覚醒の世界①
「なんと!?」
足利義政は叫び声をあげて、寝床から飛び起きた。
「あ、夢か」
京、花の御所が義政の住まいである。
「それにしても奇妙な夢だったな。深淵の神と混沌の神、……名前が思い出せん。
善阿弥は若いし馴れ馴れしいし」
空気が心地よいさわやかな朝。
その澄んだ空気が、夢の記憶を薄れさせ断片化させていった。
「……よい朝だ」
義政が心洗われた心地でいると、それを台無しにするかのように騒々しい音が外から聞こえてくる。
「何を騒いでいるんだか」
義政は枕もとの桶の水で顔を洗い寝所を後にする。
すると反対側から、一人の老人が歩いてくる。善阿弥である。
「義政様、おはようございます。
……私の顔に何かついておりますかな?」
善阿弥は顔をじろじろ見られていることに気付いた。
義政が答える。
「いや。ただ、少し気になってな。
昨夜、若返った夢を見たりはしなかったか?」
「いいえ、昨夜は夢を見ておりません」
善阿弥は慎ましく礼儀正しくしている。夢に出た図々しい善阿弥と同一人物とは思えない。
「いい、今の話は忘れろ。朝食にしよう」
「あのそれが……、大変申し上げにくいことなのですが……」
「?」
義政が庭に出ると、使用人たちそれぞれの役割関係なく総出となって荷物を運び出し牛馬に積んでいる。
「……まったく、朝食も作らず何をやってるんだか。
おい、富子これはどういうことだ?」
「あら、いたの」
義政の正室、日野富子に悪びれる様子は無い。
「見ての通りよ。戦は日々激化して京が焼け野原になるのは時間の問題。
一刻も早く避難しなくては命が危ない」
「それなら、もたもたしてないで早く京から脱出すればいいだろう。
荷物は後で届けさせればいいことだ。いったい何をそんなに持って逃げるんだ?」
富子は深くため息をつき、鼻で笑う。
「あのね、一文無し着の身着のままで逃げ出せるわけないでしょ。
全部、債権よ。これがなきゃ元本回収と利益の確保ができないじゃない。
こんな大事なこと他人任せにはできないわ。もしものことがあったら大損害よ。
だから私が陣頭指揮をとってるの。おわかり?」
「ふん、こんなときにもカネの心配か」
「私が心配しなかったら、他に誰が心配するというの?
あなたに一銭でも稼ぐ力があるのかしら。
あなたが毎日、取る足らない芸術で浮かれていられるのは誰のおかげ?」
義政は口をつぐんだ。しかし鬼嫁にして稀代の守銭奴は容赦しない。
「今日も宴会、明日も宴会。庭師に絵師に能楽に遊び放題。
あなたが楽しめるのは、いったい誰が稼いだお金ですか?
誰のおかげですか。お答え下さい」
「富子、いい加減にしろ! お前があちこちで貸し付けをやれるのも余が征夷大将軍であるからということを忘れるな」
この態度に富子はうんざりといった具合。
「征夷大将軍! 呆れた。それならこの戦を止めてみなさいよ。帝からも言われてるでしょ。
だから義尚を次の将軍にしなさいよ!」
「……そんな単純ことでは」
「ふん、私はね、あなたの征夷大将軍という立場を最大限に有効活用しているの。他の誰よりもね。
その結果、国庫は潤い、あなたは趣味に没頭できる。
だから、ごちゃごちゃ口を挟まないで。一日食事を抜いたって死にはしないわよ」
義政は言い返せず立ちすくんだ。
富子は夫を無視し、手を叩いて使用人たちに発破をかける。
「ほら、急いで! 戦は待ってくれないわよ。火矢が飛んできて証文が焼けたらどうするつもり?
急いで、急いで!」
駄目将軍はすごすごと退散するしかなかった。
義政は、自室から庭園を眺めて詩を詠んでいた。
すると善阿弥がやって来た。
「義政様、申し上げたいことがございます」
「ん、言ってみよ」
「今夜予定の宴会ですが、何名か欠席が出ています」
「……」
「やはり、その、戦のために京を脱出された方も多く……」
「……そうか」
義政は筆を止めて、空を仰ぎ見た。空はどこまでも青く果てもないように思える。
「善阿弥よ、余は死んだら天国に行き、お釈迦様や観世音菩薩様に迎え入れられるであろうか」
「……それはもう。八代将軍であらせられる義政様、必ずや天の神仏がお迎えするでしょう」
「そうか、余は天国に行けるか」
義政は立ち上がった。視線は虚空から動かない。
「余は将軍らしいことをしたことがない。余は将軍でありながら政を動かしたことがない。
家臣どもはやりたい放題好き放題。勝元も宗全も、富子ですら余の手には負えん。
あげく戦乱で京を中心に各地で戦火が広がっているという。
だがな、この事態に余はそれほど関心が無い。帝が何を言おうと、民草がどれほど飢え怨嗟の声があふれようとも余には関係のないことだ。
わび・さびのわかる者らと、お前の庭園を眺め、詩に興じ、女と戯れ、酒に溺れる。これこそ余の欲するところだ」
「私の庭園で、義政様のお心が晴れるのであれば何よりの喜びでございます」
「日々、享楽に明け暮れる余が天国に行けるのだろうか」
「それは……」
「だからといって地獄は嫌だなぁ。苦しく辛そうだ。
生きるも地獄、死ぬも地獄。こんな世の中なら夢幻に消えたほうが一番幸せなのかもしれぬ」
時折、義政は投げやりな言動で周囲を困惑させることがあった。
善阿弥は義政を敬愛していたので、腹をたてることも軽蔑することもなかった。
ただ、この場にいるのが自分だけということに安堵していた。義政の言動が民衆の耳に届けば、一揆の一つ二つ起こるかもしれない。
「そうだ、善阿弥よ、今夜の宴会はお前の弟子たちを呼ぼう。まだ京に残っている者もいるだろう」
「そ、それは畏れ多い!」
「そんなことはない。余が呼ぶ者たちは皆、風流のなんたるかを心得ている者ばかり。
お前の弟子たちなら間違いは無い。歓迎される。余の召使いの中にも見所のある者がいる。その者たちも出席させよう。
余にとって大事なのは、武家など公家などつまらんことをごちゃごちゃ言う奴でも、金を積み上げる拝金主義者でもない。
美しいもの雅なものが理解できるかどうかだ」
「……わかりました。あたってみましょう」
その夜、義政以下風流人たちは心行くまで酒宴を楽しんだ。
そして、義政はぐっすりと眠りについた。