真紅の仙9
「約束したのに」
ポツリ。零れ落ちるような声。微かに灯る炎のように感情が宿った気がした。その滑らかな手は壁をゆっくりと伝い愛おしそうに撫でる。まるでそこに誰かがいるかのようにその双眸は揺れる。
だが――次に私の耳に入ってきたものは不快な音に違いなかった。ガリガリと部屋に響く音に私は声を失ってしまった。視界の先。雪華の見開かれた眼は瞬きすらしない。表情は全て消え、ただ一点を食い入るように見つめていた。けれども本当は何も見ていないのかも知れない。
記憶の向こうを見ている。そんな気がした。
「せつ――」
長い爪で引っ掻く壁は小さな欠片となって彼女の足元に落ちる。薄暗い部屋。よく見れば壁には同じような傷が幾つも存在していた。
長い――長い時間。彼女はこうしてずっと『その人』を待っていたのだろうか。一人この部屋で。来るはずの無い人を『来る』と『来ない』のはざまで揺れて壊れてしまったのかもしれない。
「雪華――」
震える声。私が言うと雪華は一度だけ身体を弾くように震わせて手を止めた。軋む様に首を直線的に回す彼女はまるで人形のようだ。
夢うつつの表情で雪華は私を見ると柔らかく微笑んだ。
「お客様かのぅ?まちぃ。茶を淹れる――」
まるで巻き戻したかのような言葉に私は声を詰まらせた。
「まさか、記憶が?」
「何の話じゃ?」
私は思わず弾けるようにして彼女に抱き付いていた。その身体は確かに柔らかかったが、驚くほど冷たい。心の芯から冷えているそんな気がした。私は温めるようにして彼女を抱きしめる手に力を込めた。
「こんな事」
壁に付けられたもはや模様のような幾万とも思える無数の傷に私は目を向けた。幾度こうして繰り返しているのだろう。そしてこれからも幾度と繰り返すのだろうか。終わらない世界で来ない人を待ちながら。
それはとても悲しい。
ふと手を緩めると、驚いた顔が私をのぞき込んでいた。わけがわからないと言った様子で首を傾げている雪華。本人は気になどしていないようだが、その爪は剥がれかけ、赤い血を滲ませていた。
「どうしたのじゃ?」
「爪が」
私が労るように指に触れると、雪華はようやく気づいたように自身の指を見て軽く笑う。
それが何処か痛々しく感じたのは気のせいで無いだろう。彼女は私から手をするりと離した。
「ーー気にするでない。なぜか妾はよく爪が剥がれるのじゃ。そんな事を心配してくれるとはいい娘じゃの」
苦笑に私が何も言えないでいると、目線の先。項弦が影のように立っていた。ただなぜだろうか。今までに見たどんな表情よりも厳しい顔つきで私を見つめている。
『――俺が思っていることが正しければ、嬢ちゃん。その行動をやめた方が賢明だ』
低くつぶやくような声に行動を見透かされている気がして、一度心臓が揺れた。
『早く抜け道を――』
射抜くような視線だけ残してふわりと煙の様に掻き消える項弦。それは何かの警告だったのだろう。私は微かに唇を噛んだ。
「どうしたのじゃ?」
だけどこのままにはしておけなかった。この人がこんなところで想像もできない途方もない時間を過ごすのは嫌だった。
それは自己満足だという事は分かっている。
私はみんなを殺しているのだ。これ以上の後悔なんて絶対にしない。本当に。と誰かが警告の様に告げるような気がしたが聞く気にはなれなかった。
私は雪華に笑いかけると彼女も真似するように笑いかける。
「ごめんなさい。少しだけ借りていいかな?」
「え?」
雪華の返答を聞く前に私は腕輪を外していた。
――逃げなさい。私は軽い金属音に紛れるようにして、その時初めて雪華の本当の声を聞いた気がした。




