第12話
お久しぶりです。本日は2話分を同時更新します。
こちらは大筋には大して影響しない内容なので没にする予定でしたが、もったいないので使うことにしました。
聖女騎士団と狼人族戦士団の一行は、ベスタ連邦東部のクリスタ森林地帯を進んでいた。この森を抜ければ、ベスタ連邦首都サーベスは目前である。しかし、ここで少々の問題が発生していた。
「エレオノーラ様、私は納得できません! 何故、奴らはあの程度の処分で済まされるのですか!?」
「十分な処分よ。謝罪はしてもらったでしょう?」
「いえ、不十分です! 少なくとも免職くらいはすべきです!」
エレオノーラの言葉を受けても怒りが収まらない様子のセシル。主に窘められているようでは従者の名折れであるが、セシルにも我慢ならない理由がある。
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事が起きたのは昨晩のことだった。クリスタ森林地帯に入る前に一行は小さな宿場町で一泊することになった。
まだ太陽は高い位置にあったが、クリスタ森林地帯を通り抜けるには半日以上かかるため、このまま進めば森林地帯の中で野営することになる。そうするよりはクリスタ森林地帯の手前の宿場町に泊まり、翌日にクリスタ森林地帯を抜けた方が安全で疲労も少ない。クリスタ森林地帯を抜けた先にも宿場町があるため、翌日はそこに泊まり、翌々日には首都サーベスに入る予定だった。
ここは小さな宿場町であるが、サーベスに向かったり、あるいはサーベスから出発してきた商隊を相手とした宿場町であるため、聖女騎士団と狼人族戦士団の双方が十分に宿泊できるだけの収容力があった。
聖女騎士団と狼人族戦士団は各々で別の宿を取って宿泊することになっていたが、小さな宿場町のことだ。別の宿とはいえそれほど離れた位置にあるわけではない。問題が生じたのはセシルを含めた聖女騎士団数名が一部の物資(食料等)の補充のために市場へ向かった時のことだった。
市場に向かう道の途中に狼人族戦士団が宿泊する宿があるのだが、セシル達がその前を通った際に狼人族戦士団の話し声が聞こえてきたのだ。狼人族戦士団が泊まった宿の1階には食事処が併設されている。そこは一般客も利用でき、十数名ほどの一般客も入っていたが、席の一角には狼人族戦士団もいた。まだ日が出ているにも関わらず狼人族戦士団の数名は酒を入れていたようだった。町に入って宿に泊まりこそしたが、任務中である。そんな状況で堂々と飲酒する狼人族戦士団に聖女騎士団の面々は眉を顰めたが、それ自体は大きな問題ではなかった。問題は話していた内容だった。
「見たかよ、聖女騎士団とかいう騎士ごっこの連中! あんな貧相な体格に綺麗な鎧を着せやがってよ!」
「ハハハ! 俺一人でも皆殺しにできそうな連中だったな!」
「ルナソール連合も大したことねえなぁ! あんなのが国の代表として来るんだからな!」
酒に酔った勢いなのだろうが、迎える側とは思えない酷い言い様だった。相手が同じ町に宿泊しているにも関わらず表に聞こえるほどの大きな声で言う言葉ではない。狼人族戦士団の侮辱の言葉に、この時点で聖女騎士団の面々は怒りを感じていた。しかし、ここまでは何とか耐えていた。
「それに、あの聖女とかいう小娘! あんな貧相な見た目のガキが、仮にも騎士団と名のつく集団の団長をやってるのが信じられねえな!」
「へへへ、組み敷いてやったらどんな声で鳴くんだろうな……!」
「お前、ロリコンかよ! 俺ぁ、あんな乳臭そうなガキに勃たんがなぁ……」
「まぁ、将来はいい女になりそうだからなぁ……聖女じゃなくて娼婦の方がお似合いかもな」
「違いねぇな!」
そんな猥談で盛り上がる狼人族戦士団。そんな中、宿の扉が蹴とばす勢いで開けられた。というよりも、本当に蹴り開けられていた。
「なんだよ、こっちが気持ち良く飲んでるってえのによ」
そんなことを言いながら狼人族戦士団の1人が蹴り開けられた扉の方を見る。
そこには冷たい目をした人族の女がいた。見覚えがある。確か聖女エレオノーラの側付きだったはず。
そんなことをバカ騒ぎしていた狼人族戦士達が考えている間に、その人族の女……セシルはつかつかと彼らの近くまで歩み寄ると……
「なんだおま、うごぁっ⁉」
入口から最も近くに座っていた狼人族戦士の顔面に鋭い回し蹴りを食らわせた。狼人族戦士はいずれも190cmを超える巨漢であったが、座っていたためにセシルの足は顔面まで無理なく届いていた。無論、セシルに格闘術の心得があり、身体も十分に柔らかかったこともある。
酔っていたためか、それともセシルの回し蹴りの完成度の高さ故か、避けることも防御することも叶わなかった狼人族戦士は見事に蹴り飛ばされた。筋骨隆々の男が見た目は華奢な若い女性に蹴り飛ばされるという冗談みたいな光景が場をざわめかせる。
「な、なにすんだテメェ!」
「……エレオノーラ様を侮辱する駄犬には調教が必要かと思いまして」
流石に酔いが一気に醒めた狼人族戦士団。筋骨隆々の悪人面集団が一気に戦闘態勢に入る。彼らの武器はバトルアックスなど大型のものが主流であり、流石にこの場に持ち込んだりはしていないようだが、それでも狼人族戦士は素手でも十分な戦闘能力を誇る。
しかし、それでも変わらず殺意すら感じる冷たい目で彼らを見るセシル。彼女の後ろにも聖女騎士団数名がつく。彼女達は主にショートソードやレイピアなどの女性でも比較的取り回しやすい小型の武器がメインであり、この場でも十分振り回せる(騎士剣の代表でもあるロングソードを装備していないことがルナソール連合の正規騎士団からバカにされる一因でもあるが)。聖女騎士団の面々はいつでも抜刀できるように構えていた。
体格の不利を武器で補うことで、聖女騎士団と狼人族戦士団の間に一種の均衡ができた。
セシルに蹴り飛ばされた狼人族戦士も、目を血走らせながらも相手が武装していることから手出しはしなかった。いくら狼人族戦士であっても、武装した相手に素手で挑むのはリスクが高い。戦闘のプロとしての勘が安易な戦闘開始を思いとどまらせた。
一方の聖女騎士団側も狼人族戦士の恵まれた体格からの一撃は素手でも致命傷になり得ることを理解していた。聖女騎士団は大女はおらず、見栄えと一定の剣術を両立した女性のみが入団試験を突破することができる。つまり全員が華奢な体格をしている。力でゴリ押しされてしまえば、多少の抵抗はできても制圧されてしまう危険性があった。
「何をしている!」
そこにドスの効いた大声が響き渡った。
「ウルズ団長……」
その声の主はウルズ・ウルフェン狼人族戦士団団長だった。2mを超える体躯に腕や顔に走る戦傷跡。まさに歴戦の猛者の風格を醸し出す偉丈夫だった。
(……流石に分が悪いか)
セシルはウルズ団長が敵側として加勢しに来たと考え、この場での自分たちの不利を悟る。ウルズ団長はパワー馬鹿が多い狼人族戦士の中では珍しく体術も優れていることをセシルは感じ取ったのだ。その証拠に、ただ立っているように見えて重心をやや低くして安定させており、無防備なようでいつでも戦闘態勢に入ることができる状態になっていた。
技術が同格であれば、あとはパワー勝負。セシルは一般的な女性の体格と大差ないことから、勝ち目がないことは一目瞭然だ。
しかし、ウルズ団長はすぐに狼人族戦士の側に加勢するつもりはないようだった。
「何があったか、双方から事情を聞きたい。我々狼人族戦士団と聖女騎士団の間で起きた問題だ、聖女殿にも同席してもらう。貴様らは一度、部屋に戻って頭を冷やしてこい」
ウルズ団長は部下である狼人族戦士達にそう命じる。しかし、セシルに回し蹴りを食らわされた者は納得できない様子だった。
「しかし団長! 俺はいきなりこの女に……」
「それを含めて双方から話を聞くと言っているんだ。もし貴様に過失がなければ、この女にはそれ相応の報いを受けてもらう。それで納得しろ」
「それは……!」
「貴様、俺の命令が聞けんというのか?」
ウルズ団長はその凶悪な相貌に殺意を乗せる。さすがに自分よりも格上の実力者には頭が上がらない。武を貴ぶ狼人族では、それがより顕著だ。
「うぐっ……わ、分かりました」
渋々ながらも了承した狼人族戦士を見て殺意にも似た気迫を引っ込め、ウルズ団長はセシルたちの方へ向く。
「そちらも、それで構わんか? 聖女殿と俺で可能な限り公平な判断を下すつもりだ。目撃者も多くいるようだしな」
そう言って一般客の方を見やるウルズ団長。一般客の方は、喧嘩という見世物が始まるかと思いきや、一転して目撃者ということで凶悪面のヤバそうな男から事情聴取を受けることになる、ということが分かって、顔面を蒼白にする者、面倒なことになったと天を仰ぐ者など、様々な反応を見せていた。店主の方は店が壊されなくて一安心といったところだ。……セシルが蹴り開けた扉の建付けが気になるのか、しきりにそちらを見やってはいたが。
こうなってはセシルも頭を冷やすしかなかった。冷静になって考えてみると、怒りに任せるあまり、よろしくない行いをしてしまった自覚はあった。しかし、彼女にも言い分がある。エレオノーラを娼婦呼ばわりなど、断固として許せたものではなかった。
「……こちらの言い分も聞いた上でエレオノーラ様と共に裁定を下すというのなら、従いましょう」
「感謝する。……ウチの団員よりも聞き分けが良くて助かる」
「勘違いしないでいただきたい。私はこれだけの行いをするのに十分な侮辱を受けたと感じています。公正な裁定であればそれを認めてもらえるだろうと考えているから、この場で退くというだけです」
「それでも構わん。巻き込まれただけの店主にこれ以上の迷惑をかけなければな。……店主、すまなかったな」
そう言ってウルズ団長は店主に頭を下げる。店主は恐れ多そうに「だ、大丈夫です! ケガ人も被害もあまりありませんでしたし!」と言って、こちらも頭を下げた。ただ、その時にもやはり扉の方を気にしていたが。
そんな店主の姿を見て、セシルはこれがどういった結末を迎えようとも、店主には自分が激情のままに蹴り開けてしまった扉の修理代を支払おうと決意した。そう考える程度には、セシルは真面目で律儀な女だった。
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そして、聖女エレオノーラとウルズ団長が共同で事情聴取を行った。
当事者である聖女騎士団と狼人族戦士団。そして、その場に居合わせた一般客と店主にも。
その結果、昼間から飲んだくれて聖女騎士団やエレオノーラを侮辱する言葉を、食事処という衆人環境の中で大声で叫びまわっていたということから狼人族戦士団の側の過失が大きいという判断を下すことになる。しかし、実力行使を行ったのはセシルだけであったことから、聖女騎士団側にも一定の過失が認められることとなる。
最終的には、狼人族戦士団の当事者たちによる謝罪と軽い処罰を課すこと、そして狼人族戦士団側持ちでセシルが蹴り開けた扉の修理代を払うということが決まった。結局、あの扉は金具の一部が変形してしまっていたのだ。なお、修理代は狼人族戦士団側が持つこととなったが、店主への慰謝料としてセシルは幾ばくかのお金を個人的に渡していた。
無表情で「……申し訳ありませんでした」と言いながらお金を出してくれるセシルに、店主も「ア、ハイ。どうも……」と少し困惑した様子で応対していた。まぁ、初めて店内に現れた時と違って、あまりにも無感動な雰囲気をまとっていたからなのだが。
元々セシルの外面は本来こんなもので、感情を表に出すのは身内が相手か、先の事件のとおり、エレオノーラが侮辱された時くらいである。
こんなわけで事件は解決したわけだが、セシルは納得していなかった。理由はエレオノーラを侮辱した連中の処分が厳重注意と減給に留まったためだ。
「外国の使節を迎えて護送する立場の者があのような発言を行ったのです! あの程度の処罰で済んで良いわけがない!」
セシルの言っていることも尤もなことだった。しかし、あまり大事にしたくない理由もエレオノーラにはあった。
「セシル……私達の目的は?」
「それは……」
それを言われてしまうと一気にトーンダウンしてしまうセシル。セシルもこの聖女騎士団の派遣における舞台裏の事情を知っている側の人間だった。
「ここで問題が起きて、途中で帰還することになってしまったら、私達が派遣された目的が果たせなくなってしまう。それはお爺様にも申し訳が立たないわ」
「……仰るとおりです。私が浅慮でした」
セシルは自分が思っていた以上に冷静さを欠いてしまっていたことを恥じた。ましてや、主に窘められてしまうのは、あまりにも無様な従者であると言えた。セシルとてまだまだ若い女性なのだ。日本で言えば女子大生。肉体的には成長していても、まだ未熟な部分があることも否めない。……もっとも、エレオノーラに至っては女子中学生と女子高生の中間といったところなので、主であるエレオノーラもまだまだ未熟なのだが。
「ふふ……。私みたいな鈍くさい主のために怒ってくれる従者がいるんだから、私は幸せ者ね」
「エレオノーラ様が鈍くさいなどということは……」
「そうかしら? 私、どちらかというと運動は苦手だから」
そう言って、エレオノーラは無邪気かつ、どこか気の抜けたような笑顔を浮かべた。裁定を下す際の凛とした表情とは全く違うベクトルの表情だ。本来のエレオノーラはこちらが素なのだろう。
このエレオノーラの笑顔は自分がまだ薄汚い浮浪児だった時の遠い記憶を想起させる。昔、自分を救ってくれたエレオノーラは、今よりもずっと幼い顔だったが同じような表情をしていた。
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元々、セシルは聖都ローメルの貧民街の片隅に生きる浮浪児だった。母親は娼婦であり、セシルは父親の分からない子だった。母親がどんな人生を歩んでそうなってしまったのか知らないが、母親はあまり親らしいことをしてくれなかった。毎晩違う男を家に呼び、そうでない時は酒に逃げる。最低限のことはしてくれていたが、それでもセシルがそのような環境で生き延びてこられたのは奇跡だっただろう。
そして、そんな母親も病気であっさり死んだ。セシルが8歳の時のことだった。医者に診てもらう金もなく、全てを諦めたような顔をして横たわり、彼女はそのまま死んだ。あまりにも惨めな死に様だとセシルは思った。
それからセシルは生きるために悪事に手を染めるようになった。とはいえ、子供一人だけでは盗みすらもまともにできたものではない。だから、貧民街で名の知れていた犯罪グループに接触した。貧民街にはいくつかの犯罪グループがあり、それらは身寄りのない子供を鉄砲玉として使っていたのだ。貧民街ではセシルのような境遇の子供など珍しくなく、そんな子供を利用した犯罪行為など日常茶飯事だった。
それから2年の月日が流れる。セシルは悪運が強かったのか、それとも生まれつきの身体能力が他の子供よりも高かったのか、多くの仲間が野垂れ死ぬ中、なんとか生き延びていた。とはいえ、セシルはこのような幸運がいつまでも続かないことは子供ながらに察していた。遠くない内に自分も他の死んでいった連中のように死んでいくのだろうと、ある種の諦観じみた心境で日々を生きていた。
(まるで……母さんみたいだ)
今の自分と惨めに死んでいった母親を重ねる。まるで今の自分は病に倒れて諦観の内に死んでいった母親のようだ。結局、自分もあの人の娘だったんだ、とセシルは自嘲する。
転機が訪れたのはそんな時のことだった。
その日、セシルは貧民街の一角である集団を監視していた。上役から回されてきた仕事だった。
その頃、貧民街では新しい犯罪グループが生まれており、それが他のグループの縄張りを次々と犯していたため、セシルの所属する犯罪グループでも問題視されていた。そのグループが厄介だったのは、メンバーの大半が元兵士や傭兵くずれで構成されていたことだった。他の犯罪グループと比べて戦闘力という点では隔絶した実力を誇っていたのだ。各犯罪グループが警戒を高め、監視をしようというのも当然のことだった。
問題は、その行動を相手側も予想していたことだ。貧民街の建物の屋根からセシルは件の犯罪グループの拠点を監視していた。セシルの隠密は子供にしては極めて完成度が高かったが、傭兵としての経験がある連中にとっては文字通りの子供騙しに過ぎなかった。セシルが監視していたことは容易に看破され、矢を射かけられたのだ。看破されたことを察した瞬間にセシルは背を向けて逃げ出そうとしたが、矢が背中に突き刺さる。
「うぐぅ……!」
致命傷は避けられた。しかし、この激痛と出血は10歳児にはあまりにも過酷だった。
犯罪グループからは追手がかけられ、セシルは激痛に苛まれながらも生への渇望からか、のろのろと逃げ出す。幸いにも地形の把握はセシルの方が一枚上手だった。移動速度においては勝ち目がないが、貧民街は死角の多い場所でもある。回り道をして追手を迂回したり、隠れて追手をやり過ごしたりすることで、なんとか追手を撒くことに成功する。
とはいえ、そこまでがセシルの限界だった。意識は朦朧とし、体力は使い果たした。もはや自分がどこを歩いているのかも分からなくなり、やがてどこかの通りが目の前に見える路地裏で倒れてしまう。
(こんな死に方かぁ……)
セシルが予想していたとおり、これまで見てきた仲間と同じような死に方だった。結局、必死に生きていた日々は苦しみを長引かせるだけだった。どんなに頑張っても、報われることなく薄暗い路地裏で骸を晒す。貧民街においては珍しくもない死に様だ。
だからこそ、セシルは悔しかった。同じ国、同じ街に住む同じ人間なのに、どうしてここまで違うのだろうかと。多少の貧富の差ならともかく、こんなのはあんまりじゃないかと。
目の前に見える通りを行き交う人はそれなりの格好をしている。いつの間にか、路地裏を伝って貧民街から出て商業区まで来ていたのだろう。客を呼び込む声が聞こえていた。自分には全く縁のない世界だ。
そんな世界を最後に見せつけられて死ぬ。当てつけもいいところだ。視界が暗くなっていく中でセシルはそんなことを思う。
意識が途切れる直前、自分に向かって誰かが近づいてくるように見えたが、もうセシルにとってはどうでもよいことだった。
(……神様、もし本当にいるのならば、来世は裕福な家に生まれさせてください)
宗教国家の住民であるにも関わらず、セシルが神に祈ったのはこの時が初めてだった。そして、セシルの意識は暗闇に包まれた。
「あ、起きた! 私、エレオノーラっていうの! あなたは?」
10年後でも変わらない、少し気の抜けたような笑顔。瀕死のセシルが運び込まれたヨルムン家の一室での一幕。これがセシルとエレオノーラの出会いだった。
あの時、セシルを見つけてくれたのはエレオノーラ本人だった。街を見て回りたいという本人たっての希望で、従者を引き連れて商業区へと来ていたのだ。ヨルムン大司教も孫娘には甘く、そのお願いを断れなかったのである。
路地裏で倒れているセシルを見つけたエレオノーラは従者達に頼んでセシルを屋敷まで運んでもらい、治療させたのだ。ヨルムン大司教は明らかに貧民街の出身であるセシルの治療に反対しなかった。貧民街の存在自体が彼の属する内務省の力が及ばなかった証であるためだ。
セシルはその後、順調に回復する。そして、いろいろ紆余曲折があった結果、身寄りのない彼女はヨルムン家が引き取ることとなり、セシルにはエレオノーラの従者となるべく教育を行うこととなった。
彼女がヨルムン家に引き取られることとなったのは、やはりエレオノーラのワガママのおかげだった。当時のエレオノーラはワガママでお転婆だったのである。セシルの療養中、エレオノーラはセシルと毎日のように話をして、2人は仲良くなっていた。その結果、セシルが完治して屋敷を出ていくとなった際、エレオノーラは盛大にごねた。困ったヨルムン大司教やエレオノーラの親は、セシルに身寄りがないことを確認した上で仕方なく引き取ることとなったのだった。
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セシルは回想から戻ってきた。エレオノーラの笑顔を見ると、今でも時折、このように昔の記憶が蘇ってくるのだ。
エレオノーラは一瞬遠くを見るような目をしたセシルを見て、首を傾げてキョトンとしていた。セシルは苦笑しながら「何でもありません」と言って誤魔化す。
10年を経て、エレオノーラとセシルは立派に成長した。エレオノーラはお淑やかで優しい心を持った聖女に、セシルはそんなエレオノーラを支え、いざという時には卓越した格闘術や剣術で主を守る従者になった。
セシルは今の自分がいるのはエレオノーラのおかげだと考えている。エレオノーラが自分を必要としてくれたから、あの地獄から抜け出せた。だからこそ、セシルはエレオノーラを身命を賭して助けようと決意していた。
そんな彼女からすれば、エレオノーラを娼婦呼ばわりした連中など許せるはずもなかった。ましてや、自分を生んでくれた母親は娼婦として生き、そして惨めな死を遂げたのだ。エレオノーラがそのような憂き目に遭うことを想像しただけでも強い拒否感に苛まれそうだった。セシルにとっては、あの連中は明確にラインを越えてきたのである。
もし機会があれば血祭りにあげてやる、という仄暗い決意を固めたセシルを尻目に、エレオノーラは馬車の窓から外を見る。
「そろそろ森林を抜ける頃かしら?」
外に見える木々の密度が少しずつ減ってきていた。エレオノーラの言うとおり、クリスタ森林地帯の外縁部には到達しているのだろう。となれば、宿場町までもうすぐだ。
「今度は問題を起こさないように注意してね」
「……御意」
セシルがバツの悪そうな顔をしながら返事をするのを見て、エレオノーラは笑っていた。心優しいエレオノーラにも、少しばかりの悪戯心くらいはあるようである。




