事言わないから、死んだ方がいいよマジで」
「せっかくわざわざこっちから来てやったってのにヒドくね!? お前ら、俺に会いたかったんじゃないの!?」
またしても涙目になる神。この人、いじめとかに凄く弱そうだ。今度天界で開かれるという国会では、この人に『神』の不信任案が提出されるとか天使が言っていたが、無事乗り切ることができるのだろうか。まあどうでもいいケド。
「それよりっ! ターゲットは倒したぞ! 僕を生き返らせてくれ!」
僕は神に神に改めて懇請する。
「はぁ? 何を言ってるんだお前は」
が。神の反応は、予想外のものだった。
神は、嘲るように僕を見ている。いや、見下している。
「どういう事だよ!?」
何やら雲行きが怪しくなってきた、と馬鹿な僕でも分かる。天使の方を見ると、何も言わず、無表情で神の顔を見つめていた。
「俺がお前らに出した条件を、もう一度言ってみろ」
神が、僕らに出した条件。確か――
「『今から二人で再び人間界に降りて、お前の本来の任務を今度こそ完全に遂行してこい。もちろん、もうミスをせずに』。俺はこう言ったはずだ。そうだな? 人間、そして我が娘よ」
神は僕に『言え』と言ったくせに、自分でそれを言葉にする。昨日天界で、僕と天使に出した条件。
――僕が、人間としてこの世界に生き返らせてもらう為の条件。
――そして天使が、天使としていられる為の条件。
「お前の、清浄課の任務とはなんだ? もう一度言ってみろ」
「『人間の魂は、人によって穢れ具合が違う。で、ある一定以上魂が穢れると、その人間は悪魔になる。そうなる前に、人間と悪魔の境目、穢れが人間としての限界に達した瞬間に、その人間の魂を消滅・浄化させること』」
かつて僕が聞いた、清浄課の仕事内容。こいつの、天使としての仕事内容。天使はそれを、静かな声で反芻するように言葉にする。
「そうだ。それが清浄課の仕事だ。俺は、それを『完遂』してこいとお前らに言ったはずだ。そうだな?」神はもう一度、条件の確認をしてくる。
「そうだよ! だからどうしたんだよ! 僕らは悪魔を倒したんだぞ!?」
僕としては、一秒でも早く生き返らせてもらわないと、もう後数分で消えてしまうかもしれないのである。いい加減、僕も我慢の限界に来ていた。
――ところが天使は。
「確かに、完遂はしていません」
初めて聞くような、素直な声で。
「私は任務に失敗した。担当の人間を、悪魔にしてしまいました」
儚い声で。
天使はそう認めた。
「そうだ。お前は『清浄課としての任務』を失敗した。完遂出来なかった。あの人間を、悪魔にした時点でお前は任務を失敗したんだよ」
『やっちまったなぁ――』
『私はもうこれで免職モノだろうから、失うものはないし――』
確かに、あのハゲが悪魔になった時。天使は言っていた。でも、その後こいつは自分自身の手であの悪魔を倒して、自らのミスの尻拭いをしたはずだ。
「よって条件は満たしていないものとする」
そんな。そんな馬鹿な話があるか? 僕らは……天使は必死になって、あの化け物を倒したんだぞ? 天使は身体をボロボロにしながらも、あいつを倒したんだ。なのに、それを意味がなかった事にされようとしている。それは、それだけは我慢ならない。
拳に力をこめる。僕の立っている場所から神まで、およそ三メートルといったところか。
――ブっとばしてやる。
僕が神を睨み付ける――と、神も僕をまた見ていた。笑ってやがる。こいつ、これから僕が何をするか分っている。それでいて笑っている。『やれるもんならやってみろ』ってことか。
やってやるぞ。勝てないのなんて分かってる。なんたって、相手はこの世界の神なのだから。
それでも僕は。
あいつの努力を、覚悟を、認めないこいつは許せない。
――しかし。
「私の処分は受け入れます。でも。それでも。こいつは生き返らせてやってくれませんか?」
天使は静かな声で。しかし、しっかりと神の目を見据えて言った。
「約束しました。神様の言うとおり、こいつは『天界にとって人間界に留めておくに足る有益な人材である』ということを証明したと思います。悪魔と戦って、生き残れる人間なんてそうはいないから。今後も、天界サポートセンターの田中貞夫センター長のように、人間界で生かしておくという事を提言します」
こんな時に。お前自分で言ったじゃないか。神だろうが天使だろうが人間だろうが、自己保身が一番だって! お前らしくないじゃないか!
「お前、なんでそこまでするんだよ!? そりゃ嬉しいけど! でもどうして……?」
一瞬の沈黙。天使と目が合う。天使は、僕の目を見据えながら、口を開く。
「渋谷で服を買ったり。池袋でゲーセンに行ったり。上野で動物園に行ったり。公園のベンチで並んでご飯を食べたり。シーソーをやったり。相手の部屋に行ったり。そういう事を一緒にする奴の事を、人間界では『友達』って言うんだってさ。そんで、友達は絶対に守らなければならないらしいんだよ。お前知ってた? 私の事を『友達』て、そう言ってくれた奴がいたからサ」
天使はハハハと笑いながら言う。僕は言葉を返すことができなかった。
友達って言ったのか。
こいつは、僕を、『友達』と言ってくれたのか。
「ああ、悔しいけど、なんだかんだ言って昨日今日と、ほんのちょっぴりだけど、一ナノくらいだけど、楽しいって思ったこともあった! ほんのちょっぴり、だけどネ! あんなふうに渋谷とか上野とか、誰かと二人で出掛けるなんて事、私はしたことないからね! いっしょに服を買いにいく友達なんかいないんだよ、私には! お前は私の事を、スイーツ(笑)とか悪魔だとかマヌケだとか無能だとか思ってるかもしれないけど、それはそれで本気でブチ殺したくなるくらいムカツク事だけど、それでも私は、お前と友達になってやってもいいかナ~……なんて事を思った、という事までは否定できない! キモオタだしファッションセンスないし非力で男らしさのかけらもないモヤシ野郎だけど、でもお前と一緒の東京めぐりの旅、まあなんだかんだで楽しかったよ! 仕方ねぇ、認めてやる!」
おい、本気で凹まされる罵倒の単語の羅列、やめてくれよ……
――いや、でも。
『友達』。
お前の口からそれが聞けただけで。この二日間の事を、まあ多少は許せる。そう思った。
お前が僕を殺さなかったら、土日に友達と遊びに行く、なんて今までに経験もしたことがないビッグイベント、送れなかっただろう。いや、今後も送れないかもしれない。
うん。この二日間、僕はなんだかんだ言って、楽しかった。
この少女と出逢えて、僕は嬉しかった。
それが僕の、この二日間に対する総括だ。
「それに、なにより! 私は約束を守る女なのヨ。これでもね。だからお前に『生き返らせてやる』って言った以上、生き返らせてやらないと自分の気がすまないし」
天使はファイティングポーズをとりながら続ける。
「まぁどうせ天界では、腐るほど時間あるしね! お前と違ってさ! またのんびり勉強して天使の資格を取ることにするよ。それも、いい時間つぶしにはなるかもしれないしさ」
「ではお前は処分を受ける、ということでいいんだな? これが意思の最終確認だぞ」
神が天使にそう告げる。
「構いません」
今度は、嘘ですとも。やっぱ嫌ですとも言わず。
一瞬の逡巡の間も置かず。
そう言い切った。これまでに見た事もない、真剣な表情で。
神はため息をつきながら。呆れ顔で天使を見ながら。
「……よかろう」
神の人差し指が空中をなぞる。すると何もない空間・神の指の軌跡に、光が浮かび上がってきた。僕には読めなかったが、なにやら文字のようだ。
瞬間、閃光。視界がホワイトアウトする。
「……」
閃光から十数秒ほどだろうか。ようやく視界が戻ってくる。自分の身体に違和感を覚えた。何か……身体全体が重い気がする。背中が痛い。試しに、近くにあったテレビのリモコンに触れてみる。
――触ることが出来た。
「……身体だ」
僕がこの二日間、死ぬほど望んだもの。
死んだからこそ望んだもの。
あって当たり前のはずなのに、この二日間なかったもの。
僕の『肉体』だった。今の僕には、『肉体』が在った。もう反幽霊状態ではない。身体がある!
「天使っ!」
僕は歓喜の声を上げて天使の方を向く。
しかし。
「よかったね」
そう言った天使は。儚い、今にも消えてしまいそうな笑顔で。僕を祝福してくれた。
何を言ってるんだ僕は。よりによってこいつに。喜びの表情を向けてしまった! これは誰のおかげだ! だれが自らを犠牲にして、『くれた』身体だよ!
「いや~よかったネ! これで、人間に『戻れた』じゃん?」
しかし天使は。それでも僕に、『良かったね』と言ってくれた。
「さて。では次はお前の番だな」
神は天使を見据えながら言う。
「……はい」
静かな、儚い、綺麗な声。今までこいつの口から聞いたことがない声だった。お前のそんな顔は見たくないぞ! いつもみたいに、憎たらしいほどに満面の笑みでいてくれよ!
「お前は、任務と完全に無関係の人間を殺した。そうだな?」
「そうです」
「本来の任務を失敗した」
「はい。失敗しました」
神からの罪状認否。天使は全てを肯定していく。いつもみたいに、何の軽口もたたかず。
何の悪口も言わず。ただただ首肯し。肯定していく。
正直見ていたくなかった。
「担当の人間を悪魔にした。間違いないか?」
「間違いないです」
「その悪魔を、一度完全に見失った。人間界に悪魔を放置」
「その通りです」
「無許可で持ち出した、第一種戦闘兵器『神の怒り(アポロン)』を、二度も無断使用した」
「はい」
それは知らなかった。ていうか『アポロン』ってもしかして『エンジェルロッド』の事か? やっぱヤバいもんだったのかよあれ!
「以上の事から、本件のお前の行為は重大な違反と言わざるを得なく、非常に重い罰にせざるを得ない。『神』兼『天界裁判所・最高裁判官』兼『天使省・大臣』として、処分を言い渡す」
おそらく第三者からすれば、一瞬だったのだろう。しかし、僕にとって。いや、天使にとっては、無限とも思える時間が流れる。天使は、目を閉じて神の言葉を待っていた。 全てを諦め、そして受け入れる気なのだろうか?
神が口を開く。僕にはスローモーションのように見えた。
「……十年の減俸。一定期間の観察処分。そして異動。以上だ」
……天使は目をパチクリさせながら『何で!?』といった表情で神を見つめていた。僕には天界の処分制度とかがよくわからないが、それでも減俸に観察処分、異動って……随分軽くないか? もっと『天使の資格はく奪!』とか『天界から永久追放!』とか言われると思っていたのに……
「な……なんで、ですか?」
天使はもっと信じられないのだろう、神に判決理由の呈示を求めていた。
「まあお前が今回やったことは最悪だよ。正直な話な、俺の武器を勝手に持ち出すわ、無関係の人間を殺すわ、結局悪魔を産み出すわ」
ぶつぶつと神は天使を責める。
「でもな、お前は『悪魔に占拠された人間界の一般施設を、死者無しで奪還・悪魔の消滅』を成功させた。そりゃあ勲章モンの大活躍だよ。もしそれ以外のミスとか重大な違反がなければ表彰・出世まっしぐらってレベルだよ。でも、そもそもその悪魔を産み出したのもお前なわけだから、結局差し引きでマイナス、処分だけどな」
天使は、確かに重大な違反を犯した。
しかし。それと同時に素晴らしい功績も挙げたってことか……。
「ケッ! なら最初っからそう言えや糞が! 緊張して損したよこの糞ロリコンじじいのせいでよぉッ!」
天使はとたんに神に悪態をつき始める。僕ものっかってやろう。
「本当だよな! グチグチ責めてからどんでん返しで感動させようってか? 浅せぇんだよ糞が」
「ついさっきまでの被告に思いっきり貶された挙句、一六そこらしか生きてないガキに『浅い』とまで言われちゃったの、俺!?」
涙目になる神。へ、当然の報いだよ。僕達をここまで精神的に追い詰めたんだからな。
「ったくよぉ! こちとら必死に『処分受けそうで泣きそうな清純キャラ』を装って、少しでも判決を言う際に精神的ダメージ与えてやろうとしてたってのにさ!」
「それであんな普段見せない態度だったんだ!」
やはり神も、あんな態度の天使は見たことなかったのか。さらに天使の神への悪態は続く。
「っとに! これだから『その法案を審議する前に、もっと先にやるべきことがあるだろ!』って野党から言われるんだよ!」
「政治的な批判もきちゃった!」
「支持率二〇パー割れの糞神の分際で!」
「ちょっと待て! 二〇は割れてない……はず! いつの調査!?」
「昨日だよ! もう終わったね! 解散総選挙! 無残に選挙で落選! ニート直行! ざんねーん! プギャー!」
「俺が思ってた以上に終わってんのかよ俺の政権はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
あ、なんか頭がおかしくなっちゃったみたいだ、この金髪のオッサン。急に頭を抱えて笑い出したかと思ったら泣きだした。あ、また笑い出した。まあどうでもいいや。放っておこう。
「よかったな。お互いにさ」
僕は地べたで笑いながら狂ってるオッサンを放っておいて、天使に話しかける。
「ケッ! こんな事ならさっきの恥ずかしい言葉、全部取り消したいっつの!」
天使は口を尖らせて言う。ホント素直じゃねーよな、こいつ。
「僕は嬉しかったぞ。お前に『友達』って言ってもらえて」
僕の本心だ。
「まあお前、今まで友達いなかったんだもんねー」「お前もだろ?」「まあね」
安堵から、取りとめのない話が続く。
しかし急に。
「よかったね。生き返れて。親父との……いや、アキヒロとの約束を守れて」
天使は優しい笑顔で。そんな事を言い出した。
頭が混乱する。
なぜだ。
「何でお前……僕の父さんの名前を知ってるんだ?」
アキヒロ。それは僕の父さんの名前だった。
「やっぱり。アキヒロが、お前の親父だったんだね」
「ど……どういうことだよ!?」
「お前、『死んだ父さんと約束した』って言ってたジャン? それ、いつの事だか覚えてる?」
いつ。忘れるわけがない。
「父さんが死んだ、次の日だったはずだ」
父さんが死んだ。まだ僕が小学生だったころだ。僕は『人の死』というものが、どういうものなのかさえまだ分かっていなかった。
それを初めて経験した。しかも実の父親だった。当然泣き叫んだ。母さんは必死に僕と妹の前では泣くのを我慢していた。演技が下手くそなんだ、母さんは。妹は当時幼稚園児だったので、僕以上に、『人の死』が分かっていないようだった。
父さんが死んだ次の日。僕は何もする気にならず、夜はすぐ寝てしまった。確か寝るまでに凄く時間がかかったという記憶がある。枕をびしょびしょにしてしまった。
そんな夜。僕は気がつくと、『白い世界』に立っていた。
そこで。死んだはずの父さんと会った。
どれだけの時間、二人で話していたんだろう。『あの約束、守れなくてごめんな』とか、『あの旅行は楽しかったな』とか、悲しい事ばかり父さんは言っていた。
ずっと続けばいいのに。そう思った。でも父さんは、唐突に僕に告げた。
『ごめんな。もう時間みたいなんだ』
最後に。別れの時。
『父さんは長生き出来なかった。ごめんな。でも、お前は父さんの分まで長生きしてくれ。母さんと鳴(妹の名前だ)をよろしく頼む。男の子だからな。父さんの分まで、お前が二人を守ってやってくれ。幸せにしてやってくれ。そして、お前も幸せになってくれ』
そう言われた。僕は『うん』とか『分かった』とか。たしかそんな返事しか出来なかったと思う。
「夢だと思ってた。お前の仕業……おかげだったのか」
あれは夢でもいいと思ってたんだ。最後の最後に、父さんが夢の中に来てくれたんだと思ってた。でも、僕と父さんは本当に逢っていたのか。
「……うるさい奴だった。『頼むから、最期にもう一度家族と話をさせて欲しい』とかなんとか喚いてさ。私は私でそれが『送り課』での最初の単独の仕事でさ。勝手もよく分かってなくて、緊張しまくりだったってのに! 妻はいろいろ忙しそうだったし、娘は眠っちゃってたし、何より小さすぎてまともに会話も出来なさそうだった。だから、ちょうど一人でぼ~っとしてた息子を拉致ってきたってワケ」
思い返すように天使は語る。あの日、父さんとの間で何があったのかを。
「とんでもねぇ奴……だな……」
他に何か言うべきことがあるはずなのに。あったはずなのに。それしか言えなかった。
「もうその後は大変! バレないかと思ってたのに結局バレてさ! すっげぇ怒られて、送り課からいろいろな部署に飛ばされたし! 雑用みたいなこともやらされた。七年かけてやっとまともな『清浄課』に異動になって、せっかく人がやる気満々! 新生活頑張ってます! って時に、今度はその息子の事で騒動だよ。ホントお前ら親子はなに!? 私に恨みでもあんの!?」
「少なくとも今回の僕の事に関しては、お前のミスだ。自業自得だろ?」
僕は笑いながら返す。
「それは! まあそうかも知れないケド……」
そうか。あの夜の出来事は。あの父さんとの会話は。約束は。
こいつのおかげだったんだ。
そして何より。
「僕らは逢ってたのか。昔。あの時に」
「そうだね。まあお前は拉致った時は半分寝てたし、まだ小さかったから、昨日会ってすぐには思い出せなかったけどね。お前んちに行って、写真を見て確信したけど。お前の家と部屋もそれなりに覚えがあったよ。あのベッドで寝てるお前を拉致ったわけだし……全く、あの頃はそれなりに可愛かったのに、成長してこんなんになっちゃったのカヨ……お姉さんショックだよ」
「顔の事はほっとけよ! それに誰がお姉さんだ!」
それでも。
「お前には助けられてばっかだったんだな。改めて言うよ。ありがとう」
僕はこいつに、礼を言わなければならないだろう。
「へっ! でも昨日はブッ殺したからね! これでチャラって事で!」
満面の笑顔で凄い事を言いやがる。
「なんか釈然としない気もするが……それでも結果オーライだったからな。無事生き返ることもできたわけだし。仕方ない。誠に遺憾だが、そういう事にしてやるか」
うん。そういうことにしておこう。
「今日だって……。まあその、命かかってるし、あんな事してる暇はなかったはずだけど、ゲーセンで遊んだのは、や、やっぱ面白かったし……な」
「……それって、私と遊んだのが、って事……?」
……うぉう。言って後悔。今の発言、ちょっとこいつに弱みを見せてしまった気がしないでもない……。
しかし。
「へへ。まあ、私も楽しかったよ。ゲーセンなんて、誰かと一緒に入ったことなんてなかったしね。これで、格ゲーででも対戦出来ればもっと面白かったと思うけど」
天使はへへ、と満面の笑顔で言う。
……あーあ。
いつも、その笑顔でいてくれれば良いんだけどなぁ。
ああ、許すよ。
なぜならこいつは。
僕の敵であり。
僕の大恩人でもあり。
僕の親友でもあるからだ。
「それじゃあそろそろ帰るわ。もう『力』使い果たしてヘロヘロなのヨ」
腹を押さえ、なぜか舌をンベッとだしながら天使は言った。さっき、神が貞夫の家のバスルームに天界への扉を開いたという。
天使は帰ろうとしていた。こいつの。本来の居場所へ。
僕はバスルームの前まで、天使を見送るため付いて行く。
「ん~! こんな長い時間、人間界にいたの初めてかカモ! さすがに疲れたお」
「語尾が変になってるぞ。早く帰ってゆっくり休めよ」
帰る、か。はたして今後、こいつと再会することはあるのだろうか。
いつか、何十年後か。また会えるだろうか。今回だって、七年ぶりの再会だったわけだし。
「そうだ、忘れてた!」
天使は急に振り向いて、僕の目を見ながら言う。
「お前どうする? 天使の試験、受けんの?」
そう言えば、そんな話もしたな。天使か。なってみるのも悪くないと思う。いや、結構本気で、だ。
でも。
「いや。やめとくよ。少なくとも、今は、な。僕はまだ人間でいたい。人間界に居たいんだ」
断らなければならない。一瞬、『こいつと一緒にいろんな所で空を飛びながら仕事をするのも悪くないかもしれない』と思ったが。それでも。
「少なくとも母さんより後に死なないといけないんだ。僕は」
もう家族が先に死ぬ、辛い想いを母さんにはさせない。それが、父さんとの約束。『母さんを幸せにする』事の一つだと思う。
「だから、僕は生きるよ」
「そっか」
気のせいだろうか。そう言った天使は、少し寂しそうな。残念そうな顔をしているように見えた。……自惚れすぎかな、さすがに。
「それに、生きてたらいい事だって沢山あるぞ?」
「へぇ! 例えば?」
天使は笑顔で聞いてくる。
「アニメも見れる! 新作ゲームだってやれる!」
「そんな事カヨ……」
なんだよ、そのドン引きしたような目は!
「それに……天使なんて、すっげぇ存在にも逢えた」
「ハハッ、そうだね」
「友達もできたぜ? しかも女子だ! 凄いだろ!」
「……はっ! ははは!」
天使は破顔一笑した。その顔は……まあ……一言で言うのなら……。
――とても可愛かった。
! いや、待て! 騙されるな! こいつは性格最悪で極悪非道の最低スイーツ(笑)なんだから!
僕はそこまで面白い事を言ったつもりはなかったが、よっぽどツボに入ったらしく、天使は腹を押さえながら必死に笑いを止めようとしている。
「まあ、天使に出逢って、そのままのうのうと生き延びる人間ってのは、歴史上にも稀だからね。よかったね、お前。一つ個性ができたよ」
そんな個性はいらないけどな。他人に自慢したら、特別な病院送りにされそうじゃないか。履歴書にも書けないぞ。
「まぁ、まさか『神様』にも逢えるとは思ってなかったけどな。がっかりしたけど」
「でしょでしょ? まあダイジョブ! 近いうちに神様変わるから!」
そんな事言うと! ほら、またそこで聞き耳たててた金髪のオッサンが泣いちゃったじゃないか!
「……それに僕は、あの悪魔を殺したから。自分が生き返るために。あのハゲの人の分まで生きないといけない」
「……そっか。そうだね」
天使は何か言いたそうだったが、一応同意してくれた。
「うん。面白い事、まだまだあると思う。だから、僕はこの世界で生きて行く。……天使試験は、もし大学受験か就職活動に失敗しちゃったら、受けようかな」
「そんなハンパな気持ちじゃ落ちるよっ! 私だって死ぬ気で勉強したんだから!」
「でも本番はカンだったんだろ?」
「まね!」
運がいいなんてそんなレベルじゃない気がする。僕にも多少その幸運を分けて欲しいものだ。運が良ければ、土曜日の朝っぱらから路上で知らない女に殺されることもなかっただろう。
でも。
結局その女と、友達になれた。僕は運が良かったと言えるのだろうか。
「じゃあその時は、僕に勉強教えてくれよ」
「時給一万な」
「高すぎだろっ!」
会話が止まらなかった。こいつとなら、いつまでも話していられる気がする。こんな気がするのって、他には母さんと妹だけかもしれない。
でも、まあそうか。だって僕らは。
親友だから。
きっとこれが、親友同士のやりとりなんだ。
だから。
「志野乃木佳苗」
僕は右手を差し出して言う。
「ん?」天使は一瞬目をパチクリさせる。
「僕の名前。志野乃木佳苗って言うんだ。お前の名前は?」
思えばこの一日、僕らは互いの名前すら知らずに、一緒に命を賭けて、預けて戦ってきたのだ。しかし、お互いの名前を知らない親友同士なんていないだろう。僕はこの少女の名前を知りたいと思ったし、そして僕の名前を知ってほしいと思う。そして、最後に握手がしたかった。
こいつと。僕の大恩人と。親友と。
「私の名前は……」
満面の笑顔。
「教えねぇよヴワ―――――――――――カ! アヒャヒャヒャヒャヒャ」
……。
超・馬鹿にしきった顔で嘲笑しやがった! こいつ! せっかく人が最高の雰囲気で言ったってのに!
「私の名前が知りたいだァ~? 千年早ぇよ下等生物! チョーシに乗んなっ! ヒャヒャヒャヒャヒャ」
最悪だった。こいつマジで性格最悪だった! チクショウッ、なんて糞アマだ! 僕の感動を返しやがれ! 本当、最後の最後まで――
「エレナ」
「……へ?」
急に何かを言われたので、すぐに反応することが出来なかった。
「だから、エレナだっつの! 私の名前! 知りたかったんだろ? 仕方ないからぁ~、超優しい私がぁ~、モテない可哀想な童貞君に名前教えてあげたんだヨ! 感謝しな!」
天使……エレナも右手を差し出してくる。最後の最後まで。本当に面倒くさい奴だった。
僕達は握手をした。親友との握手。天使と人間の握手だ。天使の手は、意外なほど暖かくて、すべすべしていて、そして小さかった。
十秒ほどで、どちらからともなく手が離れる。
「そっか。エレナ。いい名前……なんじゃねぇの?」
「なんで疑問形だぁ!?」
エレナは不貞腐れて、何やらブツブツと悪態をつきながらバスルームのドアを開く。
そこは扉だ。天界への扉。すなわち僕らの別れの場所。昨日は一緒にここから天界へと行った。
今日は。エレナ一人だ。僕は外にいるだけ。
エレナはバスルームに入って、中からドアを閉めようとした。
「おい、エレナ」
最後に。僕は何かを言わなければならない。そう思ったが、でも僕は、生憎別れの言葉って言うのが苦手なんだ。
「ん?」
エレナのドアを閉めようとする手が止まった。
「天使の仕事、せいぜい頑張れよ。もうミスすんな」
激励になってしまった。これじゃあ別れの言葉になってないな。
「ん」天使は素直に頷き、そしてまた不敵な、太陽のように明るい笑顔に。
にぱーっと笑いながら。
「お前もせいぜい、人生頑張りな。もし、お前が死んでまた意識体になれたら、私が天界まで『送って』やるよ」
「その時は、ミスをしないようにな。間違って意識体の僕を消さないでくれ。人間違いもするなよ?」
「へっ! 誰がお前のその憎たらしい顔を忘れるかっての!」
エレナは口を尖らせ、そして、
「またね! バイバイ、佳苗!」
一気にドアを閉めた。直後水が流れる音。再び無音が訪れる。
「ああ。またな、エレナ。また今度」
僕がバスルームのドアを開けると。
もう中には誰もいなかった。
「お前ら、本当に仲がいいなぁ」
さっきまで無様にも地べたに這いつくばって泣き叫んでいた金髪のオッサンは、どうやら気分が落ち着いたらしく、ソファの上で片肘をついて寝そべっていた。今までのやりとりを全部見てたのかよ。悪趣味だな。
「あんたは帰らないのか?」
「馬鹿言うな! 俺はこの後アキバに行かなくちゃならない」
そんな真剣な表情で言われましても……。
「……なあ。聞きたいことがあるんだけど」
僕は、どうしてもこの男に聞きたいことがあった。
「おお! 迷える子羊よ! お前に教えていい事だったら、なんでも答えてやる。教えていい事だったら、な」
神は意地悪そうに、ニヤリと笑いながら言う。この一日二日の間に、もう何度も見た表情だった。憎たらしく、しかしまるで芸術作品のように神聖で、それでいて子供っぽさもある顔だ。
教えていい事だったら、か。
「あの悪魔……になったハゲの人。偶然にしちゃ、いいタイミング過ぎたんだ。僕らはただ東京で遊んでいただけなのに。あれってもしかして、あんたが?」
巡り合わせてくれたのか? 僕にはそう思えた。しかし。
「言ったろう? 俺は神と言えど、あんまり人間の人生とか行動を弄れないんだよ。だから、それは偶然なんじゃないのか? お前らの運が良かったんだろうよ」
神は笑いながら言う。本当だろうか。
「全部あんたのシナシオ通りだったんじゃないのか? たとえばあのハゲが悪魔に成った時、天使……エレナは『悪魔と戦うエキスパートがもうすぐ来るはずだ』って言っていた。でも、そんなの結局来なかった。エレナがあの悪魔を倒すような活躍をしないと、処分を軽くする口実がないもんな。あいつは今回の件で、本来なら天使の資格をはく奪とか、されてたかもしれないんだろ? だから、あえてあんたは応援の天使を寄こさなかった。違うか?」
我ながら、結構核心を衝いていると思う。
が、しかし。神の反応は。
「お前がそうだと思うんだったら……そうなのかもしれんな」
あくまで教えてくれないつもりか。
「あんたはなんだかんだ言って、あいつを……エレナの事を見捨てる気なんてなかったんだろ?」
「さぁ? どうかな」神はクックッと笑いながら僕の方を見て、一言。
「まぁ全ては『神のみぞ知る』ってやつだよ、人間の少年」
茶化した。
「結局何も教えてくれないじゃないか。神のくせに」
その一言に、神はピクッと眉を動かし、急に不機嫌な顔になった。
「はっ! 神なんてモノはな、本来人間には何も教えてやってなどいないんだよ。お前ら人間の言うところの『神』ってのは、自分達の都合よく、自分達だけを守ってくれる存在だろ? 偶像崇拝だ? 見たこともない存在をなぜ知っているかの如く絵を描き、像を造れる? なぜ神が人間の姿をしていると知っているんだ? 結局はお前ら人間が、自分の理想を描いたものに過ぎないんだよ、お前らの言う『神』なんてものはな。神は何も教えない。『神の教え』なんてものは所詮他の人間をコントロールするために、自分勝手な人間如きがまるで神であるかのように造り出した『偽物』なんだよ」
「酷いことを言うんだな」
この世界に恐らく何億、何十億といるであろう、神を信仰する人々が、今のまさにその神からの『お言葉』を聞いたら、一体何を思うのだろう。幸い僕は無宗教者なので、何とも思わないが、それでも今の言い草は、あまりにも酷いのではないかと思う。
「酷い事? 俺は一度たりとも『俺のために死ね』なんて事を人間に言ったつもりはないんだぜ? なのに、どいつもこいつも『神のために』って簡単に命を捨てやがる。これじゃ、俺が殺しているみたいじゃないか。お前はせっかく『俺』に会えたんだ。他の人間よりかは賢く生きるんだな」
この人にも、思うところがあるのかもしれない。冷めきった表情。今までに見た事がない、これがこの人の素の表情だと思う。
「……『神』ってのも、大変なんだな」
「ああ。大変だな。今はいかにして次の国会で提出されるらしい不信任案を乗り切るかを考え中だ。なんかいいアイデアあるか?」
「生まれてこのかた選挙の投票もしたことない一六のガキに聞くなよ!」
どうぞ、ご自分で勝手に考えてくださいって感じだ。
「次の人に、『神』のイスを明け渡したら?」
「絶対ヤダ」
「ガキかよ!」
権力にしがみ付こうとする人間ほど惨めで滑稽で最悪なものもない。
「支持率一パーになってもやる」
「民意とかはいいの!?」
「俺は何をしたって許される。なぜなら俺は『神』だからだ」
「いいやお前は悪魔だ!」
独裁国家のトップみたいな事を言いやがる。いや、独裁政権のトップならまだいい。これがこの世界の『神』だって言うんだから、余計最悪だ。
「うむ……まあ」
顎に手を当てて、言っていいものか……とでも思っているのだろうか、考えている素振りを見せながら、神は口を開く。
「あいつはな、運だけはいいんだよ。運だけは、な。頭はアレだけど」
あいつがこの場にいたら、ブチ切れてそうな事を言った。けどたしかにあいつも、『私は運がいい』とか自慢げに言っていたっけ。そして頭がアレというのも、僕は全面的に同意だ。
「それに、あいつは“特別”なんだ」
「特別? あんたにとって?」
「いや、そうじゃない」
神は首を横に振って否定の動作をとり、話を続ける。
「才能……と言えばいいのか、なんと言えばいいのかは解らんが、とにかくあいつは特別なんだ。神に……俺に、という意味ではなく、何か見えないものに、と言うように使われる意味で、あいつは“神”に愛されている、と言っていい。あいつは“人間としては”直ぐに死んでしまったが、仮に人間界で長生きしていたら、恐らく歴史の教科書に太字で、それもとびっきりの重要人物名として数千年後まで語り継がれるほどに、偉人あるいは人類史上最悪の悪人として、名を残していただろう。そういう奴なんだ。素質で言ったら俺なんかを軽く凌駕するほどに」
神は、今までに見たこともないほど真面目な表情でいう。
「じゃあ、あいつを次の神にしたら?」
「世界が二日で滅んでもいいと言うなら、そうしてやってもいいがな」
ああ、そりゃ困る。そして世界が二日で滅ぶ、と言う事を否定出来ないところが、また一段と困る。
「まあ、こうなる事が、お前らにとっての『運命』だったのだろうよ」
神は僕に言い聞かせるように、納得してほしいかのように、この話題を締めようとする。
運命だとか必然だとか、そんなものは目に見えるものでもないし、ゲームのように『こうすれば、こういうルートになる』なんて事が分からない以上、僕はこの男の話を信じる他はなかったが、やはり僕は納得がいかなかった。勝手にだが、やはりすべてはこの男の掌の上だった、と思うことにする。
と、
「そうだ。最後にもう一つ。どうしても聞きたいことがあったんだけど」
そう。僕は聞きたい事があった。それを一度エレナに聞いたけど、なんかちゃんと解答してくれなかった気がするんだよなぁ。
「なんであいつは、僕を標的と間違えたのかな?」
エレナは大変失礼なことに、僕の心が穢れまくっていたからだ、とかなんとか言っていたけれど、実際そうなのか? だとしたら、僕もいずれあの人みたいに、狼人間になってしまうのだろうか。
「ふむ。お前の心は穢れ切っているな。それは否定しない」
「否定してくんないの!?」
そんなに穢れてんのか!? 今まで他人を傷つけたりなんて事、僕はしたことがないけど!
「考えてもみろよ。華の高校生活の三連休、いかに家に引きこもってアニメみて過ごそうか、なんて事考えてる奴の心が穢れてないわけがないだろう」
「テメーにだけは言われたくないんですけどぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
少なくともこの趣味について、あんたにだけはとやかく言われる筋合いはねーぞ!
しかし神はそんな僕の怒りを華麗にスルーして、ニヤリと不気味に笑いながら言う。
「……だから、運が良かったんだろ?」
「はぁ? どういう意味だよ?」
「あいつは、自分の任務を一緒に達成してくれる“生まれて初めて”の親友に出逢えたんだ。だから、結局はあいつの運が良かったのだろうよ。……いや、運命だった、と言うべきだろうな、それも」
「……なんだよそれ」
納得いかないぞ。なんかはぐらかされている感じだ。
「まあ心配するな。お前の心が穢れているってのは、悪魔化の手前ってわけじゃない。それとはまた違う性質の『穢れ』だ。要するにお前がクズだって話だ」
「だからテメーにだけは言われたくねーよ!」
僕は確かに他の人間たちに比べて、クズなところが……まあ無くもないかもしれないけれど、それでも、少なくともこの連休で知り合った、三人の『天界関係者』の連中にだけは、言われたくない。お前らよりはクズじゃない自信があるぞ!
……多分だけど。
「……ま、そういうことだ。質問はそれで終わりか?」
神は改めて、話を締めるように聞いてくる。
「どうせ他は何も教えてくれないんだろ? 諦めたよ」
「ハハッ。じゃあ俺はもう行くぞ。お前も帰ったらどうだ? ここは天界サポートセンターだぞ、一応」
神は立ちあがり、僕に背を向けて、この部屋の唯一の出口であるドアの方へ歩いて行く。たった今気付いたのだけれど、部屋はとっくに暗くなっていた。会話に集中していたためか、全く気付かなかった。窓の向こう、遠い彼方で、日が今まさに沈みきろうとしているのが見える。まもなく夜が訪れようとしていた。昨日の夜はあんなにも騒がしく、やかましく、しかしなんだかんだと楽しかったこの部屋も、今はただ暗く、そして静かだった。
「違う。ここは田中貞夫の家だ」
「……そうだったな」
暗くて顔はよく見えなかったが、笑っているようだった。
……そうだ。僕はこの男に、どうしても言いたいことがあったんだ。
「なあ! お願いがあるんだけど」
「……あん?」
神は怪訝な顔で、僕の方を振り向く。
「お願い? なんだ、とりあえず言うだけ言ってみろ。それから考えてやる」
神は僕に話の続きを促す。
「ここの田中貞夫。東京都の最低賃金以下で、あんたたちにこき使われてる。もうちょっと時給上げてやってくれてもいいだろ?」
一瞬の間。
しかし、神はすぐに噴き出した。
「ハハハハハ、そうか、田中貞夫センター長な! なるほどなるほど!」
神は顎に手を当てて考えている素振りを見せると、
「そうだな。今回の件では、俺の不肖の部下が大分世話になったみたいだ。考えておこう」
神は実に爽やかな。それを見たこの世の女性全てを恋に落としそうな笑顔でそう言った。
――次の瞬間には消えていた。文字通り。この部屋から。
いや、この世界から、かもしれない。
部屋には僕一人。
サバゲー大好きなオッサンも。神も。天使も。
もうこの部屋にはいなかった。
黒髪男が一人。
ただ一人、ポツンと、ただ広く、ただ暗く、ただ静かな部屋の中央に立っていた。
九月のある火曜日の事である。朝から晴天で、日差しはまだ真夏そのものだった。
僕は都立高校に通っている、多分ごく一般的な男子高校生だ。学年は二年、成績は中の上。
今日は土・日・月と続いた三連休明け、いつもとは違う火曜日からの週初め。僕は今、学校に向かっている途中だ。
正直、この三連休は休んだ気がしなかった。土曜日の朝、僕はいきなり見知らぬ少女に撃ち殺された。
少女は『自分は天使だ』と名乗る電波少女で、彼女と一緒にサバゲーオタクのオッサンの家に行ったり、挙句には天国へ行って神様と逢ったり。一緒に山手線沿線ブラリ旅行をして、大都会・東京のオフィス街で悪魔なんてものと戦った。最後には天使に掴まって東京の空を飛んでしまった。誰も信じてくれないだろうなぁ。
いろんな事があり過ぎて、身体中が痛いし重かった。
あの後ヘロヘロになりながら何とか自分の家にたどり着くと、玄関に倒れ込み、そのまま半日以上寝てしまった。
翌日の昼過ぎ、ようやく起きた後に未だボロボロの身体を引きずって二階の自室に入ると、部屋の中央に二つ、どこか見覚えのある紙袋が置かれていた。
中身は、最近の若い学生が着ていそうな、ナウでヤングでイケイケな服。
そして紙袋の一つには、たった一人きりで、しかし満面の笑顔を向けた少女が写っているプリクラが、一枚貼ってあった。一人ぼっちでプリクラを撮っているくせに、しかし彼女はなぜか中央ではなく、左側に寄っている。まるで右側のぽっかりとした何もない空間に、何か見えないものでも居るのかのように。居たのかのように。
……いつの間に置いてったんだか。僕は紙袋からプリクラを破れないように慎重に剥がすと、携帯の電池カバーの裏に貼り移した。
ま、こんなものでも記念だからな。ただ捨ててしまうにはもったいないしね。
そう言えば、テレビのワイドショーは連日ある話題で持ち切りだった。
東京は丸の内の高層オフィスビルで連続爆弾事件があったとか。ニュースによると、爆破の前に『ビッグボス』と名乗る謎の男が『そのビルに爆弾を仕掛けた。解除して欲しければ一千万円用意しろ』と脅迫電話をしてきたらしい。電話の前にビル一階のエントランスを爆破する、というデモンストレーション付きの徹底ぶりだ。
なぜ、わざわざオフィスビルなんかに爆弾をしかけたのか? なぜそこまでやっておいて、一千万なんて小額の要求だったのか。それは不明だそうだ。
しかも、最終的にこの犯人は二度爆弾を爆発させている。電話の数十分後、屋上に仕掛けられた爆弾を起爆させたらしい。幸い最初の爆弾は小型だったし、脅迫電話があってすぐにビルの中に居た人達は全員避難していたので二度の爆発で死傷者はでなかったそうなのだが、結局その後一切犯人側からの連絡はなかったという。金目当ての犯行ではなく、ただ単に自己顕示欲の強い爆弾オタクなのでは? というのが世間での見解のようだ。犯人の素性はまったくもって不明。電話の発信元も分からないらしい。警察は第二の犯行が起こらないよう、捜査を続けつつ十分に警戒しているという。
僕はその爆弾オタクではなく、実はミリタリーオタクの残念なオッサンが捕まらないと聞いてホッとしていた。
それにしても! ようやく取り戻した普通の日常である! アスファルトで “おろされた”ために、背中の皮はベロンベロンに剥けていて、お風呂に入ったら死ぬほどしみたし、左わき腹も、肋骨が折れていそうなくらい、めちゃくちゃ痛かったけど。
しかし、もう命があと一時間チョイで消えるとか、そんな心配はしなくていいのである! この世界の、全ての『モノ』に触れることが出来るのである! ゲームも出来る! 漫画も読める! 最高だね! ビバ! 普通の生活!!
僕はあの二日間の事を、あの少女の事を、親友の事を、一緒に遊んだ事を、また会おうという約束の事を、今後の人生で一生忘れないであろうけれど、忘れられないであろうけれど、でも、何の取り柄も特殊能力もない、ありふれた一般人たる僕には、やはり命の危険がない、フツーの生活が一番である!
――しかし。
普通の生活とは、一秒もあればまたたく間に崩壊するものである。
それを僕はこの連休で知ったというのに。学んだ……はずだというのに。
教訓は、全く役に立たなかった。
ポケットから、聞きなれた電子音と振動。どうやら携帯電話にメールが届いたようだった。僕は歩きながら携帯を取り出して、メールを確認する。
差出人。知らないアドレスだった。
件名・『オワタw』
果てしなくイヤな予感がする。このメールは絶対に開いてはいけない! ただちに本文を開く前に消去すべきだ! 僕の本能が、そう告げていた。
が。しかし。もしかしたら間違いメールかもしれない。それか、件名がアレなだけで、実は僕の数少ない携帯アドレスを知っている人からの『アドレス変えました』メールかも知れない。
もしそうだったとしたら、本文を確認もせずに消去してしまうのは失礼である。
いや、こんな題名でメールを送ってくる時点で、既に僕に対して失礼な気がするけど。
――やめとけ。
本能が必死にそう制止したが、ついつい本文を開いてしまった。
これが運の尽きである。平和な日常の終わりである。
いや、違うな。こんなことしなくても、とっくに僕にとっての『平和な日常』は終わっていたのだろう。
いつか。このメールが届いた時? いや違う。
多分、三日前。あの土曜日の朝に、だ。
僕は今、それが分かっていて、こうなることが分かっていて、メールを開いたのかもしれない。開きたかったのかもしれない。
そして。
本文・『またやっちったヨ(笑)』
誰が送ったメールか。考えなくても分かる。分かってしまった。一人の少女の、満面の笑みが僕の頭の中に思い浮かぶ。
その時。
「いよっ!」
僕の背後から、少女の声がした。聞きなれた声。懐かしいような、そうでもないような声。出来れば生きている間にはもう二度と聞きたくなかったような、でも昨日は聞けなくて少し寂しかったような声。
僕はゆっくり振り返る。
にぱーっと。少女が僕を見て、笑っていた。
上はへそ出しの真っ黒なTシャツで、下はところどころ破けたダメージジーンズ。
履いているブーツは、茶色い革製だった。このファッションはトレンドに疎い僕が見ても、正直微妙だ。
彼女の肌は真っ白だった。この世のものとは思えない、まるで新雪のような白さ。
身長は、一七〇センチの僕と同じぐらいで細身であり、スタイルは良いほうだろう。
そして何より美しかった。顔立ちは非常に整っていて、セミロングの金髪に碧い双眸が、また少女の美しさを格段に引き立てていた。
服装こそ奇妙だったものの、しかしその全身からは気高い、神聖なオーラが滲み出ていた。
こんな下町には似付かわない美少女。笑顔の少女。その少女は、
「ぃよっ! 佳苗っ!」
ひょいっと手を挙げ、僕にそう話しかけてきた。
「お前……なんで居んの?」
他に言う事もあるとは思うが、とりあえず聞きたいのはこれである。
なぜここに居るのか。
「ハハッ! それがさ~聞いてよっ! 私、異動になってさ! んで、次は『守護課』に配属になったのヨ。あ、『守護課』てのはぁ、『将来的に人類に有益な結果を残すであろう人間を守る』っていう部署なんだけどぉ」
「はいちょっとストップ!」
「で、お前の担当になっちゃったから」
――さらっと。満面の笑みで。とんでもねぇことを言いやがったよコイツ……!
「ちょっと待って! 整理させて……っ! だって『人類に有益』って! 僕はそんな大層な人間じゃないだろ、どう考えても!」
「でもでも、神様が行けって言うから。『あいつは大物になる』って褒めてたヨ、お前の事! よかったねぇ」
「超嬉しくねぇ!」
絶対嫌がらせに決まっている! あの糞野郎!
「……と言うことで、これからは二十四時間いつでも一緒ダネ!」
そう言って僕の腕に抱きついてきやがった!
「やっやめろ離せっ! つーか嬉しくねぇ!」
「そうそう! 渋谷で買った服! まだお金もらってないよ! さっさと返せ!」
「その前に! 僕の話を聞けっ!」
「あ、そうだ。そういえばさ、たった今ここに来る前に、ちょっちヤバい事やっちゃってサ!」
「またかよ!? 今度は何やらかしやがったんだテメェは!」
「だからぁ~、ついてきてっ!」
僕の腕を引っ張って、いきなり走り出す金髪女。
天使。
エレナ。
「おいっ! ちょっと待てよエレナっ!」
「待たない待たない! これが結構さぁ、ヤバいことになっちゃっててさぁ!」
「じゃあ笑ってんじゃねぇよ!」
――へ? お前も笑ってるぞって?
いや、気のせいじゃないかな。僕は笑ってないぞ。むしろ怒りたい気分だね! 泣き出したい気分だね! せっかく普通の日常を取り戻したばかりだっていうのに!
――いや、違うか。
「いいからいいからっ! 行くぜっ佳苗!」
――どうやら僕の日常は、まだまだ全て元通りというワケにはいかなそうだ。
それを望んだのは、神なのか。
天使なのか。
人間なのか。
ま、だれでもいいや。