前編
――世界が、止まった気がした。
映画やテレビでよく聞く、拳銃の発砲音。実際にこの耳で聞いたことは、今まで生きてきた中で一度たりともない。いや、あったらあったで困るのだけど。
それを僕は、たった今聞いた。
東京都内の路上である。朝だった。
視界に灰色の空が広がる。身体が後ろに倒れていくのが分かった。やがて視界が揺れる。身体は地面に激しく打ち付けられたのだろうが、痛くはなかった。全ての感覚が失われていくのを感じる。
薄れゆく意識の中で、最期に僕が認識できたものは――。
見知らぬ少女の焦った表情と――
「やっべ……もしかして、やっちゃった……?」という声だけだった。
九月のある土曜日の事である。朝から曇ってはいたが、それでもまだ残暑が厳しい。
僕は都立高校に通っている、多分ごく一般的な男子高校生だ。学年は二年、成績は中の上。得意科目は日本史、苦手な科目は数学。特筆すべき事は特にない。残念な事に。今から、将来履歴書を書くときの事が心配でならない、なにも代わり映えのしない毎日を送る、ありふれた一六歳だと自分は思っている。
休日にどこかへ一緒に遊びに出掛けるような友達はいなかった。寂しくない、と言えば嘘になるが、それでも学校に行けば日常会話をするクラスメイトくらいは何人かいるし、僕は休日をゲームやアニメを見て家でまったりと過ごすのが好きなので、不満はなかった。
月曜日が祝日のため、三連休の始まりだった。家族は僕を残して泊まりで出かけている。家には三日間、僕しかいない。何をするのも自由なのである。これは、高校生くらいの青少年にとっては最高と言ってもいいシチュエーションだ。
僕は、大きな鞄を持って出発する家族を見送り、コンビニに月曜祝日のために土曜日に早売りされる週刊少年誌を立ち読みに行くところだった。コンビニから帰ったら昼ご飯を食べて、それからこのあいだ買ったゲームをする。夕方六時からのアニメを見て、夜ご飯を食べて、お風呂に入って――。またゲームをして、深夜アニメを見てから寝る。
リビングで堂々とアニメを見る事ができるし、ゲームもできる。好きなものを食べて、好きな時間に寝る事ができる。
たった三日間だが、できる限り自由に、自堕落に過ごそうと思っていた。
そんな、三連休の初日の事である。
僕は路上で、見知らぬ少女に射殺された。
目が覚めると、そこは道のど真ん中だった。頭がまだ覚醒しきっていなかったので、すぐにここがどこの路上なのかは分からなかった。
やがて、そこが家の近所にある公園前の通りだということに気付く。自動車は通れない道だ。だから、倒れていても車に轢かれることはなかったのか。
なぜ、こんなところに僕は倒れていたのか。記憶が少しずつ戻ってくる。
たしか――コンビニに行こうとしていて――家を出た。駅の方へ向って歩いていて――。誰かに呼び止められた。あれは誰だったのだろう。その人は僕に向かって何かを言っていた。確か――
「こいつに違いないわー!」とか……。
「すぐ見つかってラッキー!」とかだった気がする。
僕は、『その子』が何の事を言っているのか分からなくて――。
その子。
そうだ、たしか女の子だった。見た目は僕と同い年か、せいぜいプラスマイナス二、三歳といったところだったはずだ。日本人ではなかった。
奇妙な格好をしていた。上はへそ出しの柄も模様もブランドロゴもない、ただただ真っ白なTシャツで、下はひざ上の短い、これまた真っ白なショートパンツ。履いているブーツも、またまたこれも真っ白だった。暑いという気持ちは分かるが、このファッションは昨今のトレンドに疎い僕が見ても、正直微妙だ。
しかし、服よりも目を引いたのは、彼女の身体的特徴の方だった。彼女の肌は、その真っ白な服装よりもさらに純白だった。この世のものとは思えない、まるで新雪のような白さ。身長は、一七〇センチの僕と同じぐらいで細身であり、スタイルは良いほうだろう。
そして何より。
とにかく美しかった。北欧系というのであろうか、顔立ちは非常に整っていて、セミロングの金髪に碧い双眸が、また少女の美しさを格段に引き立てていた。服装こそ奇妙だったものの、しかしその全身からは気高い、神聖なオーラが滲み出ていた。
純白の少女。その少女は、手にただ一つ黒いものを……拳銃を持っていた。
そうだ。思い出した。僕は撃たれたんだ。あの真っ白な、奇妙な格好をした少女に。なぜなのだろう。僕は、誰かに恨まれるような事をした覚えはない。いや、仮に誰かに恨まれていたとしても、普通拳銃で撃たれるようなことがあるだろうか。
分からない事だらけで頭は混乱していたが、目が覚めたという事は、おそらく僕は助かったのだろう。手と足を動かしてみた。ちゃんと動く。僕は確かに生きていた。
首だけ動かして周囲を見渡してみると、周りには誰もいなかった。しん、という音が聞こえそうなくらい、辺りは静寂に包まれている。大都会・東京の道路の上で人ひとり倒れていたというのに、誰も気付く人はいなかったのだろうか。それとも、危ない人だと思われて避けられていたのだろうか。
周りは閑静な住宅街で、公園に一軒家が数件、マンションが道の両脇に二棟、それに随分前に閉鎖になったと聞く廃工場しかない長いこの公園前の通りは、元々そんなに人通りの多い道ではないが、それでも奇妙な事に思えた。土曜日の朝だから、子供たちも公園なんかで遊ばずに、家でゆっくり過ごしているのだろうか。そもそも、今は一体何時なのだろう。どのくらいの時間、僕はこの道の上で寝ていたのだろうか。
家を出た時は、たしか九時を少し回ったところだった。そんなどうでもいい事ばかりを考えていると、ふいにポケットの中が気になった。財布は? 携帯は? もしかしたら寝ている間に盗られてしまったかもしれない。確認しようと身体を起こしてみると、僕の足元にあるはずのないモノが倒れていた。
というか僕だった。
僕の顔をした人間が、道路に倒れていた。
あれ? これでも一六年間付き合ってきた顔である。この顔に生まれてきて得をしたことは今までなかったが、それでも愛着はあった。だから、間違うはずはない。人生においてもう一六年、毎日鏡で見てきた顔なのだから。もう一度、確認してみる。やはり僕だった。
……。じゃあ、僕はなんだ? 今、実際にここに立っている男は? 路上で眠むりこけている、不審な人間を見下ろしている男は? では、倒れている男は?
……。
……!
「ふぅ……夢か」
そう結論付ける。これは夢だ。そうに違いない。もう一度寝れば、おそらく次に目覚めるのは、自分の部屋のベッドの上だろう。
なぜなら、僕は見知らぬ少女に、いきなり拳銃で撃たれたからだ。
なぜなら、撃たれたはずなのに、こうしてまだ生きているからだ。
なぜなら、僕にそっくりの顔を持つ男が、道のど真ん中で倒れているからだ。
この倒れている男は、決して僕の双子の兄弟などではない。僕に兄弟は、妹しかいない。だから、悪夢に違いなかった。フロイト先生に聞けば、この夢の意味を教えてもらえるのだろうか? 別に教えてほしくもなかったが。
という事で寝よう。おやすみー。僕は、僕と同じ顔をした男の隣で寝ようと、屈んで片膝を地面に付け、寝っ転がろうとする。固いかなぁ……なんてどうでもいい事を考えていたその時。
「あれ? 『意識体』になったんだ。やっぱり。私のことも見えていたみたいだし、すこしおかしな人間だとは思ってたケド」
「……」
不意に、後ろから声がした。
「あれ? もしもーし? 聞いてる?」
少女だった。
真っ白な少女だった。
奇妙な少女だった。
つまり、先ほど僕に向けて銃を構えていた少女だった。僕を撃った少女だった。
とても明るい、思わず心を奪われるような笑顔だった。
「おーい、人間。聞いてるなら返事しろよ」
しかし、いろいろと意味が分からない。初対面の人に対して『人間』という呼称で呼び掛ける、この少女は何者なのだろう。そして、一番意味が分からなかったのは……その少女が、大きい、工事用のシャベルを持っていることだ。あまりにも格好と持っているものが不釣り合いだった。
「それ……そのシャベルは何?」
他に聞きたい事があったはずなのに。
他に聞かなければならない事があったはずなのに。
こんな事しか聞けなかった。
仕方がない! だっていろいろ意味が分からないんだもん! 僕の頭はパンク寸前だ。
「ああ、これ?」
少女はシャベルに視線を移すと、再び僕の顔に視線を戻してから笑顔で言う。
「埋めようと思ってさ。そこの公園の花壇の裏に、穴を掘ってたんだ」
そりゃあシャベルを持ってする事といえば、穴を掘るくらいしかないだろう。問題は、何のために穴を掘るか、だ。
「何を埋めるの?」
「お前」
ピッと僕を指さす。ふむ。ますます頭が混乱した。この少女は、今なんて言ったんだ?
僕は、そのシャベルで何をしている? と聞いたところ、埋めるために穴を掘っていた、と少女は答えた。何を? と、もう一度問うた僕に対して、お前を。と返されてしまった。
「えーっと……なんで?」
「なんで? って……証拠隠滅? まあ、お前が『意識体』になってくれちゃったおかげで、無駄骨だけどねー」
聞きなれない単語が出てきた。が、気になるのはそこじゃない。
「……なんの証拠隠滅?」
「いや、お前をさ、殺しちゃったわけじゃん? ついうっかりさ」
意味が分からない。付いていけない。
「殺した? 僕を?」
「あれ! 気付いてなかったの?」
「何に?」
「だってお前、明らかに肉体と精神とが乖離しちゃってんじゃん。ほら」
少女はそう言って、地面に倒れてる僕と、現に会話をしている僕を交互に指さして見せた。
「え? これ? 僕と同じ顔をして倒れてる、これのこと?」
「そうそう。その粗大ごみのこと」
「あんた、今初対面の人のことを、粗大ごみ呼ばわりした!?」
「あっごめん……ついうっかり本音が……」
「本音!? なお悪いわ!」
いや、そんなこと今は問題じゃない!
死んだって言われた。死んだって……。意味が分からない。だって僕は、今もこうして生きてるじゃん。立ってるじゃん。会話してるじゃん。この少女は、もしかして頭がおかしい子で、タチの悪いいたずらに付き合わされているだけなんじゃないのか?
「僕が死んだって……証拠は?」
「証拠って……お前、今まさに『意識体』になってるじゃん」
「意識体? 意識体ってなんだよ? もっと分かりやすく説明してよ」
いきなり意味の分からない単語を出されてしまった。少女は話の噛み合わない僕に対して、だんだんと苛立ってきているようだった。
「だから〜、お前は今、精神と肉体が乖離してるでしょ? 今まさに私と会話してるお前には、肉体がないじゃん!」
「肉体がないって?」
ここで幸せそうに、東京都内の路上の上で、土曜日の朝からまるで家なき子のように惰眠を貪っているように見える痛い人間、というか『僕』が、僕の『肉体』? 意味が分からないぞ。もっとちゃんとした説明を――。
「だ〜か〜ら〜!」
少女は苛立ちの声で僕の言葉を遮って、ピッチャーの投球フォームのように構えた。ただし、少女の手に握られているのは野球のボールではなく、シャベルだ。
「こういうことだって! 言ってんだよッ!!」
それをあろうことか、僕の顔面めがけて投げ飛ばしてきた。
もう一度言おう。彼女が投げたのは野球ボールではない。
長さ一メートル以上はゆうにあろう、シャベルである。
不思議と、僕には目に映る世界全てがスローモーションのように見えていた。
衝撃波が見えた気がする。音の壁を越えたのかもしれない。まるで弾道ミサイルのようだ。人間が、こんな勢いでシャベルを投げられるはずがない。槍投げの選手だって不可能であろう勢いで、しかし少女はシャベルを投擲した。僕にめがけて。身体は全く反応出来なかった。
しかし、意外にも頭は冷静で、これが当たったら頭が吹き飛ぶのではないかとか、むしろこの勢いで当たれば、即死で苦しまずに即死するんじゃないか、なんて事を考えていた。
が。
結果的にそのシャベルが僕の顔に直撃することはなかった。あきらかに直撃コースで、ミサイルのように飛んできたのに……。そのシャベルは、僕の頭をすり抜けていった。
そして……僕の後ろで激しい振動と共に、何かが崩れ落ちる音がする。
僕は凍りつき、その場に直立して動くことができなかった。
数十秒、いや、もっと経過しただろうか。やっとの思いで身体を動かすという動物としての能力を思い出し、振り向くと……後ろに建っていたはずの廃工場が、大きな音を立てて崩れ落ち、瓦礫の山と化していた。
僕の身体は、完全に畏縮していた。今になってようやく、身体中から嫌な汗が噴き出してきた。
シャベルか? あのシャベルで、こうなったのか?
「おーい」
少女の声で、我に返る。声の主の居場所を探す。少女はいつの間にか公園の中に入っていたらしく、おもむろに屈みこむと、いくつか足元の石ころを拾って、いきなり僕に投げつけてきた。とっさに腕で顔を守ろうとしたが、しかしその石ころも、僕の身体をすり抜けていく。僕の身体に当たることはなかった。
「え……なんで……?」
「ほらね! 今のお前には肉体がないから、こうしてこの世界の物質をすり抜けちゃう」
そう言いながら少女は、僕の方にトトトッと小走りで近づいてくると、どこかで拾ってきたのだろう木の枝で、僕の身体を突き刺す動きをする。が、しかしその棒もまた、僕の身体に触れる事は出来なかった。
「今の僕には、肉体がないから……当たらない」
「そう」
「それが……『死んだ』ってことか?」
「そうそう!」
少女は、笑顔で相槌を返す。
「まぁ正確には仮死状態かな」少女は、そう付け加える。
「つまり、今こうして思考して会話して手足を動かしている、“この僕”は、死んで精神だけが肉体から出てきちゃってる状態ってこと?」
「やっと理解できた?」
少女は、にぱーっと明るい笑顔になる。
よし、オーケー。百歩譲って、その話を信じるとしよう。しかし、そうすると、ここで大きな疑問が生じてくる。
「で、そうなった原因は?」
「だから〜、私が人間違いで殺しちゃったんだって。ごめんネ!」
右ストレート。渾身の一撃を、この女の顔に放っていた。なんかいろいろ砕いた音とか感触がする。
「いってー! ふざけんな!」
涙目で、鼻をさする少女。
「ふざけんな!? こっちのセリフじゃボケェェェ!」
「急にキレた!? カルシウム不足? 近頃の若いモンはキレやすいと言うけど! 本当だった!」
「誰だってキレるだろうが! 殺されたらさぁ! 少しは殺された方の気持ちにもなれよ!」
我ながら凄いセリフを吐いていた。
「そもそも、お前は何なんだよ!? 今どうやってシャベルを投げた? 人間のパワーじゃなかっただろ!」
「いやぁ、そりゃまあ、私は人間じゃないしねぇ」
……電波さんだった。と言いたいところだが、たった今僕はこいつの人間離れした力を見せつけられたところだ。少なくとも、人間じゃないというのは本当のようだ。
「じゃあお前はなんなんだよ!?」
「私? 私は『天使』だヨ」
「馬鹿も休み休み言えよ電波」
「すっごく失礼じゃない!?」
「人をゴミ呼ばわりするヤツに失礼とか言われたくなくない!?」
しかし、言うにことかいて天使ときた。天使。Angelのことか。神の使いであったり、一部の業界では我を忘れてペロペロしたくなるほど愛らしい少女(しかし、大抵の場合、通常僕らが今生きているこの世界よりも、一次元ばかりマイナスした世界に住んでいる少女に使われる)呼称だ。
「天使ってのは、もっと可愛くて! 優しくて! 神々しくて! 清純で! そういう神聖なる存在が、『天使』なんじゃねーのか!?」
羽が生えてて……弓とか持ってて……全身真っ白で……。
……全身は確かに真っ白だった。弓のかわりに拳銃を持っていた。
……ただし、どうやら心は真っ黒そうだった。
「こんな変な格好の性格破綻者が、天使だと!?」
認めない。認めたくない。
「それはお前ら人間の、勝手なイメージでしょ? お前ら人類がまともな知能を持つ、はるか昔から、私たち『天使』はこうなのヨ」
「こうってのは、つまり人をいきなり殺すってことか?」
「いや、さすがに天使っていっても、まったくの一般人は殺したりしないヨ!」
「つまりお前は異端ってことじゃねーか!」
「そうかもネ!」
ウインクし、舌をベーっと出して、可愛らしく振舞いながら、目の前の少女は答える。
しかし、今の僕には、この少女は確かに容姿こそ可愛らしいというのは誠に遺憾だが認めざるをえないであろうけど、しかし、出逢ってからたった数分間会話しただけで、彼女の内面がいかに酷いか、容易に想像がついた。
「つーか、さっきからちょくちょく語尾をカタカナにすんのやめろや! うぜぇ!」
「お望みの清純キャラを演じてあげてるんだヨ☆」
「結構だよ! しかも別に望んではいねーよ!」
語尾がカタカナって黎明期のギャルゲーかよ! むしろムカつく!
「よし、じゃあわかった。自称天使さんよ。お前が天使だって証拠を見せてみろよ。ホラ!」
僕は、相手が思いっきり不快に感じるであろう声で挑発してやった。
「う〜ん。証拠って言ってもねぇ。何を見せればよいのやら……そもそも私たち天使は、見た目は完全に人間のそれだからねぇ……」
自称天使は、腕を組んでぶつぶつ考え始めたと思ったら、急に何かを思いついたように人差し指を立て、にぱーっと満面の笑顔を僕に向けて言った。
「天使の道具は見せてあげられるよ?」
天使の道具だぁ? 非常に怪しい。でも一応話に乗ってやることにする。
「ほう。天使の道具、ね。で、どういうものなんだ? その道具ってのは」
自称天使は、ちょっと待っててと僕に断りを入れると、ズボンのポケットに手を突っ込み、何かを探し始めた。
「あれ? おかしいな……確かに盗ん……もとい、持ってきたと思ったんだけど……お! あったあった!」
今、なにか不穏なワードを言いかけた気がするけども……、天使はポケットから何かを取りだした。
よく見ると、それは長さ五〇センチほどの細いステッキで、先端にはおそらくプラスチック製であろう、安っぽいハート型の飾りがついていた。デパートのおもちゃ売り場に『魔法少女なんちゃらのマジかるステッキ!』みたいな感じで売ってそうな、どう見ても幼児用玩具にしかみえない代物だ。
「お前のズボンのその小さいポケットに、そんなの入ってたの!?」
「私のポケットは四次元なのよ」
「超便利だな! 天使というより未来から来たロボットなんじゃねーのか、お前!」
どこぞの猫型ロボットと同じ道具を所持しているらしい。天使と言い張るよりも、未来人を名乗った方がいいんじゃないか? まあ、何に対しての『良いんじゃないか?』なのか分からないけれど、そちらの方が相手を騙しやすいだろう。ちなみにこの場合の騙しやすい相手とは、僕の事なのだけれど。
「……で? それはどう使うんだよ。遊ぶのか? それとも魔法少女に変身でもするのか?」
「はぁ? そんなわけないでしょ。まぁ見てなって!」
自称天使はコホンと咳払いして、ステッキを構える。
「まず、身体の前で構えます」
そういうと天使は、なぜか僕の方を見てくる。
「次に、この世で最も憎い相手の顔を思い浮かべます」
「お前にとってこの世で最も憎い奴って僕なの!?」
「まぁ今はね!」
「出逢ったばかりなのに、この数分間で君の人生におけるワースト記録を僕は更新しちゃったの!? つーか本人目の前にして堂々と宣言すんな!」
「そいつへの恨みを力に変えて、この……えー……て、『天使ステッキ』に力を込めます」
「今考えただろ、その棒の名前!」
「そんな事ない! このエンジェルロッドは、『天界』に代々受け継がれてきたモノなんだから!」
「名前変わっちゃったぞ!?」
「うるせぇ! 正式名称をド忘れしただけだっつの! 黙って見てろやゴルァッ!」
ものすっごいドスの利いた声で威嚇された。めっちゃ怖い。
「あ〜もう! お前がいちいち横やり入れるから、どこまでやったか忘れちゃったじゃん!」
「僕のせいかよ!」
「ん〜と……そうだ! まず構えてからぁ、この世で、今最も殺したい相手の顔を思い浮かべます」
「憎いから殺したいに変わってるよ!? てゆーか既に殺されてんじゃねーかァァァァァ!」
「ピーチクパーチクうるせぇっつってんだろ下等生物がよォォォォォ」
もう悪魔のような口調だった。いや、悪魔には会ったことがないから、どういう喋り方なのか分からないけど、少なくとも天使様がご使用される言葉使いではないだろう。天使と言う存在が、そもそも何語を会話に使用しているのか、というより喋るのかすら、 僕はよく知らないけれど。
「で! 力を込めて! 振り下ろす!! ソイヤッ!!!」
天使は頭上に構えたエンジェルステッキ? 何だっけ、まあとにかく例の棒を、一気に振り下ろした。
「……! ……!!」
――。
なんたらステッキが風を切る音だけが聞こえた。僕はかなりビビりつつ身構えていたが、周囲には一向に変化はみられない。何をしようとしたのかは分からないが、どうやら失敗したようだった。
「……。」
「……。」
気まずい空気が、二人の間に流れる。どうやって慰めてやったものか。
とか考えていた、その瞬間。
――世界から、音が消えた気がした。
いや、恐らく人間の耳では聞き取れないほどのとてつもない爆発音に、他のすべての音がかき消されたのだ。
空を見上げると、凄まじい火炎の塊が空中で膨張していた。まるで人工の太陽のように、炎と熱を周囲に吐き散らしている。空が紅蓮に染まる。この公園くらいなら、軽く丸ごと飲み込めるであろうほどの巨大な炎だった。
「うおぉぉぉぉ! ちょっとやりすぎた!?」
「ちょっとどころじゃねぇぞ!」
「お前にぶつけてやろうと思ったのに……!」
「一回殺しただけじゃ飽き足らず、もう一度僕を殺すつもりだった!?」
………………。
…………。
……。
炎は徐々に小さくなっていく。
やがて、辺りにこの寂れた道本来の静けさが戻る。今の爆発によってであろうか、鬱陶しい雲り空の中で、しかし僕らの頭上だけはぽっかりと青空になっていた。
「お分かりいただけただろうか……」
ふひー、と額の冷や汗を右腕で拭いながら、自称天使の少女は僕に聞く。
「今すぐ人類のためにお前を殺しておいた方がいい、というのは分かった」
「まぁまぁまぁ! 悪かったって許してちょテヘッ☆」
「テヘッ☆じゃねーよ! 何、可愛く言って許してもらおうとしてんだよ! さっきから清純っていうより、ぶりっ子キャラになってんぞ!?」
プッツン、という音が聞こえた気がした。初めて見たときは太陽のように明るい笑顔だった少女は、顔を怒りに歪めて叫んだ。
「あーもーうっせぇな! さっきから黙って聞いてりゃ、グチグチグチグチと!」
「黙って聞いてなかっただろ!」
「お前ら人間界の連中なんて、どーせ生まれてたった数十年で死ぬだろうが! ちょっとぐらい本来より早く死んだからって、んな事で一々キレてんじゃねぇよ! ったく、どいつもこいつも!」
こ……こいつ、言うにことかいて……そんな事だと!?
「ざっけんな! こっちは殺されたんだぞ! 少なくともまだ生きられたはずなんだ! お前に殺されなきゃな!」
「マジで!?」
「マジで!? じゃねーよお前そろそろブッ殺すぞ!?」
こいつは僕に殺されたって文句は言えないだろう。せめて一矢報いてお前も道連れにしてやろうか。
「あーなんかめんどくさい。お前めんどくさいよ! もう詳しいことはさぁ、サポートセンターのほうにお願いしますわ」
投げやりな口調になりやがった。
「サポートセンター!? そんなんあるの!?」
「あるある。東京都墨田区の方に」
「超下町だな!」
「押上二丁目の山元ビル二〇五号室」
「ワンルームなんだ!?」
「でもこの時間、田中しかいねぇし……あいつ、あんま仕事出来ないからなあ……また明日の昼過ぎにでも電話してくれる? 番号は、〇三の……」
「市街局番!? 普通の電話なの!? つか田中さんは一人でセンターやってんの!? どこからつっこめばいいの!?」
凄い。つっこみが全然追いつかないよ!
「人間界の電話だよ。タウンページにも載ってるし」
「タウンページ!? マジかよ! なんて名称で載ってるんだよ!?」
「田中貞夫」
「一般家庭の家電じゃねーか! つか田中さんの名前、貞夫って言うのか!?」
「そうそう! 妻の美和子は、やり手の人だったんだけどねぇ。先月離婚しちゃってさぁ!」
「超暗れぇ!」
「夫の年収がキツかったらしいよ?」
「マジかよ! 年収で離婚しちゃった!? それはよくないと思う!」
「娘ももうすぐ中学生だし、そろそろキツいかなって……相談されたから、『じゃあ離婚しかねーな』ってアドバイスしてあげた」
「離婚はテメーのせいかよ!? お前、僕だけじゃなく貞夫の人生まで壊しやがったのか!」
「テヘッ☆」
気付いたら、僕は天使に飛びかかっていた。必死になってこの最悪の天使(もとい悪魔)とケンカしてやったさ。顔も知らなければ声も知らない、東京都墨田区は押上にいるらしい田中貞夫のためにね。
僕は再び路上に仰向けで倒れていた。体中が痛い。
「人間ごときが、天使に勝てるわけねーだろ」
意気込んでケンカを吹っ掛けたものの、ほんの数秒でマウントポジションを奪われ、その後は……言葉にするのも恐ろしかった。
もうめちゃくちゃ強かった。さすがは(自称)天使と言ったところか。一方の天使はと言えば、公園の端に設置されているブランコを、笑顔で立ち漕ぎして遊んでいた。家の近くの公園。昔は僕もよくここで遊んだが、僕が通っていたころとは随分遊具が様変わりしていた。
僕はなんとか起き上がるとベンチに座って、満面の笑顔で一人遊んでいる天使を眺めていた。僕の身体をここまでボロボロにしておいて、その犯人は目いっぱい遊んでいる。
あれ? ここで、疑問が浮かぶ。
「なあ。なんで痛いんだ? いや、なんでお前は僕に触れるんだ? シャベルに石ころ、木の枝。どれも僕の身体に触れることもなかったのに」
思えば僕はそれらのものには触れないのに、この悪魔(自称天使)だけは触ることができた。天使は弧を描くブランコが最高到達点に達した時、一気に飛んだ。三〇メートルくらいだろうか、なんて飛行距離だ。文字通り公園の端から端まで飛んでいた。そこから華麗に着地する。
「木の枝とか石ころとか、それらは全部下界……この世界のものだから。お前の魂はすでに肉体から解き放たれて、『意識体』になってる。この世界のものは、今のお前には 『干渉』できないの」
「人間が幽霊に触れない、みたいなもんか」
「早い話がそういうこと。まぁそもそも意識体になれる人間っていうのも、そう多くはないんだけど。精神が肉体から乖離した直後に、大抵の意識体なら消滅しちゃうからね。よっぽどの精神力・信仰心・死してなお現世に残りたいという強力な思念……そういったものがない人間は、肉体から乖離して意識体になってすぐ消滅。さらに言うなら、お前みたいに天使に触れられる、なんて人間は本当に稀なのよ。お前なにか未練でもあるの?」
「ありまくりだよ! どこかの誰かが、急に命を絶ってくれたおかげでな!」
「それか……前に天使と接触したことがあるとか? 天使と接触したことのある人間は、以降の人生で天使や意識体を“可視”ることができるようになる事もあるって、なんか教科書で読んだ気がする。人間界の歴史に名を残すような偉人ってのは、大抵そういう人間なんだってさ」
僕の怒りを華麗にスルーしながら、天使は僕に怪訝な顔で聞いてくる。
「いや、そんな記憶はないな」
どうなんだろう。『私天使なんです!』みたいな事を言ってくる人に絡まれたら、すぐにその場から離れて、記憶もデリートして何もなかった事にするだろう。正直今も本来ならばそうしたいところだが、出来ない理由があった。
天使は今度はシーソーに座ると、僕も座れ、と目で訴えかけてくる。ガキかお前は。仕方なく僕もシーソーに座って会話を続けることにする。しかし今の僕には体重がないので、シーソーは本来の動きをしなかった。天使はムスッとつまらなそうに僕を睨んでくる。
知るか! お前のせいだろうが!
「でもお前は、木とか石とか、この世界のものにも触れてるよな」
「それは私が天使だからね。天界・人間界すべてのものに干渉できる神の使いを、『天使』っていうの」
「天使ねぇ……」
未だに実感がわかない。そもそも天使ってなんだ。何をしている人達(?)なんだよ。家に帰ったら、インターネットで天使の職務内容について調べてみよう。もしかしたら、どこかの企業で採用募集をしているかもしれない。そして多分その企業は、いわゆるブラック企業だろう。
「ちなみにお前ら人間が言う『幽霊』っていうのは、実際には今のお前みたいな、現世に留まっている意識体を偶然見てしまった人間達が、『人間は死んだら魂が化けて出てくる』なんて言い出したのが始まり」
ほう。幽霊なんていないらしい。いまだにホラー映画を見終わった後に一人でトイレに行けなくなる妹に、意識体のことを今度教えてやろう。
『ママー、お兄ちゃんが頭おかしくなったー! ついに……』とか言われそうである。
さて、天使は、さらに説明を続けてくれる。
「よく、『三途の川が見えた』とか言ってる人間っているでしょ? あれは、今のお前みたいに一度は意識体になったけど、運よく元の自分の身体に戻る事ができた人間達が、意識体として世界を彷徨っていたときに見た光景の事」
なるほどね。天使は説明を終えると、一息ついて、改めて笑顔で僕の眼を見据えながら言う。
「ん〜……まあ全部過ぎた事だしさ! 気にすんなって!」
僕はシーソーを降りると、笑顔で天使に近付く。
ドッコォ! 渾身のストレートが、この糞悪魔(自称天使)の顎を打ち抜いた。
「何すんじゃあ! ワレ、ぶっ殺すぞ!?」
涙目で叫ぶ天使。
「もう殺されてますけどね! あんたにさあ!」
こいつ……マジで殺してやりたい!
「だからさ、気にすんなって。確かにお前は死んでるけど、このまま完全に消滅するわけじゃない。まー仕方がない。たしかにほんのちょっぴりと、バレンタイン当日に登校したら、お前の下駄箱に差出人不明のチョコレートと『今日の放課後、お話したい事がありますので体育館裏まで来てくれませんか?』なんて手紙が入ってるくらいの限りなくあり得ないほどのパーセンテージだけど、私にも非があったとは思うし……まあ、ちゃんと生きてる人間として元に戻してやっから!」
一瞬、このアマが何を言っているのか理解できなかった。てゆうか非はお前にしかないだろうが! しかし、僕が気になったのはそこではなく。いや、そこに関しても、多分あと数発こいつの顔面にパンチをくれてやっても恐らく神様は許してくれるとは思うけれど。
「え……? 生き返れる方法があるのか……?」
「早い話が仮死状態なワケよ、今のお前は。肉体から魂が解き放たれた状態。魂が解き放たれて意識体となり、その意識体を無事天界に連れていくのが、私達天使の仕事の一つ。意識体が消滅する。あるいは、消滅せずとも天使に天界に連れて行かれて天界の住人になることが、お前達人間の言うところの『死』ってわけ。完全なる死。私、ていうか天使が死人として意識体のお前を天界に連れていかない限り、お前は生き返れる。多分……。一度は天界に行かなきゃいけないと思うけど」
「ホントか!? なんだよ! 先に言えよ!」
「だから気にすんなってさっきから言ってんじゃん」
「テメーの口ぶりだと、単純に自分のミスを気にすんなって言ってるだけにしか聞こえねーんだよ!」
「いやまあ、実際そのつもりだったんだけどさ」
「お前マジで殺す。いつか絶対殺す」
天使だろうがなんだろうが関係ない。僕は、いつか絶対にこの糞天使をぶっ殺してやると心に誓った。
でもこれは僥倖だ! この糞アマの話を信じるなら、僕はまだ生き返ることができるらしい。涙が出てきた……!
「泣くなよ〜、大げさな奴だなぁ!」
「今の僕は、親の敵も許せるだろうぜ!」
「それはよかった! ところで、そう言いながらも顔を殴るの、やめてもらえます?」
「はっはっは何言ってんだろうね、この糞天使は! スキンシップなのにさ!」
「悪かった! 確かに私にも、多少の罪悪感はあったさ!」
ちょっと伏し目がちに言う。急になんだ、その態度は。
「うそつけよ」まったく信じていない僕である。
「うそじゃないって! ……そりゃあ……多少は私のミスだしさ……」
「多少どころじゃねぇ! 一〇〇パーセントてめーのせいだっつの!」
「ところで!」
急に天使はそう言って、僕の背後を指さす。
「話は変わるけど、あれヤバいんじゃない?」
天使が指し示していた先は、僕の『肉体』が倒れている場所だった。いつから居たのだろうか、数人のおばちゃん連中が、僕の身体を抱き起している。
「ちょっとあなた! 大丈夫!?」
「さっきの工場崩落で怪我でもしたのかしら!?」
どうやら今までの馬鹿騒ぎで、人が集まってきているらしい。救急車呼んで! とか、大丈夫か、起きなさい! といった声が聞こえる。倒れている僕を怪我人と思って、救護してくれているらしかった。
「おお! やっぱ人は助け合いだよな! 感動だ!」
僕は今、感涙している!
「何言ってんの? このままだとヤバいよ?」
しかし天使は冷めきった目で、むしろ面倒くさそうな眼で、そんな人間たちの心温まる風景を眺めつつ、僕に話しかける。
「は? ヤバいって何がだよ? 人が感動している時に水を差すなよ」
「いやだってさ、あっちのお前、何度話しかけても絶対起きることないじゃん? つか心臓だって止まってるし。このままだと、しかるべき場所に連れていかれて、しかるべき判断をされたのちに、しかるべき対応をされちゃうよ?」
「……つまり?」
「火葬がメインだっけ? この国は」
「火葬されると?」
「意識体のお前が還るべき肉体をなくす。つまり、もう生き返れない」
「うっそぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」
「だから言ってんじゃん。ヤバいって」
僕は急いで肉体の方に駆け寄ると、必死に『僕』を救護してくれているおばちゃん連中の耳元で叫ぶ。
「やめてください! そいつまだ死んでないんです! いや死んでるけど死んでないんです!」
うん、もう自分でも意味がわからない。考えてみれば、白昼に道端で倒れている人間がいればこの国では即座にしかるべき機関が来てしまうだろう。本来なら、もっと早くに、倒れている僕の肉体を人目から隠すべきだったのだ。なんとかこのおばちゃん連中から、肉体を引き離さなければ!
しかし、今の僕は『僕』に触れることができない。何度手を伸ばしても、僕の手は『僕』をすり抜けてしまう。そうこうしている間にさらに人数は増えていて、おばちゃん連中はさらにヒートアップしていた。その中でも先程まではいなかったおじさんが、心臓が止まってる! 心臓マッサージだ! とか、人工呼吸だ! 救急車を呼べ! などと指揮を執っていた。
「いや、気持ちは嬉しいですけど! 助けてくれるっていう気持ちは、大変嬉しいんですけど! 人工呼吸はやめてぇぇぇぇぇぇ! 僕のファーストキスがぁぁぁぁぁぁ!」
今までの人生で大切に取っておいた僕のファーストチッスが、見知らぬ大変親切なおじさんに奪われようとしていた。
「まぁいいんじゃね? お前は一生キスすることなんてないだろうし」
「余計なお世話だよ!」
まずい! おじさんはすでに準備段階に入っている! そうだ! 天使なら、僕の肉体にも触れるはずだ。さっきそう言っていた。
「天使! 頼む助けてくれ!」
「なぁ〜にぃ〜? きこえな――――――い! アヒャヒャヒャヒャ!」
「超うぜぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
「見知らぬおじさんとファーストキッスだってお! プギャー!」
僕を指さして腹を抱えて大爆笑してやがる!
「超殺してぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「あん? 殺したいだぁ? 誰に口利いてんだてめぇ! 助けてほしいんだろ? じゃあ誠意ある態度を見せてみ?」
僕の頬をツンツン指で突きながら挑発してきやがる! 超うっぜぇ! マジで殺したい! だが、今はそれどころではなかった。もうおじさんのかさかさな唇が、僕の唇を目掛けて迫っている!
「もうなんでも言う事聞きますからぁぁぁぁぁ! だから助けてぇぇぇぇぇ」
「それじゃ足りねーな」
「お前本当は悪魔だろ!?」
「そうだな〜……殺した事を許せ」
間違いない。悪魔だった。
「それは無理!」
「じゃ〜あ〜、仕方ないよね〜。アッーついBLを見せてよ」
「分かりました! 許します! 誰にでもミスはあります! だからヘルプッ!」
屈辱である。まことに遺憾である。しかし、今は仕方がない! ファーストキスのためである。
「や――――――――――――――――っと身の程を知ったか馬鹿め!」
そういうと天使は、今まさに唇が奪われそうな『僕』の襟首を掴んで、そのまま引きずりつつ一気にダッシュする。天使(と僕の肉体)の姿はすぐに見えなくなった。どんだけ足が速いんだ。やはり普通の人間に比べて基本スペックは段違いらしい。さすが天使(自称)と言ったところか。 しかし『僕』の身体は襟首を掴まれて後ろ向きに引きずられているため、アスファルトに背中がまるで大根おろしのようにおろされていた。きっと背中は酷い事になってるんだろうなぁ……見たくなかった。
ところで。おばさん連中は、背中でまるでスケートボードのように華麗にアスファルト上を滑って行く僕の肉体は見えていても、天使の姿は見えないのである。
当然、
「ギャー! エクソシストよぉぉぉぉぉぉ!」
「誰か除霊師呼んできてくれぇぇぇぇぇぇ!」
――仮に無事生き返る事が出来たとしても、当分は顔を隠さずして町を歩けそうになかった。
先程の公園からすぐ近くにある、小学校の屋上に僕と天使はいた。妹が通っている小学校、そして僕が昔通っていた小学校でもある。相変わらず蒸し暑かったが、風は冷たく感じられた。今日は土曜日で、しかも三連休初日である。余程のことがなければ人はこないと思ったからだ。ちなみに僕の肉体の背中は、血で真っ赤になっていた。お風呂に入ったら死んでしまうかもしれない。
「それにしても……まさか人間界で、また人間を引きずって走る事になるとは。何が起こるか分かったもんじゃないなぁ」
天使は遠くの空を見ながら、何やらブツブツとつぶやいていた。
「そもそも、お前は何で僕を殺したんだよ?」
さんざん聞きたかったことである。なぜ僕が殺されなくてはならなかったのか。
「だから〜、素で間違えたんだってば!」
グッシャっと音がする。僕のチョキが、この糞アマの両目を突いてやった。
「ッギャース! 何しやがんだこの下等生物がァァァ!」
血涙を流していた。良い具合にヒットしたらしい。
「それ、人間に言っていいセリフなの!?」
完全に人間を見下してやがる! お前、本当に天使なんてメルヘンな存在なのかよ?
「さっき、お前『許す』って言っただろうが! 次手ェだしたら、さすがの私でもキレるからな! 血の雨が降ることになるぞ!」
そう言いながら、涙目で眼をこすっている。これが天使の言う言葉なのか?
「あまり私を怒らせない方がいい……」
天使の表情が、先程までの馬鹿なものから明らかに変わった。正直に言って、非常に怖ろしい表情と声である。
「きゅ、急になんだよ……」
なるべく、平静を装って声を出す。しかし、僕は内心この天使に恐怖を抱いていた。なんたって、シャベルを投げただけで建物一つ潰せる奴なのだ。本気にさせたら、どうなるか分かったものではない。腐ってもこいつは(自称)天使なのである。まあ天使ってのが嘘であったとしても、死神か悪魔ではあるだろう。
それに、もしこいつが怒って僕の事なんかほったらかしてどこかへ行ってしまえば、僕はいよいよ生き返ることなんてできなくなるだろう。まだ生き返ることはできる、という事はさっき教えてもらえたが、肝心の『方法』が分からないのである。
「私が天使だってこと、忘れてない……? 私がその気になれば、人間のお前なんて……」
「……!」
「赤子を捻るように殺せるんだよ?」不敵な笑みを浮かべて言う。
「何もしてないのに殺されたけどな! 僕は! お前にッ!」
「あれ、そうだっけ?」
「ついさっきのことだろうが!? つか今の今まで、その話をしてたんですよね!?」
「あれ、そうだっけ?」
「そうだよ! 繰り返すなうぜぇ!」
「ところで……何で私は、お前なんて殺したの?」
「ブッコロス! イマスグブッコロス!」
先ほどの天使への恐怖心は、すでに殺意へと変貌していた。今の僕なら、もう天使であろうと、神であろうと殺せるだろう。なんたって、僕は既に死んでいるからである。もう怖いものなんて何もなかった。このまま死ぬくらいなら、せめて最期にこの糞アマを道連れにしてやろう。
「あっそうそう! 思い出した思い出した!」
僕の殺意を感じとったのか、天使は慌てて話を元に戻した。
「お前の心があまりにも穢れきってたからさ〜、本来の標的と間違えちゃったのヨ☆」
「てめぇに血の雨を降らせてやろうか!?」
このアマ……! 初対面の人間に、心が穢れきっているとまで言い放ちやがった!
「だって、お前友達ないでしょ? 童貞だしさ、休みの日だって言うのに、家でネットかエロゲ、アニメ観賞しかしてないじゃん? しかも童貞だしさ! 近いうちに、どうせ浄化対象になるよ? 童貞だしね!」
「なんでそこまで僕のこと詳しいの!? つか童貞関係ないでしょ!? どうしてそこを特に強調して言い放ったの!?」
泣きたいんですけど!
「天使に不可能はないの!」
「ミスしまくってんじゃねーか!」
「ま、まぁとにかく!」
指摘されて動揺してんじゃねーよ!
「三次元に好きな女の一人もいないってところとか、マジ終わってるよね〜、お前(笑)」
「(笑)じゃねーよ! いるよ、好きな奴くらい!」
「いや、別に無理して恋愛要素とか入れてもらわなくても結構ですよ?」
「無理に入れてるわけじゃねーよ! つか鼻くそほじってんじゃねー!」
「いや〜、人間界ってさぁ、空気汚れきってんじゃん? だから、すぐ鼻くそ溜まっちゃうんだよね〜。」ピンッ!
「飛ばすなァァァァァ! お前もう駄目だ、僕の中の天使のイメージが完全に死んじゃったよ、今ので! お前のせいだよ! すべての天使様に謝れよ!」
「まぁお前、もう死んでるしねー!」
「上手くねぇよ!?」話がまったく進まない。ケンカにしかなっていなかった。
「ていうかさ……」
急にクソアマ(どうやら本人が言い張るには、天使らしい)が、初めて見せる真剣な表情で、何かを考えている。
「なんだよ急に……」
もしかして、なにか深刻な――。
「お前が好きな人って、まさか私!?」
「お前だけはありえねーよ!」
急にまたとんでもねェ事を言い出しやがった! ていうかその自信はどこからきた!? 僕達、初対面から今までケンカしかしてないよねぇ!
「テレんなよぉ」
「テレてるわけじゃねぇよ!?」
「テレるぜ」
「何故!?」
「デレろよ」
「命令形!? つか、なんで自分を理不尽にも殺した奴を、好きにならないといけないの!?」
「歪んだ愛?」
「ね――――――――――――――――よ!」
僕がお前を好きになることなんて、死んでもあり得ないね! まあもう死んでるんですけど。しかしこの馬鹿は、ニタニタ笑いながら、指でツンツン僕の頬をつついてくる。糞うぜぇ。
「ほらほら、ボーイ・ミーツ・ガール的な? そういうの、期待しちゃってるんじゃないのー?」
「おかげさまでボーイ・ミーツ・DEATHになっちまったよちくしょぉぉぉぉぉぉ」
「上手くねぇよ?」
「自覚してるわ!」
「まあ私も? お前なんかお断りだけどねー! マジありえないしー」
「なんで告白してもいないのにフラれてんの僕!?」
こいつと話をしていると、いつの間にかケンカになってしまう。話を元に戻すことにした。
「間違えたってことは、元々誰かしらは殺すつもりだったってことだろ?」
暗殺者かなんかかよ、お前は。
「そうそう。それが私の所属する、『清浄課』の仕事だからね」
「清浄課? なんだそりゃ」
「天使の仕事の部署の一つ。私が所属している部署」
天使は、ポケットからバッジを取り出して僕に見せた。交差する二つの拳銃の模様に『Purificatory Section』という文字が刻んである、ひし形の銀バッヂだった。
「へえ。ていうか天使って英語を使ってんだ? 英語って人間の言葉じゃん」
「そもそも天界の住人は元々人間界に居たわけだし、どこかしらの言語は喋れるよ。それに、人類で最もポピュラーな言語くらい話せないとね。特にC言語が出来ない奴は使いモノになりません」
「ゲームでも作ってんのか!?」
何にC言語を使うんだよ。
「まあ今のは嘘だけど。でも、私みたいに人間界がメインの仕事場って部署の天使は、その担当地区の人間達が使ってる言語も出来ないとね。仕事にならないからサ」
「だからお前は日本語を喋れるのか。じゃあお前は日本語と英語を喋れるんだ?」
一見馬鹿に見えるけど、意外と凄い奴なのかもしれない。いや、多分ただの馬鹿だな。
「まあ、出発前に翻訳こんにゃくを食べてきたから」
「やっぱお前は未来の国からやってきたの!?」
「君があまりにもモテないしキモオタだし将来性皆無だからさ。未来を変えるためにネ」
「余計な御世話だよ!」
「殺しに来た」
「教育するんじゃなくて、消しちゃう方向!?」
「まあそれも嘘だけど」
「いい加減真面目に本当のことを話してくれるかなぁ!」
遊ばれている気がする。いや、多分気のせいではないだろう。完全にこいつに遊ばれていた。
「冗談冗談。まあ私が日本語を喋れるのは当然。私は『天使省・人類管轄局・極東地域管轄部・清浄課第〇一部隊』所属。つまりここ、日本の関東地方? の管轄だからね。日本語くらい喋れないと。ギャル語もネ」
「ギャル語は別に出来なくてもいいんじゃないの!?」
こいつの話し方がうざいのは、ギャル語(しかもおそらく正しい使い方ではないのだろう)だったからなのか。
「でも、天使の仕事ってのも、ちゃんと部署とか分かれてるのか。で、その清浄課? だっけ? お前の部署は、何をするのが仕事なんだ?」僕は話を元に戻す。
「人間をブッ殺すこと」
「死神じゃねーか!」
やはりこいつは天使じゃないんじゃないか? 悪魔とか死神って言われたほうがしっくりくる。というか完全に納得できる。
「人間の魂は、人によって穢れ具合が違う。で、ある一定以上魂が穢れると、その人間は『悪魔』になる。そうなる前に人間と悪魔の境目、穢れが人間としての限界に達した瞬間に、その人間の魂を消滅・浄化させるのが、私達『清浄課』の仕事」
おいおい。天使だけじゃなくて、『悪魔』なんてモノまで出てきちゃったよ?
「悪魔って、元々人間なのか?」
「一部はね」
一部……。また曖昧な表現をする奴だ。という事は、そうじゃない悪魔もいる、という事か。
「ていうかお前が、実はその悪魔なんだろ?」
「さっきからずっと天使だっつってんべ? おめーの耳は飾りか?」
バチバチと、僕とこの女の間に火花が散った気がする。
「天使は天界に行って、神に使われている元人間。まあ人間のころの記憶がある天使と、ない天使の両方いるけどね。私も悪魔のことは詳しくないけど、何万年も前から天界と地獄は戦争しているから、私達天界側としてはこれ以上敵、つまり悪魔を増やしたくない。でもいずれ悪魔になるとは言え、人間の時に殺すのはいけないことだし」
「はいちょっとストップ!」
「だから、人間の魂が限りなく悪魔になる瞬間、その臨界点を狙って、私達天使はその浄化対象を消滅させるの」
抗議させてもらえなかった。何を抗議したかったかって? もう言わなくても分かってもらえるでしょう?
「他にも部署はあるんだけどね。例えばさっきも言ったように、意識体になった人間を天界まで連れて行く『送り課』とか、将来的に人類に有益な結果を残すであろう人間を守る『守護課』、今は冷戦状態だけど、一応未だに地獄と戦争しているわけで、基本悪魔はそうそう表に出てこないけど、時々人間界で天界側と地獄の軍勢が衝突することもある。そういった時は『軍事課』の出番。他にもいろいろあるけど」
なるほど。天使と言っても、やってることはそれぞれ違うわけだ。
「私も、前は送り課に所属してたんだけどね」
天使はなぜだか少し声のトーンを落として言った。遠くの空を眺めている。この女、黙っていれば金髪美人である。その様は、とても絵になった。
「へえ。異動にでもなったのか?」
「少しめんどくさい人間の担当になっちゃってね。それで、もうやってらんなくなっちゃって」
少し寂しそうな、思い出したくないような、そんな眼で遠くを見ながらつぶやいた。しかしため息をつくと、天使はまた笑顔に戻る。
「まぁその点、今の清浄課は楽だからね。とりあえずブッ殺しとけばいい? みたいな?」
「間違って一般人殺すのは勘弁してくれよ!」
「あんなとこに突っ立ってる方がいけない」
「ただ歩いてただけなんですけど! コンビニに向かってただけなんですけどぉぉぉ! ジャン〇読みたかっただけなのに……こんな事になるなら、家を出なけりゃよかった……」
「ジャン〇を立ち読みに行こうとしたら、誤って黄泉に行っちゃったんだー! ハハハ、超受けるー!」
「上手い事言ってんじゃねぇ!」
「ちなみに『迷探偵ロナソ』、犯人はあの執事だったよ」
「ネタバレしてくれてんじゃねぇよ! つか読んでんのかよお前も!」
「コンビニで立ち読みしてた」
「入れ違いだったんだ!?」
コンビニで雑誌を立ち読みする天使ってどうなんだ。ていうか勤務中じゃないのかよ。
「お前ら天使ってのは、何人くらいいるんだ?」
「天界にいるのも含めたら、わからない。お前達人間が、数え切れないほどこの世界に居るのと同じように、天使も天界に数え切れないくらいいるけど。そうだな……、私と同じ清浄課所属の天使は、確かこの国には私も含めて二〇人……?」
「少ないな。二〇人で一国をカバーしてるのか?」
「そうそう。結構激務なんだよね。だからー、ターゲットを間違えても仕方ないっていうかー」
「仕方ないで済ますな!」
「まあ天界も財政が厳しくってね。ボーナスカットされたしさぁ……経費削減経費削減ってうるさいのヨ」
経費削減のために、真っ先に人件費が削られるのはどこの社会も同じらしい。
「へぇ。天界っていうぐらいだから、なんでもあるもんだと思ってた。お前らも意外と大変なんだなぁ」
「そう。金がないの。だから唯一のサポートセンターも一日一人体制よ。中途採用で時給七五0円よ」
「てめぇら貞夫を東京都の最低賃金以下でコキ使ってやがったのか!」
「たしか手取七三〇円だったと思うけど」
「もっと酷かった!?」
「貞夫は、使われることで幸せを感じるタイプだから大丈夫!」
「お前は貞夫のなんなの!?」
天使に酷使される人間。まだ顔も見たことがないが、とても不憫な人なのだろう。
「あっそうそう! 貞夫と言えば!」
急に天使は何かを思い出したかのように話題を変える。
「貞夫のとこに行かなきゃ」
「なんでだ?」
「貞夫のいる山元ビルに、天界への入り口があるから」
「なんでまたそんなとこに作っちゃったの!?」
もっと、それこそ神社とかにつくればいいのに。
「この国には、天界への入り口が九箇所あって。東京、押上の山元ビルね。札幌・仙台・横浜・名古屋・大阪」
なるほど、一応全国の主要都市に配置しているあたり、ちゃんと利便性とかも考えているのだろう。天使は指を折って一つずつ確認しつつ、説明を続ける。
「広島・福岡・アキバ」
「ちょっと待って最後のは聞き捨てならなかったよ?」
「すぐにアキバに行けるようにって、この前の国会本会議で可決されて、新しく作られたんだよ」
「どぉ――――――でもいい事を議論してるんだな、お前らの国は」
「入口はUDX三階のトイレにあります」
「なんでUDX!?」
どうやら、いろいろとおかしいのはこいつだけではないらしい。天界という国(?)自体が狂っているらしかった。でも、ここで一つ疑問が浮かぶ。
「あれ? でもなんで天界に行かないといけないんだよ? 僕は、天界に連れて行かれると完全に死んじゃう事になるんじゃないのか?」
意識体が消滅する。あるいは、消滅せずとも天使に天界に連れて行かれて天界の住人になることが、人間で言うところの『死』。先程こいつが言っていた言葉だ。
「その事なんだけど」天使は真面目な顔つきで続ける。
「私には、一度意識体になった人間を元の肉体と融合させて復活させることはできないから、神様に頼まないと。『間違えて殺しちゃったんで、こいつを生き返らせてやってくれませんかテヘッ☆』って」
「お願いですから、もうちょっと真面目に頼んでみてはくれませんかね?」
なんたって、人ひとりの命がかかっているわけですから。
……しかし。ついに『神』という名詞が出てきてしまった。
「これから、その……神様に会うのか?」
「そりゃあね。死んだ人間、意識体を復活させる権限を持つのは、全知全能たる我が主、『神様』しかいないから」
神様か。僕は無宗教者だが、さすがにこれから神様に会う、なんて言われたら緊張せずにはいられない。
「ちなみに神様はロリコンだから」
しれっと、まるで常識であるかのように天使は言い放った。
「一気に会いたくなくなったな」
本気で会いたくなくなった。
「何言ってんの? 会って頼み込まないと、生き返らせてくれないよ?」
「わかってるよ……」
これも生き返るためである。仕方がない。
「じゃあ行こうか。場所は墨田区押上だけど」天使が出発を促す。
「ここからは近いよ。電車ですぐだ」
「そっか。なら早速……」
天使は歩き出そうとしたが、僕はそれを制止する。
「ちょっと待ってくれよ。僕の肉体は、ここには置いておけない。もしかしたら誰か来るかもしれないし」
「それはそうだけど。でも、他に安全な場所なんてあるの?」
それはさっきからずっと考えていた。今最も安全な場所。それは――。
「僕の家だ」
何度考えてもそういう結論に達していた。
「家? でも、家族とかに見られたらヤバくない?」
「母親と妹は、二泊三日で旅行中。しかも今日が一日目」
「お前ハブられてんの?」
「ハブられてはいねーよ!」
本当に嫌な事ばかり言う奴だ。僕が家族からハブられてるって? ハハハ、そんなことあるはずないだろう。……多分。
「ただ単純に、親参加の学校のイベントに行ってるんだ。とにかく、家族は少なくとも明後日までは絶対に帰ってこない。神様に会って生き返らせてもらうってのは、それ以上に時間がかかるものなのか?」
「いや。早ければすぐその場ででも。……だと思う」
「なら問題ないな」
「父親は?」
「僕が小さいころに死んだよ」
「ふーん」
そっけない、興味なさそうな返事。天使は、その事については何も触れてこなかった。一応気を使ってくれているのだろうか。まあ昔の話すぎて、もう悲しみに暮れるような時期じゃなかったし、別にいいのだけれど。
「じゃあ行こうぜ。僕の家へ」
「ん」そういうと天使は、さっきはあんなに条件を付けてきたのに、今度は何も言わずに僕の肉体を持ち上げて、運んでくれた。
「なるべく怪しまれないようにしないとね!」
僕が自力で立って歩いているかのように見せるため、天使は僕の肉体の襟首を掴んで吊るしあげながら歩いた。何度も言うが、僕を運んでいる天使は普通の人間には見えないのである。項垂れているわ、足は動いていないわで、その様はもう空中浮遊している幽霊にしか見えなかっただろう。家に着くまでに、空き地で遊んでいる二人組の子供達にしか間近で見られることがなかったのが不幸中の幸いか。もっとも、あの子供達には、 一生消えることのないトラウマを植え付けてしまったようだったが。
家に着くと、天使は僕の肉体が穿いているズボンのポケットから鍵を出し、ドアを開けた。懐かしき我が家である! いや、今朝までいたはずなんだけど。ここに返ってくるのは、えらく久しぶりのような気がしていた。僕の家は一軒家だ。一階にリビングやふろ場、母親の部屋があって、二階に僕と妹の部屋がある。
「よし、じゃあまず僕の部屋へ運んでくれ。部屋は――」
「二階だろ? 知ってる」
「何でだよ!?」
「天使に不可能はないの」
天使っていうか、もうストーカーなんじゃないか? ってくらいの恐怖を覚えるんですけど。天使は、なぜかこの家の間どりに慣れた足どりで、階段を上がって僕の部屋に入った。
「これどうする? 一応ベッドの下にでも、隠しておく?」
天使は襟首を掴んで吊るしあげた僕の肉体をゆっさゆっさと振りながら、僕に尋ねる。
「いや、多分ベッドの上でも大丈夫だ。寝かしといてくれるか」
「そんなにベッドの下を覗かれたくないとは。エロ本はベッドの下か」
「ちげぇよ! ベッドの下は汚いから、上に寝かしといてくれって単純な話だよ!」
「そうだよね、大事な本はあのクローゼットの中だもんね」
「だから何で知ってんだよお前は!」
「やっぱりね」
フフン、と天使は憎たらしいほど勝ち誇った笑みを、僕に向けてくる。こいつ、カマかけやがったのか!
「お前らヴァカな男子の考えなんて、簡単に分かるっつーの! ベッドの下だとバレると思ったら、まああのクローゼットの中なら、普段開けることもそうそうないだろうし、安全だと思ったんだろ?」
……完全に見透かされている……。
「でも私程度でも分かるんだから、お前の母親にはまずバレてると思って間違いないよ」
「うっそぉぉ!?」
「母親、あんまナメない方がいいと思うよ」
天使様から、ありがたいんだかありがたくないんだか分からない忠告を受け取った。
「それにしても……」
天使はきょろきょろ部屋の中を眺めながら言う。
「本当に、漫画とかゲームしかない部屋だなぁ」
「ほっとけ。アニメ・ゲーム・漫画は僕の生きがいだ」
「その歳でそう言い切っちゃうってのはどうなんだろうね?」
なぜか天使は、僕に憐みの視線を向けていた。天使は僕の肉体をベッドの上に寝かせると、クローゼットから掛け布団を出してきて僕の身体を隠すようにかけてくれた。これで、一応部屋の入り口から覗き込んでも、誰かが寝ているようには見えないだろう。まああり得ないことだとは思うが、万が一にでも母親と妹が予定より早く帰ってきてしまった時の対策である。
その後僕たちは一階に下りて、リビングで一息つくことにした。
階段を降りている途中、天使が口を開く。
「あ、そうだ。ヌフフン、お花を摘みに行きたいのですが?」
芝居がかった口調で(恐らく高貴な感じで言ってみたかったのだろう。今更お前がどういう言葉遣いをしようが、僕の中でお前のイメージが変わる事はないけどな、と言ってやりたかったが、めんどくさかったのであえて言わなかった)トイレの使用許可を求めてきた。
「ああ、トイレなら」
「そこっしょ? 分かってるよん」
天使は、僕が教えようとしたトイレのドアを、先回りして指差した。つーかなぜに初めて来た他人の家のトイレの場所まで把握してるんだよ。本気で怖いぞ。
「フフフ、それではお手洗いに……間違えた、ウンコしてくる」
「間違えてなかった! 最初ので正しかった! 何故言い直した!?」
「ウンコはウンコと堂々と言うべきだ。なぜなら、生理現象だから。人間は誰でもウンコするの。お前が好きだっていう、その女子もウンコするんだよ」
「なぜ胸を張ってそんな汚い話が出来るのかが理解できない! そして僕の好きな子までお前の汚ねぇ話に巻き込んでんじゃねぇぞ!」
「私でもウンコをするの。でも私は恥じる事はない。堂々と言うの。『ウンコする』って言う! 私は言うぞ! 決して屈さない!!」
「何と戦ってるんだよお前は!」
「だからお前も、堂々と『僕はウンコです!』って言っていいんだよ?」
「言わねぇよ! 僕はウンコじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
それが言いたかっただけだろ、どう考えても!
「もうトイレでもどこにでも入ってろよ!」
めんどくさくなってきた。もう好き勝手してくれ。僕は疲れた。僕はリビングに入って、ソファに座る。
はぁ……。どっと疲れが押し寄せてきた。今の僕は肉体がないので、恐らくこの疲れは、肉体的なものではなく精神的な疲れなのだろう。
では、休日になぜここまで精神的疲労が溜まってしまったのか。答えは明白だった。
しばらくしてからドアが開く音がする。馬鹿が用を済ませて、リビングに入ってきたのだろう。僕はもう振り返って確認することもしなかった。
「んんん〜、そうよわたしはぁ〜おうし座の女ぁ〜」
あなたはゴキゲンそうですね。歌なんか歌っちゃってさ。いい事です。
そして新情報。どうやらこの女、牡牛座らしい。どうでもいいけどね。
「コーラ飲みたい! 出せや」
リビングに入って来て開口一番がこれだからなぁ……。
「なんで強迫口調だよ……何様だ、お前は」
「天使様だ」
胸を張って返されてしまった。
「あ、でもダイエットはやだよ? ペプシも駄目。普通のコカ・コーラのみ私は存在を認める」
「ホントめんどくせぇな!」
「私にペプシのCMの出演依頼が来ても、絶対断るから! コカ・コーラのCMになら、喜んで出させていただくけど!」
「心配せんでもお前なんかにCM依頼はこねーよ!」
僕のつっこみを無視して天使はテレビの電源を付ける。時刻は正午手前で、ちょうど番組と番組の合間にニュースを流しているようだった。
『――えー、○○区では先程お伝えしました謎の工場倒壊に引き続き爆発事故が起きており、さらには近隣住民達が『倒壊した工場のすぐ近くで、謎の怪人が現われた』などとして集団で警察署に駆け込んだようであり、警視庁は現在、住民達の言う怪人と工場倒壊・爆発事故の関係性を調べている様です』
「とんでもねぇことになってんだけど!」
怪人って……。
「ていうか、あそこがたまたま人のいない建物だったからよかったものの、もしあそこに人がいたらどうしたんだよ」
「いやぁ、あそこに人がいないのは分かってたから。気配も感知できなかったしぃ。計算通り計算通りぃ。ヌフフン」
鼻歌まじりに言いやがる。こいつ絶対天使なんかじゃねぇよ。悪魔か破壊神かなんかだ。
「まぁまぁ! ファーストキッスは免れたわけだし、結果オーライって事で!」
「嫌な事思い出させんな!」
大変親切な、名も知らぬおじさん。彼は、善意で、土曜の朝っぱらから東京都内の路上で仰向けに寝ている怪しすぎる小僧を助けようとしてくれたのだ。その事自体には、僕は感謝してもしきれない程だと思うのだけれど、しかし、やはり僕はファーストキッスは、まだ顔も知らぬ、将来出逢うことになるであろう、大切な人のために取っておきたかったのだ。
……モテない僕だって、これくらいの淡い幻想を抱くことぐらいは、許されて然るべきだろう。
しかし、天使さんはまるで僕の乙女チックなファーストキス観には興味がないようで。
「ていうか、こんなニュースよりブランチ見なきゃ!」
「お前は土曜休みのOLかよ」
「一応仕事してるし、OLだと思いますよ。そしてスイーツ(笑)でもある」
「それは別にどうでもいいステータスだけどな」
自分から名乗る事ではないのは確かだろう。
「ふっふーん。へぇ。ほぅほぅ」
天使はテレビを付けたくせに、すでにそのテレビに興味をなくしているらしく部屋の中をキョロキョロと物色していた。
「へぇ! ゴミ箱みたいだったお前の部屋と違って、リビングはキレイじゃん!」
「ゴミ箱言うな。まあ母さんが綺麗好きだからな。リビングは基本的にいつも綺麗だよ」
「なんかこんだけキレイだとさ、汚したくなるな!」
「やめろ!」
何を言い出すんだこいつは。 やるな、と言われたらやるタイプだな。間違いない。
「あ、でも一気に汚くなったね。ゴミが増えた」
「僕を見ながら言ってんじゃねぇぞ!」
さっきから人の事をゴミだのウンコ呼ばわりである。どれだけ口が悪いんだこいつは。
僕はキッチンに入って冷蔵庫から飲み物を出そうと思って、しかしそれが不可能である事を思い出した。コーラはそもそもうちでは誰も飲まないから冷蔵庫の中にはないし、あったとしても天使にくれてやるつもりは全くないが、僕がなにか飲みたかった。別に喉が渇いているわけではなかったが、何かを口にしたい気分だったのだ。仕方なくリビングに戻ると、天使はテレビの横にある写真立てを見ていた。
写真立ては二つ。
一つは、四人の人間が写っている。もう一つの方の写真立てには、三人。
「これ、お前の家族?」
四人の人間が写っている方の写真立てを見て、天使が僕に尋ねる。
「そうだよ。そっちは小さいころに……父さんがまだ生きていたころに、四人で撮った最後の写真だ」
「ふ〜ん。なるほどねぇ」
なにが『なるほど』なのかは分からないが、天使は何を言うでもなく、その写真を見つめていた。
写真の中では、とても優しそうな顔をした男性が女の子を抱き抱えていて、隣に立っている男の子の頭の上に手を置いてなでている。懐かしい写真だ。撮ったのは今から七年くらい前だろうか。父さんが死ぬ、数か月前の写真だった。
もう片方の写真立てには、母さんと僕、そして妹の三人。去年か一昨年に撮ったものだ。
「こっちの世界の時の流れってのは、早いもんだねぇ」
僕の家族のことなんかどうでもいいだろうに、真剣なまなざしで写真を見ていた天使が、ポツリと何かを言った。
「あん?」
「お前の妹、成長して可愛くなったじゃん。実はお前と血、繋がってないんじゃないの?」
「ひっでぇ事言いますね!」
正真正銘、あいつと僕は血を分けた兄妹だ!
「妹は可愛いけど、お前は『何の特徴もない』のテンプレみてぇなツラだし」
「うるせぇよ余計なお世話だよ!」
「教室で二、三人で固まってる、『女友達いない男子グループ』にいそうなツラだよね」
「だから何で知ってんの!? 学校での僕を見た事あんの!?」
「ま、お前には男友達もいねぇんだろうけどね」
「世間話をする奴くらいはいるから!」
……言ってて自分で悲しくなってきた。こいつの口の悪さは最凶だ。なぜなら、言っている事が大抵本当の事なのだから……。
「そういえば、お前も『元人間』なんだよな?」
天使とは、元人間である。先程こいつに教えてもらった事だ。
「そうだけど」
「じゃあ、お前が人間だったころの家族は、どんな人達だったんだ?」
「う〜ん……覚えてないなぁ」
そう言った天使は気のせいだろうか、少し寂しそうな顔をしてるように見えた。
「……さて!」
天使は話を変えるようにリモコンでテレビの電源を消すと立ちあがる。
「じゃあそろそろ行こっか! サポートセンターに!」
「……ああ」
天使は明らかに、自分の家族の話題を強引に終わらせたが、僕もその件については、深く聞くつもりはなかった。なぜなら、先程天使は僕の事を気遣って……かどうかは知らないが、僕の父親のことについては触れないでいてくれたからだ。
移動には電車を使うことにした。僕の家から目的地・墨田区押上までは、電車一本で行けるからだ。この意識体という半分幽霊状態になってから今まで、唯一得をしたことと言えば、今、電車にタダ乗り出来ていることだけだった。
三連休初日だからか、それとも昼下がりだからか、電車の中はがらんとそていた。僕の家の最寄駅から、押上までは各駅停車でも一〇分ほど。暇だったので、天使に話しかけてみる。
「移動に電車を使うんだな。お前天使のくせに、空飛んだり出来ないのか?」
天使はだるそうに吊革に掴まっていた。
「飛ぼうと思えば飛べるけどね。でもかなり『力』を消費するし」
「『力』?」
「そうそう。天使の『力』。天使は人間界に居るだけで、バンバン力を消費してんのヨ。一度天界に戻ればまた回復できるけど。私はもう降りてきて四日目だから、あんま力使いたくないの」
「力の節約ってこと?」
「そうそう。ホントは飛べりゃ、そりゃ速いし楽だけど。電車なんて乗りたくもないし」
「成程」
はたから見れば、『何こいつら電波みたいな会話してんだ?』と思われるのだろうが、幸い僕らの会話を『人間』に聞かれることもない。まあそれは良い事なのか悪い事なのか、微妙だけれど。
「あと、もう一個聞いていいか?」
「いいよ、どうせ暇だし。……時間かかるわ、いちいち停まるわ。ホントこの乗り物は好きになれないなぁ」
「ははは」だるそうな天使を見て、ついつい笑ってしまった。
「で? 質問って?」天使が僕に話の続きを促す。
「ああ、そうだった」
天使に言われて、僕は質問の途中だったという事を思い出した。
「今の僕は、この人間の世界のものに触れないだろ?」
「そうだね。触れてないでしょ、さっきから」
天使は吊革に体重を預けながら、僕の方を見ずに答える。
「ああ。でも僕は、こうして電車に乗れてるぞ? さっきは家の中に入れたし、学校の屋上にも立っていられた。そういや公園のベンチにも座れてたし、シーソーにも座れたな。動きはしなかったけど」
「それは、意識体だから。最初にも言ったと思うけど、意識体で在るためには『死してなお現世に残りたいという強力な思念』が必要なの。だから、お前がこの世界に在り続けたいという思念。ひとまず学校の屋上に逃げなければ、という思念。家の中に入りたいという思念。電車に乗りたいという思念……『ここに存在していたい』という思念。そういったものがあれば、その『空間』に存在できる。もちろん、そもそも人間が存在することが可能な空間に限るけど。空中とか、宇宙・深海とかは無理だと思う。今まで試したことがある奴なんて多分いないから、分からないけど」
「じゃあ、もし飛行機の中に乗り込みたいと思えば、外国にも行けるのかな?」
「そりゃあ、やろうと思えば出来ると思うけど」
透明人間になれたら何がしたいか。人間なら、誰でも一度は妄想したことがあるだろう? ちなみに僕は、今行ったように飛行機に乗り込み外国に行く、または女子更衣室に侵入……ゲフンゲフン。
「でも、やめといた方がいいと思うよ。この国を一歩外に出たら、すぐ管轄が変わるからね。日本国担当の天使達と違って、他の国の天使たちは色々と厳しいっていうし。意識体なんて見つけたら、問答無用で天界に連れてかれちゃうと思う」
「へぇ。国によって、管轄してる天使の違いってのもあるのか」
「なんせ、国によっては人が大量に死んでるからネ! そういうところは、いちいち個人個人の願いだのなんだのなんて聞いてらんないから」
「……なるほどね」
果てしなく納得かつ恐ろしい理由だった。
「意識体は思念。意思。つまり、意識体のお前が、『ああ、死んだ』って直感したら、消えてしまう。それが意識体。例えば身体を切り刻まれたり、飛行機から放り出されたり。そういった場面で、お前が『ここに居たい』という意思を失い、『死ぬ・死にたい』という意識が芽生えてしまったら、意識体のお前は消滅することになる。逆にいえば、ボロボロになろうとも、『存在していたい』と思えば意識体としてこの世界に留まっていられる。時間制限はあるし、根本からズタボロになったらさすがにアウトだけど。まあ、要は気持ちの問題。だから、生き返るまでは、この世界に在りたい、在り続けたいと思い続けてることが大事。どんなことがあってもね。それを忘れんなよ?」
天使は試すように、僕を睨みつけた。
当たり前だ。誰か死にたい・消えたいなんて思うものか。僕はまだまだこの世界で生きていきたいんだ。やり残したことがいくつもある。このままじゃ死んでも死にきれないんだ。
「僕はこの世界で在り続けたい。こんなところで死んでたまるか。だから、とっとと元に戻してくれよな」
僕がそう言うと。
「へっ。上等ジャン」
天使は笑った。
電車が駅に着く。地下駅だったので、長い地下通路を通って外に上がらなければならなかった。しかも結構出口が多い駅なので、天使の話を聞いて目的地に最も近い出口を案内板から探してからそこへ向かった。この辺りは下町ゆえ建物が密集していて、車が入れないような路地がたくさんある。天使はここで右行って〜、こっちは左だっけ? などと迷っているようだった。
「あぁもう! 相変わらずこの辺りは道が分かりにくい!」
「まあ下町だしな。家が密集してるから」
僕は相槌を打つ。
「この辺一帯、吹き飛ばしてやろうか!」
「やめろ! お前、やってることから天使性が全く感じらんないんだけど!」
いや、僕も天使性というのがどういうものなのかは上手く説明できないけど。それでもこいつの言動は、およそ僕が知っている限り天使のそれとは思えない。
……。
それからさらに五分ほど迷ったが(そのたびに天使が恐ろしい提案をしてきた)、ようやく目的地である山元ビルにたどり着いた。狭い裏通りにポツンと建っている、なんとも……小汚いビルだった。天界、つまり神様の国の機関が入っているビルなのだから、きれいな高層ビルとかにすればいいのに。
「ここか?」一応天使に確認をとってみる。
「そうそう。ここここ!」
「なんか廃ビルみたいだな……」
人がいるのかも怪しいビルだ。入口にエレベーターがあったが、どうやら稼働していないようだった。通路は電気も付いていなくて、とても暗い。
「まぁ二階だから」そういうと天使はスタスタと階段を上がって行ってしまう。本当に足が速い奴だ。
二階に上がり、暗く寂れた通路を天使の後について進んでいく。目的地の二〇五号室は通路のつきあたりにあった。部屋の前に着く。二〇五号室のプレートには、『田中』と書いてあった。
「これもう完全に田中さん家じゃねーか! お前最初サポートセンターって言ってなかったっけ!?」
「クレーム対応が貞夫の仕事だからいいの」
「田中さんは普通の人間なんだろ? なんで天界関連の仕事やってんだよ?」
「貞夫はお前と同じで、天使が見える・触れる体質だから」
田中貞夫は天使を見ることができる。まあそうでもなければ天界のサポートセンターなんかで働いてないか。そういった人間は、この世界に一体どのくらいいるのだろうか。僕がそんなことを考えていると、天使はノックもインターホンもなしにいきなりドアを開けた。
部屋の中は、まだ昼過ぎだというのに真っ暗だった。どうやら全ての窓にブラインドが下ろされているようだ。目が暗闇になれていなくて、部屋の中が良く分からない。そしてなにより、煙草の匂いが強烈だった。
「おいおい、勝手に入っちゃっていいのか?」
一応人の家なのだから、勝手に入るのは気が引ける。僕が中へ入るのを躊躇っていると、部屋の中央から突然声が聞こえた。
「こんな時間に来客とは……、珍しいな……」
とても渋い、良い声だった。
「あ、貞夫ー! 久しぶりー!」
天使はフレンドリーに話しかける。
「久しぶり? 確か三日か四日前、会ったばかりだろう」
男は呆れたような口調で答えた。ようやく暗闇に目が慣れてきた。四〇畳ほどの広めの部屋で、ちょうど部屋の中央にある低いテーブルを囲むように、革張りの上品なソファが置かれている。応接室のようだ。そのソファに、こちらを向いて一人の男が座っているのが見えた。
というか凄くかっこいい! 貞夫、めちゃくちゃかっこいいじゃん!
頭にはバンダナを巻き、無精ひげを生やしている男くさい顔立ちで、がたいは大きく、服装は今にも戦場に行けるような迷彩服をきている。どこの元傭兵だよ! と突っ込みたい気持ちを僕は抑えていた。渋い! 渋すぎる! 葉巻を吸いながら拳銃の手入れをしているその様が、また大変似合っていた。女性より男性に人気がありそうな人だ。とてもじゃないが、天使が言っていたような『使えない人』には見えなかった。貞夫さんと呼ばせていただこう。
「ん? 見ない顔だな。小僧、お前は誰だ?」
ジロリと僕の方を睨む。とても怖い。身体が畏縮してしまう。
「ああ、こいつね。これからこいつを天界に連れて行かないといけないの」
威圧されて何もしゃべれなくなっていた僕の代わりに、天使が答えてくれた。
「送るのか? お前さんは清浄課だろう。いつから送り課の仕事もするようになった? ……いや、そういえば元々おまえさんは送り課だったな」
その口ぶりからも、天使と貞夫さんはそれなりに付き合いがあるのだろうという事が窺えた。
「……まあそんな事はどうでもいいじゃん! それより天界に行きたいんだけど」
天使は手早く話を進めようとする。
「ああ、ちょっと待ってくれ。一足先に来た天使が天界に移動中だ。一度に複数の『扉』は開けられないからな。しばらくその辺に座って待っていろ」
貞夫さんはそういうと、僕達に自分の座っている対面のソファに座るように促す。ちぇーとつまらなそうに言った天使は、遠慮もなくドスンと音を立ててソファに飛び乗った。
先程までは暗くて気付かなかったが、よく見るとソファの前に設置されたテーブルの上には、無数の拳銃が置いてある。これは全て本物なのか。怖くて聞けなかった。
「そういえば貞夫、少しは気持ちの整理できた?」
「……ああ、吹っ切れたよ。この間は、お前さんには見苦しいところを見せたな。悪かった」
貞夫さんは天使に詫びをいれた。
「気持ちの整理?」
気になったので思わず聞いてしまった。
「ああ、実はつい先日、妻と離婚してな……」
「貞夫、もう超暗かったんだからー! 見てるこっちが滅入っちゃったヨー」
「離婚はお前のせいなんじゃなかったっけ!?」
こいつが貞夫さんの(元)奥さんに分かれるよう助言したから離婚にまでなったんじゃなかったか? だとしたら、どの口がこんなセリフをほざきやがるんだこいつは。
「いや、違う。俺が悪いんだ」
しかし貞夫さんは項垂れたまま、自分のせいだと言う事を改めて認める。
「まあ、これで守るべきものはなくなった。また戦場に戻れる」
貞夫さんはふふっ……と、遠くを見つめ寂しげに笑った。なんか一々かっこいいな、この人は。
「やっぱそっち関係の仕事の人だったんですか」
やはり傭兵とかそういう人だったらしい。
「今度はどこに行くの?」
天使は笑顔で聞いている。恐ろしい奴だ。人がこれから戦場に行くというのに……。
「ああ、次は八王子だな……」
……?
「は、八王子ですか?」
思わず聞きかえしてしまう。どこか中東の方に、『ハチオウジ』という名の都市でもあるのだろうか。
「ああ、八王子だ」貞夫さんはうなずく。
「東京都の八王子……じゃないですよね……?」
「おいおい。東京以外のどこに八王子があるっていうんだ」
貞夫さんは笑いながら答える。とても嫌な予感がする。
「八王子に、戦争しに行くんですか……?」
「ああ。戦場が、俺の帰還を待っている……!」
「あの〜……つかぬことを伺いますが、所属部隊のほうは、どちらで……?」
「チーム・墨田AHだ」
……さっきから言っている事は凄くかっこいいのだけれど。かっこよかったのだけれど!
「まさか……サバゲーとかじゃないっすよね……?」
「いや? サバゲーだが?」
何を言っちゃってんのお前は。当然でしょ? みたいな感じで返されてしまった。
「あ、じゃあこのテーブルの上に沢山並んでいる火器は?」
「おっ! 小僧、目が高いな。そうとも! こいつらは全て、アメリカから取り寄せた高級エアガンだ。送料含めてウン十万はするな!」
「いや、全ッ然知らないけど! どうでもいいけど!」
「貞夫はねー、サバゲー界では凄い人なんだよ! サバゲー仲間からは、敬意を込めて『ビッグボス』と呼ばれてるんだから!」
天使がまるで自分の事のように胸を張って自慢してくる。
「いや全然凄くねぇよ!? いや凄いけど! 凄くねぇよ!」
やはり天界関係者に、ろくな人間はいないようだ。
「『ビッグボスと呼ばれてる』じゃねーよ! 凄い傭兵とかかと思ったら、ただのエアガン大好きサバゲー好きのオッサンじゃねーか!」
「貞夫を馬鹿にすんな! 貞夫はな、サバゲーは本当に凄いんだぞ!」
天使はキーッと子供みたいに怒ってくる。
「貞夫はなぁ、給料のほとんどをBB弾の購入に使ってるんだ!」
「ははは、そんなに褒めてくれるな」天使の言葉に上機嫌になる貞夫さん。
「奥さん、離婚して大正解だったな!」僕は申し訳ないが突っ込まざるを得なかった。
「あまり大声を出さないでくれ。古傷に響くんだ」
「あ、すいません」
つい謝ってしまった。
「貞夫―、その傷ってどこでもらった傷?」
天使が笑顔で聞く。
「千葉だな。サバゲー中に転んで、脇腹に鋭い枝が刺さったんだ」
「ただの馬鹿じゃねーか!」
前言撤回。この人が格好いいとか言っていた数分前の自分が恥ずかしい! こんなオッサン、貞夫呼ばわりで十分だった。
「ふふ、小僧が言うじゃないか。だがお前さんは、リアルの戦場ってものを体験したことがあるのか?」
「いやねーよ! 生憎平和な日本で今日まで育ってきたよ! つかあんたもねーだろ!?」
「バーチャスミッションで鍛えただけでは、本当の兵士とは言えないぞ?」
「だからあんたも兵士じゃねーだろ!」
「俺は子供のころから、エアガンを握って育ってきた」
「普通の子供じゃねーか!」
ただの馬鹿なおっさんだった。顔も知らぬ貞夫の元・奥さん、美和子さんだっけ? あんたの判断は正解だったよ! このおっさんとは離婚して正解! しかし天使は先程からの僕の貞夫に対するやり取りが不満らしく、かなり怒っているようだ。
「お前な、そろそろいい加減にしとけよ? さすがの私も、そろそろキレるぞ?」
天使が僕を窘めてくる。公園でボッコボコにされた記憶が蘇ってきた。冷や汗が吹き出す。
「な……! お、お前だって、最初は貞夫の事使えないだの仕事できないだの言ってたじゃねーか」
「いや、確かに貞夫は仕事は出来ないし、人間としてもクズだけどさ。家族もまともに養えないしね〜。娘の授業参観でサバゲー用の迷彩服着て行って、教室で娘にマジ泣きされた伝説も持ってるし!」
「思ってた以上に酷かった!」
「最近では娘に陰で『ヒゲの人』とか『夢見る軍人さん』とかって呼ばれてたし!」
「娘さんもなかなかにひでぇな! まあ気持ちはわかるけど!」
そりゃあ授業参観にこんなおっさんにパパですよーって来られたら、もう一生口も利きたくなくなるだろうさ。それが原因でイジメに発展しかけないな。娘さんの人生が不憫でならない。
「美和子には『どうぞ戦死してこいよ八王子で』とも言われてたし!」
「もう離婚秒読みとか、そういうレベルじゃなかったんだね!」
「実は、同じチームの若い連中にも『田中さん、もういい加減年だし、いつまでチームに居続けるつもりなんだろうな、いい加減あの人抜けないかな』とも言われてるし!」
「わかったからもうやめてあげてぇぇぇぇ! 貞夫泣いてるから! さっきから多分本人も知らなかった事を暴露されて限界来ちゃってるからぁぁぁぁ!」
「いや、若いの……俺は泣いてない。男は、人前では泣かないものだ……」
「アンタ、今超涙目ですけど! 鏡見るか!?」
「ふふん。でも貞夫はサバゲーだけは凄いんだゼ?」
「分かったから、もう貞夫のためにもお前は黙っとけ!」
貞夫は僕達に泣き顔を見られないよう顔を真下に下げていたが、正直さっきから貞夫が座っているソファの真下に水たまりが出来ているのでバレバレだった。
「しかもなあ!」天使は続ける。
「貞夫は、電話一本で車で迎えに来てくれるし、頼めばおいしいご飯だって奢ってくれるんだぞ!」
「お前のアッシーメッシーかよ貞夫は! それ、ただ利用してるだけだろ!」
「まあそうとも言うかな。テヘッ☆」
「そうとしか言わないだろ!」
「だから言ったでしょ? 『貞夫は使われることで喜びを感じる』って!」
「喜びを感じてないから、さっきからこのおっさんは泣いてるんじゃないの!?」
こいつは貞夫を、便利なおっさんとしか見ていなかったようだ。貞夫はもう隠すどころか嗚咽を漏らして泣いていた。とその時、部屋に設置されている固定電話が鳴った。貞夫は鼻をかむと、電話の方へ歩いて行き、受話器を手に取る。
「もしもし。こちら田中。待たせたな!」
「どこまでキャラに成り切ってる人なんだよ! 絶対つっこんでやらねぇと思ってたけど、もう限界だ! つっこませてもらうけど、某スニーキングミッションゲームの主人公の真似してるだけだろアンタ!」
「貞夫はメ〇ギア大好きだからね。あと、格好から入るタイプだから」
「格好から入り過ぎだろ!」
僕たちは騒いでいたが、貞夫は電話で会話を続けている。
「大佐! 来週はどうやら参戦できそうだ……!」不敵な笑みを浮かべて言う貞夫。
「誰だよ大佐って! 電話でも成りきってんのかよ! どんだけ痛い人なんだよこのオッサン!」
残念な人だった。残念極まりない人だった。こりゃあ離婚されても仕方がないだろう。
貞夫は会話を終えたらしく、受話器を置くと、また元座っていたソファまで戻ってくる。
「さて……なんの話の途中だったか。そうそう、俺が脇腹を負傷した時の話だったか」
「ちげぇよ! なに強引に話を切り替えようとしてんだよ! しかも脇腹の話はさっき聞いたから!」
「ん? そうか、では何の話だった?」
「貞夫が、いかにクズかって話だヨ!」笑顔で言う天使。
「お前もストレートすぎんだよ! ほら見ろ、また貞夫が泣いてるじゃねーか!」
その後貞夫は、しばらく泣き続けた。その間、ずっと天使が背中をさすってあげていた。お前が泣かしたんだけどな。
天界サポートセンターもとい貞夫の家に着いてから、一時間以上が経っていた。
どうやら、ようやく天界の扉とやらが開けるようになったらしい。貞夫は扉を開く準備を進めてくれていた。いよいよ、僕は天使と共に天界へ向かう。そこには、こいつ以外の『天使』もいるのだろうか。僕がこれから天界に行く理由。それは、この今鼻くそほじくりながらテレビを見ている馬鹿に誤って殺されてしまったため、命を蘇らせてもらえるよう頼み込みに行くのだ。誰に。神様に、だ。これから僕は、神様に会う。これはとんでもないことだろう。神様に会えるって……怖くもあり、しかし楽しみでもあった。が、前に天使が言っていた言葉が、さっきからずっと気になっている。
――ちなみに神様はロリコンだから――。
今日の朝、僕が死んでから今までの間に、二人の天界関係者と会った。そのうちの一人は、この鼻くそをほじくった手でそのまま煎餅を食べてテレビを見ながらゲラゲラ笑っている馬鹿と、もう一人はさっきから部屋の奥で何かの準備を続けているサバゲー大好きエアガンオタだ。まともな人と会っていない。まあ、とはいってもまだ二人なので、 これで天界関係者が全員頭おかしい人である、と決めつけるには時期尚早であろう。
しかも、これから会う相手は『神』だ。僕は無宗教者だし、神学に造詣が深いわけでもないので『神様』と呼ばれる人(?)が普段どういった仕事をしているのかよく知らないが、それでも神である。たいていの神様は、全知全能でこの世のすべてを知っていらっしゃるという。一筋縄ではいかないだろう。
もし神様に『生き返らせてください』と言って、断られたらどうしようか。その場で、このソファに鼻くそを押し付けて遊んでいる馬鹿を人質に取って、強迫でもしようか。まあ相手が神様である以上、ただの人間に過ぎない僕が何をやっても無駄かもしれないが、それでも目いっぱい足掻いてやろう。
「お前ら、待たせたな。いつでも扉を開けるぞ」貞夫が部屋の中央に帰ってくる。
「よっし、ありがとう。じゃあ天使、行こうぜ」
僕は立ちあがって貞夫に礼を言ってから、天使に出発を促す。
「いや、テレビ今いいところだから。ちょっと待って」
「待たねぇよ! いいから出発するぞ!」
「えぇ〜、てゆ〜か〜、超めんどくさい。もうお前一人で行ってこいヨ! 大丈夫! 応援はしてるから! 神様宛てに『こいつを生き返らせてよろしこ〜』って手紙書くから、それ持って行って来いヨ」
僕はソファの上で無防備に仰向けになってテレビを見ている天使に、フライングニードロップを食らわせてやった。馬鹿が低い呻き声を漏らしながら、床をゴロゴロ転がり苦しんでいる。
「ははっ若いの、お前さんもこいつには手を焼くだろう」
「いや、あんたも人の事言えないけどな」
「言うじゃないか。手厳しいな。デスクの上にかごがあるだろう。ホラ、その中のものを一枚持って行け」
苦笑しながらそういうと、貞夫は部屋の隅に置かれているデスクの上を指差す。僕は、貞夫に言われた通り、そのデスクに近付く。
「これは?」
かごの中には、大量の小さいカードが入っていた。
「本来は天界から降りてくる天使たちに渡すための名刺で、人間には見えないものだが、意識体のお前は触れるだろう」
名刺には『天界サポートセンター・東京支部室長“BIG BOSS”田中貞夫』と書いてあった。
「呼ばれてるって言うか名乗ってるじゃねーか自分から!」
「俺の無線周波数だ。困ったことがあったらCALLしろ」
「携帯の番号だろ! いちいちミリタリーっぽく言ってんじゃねぇ!」
最後まで面倒くさいおっさんだった。
「仕方ねーナ。じゃあ行っかぁ」ようやく重たい腰を上げる天使。
「仕方ないじゃねーよ。誰のせいだと思ってやがる」
「はいはい。ワカタワカタ」
本ッッ当にいちいち癇に障る言い方をする奴である。仕方ないので、僕は天使に腹パン一発食らわせてやる。ゲフォ! と天使は呻き声を上げた。
「お前、段々調子に乗ってきてない!?」
「いや、気のせいだろ」
これは愛のムチである。競馬だって、馬がより速く走るために、ここぞという場面でムチをいれるだろう。だから、僕もここぞ……という場面でも特になかったが天使に腹パンを食らわせてやったのである。愛も別になかったけど。
「なんかすごくムカつく事思ってない!?」
天使が、腹を押さえて涙目で睨んでくる。
「気のせいダヨ」
「超ムカつく!」
「一応、今までお前が僕にやってきた事と同じだからな!?」
「ぬ……私は今までこんな奴だったのか……」
今頃気付いたようである。しかし、これで彼女が少しでも人格を矯正する気になれたのだとしたら、その手助けが出来て僕は本当に嬉しい。
「次からは、さらに高レベルのウザいことをしよう……」
全く矯正する気はないようだった。というか今までは故意にウザい事をしていたらしい。
僕たちは貞夫の案内で、部屋の奥へ進んでいく。
「ここだ」貞夫がそう言って、扉の前に立った。
「めっちゃバスルームって書いてあるんですけど」
「ああ。だがここが天界への扉だ」
なんでこんな下町の裏通りにポツンと建っている廃ビルの一室のバスルームに、天界なんていう(恐らく)神聖な場所への入り口を作っちゃったんだろう。考えた人を小一時間ほど問い詰めたかった。
「禊だよ。天界に行くためには、下界、人間界でついた穢れを全て洗い流さなきゃいけないからね」
貞夫の後を継いで、天使が答えてくれる。なるほど。一応そういう理由はあったのか。
「風呂場を扉にすれば、天界から人間界へ降りてきた時に、女の子がちょうどタイミングよくシャワーを浴びてて『いや〜んエッチ〜』なんて嬉し恥ずかしハプニングが起こる可能性があるからってのが本当の理由だけど」
「てめぇら天界の住人ってのは、ほんとロクな奴がいねぇんだな!」
正直な気持ちとしてかなり行きたくなかったが、それでも我が命のためである、腹を括って行くしかないだろう。
「……じゃあ、行こうぜ」
「ん〜。四日ぶりの天界だ〜」天使の顔がにぱーっと明るくなる。
「じゃあ、世話になりました」僕は一応貞夫に礼を言う。
「気にするな。天界の扉の管理は、俺の仕事の一つだからな」
果たしてサポートセンターとしてのもう一つの機能は成しているのだろうか? かなり疑問だった。
天使が「また後で」と貞夫に別れを告げて、僕らはバスルームの中に入る。
「で、どうするんだ?」
「水出して、浴びるの」天使は答える。
「いや、服着てるし……」
そもそも、なんでこいつと一緒にシャワーなんぞ浴びなきゃならんのだ。
「いいから! やれば分かるって!」そういうと、天使は強引に水を出しやがった。
ノズルから水が出てくる。濡れる、と思わず目を閉じて身構えた瞬間……。
目を開けると、そこは白い世界だった。
言葉通りの意味で、だ。そこは白い世界で空も地面も壁もなく、あるのは白だけだった。見渡しても、この空間がどの程度の広さなのかも分からない。この空間をあてもなく歩いていけば、いつか行き止まりになるのだろか? 空間の中には何もなかった。ただ果てしなく続く、白。その中に、僕と金髪の少女だけがいた。
「ここは……どこだ?」
声が一切反射しない。それだけで、この空間がどれだけだだっ広いか、そして近くに何もないかが分かった。正直、天使がいてくれて助かった。僕一人でこんなところに放りだされていたら、気が狂っていただろう。何もないというのが、実は一番恐ろしいのだと痛感する。虚無。永遠。それらは絶望を意味する。
「ここは、正面門だよ。ここより先が、本当の意味での天界。お前達人間が言うところの、『天国』。ここより先に進めば、もうお前は二度と帰ってこれなくなる。だから行き先をここにしたの。お前まだ生きたいんでしょ? 人間界で」
「当然だ」
「なら、ここから先には如何なる理由があろうと進んじゃ駄目」
もう戻れなくなる。
いや、僕はすでに、先程までいたはずのあの小汚い世界。やかましい世界。矮小な世界。でも、僕のいた、住んでいた、生きてきた、懐かしい世界。あの場所に、帰れる気がしなかった。
正直、天国という場所に行けると言われて、楽しみにしていた僕がいた。
こんな馬鹿な天使がいた世界だ、きっと大したことはないだろう、と。楽しい場所なんだろう、と。
でも、現実は違っていた。いや、おそらく今のこの光景を絵にでもすれば、酷く手抜きの絵だ、という酷評しかもらえないような、そんな作品になるだろう。漫画にすれば、 背景が手抜き過ぎて作者が病気にでもかかってしまったのではないか、と心配してもらえるレベルだ。
つまり客観的にみれば、何もない世界なのである。黒髪の男と、金髪の女しかいない世界。しかし、いざこの世界に立ってみると、僕の心は壊されそうになる。恐怖や絶望、悲哀といった負の感情が、一気に押し寄せてきた。
しかし、なぜか懐かしさも、同時に感じていた。なぜだろう。こんなところ、来た事もなければ、今後二度と来ようとも思わないのに……。
「天使……どうするんだ? 僕は何をすればいいんだよ?」
恐らく先程の天使との会話から、現実では一瞬しかすぎていないだろう。しかし、僕にとっては途方もない時間が流れた気がした。沈黙が嫌だったのだ。誰とでもいいから話をしたかった。
「これから神様と会うよ。多分、もうすぐ出てきてくれる……ってどうしたのお前? すっごく汗かいてるよ?」
天使はどうしたの? という目をこちらに向けてくる。冷や汗だよ、とは言いたくなかった。大丈夫だ、という言葉も返せない。
その時。
「人間では、この空白に耐えられないのだ。人間の心には、ここは居心地が悪い」
不意に男の声がした。僕は気分が悪くて顔を上げることができない。ただ、僕と天使の前方に……誰かがいる。いや、現われた。唐突に。僕を見ている。その気配は感じた。しかし僕は身体を、いや、指一本たりとも動かすことができない。とてつもなく強大な何かを感じた。
「ここは『虚無』。文字通り何もない世界。天界と下界の狭間。本来は、誤ってここまで辿りついた人間を、永久に閉じ込める無限の牢獄だ。はるか昔に愚かなる人間どもは、この天界まで到達しようと、神に挑戦したことがある。人間ごときには、神の座には未来永劫たどり着けないというのに。その時に作られた空間だ」
また声がする。低く、それでいて透き通っていて、遠くまで響き渡るような声音だった。
「あ! 神様神様! 久しぶりっ!」
「全く。こんな最果てまでこの俺を呼び出しておいて、悪びれもせずか。相変わらずだな、お前は」
男の視線が、僕から天使に移り変わったのが分かった。僕はそこでようやく顔を上げる事ができた。見られていただけなのに……僕の身体はまったく動くことができなくなっていた。
そこに立っていたのは、長い金髪に鋭く光る紅い双眸。見た目は若くも見え、しかし年相応にも感じ、しかし幼くも見えた。がたいも大きい。身長一九〇センチはあるだろうか。首から下は、純白のマントが覆っている。初めて『天使』というものを見た今朝、僕は人間とはまるで違う雰囲気を感じ取った。神聖という言葉の意味を知った気がした。しかし、今僕の前に現れた男は、それともまた別次元の――まさに神々しいという言葉を体現しているようだ。上手く呼吸ができない。このままずっとこの状況が続けば、僕は死んでしまうかもしれない。
そう思わされるだけの、絶望的な存在。
神とは、なにも人を助けてくれるだけの存在ではない。
思いあがった人間に怒りの鉄槌を下すのも、また神なのだから。
「お前を連れて、天界の奥までは行けない。だから神様にここまで出てきてもらったの」天使がそう説明してくれる。
「……あっ……」上手く言葉を口に出来ない。
「わっ……わざわざ……すいませんでした……」
かろうじて、それだけ口にすることができた。駄目だ。まともに目を見て話す事も出来ない程、僕の身体は神を前にして委縮してしまっている。
「気にすることはない。俺にとって『居場所』とは、あってないようなものだ。なぜなら、俺はどこにでも在るのだから。それが神だ」
どこにでも、在る。どこにでも存在できる、という意味か。僕の思考はもはや正常に機能していなく、こんな時に『神出鬼没』という言葉の意味を考えていた。
「しかし、誰にでも間が悪い時というものがある」と、神は続ける。場の空気が一気に悪くなるのを感じる。
「お前……せっかく人がネットでアニメ実況してた時にさぁ。やめろよ〜マジで〜。超いいとこだったのにさぁ!」
天使に向かって怒りの言葉(?)をぶつけていた。
……。
…………?
………………!?
「はい?」思わず聞きかえしてしまう。
「まーた〇リキュア見てたんですか、良い歳こいて。これだからロリコンは気持ち悪りぃんだよ」
天使は僕に対して使うような罵詈雑言を、あろうことか神に浴びせている。
神の目がかっと開く。
「お前! 〇リキュア馬鹿にしてんじゃねーぞ! 〇リキュアはなぁ! 愛と友情と! 正義と萌えとロリが絶妙なハーモニーを――」
「結局ロリじゃん!」
……あ、ヤバい! つい突っ込んでしまった!
「……」
神は無言で、ゆっくりと僕の方に顔を向ける。しまった。やってしまった。神が突然あまりにも馬鹿な事を言い出したのと、あと天使がいつもの汚い口調で神を罵倒しているのを聞いてしまったからだ。天使や貞夫に対してと同じ口調で、よりによって神様に突っ込みなんて……!
「何を言っている、人間」
その声はただひたすらに冷たく、人を殺せそうなほど鋭い目つきで僕を睨んでくる。
「お前だって毎週日曜日の朝に見てるジャン」
「いや、見てないっすよそんなの。ロリコンじゃあるまいし」
「〇ュアピース、マジ天使だよな」
「ああ、それについては全面的に同意ですってうぉぉぉぉぉぉぉしまったぁぁぁぁぁ!」
……ッ! なんて巧妙な話術ッ! さすがは神といったところか……! ついつい話に乗っかってしまった!
「お前らマジできめぇな」
天使の、本気で気持ち悪がっているような声が聞こえた。ものすっごい侮蔑の眼で、僕と神を見ている。いや、見下している目だ、これは。
いや、そんなことより!
「なんで知ってんの!?」
驚愕のあまり、理由を聞く。
「だから言っただろう。俺はどこにでも在る、と。それが神だ、と」
「そういう意味だったのかよ!」
「お前が今期見ているアニメも全て把握している。俺と趣味が似通っているな。人間にしてはいい感性をしてるじゃないか」
「褒められた!?」
「だが、『魔女っ子天使☆よっきゅん』を見ていないのは、非常に許せない」
「あれこそ幼稚園児が対象のアニメだぞ!?」
「俺は大きなお友達だから一切問題はない!」
「問題ありまくりだろ!」
「ちなみに公式サイトのBBSの書き込みの七割は俺によるものだ」
「もう人間として終わってる!」
「ははは、だから俺は神だって!」
「余計最悪だよ!」
再び神の目つきが鋭くなった。
「おいおい、言葉に気をつけろ人間。調子にのるなよ? 俺は神だ。俺がその気になれば、人類を滅ぼすこともできるんだぞ?」
……! 神は、改めて自らの絶対的な強さ・僕との絶望的なまでの立場の違いを突き付けてくる。
「その気になれば、全人類をロリに変えることもできる」
「最悪だな!」
「そして俺は全人類をロリにしたい」
「ロリコンの神様とか! この世に救いはねぇ!」
いきなりぶっ飛んだことを言い始めやがった。
「ちなみに俺はそれをマニフェストにして、前回の神の座を決める選挙で当選した」
「天界とやらにはロリコンしかいねぇのかよ!?」
「失礼な! ショタもいるぞ!」
「反論になってねぇよ!」
「はいはい!」
天使が手を上げて発言権を求めてきた。
「私はイケメンで金持ちの年上が好きだけどね!」
「スイーツ(笑)は黙ってろ!」
「でも顔が悪くても金があれば別にいい」
「うるせぇよ!」
「金もなくて顔もアレなお前は、価値がない」
「黙れよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
鬼畜すぎる女だった。
「俺なんかどうだい?」
ハイハイ! と、神が手を上げてアピールしている。
「いや、ロリコンはマジでねぇわ」
神に対しても辛辣な言葉を吐く奴である。こいつには忠誠心とか恐怖心はないのだろうか。神は、天使の口撃を、余裕の表情で笑い飛ばす。
「ハッ! お前もロリみたいなもんだろが。胸つるっぺたなくせしてなぁ。人間、知ってるか? こいつ、天使の中でもトップクラスのまな板い痛い痛い痛い関節キめないでぇぇぇぇぇぇ」
殺意丸出しで神の腕の関節をきめている天使の姿がそこにはあった。天使って神様に使役される存在じゃないのか? 神に対して攻撃できたんだ。どうでもいいけど。
「次、胸の事言ったらマジでぶっ殺すからな!」
「サ……サーセン……」
天使という存在は、実は神様を脅せるらしい。衝撃の事実だった。
ようやく天使に関節技から解放されると、神は腕をさすりながら涙目で僕に言う。
「ま、まあとにかく、俺に対する口の利き方には気をつけろ。わかったか?」
つい先ほどまで、(見た目)小娘に関節技をキめられ涙目になっている、威厳もくそも感じられない男(?)から、口の利き方について指摘されてしまった。
「ああ、お前ら天界の住人ってのは、顔は良くても人格が破綻しているって事が、もう十分すぎるほどにわかった」
「え!? ハハッ聞いたかよ! 俺カッコイイって!」
「わーい! 顔がいいって言われちゃったー!」
「「いえーい!」」
「いや褒めてねぇよ!?」
ハイタッチで喜ぶ馬鹿二人。どこまでポジティブシンキングな人達なのだろう。
「お前、ホントさっきから神の俺に向かって、すっげぇ口利いてるよね?」
「僕は! お前を! 神とは認めねぇ!」
「うっわー、超厨二www 乙www」
「神が『乙www』とか言ってんじゃねよ!」
「あ、ごめん。俺VIPPERだからさ」
「ビッパーなの!?」
「神様は基本引きこもってネットしかやってないヨ」
天使が口を挟む。
「引きこもりなんだ!?」
「馬鹿が! アキバに週四で通っているこの俺に向かって、引きこもりだと!?」
「アキバに天界の扉を作ったのはあんただったのか!」
「というか神だから、むしろアキバそのものを作ったのは俺だ、と言い切っても過言ではない」
「マジで!? てか、なんでUDXだったの!?」
「UDXのトイレが、アキバで一番綺麗だからな。特に三階は空いてる事が多くてオススメ。逆に二回のトイレはいつも混んでて、個室は誰かしらが入ってる」
「そんな情報どうでもいいんだけど!」
「ヨドバシのトイレも綺麗だぞ」
「トイレから離れろや! どんだけアキバのトイレ事情に精通してんだよあんたは! 世の中の信心が篤い人達が、こんな奴に祈ってるのかと思うと涙が出てくるよ!」
秋葉原のトイレ事情なんて、僕にはどうでもいい。
「まあ俺は神だからな。お前ら人間が『神様、お願いします!』って祈る声は、全部聞こえてるよ」
「マジかよ。それは確かに神様っぽいな」
「ま、叶えてやるかは、別問題だけどな」
「それは……まあそうか」
たしかに、さすがの神様と言えど、全ての人間の願いを望み通り叶えてやるような、義理も必要もないだろう。
「お前が楽しみにしていたPCゲー『姉やら妹やらとなんだかんだでトラブル』の発売日に寝坊して、『お願いします神様、どうか初回限定版買えますように〜!』って泣きながらアキバまで走っていったのも知ってる」
「超ハズかしい!」
「だから買わせてやらなかった」
「てめぇのせいで売り切れてたのかよ!」
「俺が買い占めて〇フオクで流した」
「神が転売行為してんじゃねぇよ!」
「いやぁ、すっげぇ儲かっちったよ!」
「やかましいわ!!」
もう本当にこの男が神様なんて大層なお御方なのか分からない。僕にはただのイタいオタクにしか見えなかった。
「おいおい、この人間なかなかいいツッコミのスキルを持っているじゃないか。いいのに目を付けたな」
「でしょ! こいつはいずれお笑い界に満を持して送り込みたいと思っている」
胸を張って言う天使。
「送りこみたいじゃねーよ! お前、そんなつもりで僕と一緒にいたの!?」
衝撃の新事実だった。そして知りたくもない事実だった。
「それで、神様神様。そろそろ気持ち悪りぃヲタトークはやめてさ、本題に入ってよキモヲタ」
天使さんもマジぱねぇっすね。神様に対して、もはやゴミを見るような目で見ている。
「うおぅ、人間より実の部下の方が口が悪かったよぉ! 勘弁してくれ、我が娘よ」
「娘? あんたら、父娘なのか?」
驚いた。こいつらはそういう関係だったのか?
「違げぇよ!」天使が即答する。
「このオッサン、女天使全員を『我が娘』って呼んでんの! ねぇ、キモくない!?」
それは……確かに。
「〇リキュア見てアキバ行って一日引きこもりながらネットとか! ハッ、こんなのが本当の父親だったら、恥ずかしくて自殺モンだよねー!」
「まあキミの気持ちも解らんでもないが! ほら見て、あっちで全知全能であらさられる神様が、キミの言葉で泣いちゃってるから!」
しかし天使は、口撃を止めようとしない。
「セクハラも凄いしさ! 女性天使協会は、近いうちに集団訴訟を起こす予定です」
「マジで!? 今までみんな笑顔で接してくれてたのに!?」
かなりショックなようだ。
「さらに次回の本国会では、神様に不信任案を提出、現段階の予想では賛成多数で可決される見通しです」
「俺そんなに四面楚歌状態だったの!?」
神はしばらくの間、静かに泣いていた。
しばらくして、ようやく気持ちが落ち着いたのだろうか。神は努めてクールを装っているようだが、未だに目は滲んでいるようだ。
「で? 今日はどうしたんだって?」
ひとつ咳払いをして、神はようやく話を本題に戻す。初めて見た時のような、あの神々しい雰囲気、恐ろしい雰囲気はすでに消え失せていた。
「あっそうそう神様神様! 間違ってこいつを殺しちゃったの! だから生き返らせてやってくれないかな?」
天使が、ここに来た理由。僕の願望。それを単刀直入に説明してくれる。
「殺しちゃったのか……」
神が僕の方を見ながら、確認をとる。
「うん。殺しちゃった」
天使は素直に答えた。『殺しちゃった』じゃねーっつーんだよ。
「なんでだ」
「ついうっかりさぁ。テヘッ☆」
「そっかぁ、うっかりかぁ。ハァ……」
神は、深いため息をついた。
「……ヤバくね? 大事件じゃね? それ……」
神の顔は思いっきり引き攣っていた。
「あ、神様からしても大事件だったんスか」
やっぱりね。なんとなく、僕もそんな気がしていたんだ。なんとなく、だけれど。やっぱり人を殺しちゃったら事件になりますよねー。
エヘヘと苦笑いする天使。
「「エヘヘじゃねーよ!」」神と僕の声が被る。
「だから、何度も何度も謝ってることだしさあ! 許してよ! 悪いと思ってるから、わざわざここまで連れてきてこうやって頭を下げてるんだよ!」
天使が反論してきた。
「許せるわけねーだろ! つか頭下げてねーじゃん! 超笑顔で話してたじゃん!」
まるで友達を『ねぇ、今週の金曜ヒマ? 一緒に映画行かない?』と誘ってるかのような軽さだったぞ。
「これはさすがに、この人間の反応が正しい」
「でもっ! でもでも! 誰にでもミスはあるじゃんっ!」
おいおいふざけんな! 人殺しといて、ミスでしたごめんなさいで済むわけないだろうが!
そもそもその被害者が目の前にいるってのに! 僕が怒りをあらわにして、天使に殴りかかろうとしたその時。
「っはぁ〜〜〜〜〜〜〜〜……」
神は思いっきり息を吸い、深いため息をつくと、目を見開いて叫んだ。
「お前、これでミス一五回目だろーが!」
……はい? 一五回目?
「この間は無許可発砲! その前は人間拉致! そして死んだ人間とその遺族を会話させるという大問題! それ以外も多数! お前、一体何回ミスを犯せば気が済むんだよッ!」神は、結構本気で怒っているようだ。
「一五回も!?」思わず口を挟んで、聞いてしまう。
「さすがに今回ばっかりはフォローしきれねぇぞ、俺は」
天使は予想していなかったであろう(それもどうかと思うが)神からの叱責に、戸惑っているようだ。
「前回の事件でお前、法廷に喚問されてるからなぁ。今回こそは、ついに免職だな」
「うっそぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」
「これだけミスを犯してそのたび処罰を受けてきて、むしろ今の今までそんなことも想像してなかったの!?」
神ですら驚愕させるほど、この女は馬鹿なのだろう。
ところで。僕は別にこの頭を抱えて地面にゴロゴロ転がりながら「やべぇよやべぇよ」とか呻いている女が職を失おうがどうなろうが知ったことではないが、僕自身の問題がある。
「それはそうとカミサマ。僕を生き返らせてくれよ」
当然の要求だった。そもそも、そのためにここまで来たのだから。
ところが。神の反応は。
「まあ確かにお前は気の毒だとは思うけどな。でも、それと生き返らせてやるかどうかは、また別の話だ」
僕がまったく予想していなかったものだった。
「は……はぁ!? なんでだよっ! あんた神なんだろ!? 全知全能の! だったら、人間一人生き返らせるくらい、どうって事ないんじゃないのかよっ!」
「まあ確かに、俺は〇コ動では神と呼ばれているけど」
「いや、それはどうでもいいけど!」
こんな時まで茶化しやがる。ぶっ飛ばしてやりたい。
「だが人間の運命は、神の俺であっても簡単に弄っちまったらいけないものなんだよ」
「でも、僕は本来だったらまだ生きられたハズなんだろ!? なのに、僕はあいつのせいで死んじまったんだぞっ! 偶然天使の近くにいたってだけで! そうだ、偶然だった! 偶然で人生終わらせられてたまるか!」
「偶然だろうがなんだろうが、こうなることがお前の『運命』だったのだろうよ。つまり、今日、通りすがりの天使に、たまたま殺されるってのがお前の運命だったってわけだ」
「そんな……そんなのってねぇだろ!」
「では聞くが、お前ら人間の中には、突発的な事故・事件に巻き込まれて、本人はまだ生きたいと思っていたのに無理やり命を奪われた者が、どれだけいると思う? いたと思う?」
「それは……」
「もちろん私怨で殺された者もいるだろう。だがテロ。無差別殺人。戦争。理由はいくらでもある。それらの事情で殺された者達と、お前。なにが違う? そしてお前だけを生き返らせてやる理由が、どこにある?」
それはそうだ。そうだと思う。でも! 『はいそうですか』で納得できるわけがない! していいわけがない! 僕は神に殴りかかろうとした。そりゃ勝てるわけはないだろう。例えオタクでもロリコンでも引きこもりでもネット中毒者でも、こいつは神なんだから。
それでも、人間誰しもやらなきゃならない時があるものだ。あるはずだ。今まさに、神に殴り掛ろうとする――神は僕がこれからしようとしている事も、全てを見透かしているようで、それでいて不敵に笑っている――その時。
「ねえ神様。こいつは、生き返らせてやってくれないかな?」
天使が、不意にそんな事を言いだした。予想外だった。まさかこいつがこんな事を言うなんて……。
天使が、僕を助けようとしてくれるなんて。
「一応お前も、この人間に対して罪悪感を持ってるのか?」
神が、笑いを噛み殺しながら天使に聞く。
「そりゃあね。それに『生き返らせてやる』って言っちゃったわけだし。私は約束を守る女なのヨ。これでもね」
……僕は、猛烈に感動していた! まさか、この馬鹿女……もとい天使様が、僕との約束を守ろうとしていたなんて……!
「じゃあお前は任務に失敗し、さらに無関係の人間を誤って殺したという事実を認め、厳重処分を受け入れるんだな? まず天使省の免職は免れないだろうな。天使の資格自体もはく奪されるだろう。いや、下手すれば天界からの永久追放もあるかもな。それでもいいんだな? 生き返らせる代わりに、お前が罰を受けろ。当然だよな。それならこの人間を生き返らせてやってもいい」
「あ、じゃあこの人間は生き返らせなくても別にいいんで、私は処分しないでくれますか?」
一瞬で裏切りやがった!
「お前ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ! 僕の感動を返せよぉぉぉぉぉ! 一瞬でも『こいつ、本当はイイ奴だな……』って思っちまった僕が恥ずかしいじゃねーか!」
「騙される方が悪い」
「今ここでお前を殺す」
「ははは、お前ら本当に仲がいいな」
神は笑いながら、僕と天使を見ていた。
「どこがだよ。頭腐ってんのか?」
「神様神様。眼科、いや脳外科に行った方がいいんじゃないですか? ていうか入院した方がいいんじゃないですか? むしろ死んだ方がいいんじゃないんですか?」
「お前ら俺に助けを乞おうとしてるくせに、なんでそんな強気発言できんの!?」
また涙目になる。この人は結構悪口に弱いのかもしれない。普段は敬われているから、悪口の耐性がないのか?
「……わかった。では条件を出そう。処分もせず、そして生き返らせてやる条件だ」
「条件……?」
怪訝そうに、天使は神に聞き返す。
「ああ。今から二人で再び人間界に降りて、お前の本来の任務を今度こそ完全に遂行してこい。もちろん、もうミスをせずにな。お前が暴走しそうになったら人間に止めてもらえばいい。人間、貴様は我が娘と共に天使の任務を完遂しろ。お前が天界にとって『人間界に留めておくに足る有益な人材』であるということを証明してみせろ。そしたら処分もせず、さらには人間界に生き返らせてやる」
「本来の任務って?」
「悪魔成りかけの人間を見つけ出して、ぶっ殺すこと」
天使が答えてくれる。
「それって難しいのか?」
「いんや、見つけ出しさえすれば簡単だよ? 悪魔成りかけとはいえ、所詮人間。殺すのは造作もないし。ぶっちゃけ超楽っていうか〜」
「あれ、お前ミスったんだよね!?」
その『超楽』な任務を見事にミスして、今のこの状況を作り出したのはどこのどいつだよ!
でも、考えてみれば確かに楽な条件かもしれない。だって、こいつは腐っても天使なわけで。僕を(思い出したくもないが)あんなに簡単に殺したように、『人間一人を殺す』なんてのはそれこそ造作もない事なのだろう。それに、僕は天使がまた誤って無関係の人間を殺したりしないように、見張ってればいいという。これなら出来そうな気がする。
「やっちゃおうよ」
天使が笑顔で僕に促す。
「このまま黙って何もしなかったら、私は処分で天使の資格まではく奪されるわけだし、お前も生き返れないからね。やるって選択肢しかなさそうだけド」
「僕たちがその条件をこなせば、僕を生き返らせてくれるのか?」
「もちろん成功したらな。俺は神だ。嘘はつかん」神は笑みを浮かべながら答える。
「せいぜい頑張ってな。上手くいくように“祈って”てやるよ」
笑いながら、神は姿を消した。辺りに、また静寂が戻る。白しかない世界には、再び黒髪男と金髪女しかいなくなっていた。
「むかつく野郎だ! ロリコンのくせに! アニオタのくせに! ネット中毒者のくせに!」
「それ、まんまお前のことじゃね?」
「僕はロリコンではない」
「それ以外は同じなんだ……」
天使は、哀れむ眼で僕の事を見ている。なぜだろうか?
「まあとにかく! 話は決まったね! それじゃあ今から人間を滅ぼしに行こっか!」
天使は鼻をフンッと鳴らし、ガッツポーズをとる。やる気、いや殺る気満々のようだ。
「その言い方だと人類を滅ぼしに行く、みたいに聞こえるんですけど!」
相変わらず言い方がいちいちぶっ飛んでる奴だ。
「……そうだな。行こうぜ。人間界に戻るんだろ? で、お前の本来の標的を殺しに行く」
でも、僕は心に引っかかっていた。
「・・・…なあ。お前に殺されて、僕は絶望した。それなのに、自分が生き返るために他の人間を殺してもいいのかな? 仮に相手が悪魔になる人間とは言え」
言うつもりはなかったのに。気付いたら、僕は天使に相談していた。
「いいんじゃない?」天使はどうでもよさそうに答える。
「悪魔が増えたら、人類がヤバいんだよ?」
「人類がやばい?」
「そうそう。天界が地獄と戦争してるって前に言ったよね? 今から何万年も前の事。この世界には、天界・人間界・地獄がある。人間が死んだら、一部の魂は天界か地獄のどちらかに行く。それぞれの世界で魂は一定の期間過ごした後、記憶を全て消されて再び人間界に転生するってわけ。無限の循環。それでこの世界は成り立ってる。それなのに、地獄は天界と人間界を滅ぼそうとした。人間界が滅んだら、天界だけじゃなく世界そのものが成り立たなくなるから、だから戦争が起きた」
「その戦争って今でも続いてるって、お前そんな事を言ってたよな」
今は冷戦状態だとか。そんな事を前にこいつは言っていた。
「そうだよ。悪魔が増えれば、当然地獄だって軍備が強化される。だから私達天界としては悪魔を増やさないようにしているわけヨ。悪魔を作らないってことは、お前ら人類のためにもなるんじゃない? それに悪魔になるような人間ってのは、それ相応なことをしてるんだよ、人間界でね。人ひとり殺したとかは序の口レベル」
たしかに、人類が滅ぼされるってのは納得できない。そのために悪魔を増やさないようにってのもわかるけど。
「あれ? でも悪魔を増やすのをお前ら天界は阻止してるわけだよな。それなのに、向こうは何も反撃してこないのか?」
せっかく悪魔が増えるってのにその度にいちいち天使に邪魔されてたら、たまったもんじゃないだろう。
「人間界の『制界権』は天界が握ってるからね。よっぽどの覚悟がないと、悪魔は地獄から昇ってこれないの。でも私達天使ができるのは、あくまで人間の心が穢れて出来る『劣等種』の悪魔の誕生阻止だけだから。他にも悪魔を生み出す方法はあるんだけど、それは私たちじゃ阻止できない」
「悪魔にも、いろいろ種類があるのか」
「そうそう。むしろ人間から悪魔になるのなんてごく一部。それだって大抵はその前に私たち清浄課に潰されるわけだし。本当の『純潔種』の悪魔なんて、『大天使』クラスじゃないとまともに戦えないからね」
天使は一拍おいてから、また説明を続ける。
「まあ劣等種の悪魔になるってのも、結構辛いことらしいし。永遠に、奴隷のように上位悪魔に使われるんだってさ。あっちだって今は人間なんだから、人間として人生終わらせてあげるってのもいいんじゃないの?」
そうなのだろうか。僕には答えが出なかった。
「まあ早い話、今は殺さなきゃ自分が死ぬんだからさ。腹括りなよ。それが嫌なら、私だけで行くよ。来たくないなら来なくていいけど。どうする?」
天使は、笑みを浮かべながら、試すように聞いてくる。
「……いや、行く。僕だって死にたくはないから」
「そうそう」笑いながら、天使は答えた。
「人間、いや天使だって神様だって。結局は自分本位でしょ? 誰だって自分の保身が一番」
「それは……たしかにそうかもしれないけど……」
「ま、考え方を変えなよ。お前が生き返るために殺すんじゃない。私が、自分の仕事として殺すんだよ。迷うことなんかない。お前は生き返ることだけ考えてりゃいいじゃん」
「……そうなのかな」
「死にたくないなら、やるしかない。じゃあ行こっか?」
生きたい。それは僕の本心だ。
――死にたくないならやるしかない――か。
「行こう」
僕はそう答える。
僕はまだ生きたいのだから。
あの約束を、果たすために。