真紅の仙8
扉を抜けて小さな階段を降りると、そこには美しい人が座っていた。流れるような黒く長い髪。切れ長の瞼の奥にあるのはこの国の王と同じ薄い灰色だ。長い睫と少しだけ厚い唇。滑るようなしなやかな手足。衣の上からでも分かる豊満な胸ーー。私でも息を呑むほどに美しいのだ。男性が放っておくわけがない。とふと思う。
とたんに自身の胸を見て情けなくなったのも事実だ。
赤い衣装をまとった女はさして驚くことも無くぼんやりと私を見た。生きているのか死んでいるのか現とも夢とも取れない表情をしている。
「お客様かのぅ。まちぃ。茶を入れるでの。座ってたもれ」
部屋は必要なものしか置いていないこじんまりとしたものだった。椅子と机。そして寝台。花瓶も置いてあったがその中には何も活けられていなかった。埃は何一つ被っていない。隅には棚もありその中にはお茶道具一式が置かれていた。彼女はゆったりとしたしぐさでそれを丁寧に取りだしていた。
私は言われた通り素直に椅子に腰を掛けた。
「――ええと。お邪魔してごめんなさい。私は凛です。苗字は忘れてしまったんですが」
事実だ。別に旅から旅への生活だったのでそれがおかしいとも感じなかった。ただ、村にいるときは不便だった事は間違いないが。
「ほほぉ。妾も苗字は持っておらん。私たちはそれで一つの存在だからのぉ。――妾は雪華じゃ」
水はどこから出したのだろうか。いや――お湯。それはいつの間にか急須の中に入っていて彼女は手慣れた手つきで茶を淹れていた。舞い上がっては消える白い煙と香ばしい匂いが閉ざされた空間の中に立ち込める。
『雪華――』
何か考え込むような声が後ろから聞こえてくる。何か思い当たる節でもあるのだろうか。とにかく見えはしないが項弦は近くに居るようだった。
「して、凛とやら。何用か? こんなところにまで」
ふと見える彼女の細い手には金の腕輪が付けられていた。金を薄く延ばして付けられているそれはいつか見たものと同じように見えた。そう。どこか鈍い光を放つそれは、かつて風雅が付けていたものとよく似ているのだ。あの土地に風雅を縛り付けていた腕輪。
思い出して何かがざわりと背中に走るのを感じた。
やはり雪華もここにあの腕輪で縛り付けられているのだろうか。国の力を保つために。――そんなくだらない迷信の為にここで縛られているのだろうか。永い時をたった一人で。
切ない歌声を思い出して少しだけ口を噛んだ。
「ええと――歌が聞こえて……その腕輪は?」
言うと雪華はどこか夢を見る少女のような表情でそれを撫でる。まるで宝物の様に。きっと大切な人に貰ったのだろう。その人はどうだったのだろうか。本当に雪華が大切だったのだろうか。こんな所に縛り付けて。
私には分らない。だけれど目の前の女性がとても可愛く見えることは事実だった。
「妾があの方にもらったのじゃ。綺麗であろう?」
「大切な方なんですね」
「無論じゃ。妾をここに迎えに来てくれると言ったのじゃ。それまで、その証にこれを付けていろと――」
なぜ来ないのだろう。と雪華は思い出したように長い睫毛を伏せる。その目は微かに濡れているようにも見えた。
私は何も言う事が出来なかった。その約束からもうどれだけの時が経っているのだろう。その人が存在している可能性など何処にもない。
「せっーー」
それは私にも分かることだ。仙と呼ばれるこの人が分からないわけではないだろう。それであっても、そうして呟いてしまうのは信じたくないからなのかも知れない。その事を認めるのが怖いのかも知れない。
私はどう言えばいいのか分からなくて言葉をゴクリと飲み込むしか出来なかった。
「あの」
雪華は何かに気づいた様に顔を上げた。もちろん私の言葉に反応したわけではないだろう。色のない顔。元々虚ろな表情はさらに虚ろになりそれは何も捉えていないように見えた。
まるで操られた人形のようだ。
「どうして。こんなにも。妾は待っていると言うのに――どうして? 来てくれないのだろう? 約束したのに」
呟く声は低く何度も何度も繰り返される。まるで呪いでもかけているかのように。私はそれを見ている事しか出来なかった。
彼女はもう私の事など目に入っていないのだろう。ゆっくりと立ち上がると同じような言葉を繰何。度もくり返しながら部屋を半周し始めた。飽きることもなく。
一体どのくらい続いたのだろう。規則的に響く靴音と幾度となく繰り返される呟き。
何度目かそれが響き渡ったあと、彼女は何かに気づいたように立ち止まった。沈黙が支配を始めるその部屋で、彼女は近くにあった土壁を凝視する。まるでそこに何かがあるかのように。
だがそこに何かなどあるはずも無かった。




